5月分「名言との対話」(大正から昭和へかけて生まれた人が対象)の人選と25冊の本を注文。

5月分「名言との対話」の人選と25冊の本の注文。「大正から昭和へ」かけて誕生した人を選んでいます。私の父母と同世代の人たちです。生存している人、亡くなった人も。
宗左近。岩橋明子。金沢弘和。井筒俊彦。オーソン・ウェールズ。小泉清子。逸見謙三。橋田寿賀子。椎名武夫。佐々木正由利徹瀬戸内寂聴池宮彰一郎加藤九祚ポル・ポト。太田敏郎。半藤一利村松喬。深沢邦朗。野上照代。佐原眞。キッシンジャー。西尾孝。安芸ノ海。神戸淳吉。
名前しか知らない、名前も知らない、そういう人が多い。不案内な分野も多い。最近亡くなった敬愛する人も交じっている。さて、5月にはどんな人生を垣間見ることができるでしょうか、楽しみです。
人選がまだの日:5日。9日。14日。26日。29日。
本日で「名言との対話」は1836日目。6月には2000日となる予定。
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図解塾の準備。
・今週水曜日の図解塾の準備:図解文章法について。
・来週の図解塾・課外授業の準備:ライフワークについて。
・6月初めにプレジデント社から出る新刊の表紙デザイン案が6つ届きました。図解塾の塾生にアンケートをとってみようかな。
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「名言との対話」4月19日。千宗室(第15代)「伝統と伝承」
千 玄室(せん げんしつ、1923年大正12年)4月19日 - )は、茶道裏千家家元15代汎叟宗室
14世家元淡々斎宗室の長男として生れる。学徒出陣で海軍に入隊し特攻志願。 1946年復学した同志社大学経済学部卒業後、ハワイ大学美学を専攻し人文博士号を取得。1949年京都市大徳寺で参禅得度し、鵬雲斎玄秀宗興居士の号を受けるとともに虚心庵住職となる。1964年  15世を襲名 
茶道文化の普及発展に努め、50数ヵ国を訪問。フランス政府よりコマンドール芸術文化勲章を授与されたのをはじめ、ブラジル、西ドイツ、イタリア、フィンランドからも勲章を贈られた。
1989年文化功労者。 1997年文化勲章受章。『茶の精神』『茶の真諦』『茶経とわが茶道の歴史的意義とその展開』など著書も多い。
いい機会なので「お茶」について第16代宗室のNHKテキスト『趣味どきっ! 茶の湯 心を通わすお茶』で少し勉強した。
茶の湯は、美術工芸、建築、造園、禅、料理、香、花、書、和歌など幅広い要素で成り立っている。「賓主歴然」(異なる立場)「賓主互換」(互いに慮る)「無賓主」(一体感)を大切にしながら、「一座建立」(主客が心を通わす)を目指す遊芸である。
侘び茶を大成した千利休の茶道は、裏千家(加賀前田家)、表千家紀州徳川家)、武者小路千家(高松松平家)にわかれていく。
戦国から江戸時代では大名や武家、明治時代は欧米文化の流入で危機を迎えるが裏千家11代は『茶道ノ源意』という建白書を提出して伝統を守った。鈍翁、三渓などの財界人がたしなんだ。茶道を学ぶ女性が増え、学校の授業やクラブ活動でも盛んになる。そして宗室の時代に、国際化が進んだ。
利休は「利休七則」。「茶は服のよきように点て 炭は湯の沸くように置き 花は野にあるように 夏は涼しく冬暖かに 刻限は早めに 降らずとも雨の用意 相客にせよ」
92歳の時に最新鋭艦「出雲」で行われた海上自衛隊シンポジウムの基調講演の映像をみた。帝国海軍の戦闘機乗りだったこの人の講演のテーマは「海軍の伝統と伝承」だった。古巣で青春時代を思い出しながら語っていた。体格もよく、眼光鋭く、表情豊かに、身振り手振りを縦横に使った熱の入った話しぶりだ。朝4時起きで、5時からは今でも「海軍体操」をするとのこと。
伝承とは伝統を絶やさず受け継いでいくこと。実践、実社会で活かしていく。口で伝える、体で体得し、次代を担う後輩たちに魂を引き継いでいく。自身は文武両道の見本で、文はお茶、武は海軍だそうだ。そして、お茶と海軍も伝統と伝承が重要と締めくくった見事な講演だった。大正12年生まれだから私の父と同じ年で、本日で98歳だ。
「伝統」という言葉には、「革新」が続くケースをよくみてきたが、「伝承」がペアになったのを聞いたのは初めてだ。伝統を伝承によって受け継いでいくには、時代に応じて新しいことにチャレンジして伝統を覚睡させていくことが必要だ。だから伝統があるということは革新の連続である。そう理解しておこう。
 

