
講演「人物記念館の旅から学ぶ人生100年時代の生き方のヒント」(佐倉市の市民カレッジ:2025年12月5日)
佐倉での生活と自己研鑽
私は40代前半に佐倉に住んでいました。日本航空に勤めており、羽田と成田の空港、そして東京に本社があるため、住居を定めるのが難しい状況でした。そこで、中間地点であり、始発駅がある佐倉を選んだのです。当時は始発があったため、東京駅の本社まで約1時間の通勤時間があり、この時間を自己研鑽に充てることができました。早めに乗車すれば、窓際のボックス席を確保でき、それが私にとってサラリーマン時代のもっとも神聖な時間でした。佐倉は私にとって非常に思い出深い場所です。
多摩大鳥瞰図絵に込めた哲学
私が多摩大学に10数年勤めていた頃、多くの人が「多摩ってどこにあるんですか?」と尋ねました。東京の西部地区、あるいは23区外といった説明になりますが、私は「多摩を中心に見たら世界はどう見えるのか」という視点こそ重要だと考えました。
そこで、「多摩大鳥瞰図絵」を作成したのです。これは多摩が日本の、ひいては世界の中心であり、その中心に多摩大学があるという発想で作られました。図絵の真ん中に多摩があり、左には富士山、右には小さく東京が描かれ、その先に佐倉があります。下側は太平洋、上は日本海で、さらにアジア・ユーラシア大陸へと続いています。横の線は道路と鉄道、縦には多摩川と相模川が流れ、その流域に多摩地区が位置します。この中心に私たちの大学があるというメッセージを込め、「この地域から人を集め、日本海を越えてアジア・ユーラシア大陸で活躍できる人材を育てる」という教育方針を打ち出しました。
この鳥瞰図絵は、かつて日本の各地で作られていました。不要なものを省き、本質を誇張して示すことで、全体像を把握しやすくするものです。写真が登場してからは廃れてしまいましたが、大正時代には吉田初三郎のような名人がおり、鉄道の普及とともに全国の鳥瞰図絵が描かれました。私の大学では、この鳥瞰図絵が大学の「顔」となり、市長室にも飾られるほど評判になりました。
「虫の目」と「鳥の目」の限界、そして「図解」の重要性
私たちは普段、「虫の目」で物事の細部に囚われがちです。しかし、鳥瞰図のように「鳥の目」で俯瞰することの重要性も、仕事においては欠かせません。ただ、鳥の目でも、単に上から眺めるだけでは、そこにいる人々の属性や関係性までは見えてきません。
私は、企業での文章コミュニケーションに大きな問題意識を持っていました。文章は時に曖昧さを許し、書く側も読む側も「分かったふり」をしてしまうことがあります。特に「箇条書き」は、項目を羅列するだけで、それらの関係性や因果が示されないため、物事を正確に伝えるには不十分です。私はかつて、「箇条書きと文章が日本をダメにしている」という本を40歳の時に書き、それがきっかけで大学で教えることになりました。
図解は、この文章コミュニケーションの欠点を補い、ごまかしが効かない形で本質を視覚化します。あらゆる事象を「図」で表現することで、複雑な情報を一目で理解し、思考を深めることができます。
新しい「人生訓」の提唱:孔子の教えを1.6倍に
現在の日本は、閉塞感が漂っています。その原因の一つは、中国の孔子の教えが、現代の「人生100年時代」と乖離していることにあると私は考えます。
孔子の「十有五にして学に志す」「三十にして立つ」「四十にして惑わず」「五十にして天命を知る」「六十にして耳順う」といった人生訓は、せいぜい「人生50年時代」のものです。これをそのまま現代に当てはめるから、多くの人が惑い、年賀状で「40歳になって人生が終わった」などと嘆くような事態が起こるのです。
私は、この孔子の教えに「1.6倍」をすることで、現代の人生100年時代に合わせた新しい年齢の考え方を提唱します。
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孔子の教え (旧)
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人生100年時代 (新: 1.6倍)
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フェーズ
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15歳 (学に志す)
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25歳
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少年期を終える
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30歳 (立つ)
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50歳
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青年期を終える
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40歳 (惑わず)
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65歳
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壮年期を終える
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50歳 (天命を知る)
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80歳
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実年期を終える