茶の湯 裏千家 心通わすお茶 (NHK趣味どきっ!)

 
 

寺島実郎の「世界を知る力」ーー世界経済と日本の家計の現状。ロシアとどう向き合うか。

東京MXテレビ寺島実郎の「世界を知る力」。

経済:世を経(おさめ)、民を済(すくう)。民を救うために様々な公的対策を行うこと。中国の古典から。

世界経済と日本経済。

  • IMFの世界経済予測:世界同時好況の3年間。2020年はコロナ禍により▲3.3%成長。2021年は1月予測は5.5%だったが、4月予測は6.0%と強気になっている。
  • 主たる原因はアメリカが2020年▲3.5%で、予測が1月5.1%から6.4%になったこと。バイデン大統領はワクチンの接種もすでに60日間で目標の1億人を突破(100日の予定だった)。4月末までに2億回の目標を設定。年収864万円以下には15万円の給付を行う。200兆円(1.9兆ドル)のインフラ投資の財政出動で累計648兆兆円(6兆ドル)とアクセルは全開。
  • 日本は2020年▲4.8%でこれは2013-2014年の規模。1月予測は3.1%、4月は3.3%。となっているが、それでもまだ水面下。
  • 中国は2020年2.3%とプラスで、1月予測は8.1%、4月はさらに加速し8.4%。インドは4月予測で12.5%、アセアンは4.9%。アジアの世紀が進行中。アジアとの貿易で日本経済は支えられている。
  • 日米の違いに注目。アメリカの政策は機動力と柔軟性がある。1:財政出動の財源については法人税を21%から28%に引き揚げ、15年で275兆円を収入を見込む。日本は赤字国債を日銀が青天井で引き受けており、後続世代の借金にしているだけだ。2:中央銀行は景気がよくなると金利を上昇させ(5%台)、悪くなるとゼロ金利(2008年12月)に下げる、またあげていたが、コロナで下げた、という柔軟性と機動力がある。日本はゼロ金利が10年以上続き、2016年1月からはマイナス金利の状態。
  • 実体経済の悪さと株高(米33800ドル4月9日。日29708円4月9日)という不自然さ。不安材料がでてきた。投資会社アルケガスの破綻で日米欧の金融が大きな損失をこうむっている。レバレッジ投資、き過ぎたマネーゲーム、資本主義のゆがみ。

日本経済「家計」。

  • 家計:勤労者(現役)世帯の可処分所得は、2010年43.0万円、2015年42.7万、2019年47.7万。2020ねんは49.9万(10万円給付を除けば47.1万)。ピークは1997年の49.7万円。
  • 全国全世帯の家計消費支出では2020年は月27.8万円、ピークは1993年(20年近く前)の33.5万円。2000年から2020年の20年間では、年間47.3万円ダウン。衣は▲47.1%、食は8.6%、住は▲11.3%。小遣い・交際費は▲49.0%で34673円で20年前と比べ年間で▲41.6万円(最大の減少)。光熱・通信13.4%。教育・娯楽は▲28.0%で月▲15499円で年▲18.6万円。衣のユニクロ、住のニトリが独り勝ちだから寡占化で衣と住の分野はさらに厳しい。日本人は学ばなくなった、学べなくなった。シケてしまった。そして内向きになった。
  • 消費支出の中身の推移:食の分野のプラスは調理食、肉類、お菓子、飲料。マイナスは外食と魚介類。コントラスト。食生活も変化している。増えたトップ3分野は諸雑費(どうでもいいもの。雑費貧乏)4152円増加、通信3958円増加(価格は4分の1に値下がりだがスマホ需要が大きく増加)、自動車関連(地方は2台、モールへ)3312円増加。一方で医療や健康(サプリ)は増えているのをみると賢くなっているともいえる。努力して情報に接することが必要だ。内向きから賢くへ。

全体知への接近:番組では過去3回は中国を語った。武力衝突の可能性のある尖閣問題は「世界」5月号に書いた。今回からの3回は北方領土問題をめぐるロシアとの向き合い方がテーマ。今回は前提としての日露関係の歴史。

  • 日本人は1853年のペリーの浦賀来航で近代が始まったと考えいるが、「北の黒船」が先にやってきている。半世紀前の1792年にラックスマン根室へ。函館への回航させ、長崎の通行許可証を発行。9ヶ月滞在した。漂流民であった大黒屋光太夫(1783年に漂流)を連れてきた。光太夫エカテリーナ二世と面会。ロシア語をマスターし44歳で帰国。老中は松平定信。一時金30両を与えられ、月3両の手当をもらい、千代田区番町に住み78歳まで生きた。聞き書き「北瑳聞略」。
  • 1785年には林子平が「蝦夷国全図」という北海道の概念図、1798年には近藤重蔵が択捉を調査、「大日本恵土呂府」の標識を建てた。1800年伊能忠敬が日本地図を完成。
  • 1804年にはレザノフが長崎にあらわれる。6か月間留め置きで、通行証を取り上げられる。仙台石巻の漁師4人(1793年に漂流)を連れてきた。世界一周を初めてした日本人だ。アレクサンドル一世と面会。聞き書き「環海異聞」。情報は受け手の能力に比してしか伝わらない。レザノフは択捉で略奪行為を働き警戒された。1806年に津軽藩南部藩に守備の要請。1807年幕府の直轄地天領にする。1821年松前藩に返却。1860年ロシアが清国と結んだ北京条約でウスリー川東岸を割譲させ、ウラジオストック(東を攻めよ)を建設。北海道と極東ロシアは双生児、どちらも移民で成立。近代史はロシアと向き合った100年だった(司馬遼太郎)。
  • ロシアが東へ向かう理由:ピョートル大帝ロマノフ王朝の中興の祖)は1697年3月から18月間欧州視察を行った。4か月間オランダ東インド会社で造船術を学ぶ。1703年サンクトベルクの建設を開始(1792-1918年のロマノフ王朝の首都)。1705年日本語学校を創設。漂流民の大坂出身の伝兵衛(1701年)を教師にした。1754年日本語学校イルクーツクに移転。13世紀から15世紀にかけてモンゴルに支配された「タタールのくびき」から、東方に巻き返し。
  • 日本の動向:ラックスマンとレザノフの間の1800年八王子千人同心100人(家康が武田軍団を郷氏にした。100人10組の大軍団)が蝦夷地へ入植。原半左エ門。苫小牧50人、白糠50人。ロシア対策の開拓だった。

(異次元の高齢化:工業化を経て脱工業化時代の高齢化。カセギとツトメのツトメの貢献する仕事。子育て、子ども食堂、教育などで貢献を)

ビデオ収録していました。1回目のメモをつくり、聴き直しながら赤でメモの数字や事実を正確にし、その結果を改めて以上の文章を修正するという作業を行ってみました。緊張して番組を聞くのより、この方法の方が理解が正確で深くなります。ZOOMなどの動画で学ぶのと同じです。