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60歳 (耳順う)
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95歳
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熟年期を終える
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70歳
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110歳
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大人期を終える
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110歳以降
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仙人期
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この新しい人生訓によれば、50歳で青年期を終え、65歳で壮年期を終えます。そして65歳から80歳を「実年期」(実りある時期)、80歳から95歳を「熟年期」、95歳から110歳を「大人期」と捉えるのです。これにより、現在の「高齢者」という不愉快な呼び方も解消され、それぞれの年代が持つ価値を再認識できます。
日本は「異次元の高齢化」が進んでおり、世界に先駆けて新しいモデルを構築する必要があります。この「新・孔子の人生訓」は、人々がより長く、充実した人生を送るための指針となると考えています。
人物記念館1000館の旅:偉人に学ぶ生き方
私は55歳から75歳までの20年間で、全国の人物記念館1000館以上を巡る旅をしました。これは、日本の近現代の偉人たちがどのような人物であったかを、自ら研究するためです。
旅の途中で感じたことは数多くあります。例えば、1館目の福沢諭吉記念館(大分県中津市)では、地元を出て初めて福沢諭吉の偉大さに気づき、彼の著作を深く読むようになりました。100館目の寺山修司記念館(青森県三沢市)では、俳句や短歌が時代を超えて残ることに寺山が死の間際に悔やんだというエピソードを知り、何事も「百」を経験すると、ようやく入り口に立てるという「百説」という言葉を実感しました。
200館目の野上弥生子記念館(大分県臼杵市)を訪れた際、私はこの旅が「聖人巡礼」であると気づきました。白洲正子の『西国巡礼』の解説にあったように、巡礼とは「自分に会う旅」であり、「自分を発見し、奮い立たせる旅」なのです。偉人たちの人生に触れることで、自分自身と向き合い、学びを得る。これがこの旅の意義だと確信しました。
300館目の西田幾多郎記念館(石川県かほく市)では、難解な哲学者の記念館の入り口が分かりにくいことに、哲学の本質と難解さを重ね合わせ、この旅が私の「ライフワーク」であると確信しました。
400館目の相田みつを記念館(東京都)では、彼の書の「下手に見えて実は名人芸」という奥深さに触れました。500館目の臼井吉見記念館(長野県安曇野市)、600館目の大宅壮一文庫(東京都)なども巡り、偉人たちの言葉や人生哲学に深く触れました。大宅壮一が「大正史」の執筆を志しながら志半ばで亡くなったという悔恨の言葉は、強い印象を残しています。
700館目の大岡信ことば館(静岡県三島市)、800館目の土屋文明記念文学館(群馬県高崎市)、900館目の勝海舟記念館(東京都)を経て、1000館目には藤子・F・不二雄ミュージアムを選びました。ドラえもんの誕生日が「2112年」であることから、「未来に向けた偉人」として選び、この旅を締めくくったのです。
この旅を通じて得られるのは、知識だけでなく、偉人たちの「霊気」に触れることで、自分自身が研ぎ澄まされていく感覚です。
最高の偉人と、教育・思考への提言
1000館を巡った結果、私が最も偉大だと感じる人物は、福沢諭吉と渋沢栄一です。
福沢諭吉は慶應義塾を創設し、地方にまでその教育が根付くことで、現代に至るまで多くの人材を輩出しています。渋沢栄一は500社もの企業を設立し、さらに600以上の社会福祉事業に関与しました。彼は多くの人々の相談に乗り、その事業の成功を支援した人物です。最近、一万円札の肖像が福沢から渋沢に変わりましたが、私はこれを「ナンバーワンからナンバーワンへのバトンタッチ」と捉え、喜ばしいことだと考えています。
記念館巡りでは、亡くなった偉人の追悼文集を読むことを重視しています。そこには、公式な伝記には載らないような、周囲の人々が語る人間味あふれるエピソードが詰まっており、その人物の本質を深く理解するのに役立ちます。
また、私は福沢諭吉の言葉「今日も生涯の一日なり」をブログのテーマにしています。一日一日を大切に、真剣に生きることの重要性を、福沢もまた実践していたのではないかと感じています。
この旅で気づいたことは、近代・現代の日本には、早咲きの人物だけでなく、「遅咲き」の人物が多いこと、そして「独学」で大成した人が非常に多いということです。正規の教育機関で教えを乞うだけでなく、自らの興味を追求し、独創的な道を切り開いた人々が、世界を揺るがすような発見や研究を生み出しています。現代の画一的な学校教育では、個々の才能が埋もれてしまう危険性があると感じています。
「ワークライフバランス」から「ライフデザイン」へ
現在の日本社会には、海外から輸入された概念が安易に受け入れられる傾向があります。その最たる例が「ワークライフバランス」です。これは「仕事と人生のバランスをとる」という馬鹿げた概念であり、そもそも「ライフ(人生)」の中に「ワーク(仕事)」が含まれるはずです。
私が仙台でワークライフバランス推進協議会の第一回講演者になった際、「日本人すぐ騙されるからね。これは必ず失敗します」と指摘しましたが、役人からは「既に始まっているので、あまり大きな声では言わないでください」と言われたものです。