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八王子の万葉公園で万葉歌碑。

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八王子城跡を訪ねました。小田原城を本拠とした北条早雲のひ孫世代の北条氏照が16世紀末に築いた城。秀吉傘下の前田利家上杉景勝の連合軍に攻められ1590年に落城した。氏照は小田原城で兄の氏政と籠城していたが、秀吉から切腹を命じられる。家康に与えらえた関東は、八王子千人同心がまもることになった。

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曳橋をとおり、御主殿跡(居館)を往復。この雄大な山城はそれから400年間にわたり打ち捨てられていたが、約400年後に発掘整備された。まだ再建途中。

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昼食は「ゆずや」(てんぷら)。

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「名言との対話」4月18日。サミュエル・ハンチントンアメリカが唯一の超大国としての支配的な地位を失いそうだと見れば、日本は中国と手を結ぶ可能性が高い」

サミュエル・フィリップス・ハンティントン(Samuel Phillips Huntington、1927年4月18日 - 2008年12月24日[1])は、アメリカ合衆国国際政治学者

コロンビア大学戦争と平和」研究所副所長を経てハーバード大学教授。1986年から1987年まで、アメリカ政治学会会長を務めた。研究領域は政軍関係論、比較政治学国際政治学などに及び、軍事的プロフェッショナリズム発展途上国における民主化、冷戦後の世界秩序での文明の衝突の研究業績を残している。キッシンジャーと並ぶ学界の大立者であり、その影響力は大きい。著著『文明の衝突』は世界的ベストセラーになった。

2000年の発行のサミュエル・ハンチントン文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)を、20年後の現在の時点で読むことになった。以下、ハンチントンの分析と結論。

2000年からの10年、20年で真の多極体制になるまでは、アメリカが唯一の超大国の座を維持するだろう。しかしアメリカは世界の唯一の超大国として負担を担うより、世界の大国の一つとなる方が得るもには大きい。

中国は今後10年続く高度成長と国内の団結が維持できれば、自然に覇権を目指すことになり、独断的な役割を演じるだろう。

日本文明は中国文明から派生して誕生した独特の文明だ。他の社会と文化を共有しない孤立国である。日本の戦略は一貫して「追随」だ。20世紀は大英帝国ファシズムのドイツ、アメリカと同盟を結んで一時的な破綻もあったが、その戦略で成功してきた。日本は中国の台頭と超大国アメリカのどちらを選択するだろうか。

日本はバランスと追随の間で揺れるだろうが、結論は先延ばしにするだろう。アメリカが決意を公約しなければ中国に順応するだろう。日本の戦略は常に最強国との協調だったからだ。アメリカが支配的な地位を失いそうになれば、日本は中国と手を結ぶ可能性が高くなる。アメリカ、中国、日本の三角関係が東アジアの政治の核心だ。

さて、巻末の「解題」は中西輝政が書いているが、ハンチントンの分析を是としながらも、中国は大きな変動に直面し、分裂という体質の爆弾を抱えている特質が浮上し、21世紀の超大国に座を現実のものにする可能性はまずないと考えている。

この本が世に出てから20年経った2021年現在では、アメリカの力には陰りがみえ、中国経済は大発展をとげ、日本を抜き去りアメリカと肩を並べる日も近い国になっている。日本はハンチントンのいうように、頭はアメリカ、体は中国というまた裂き状態が強くなりつある。ハンチントン中西輝政のどちらの予想が正しいのか、しだいに明らかになってくるだろう。

文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展ーー忘れられた花鳥画の大家の出現という事件

上野の東京芸大美術館で「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展。これほどの画家が忘れられていたのは驚きでした。本人は文展などには出展せずに、注文に応じた作品を描いていたことが、その原因でした。

渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画-

1852年生。1866年、 16歳で歴史画家の菊池容斎(1788-1878年)に入門。3年間の修行時代は文字を書く練習のみで、「自然をよく観察し記憶し写生せよ」といわれた。

起立工商会社に入り輸出工芸品の下図、図案制作に従事。1787年のパリ万博でパリに。美術商の林忠正に先導されて、日本の画家や、印象派の画家との交遊。エドーガー・ドガは省亭の絵を生涯手もとにおいた。

30代から40代は、挿絵、口絵、そして「美術世界」「省亭花鳥画譜」など、多色摺木版本にかかわった。1889年のパリ万博、1890年の内国勧業博、1893年のシカゴ・コロンブス世界博にも出品している。「牡丹に蝶の図」、「龍頭観音」、「七美人之図」。「塩治高貞妻浴後図」、「小松曳」などが印象に残った。絹に薄ぬりで描く作品は素晴らしい。

波川惣助(1847-1920年)との無線七宝の共同開発はパリからの帰国後に開始されている。360種類の釉薬を使い複雑な色合いを実現した無線七宝の原画は省亭だった。迎賓館赤坂離宮で30枚の「七宝絵画」をみることができる。

忘れられた画家である。1898年に創設された日本美術院には参加を辞退し、それ以降は競争の場には出品しなくなった。画壇政治に巻き込まれるのを避けた。四季折々に床の間を飾る省亭の花鳥画後藤象二郎など当時の大物が愛した。海外では横山大観竹内栖鳳以上に馴染みがある近代日本画家だった。

花鳥風月と並んで江戸情緒を描く画家でもあった。「四季江戸名所では、春の上野清花、夏の不忍池蓮、秋の瀧の川の楓、冬の墨堤の雪で、景色と人物を描いている。

小説の挿絵・口絵も画業の重要なジャンルだ。山田美妙、坪内逍遥尾崎紅葉、らと仕事をした。山田美妙の著では裸婦を描いて注目された。また雑誌「美術世界」でも活躍した。40代以降は二つの家庭を往復する二重生活を送っている。

68歳まで、市井の画家を貫いた。これほどの花鳥画の大家が知られていないには不思議だ。商業美術として軽んじられたことと、欲しい人にのみ描いたからだからだが、この初の企画展を機会に、名が高まることを確信した。 

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14日の「名言との対話」では岡田良雄をとりあげた。

今日の収穫

魯迅の名言を拾う。

魯迅「墨で書かれたタワごとは血で書かれた事実を隠しきれない」

・もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

・自己満足しない人間の多くは永遠に前進し、永遠に希望を持つ。

・目的はただ一つしかない。それは前進すること。

・うしろをふり向く必要はない。あなたの前には、いくらでも道があるのだから。

・天才なんていない。僕は他人が休んでいる時間も仕事をしていただけだ。

 

松尾雄治「何でも練習すれば絶対にうまくなる」

・「まん延を見届けてから防止措置」(東京新聞の川柳)

・見合い、恋愛、なれ合い。

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「名言との対話」4月17日。藤城清治「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」

 藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年大正13年〉4月17日 - )は日本の影絵作家。

師の一人である「暮しの手帖」の花森安治から「影絵は、光と影、自然と人間、絵画とカメラなどのコラボによる新しい時代の美術」だといわれ、舞台を与えられ、大活躍する。その結果、1996年には長野県白樺湖に影絵美術館、1998年には北海道生田厚町に影絵美術館が誕生している。

そして2012年には名前を冠した美術館が那須高原に誕生している。2014年に訪問したのだが、素晴らしい美術館で、おそらく那須リゾートの名物となっていくだろう。1924年生まれの影絵画家は当時は美術館が開館した当時は89歳だった。「ぼくも今年で90歳になる。今の僕なら、賢治童話と四つに組んでも真正面から勝負できるような気がした。「風の又三郎」に全身全霊を打ち込んで作れば、いままでにない、新しい影絵作品が出来るかもしれない」と。宮沢賢治の世界に取り組んだ「ぼくの影絵は賢治童話の中で触発され、進化していった」。