本来考えるべきは「ライフデザイン」ではないでしょうか。どのように日々の生活を送り、自分の人生をどう構築し、自分の命を次の世代につないでいくか。人生100年時代においては、この「ライフデザイン」の視点こそが、個人にとっても社会にとっても重要です。
海外の流行に乗るのではなく、私たち日本人自身が深く思考し、自分たちの生き方や社会のあり方をデザインしていくべきです。「図解コミュニケーション」というツ思想と技術を用い、本質を捉え、自ら考える力を養うことこそが、これからの時代には重要であると私は考えています。
(以上、まとめておいた:ボイスメモ(音声)ーNotta(文字起こし)ーエディ(編集)
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7月2日:堀文子。石川達三。竹内均。真藤恒。
堀文子「生き生きと死にたい」「群れない、慣れない、頼らない」
内橋克人「引き際の研究」
三島海雲「孫子は「敵国のなき国は滅ぶ」と言った。今後、カルピスの類似品は続々できるであろう。私はカルピスのためにそれを望む」
岡鹿之助「 日本油絵の樹立。それは我らの時代にと急がないで良い。次に来る時代、あるいはまたその次に来る時代にでも結構だ。ただ私たちは次に来る者へ手渡しするバトンだけはしっかり渡したい」
石川達三「幸福は常に努力する生活の中にのみある」
真藤恒「習って覚えて真似して捨てる」
竹内均「前進あるのみ」
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「新・代表的日本人」7月2日。堀文子「生き生きと死にたい」
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家である。享年100歳であったセンテナリアンである。
女子美術専門学校(現女子美術大学)師範科日本画部に入学した。在学中に新美術人協会第2回展に初入選を果たした。34歳のとき、日展で特選を受賞した。42歳で夫と死別した。54歳で手がけた絵本『くるみ割り人形』が、イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展でグラフィック賞を受賞した。
69歳からイタリアに在住した。77歳から、アマゾン、マヤ遺跡、インカ文明を訪ね、81歳にはヒマラヤを取材した。一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。亡くなる前年まで、毎年展覧会が開催された。「たえず興味や関心の対象を変える」生涯現役の画家であった。
堀文子は5歳で関東大震災に遭遇した。しっかり者の母も含めてみな我を失っていた。一人年取ったばあやだけが冷静だった。そのばあやが総大将になって冷静に大震災を乗り切った。なぜそのばあやは冷静で沈着だったか。この人は1855年の安政の大地震の経験があったからだ。1854年の東海地震、その32時間後にマグニチュード8.4の南海地震、そして翌年に安政江戸大地震が続く。つまりこの3つの地震は連動していた。ばあやは、安政の大地震を知っていたのである。長生きをするということはこういうことである。
幼い文子は「在るものは滅びる」という声が電流のように全身を貫いた。幼い心が悟りを受けた。この世は無常である。一切なくなってしまうという人生観で自然を描き続けたのである。
箱根の成川美術館には100点を超える堀文子コレクションがある。第1回堀文子収蔵作品セレクション展をみた。「何かをやっている人というのは、それが運命なのである。好きだから、などというものではない。私もただこの道を行く方がいいという予感があっただけである。六十を超えて、ようやくそのことがわかってきた気がする」。
また、この美術館で「山本丘人と堀文子」展をみたことがある。二人とも「同じものは描かない」という信念を持っていた。師の山本丘人は「表現の方法を新しく模索して、その作品は自らの心象風景として昇華していく」と述べた。堀文子は「たえず興味や関心の対象を変える」とし、常に新境地を生み出し、「私には一貫した画風はない」と語っている。
「花の画家」と呼ばれる日本画家・堀文子の「サライ」のエッセイを私もよく読んだ。また雑誌「致知」にインタビューが出ていたのを興味深く読んだ。
以下、堀文子の言葉から。 「皆さん、褒めてくださいます。貶す方はおりません。危険なことです。 恐怖の連続です。そして絶えず、ああ、ダメだ、無能だと思う。その無念が私の道標で、私に絵を続けさせている原動力です。満足したことはない。 大抵は若い時にちやほやされて、ダメにされるのです。 自分を堕落させるのもよくするのも自分なのです。 安全な道はなるべく通らない。不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。大通りはつまらないと思っている人間で、それがいまでも続いているのです。 いつも不安の中に身を置いて、昨日をぶち壊していくということです。ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方なのです。そして過ぎたことを忘れることです。 いつも自分を空っぽにしておくということです。 私には必ず不安なほうを選ぶ癖があります。そのほうが初めてのことでビックリするから元気が出ます。とにかく自分をビックリさせないとダメなのです。」
堀文子は「群れない、慣れない、頼らない」「闘わず屈服せず」という厳しい生き方が信条だった。そして「最後の最後まで、少しでも、一ミリか二ミリでもいいから、上り坂でいたいと思います。そして惨めに死ぬのではなく、生き生きと死にたい、と思っております」と語っていたとおりの生涯を送り、享年100歳であったセンテナリアンとなった。人生100年時代の生き方のモデルの一人である。