「僕の影絵はモノクロの時代に培った構成や細密さ、形にあくまでもこだわりますから、カチッとした電気の光源で照らしたほうが活きる。そこへ光の色を重ねるわけです」

「影絵は、光と影の祈りの芸術」であるとし、影絵という武器で、童話、神話、自然、寺院、聖書、震災、、、などあらゆるものをどん欲に表現していく。影絵というキーワードで進化と深化を重ねていく姿に感銘を受けた。表現者は、自分独自の武器で世界と歴史、そして生命と宇宙を表現しようとする、と改めて思った。この美術館を訪ねた折に、「はだか木も 影絵のごとき 美術館」(吐鳳)という句ができた。 

2016年には、山梨県の昇仙峡を訪ねた折に、昇仙峡にある影絵の森美術館を発見した。藤城清治は1948年に花森安治から「暮らしの手帖」に影絵の連載を依頼されのがデビューとなった。この美術館は1992年に開館しているが、まだ藤城が有名ではない時期なので藤城清治の名前はついていない。そこでは山下清の企画展をやっていた。旅先ではスケッチはしない。帰って記憶をもとに描いた。43歳から東海道五十三次の取材を始めた。49歳で没。

キリスト教旧約聖書『創世紀』は世界の創造を描いている。その壮大な世界には、ハイドンが音楽で、白川義員が写真で挑戦している。「光と影による聖書画こそ、今日にふさわしい聖書画であり、歴史的に見ても影絵は聖書画に最も適した技法であると信じたからです」と語っている藤城は自らが開発した「影絵」という武器で11年の歳月をかけて完成している。アダムとイブ、カイントアベルノアの方舟バベルの塔など33の作品が那須の美術館におさめられている。表現者は、「日本」に向かった場合は、最後は「古事記」などに、そして「世界」に向かった場合は「天地創造」に向かうような気がする。

那須高原にぼくの美術館ができる。それは若い頃から、ずっと持ち続けていた夢だった。その夢が夢でなく、ほんとに実現して、こんなうれしいことはない」と喜びを語っている。しかし、同時に「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」との言葉もあった。89歳の藤城はすでに大御所となって、また老境でもあり、誰も意見をしてくれなくなったことを嘆いていた。だが仕事を続けるために、毎日2時間の散歩を課していて、自宅から駒沢オリンピック公園まで往復1時間半をのウオーキングを課していたように、本人は意欲満々であったことが印象に残っている。その藤城も本日で97歳を迎えた。異次元の高齢化の時代に、生涯にわたって進化を続けようと志す人にとって、藤城清治の心構えは大きな励ましになる。

 

多摩大大学院「インサイトコミュニケーション」の今年度最初の授業。昼、橘川幸夫。午後、ニホンドウ薬ミュージアム。夜、橋本大也。

夜は多摩大大学院「インサイトコミュニケーション」の授業でした。18時半から21時40分までの3時間。10人が参加。以下、終了後に届いた感想集。

  • 本日は講義に参加させて頂きありがとうございました。図解にするということは大変興味深いと思いました。自分の思いをうまく言葉で伝えることがあまり上手くないので、講義を受けることで、上達できそうな気がしました。また、先生の講義に名言が多く、とても刺さりました。これから頑張って習得したいと思います。宜しくお願い致します。
  • 本日の講義ありがとうございました。 ■感想・思ったとおり(期待したとおり)の内容です。楽しみになりました。・少人数であることもありがたく、あついご指導を戴けるかと期待しています。■学んだこと・「文章では人によって、理解が違うこと」について、これほどとは思いませんでした。・「住宅選びのおもなポイント」で、私は円の大きさ、チェックの流れを意識して大小と順位を書きました。 コメントで「円の大小は押しつけにもつながる」と言われました。きっと、仕事の仕方が現れていると自省しました。(どうも、この傾向がある)■決意・アジア、ユーラシアダイナミズムと大中華圏は、自分宿題にします。■質問・オーストラリアの地図、富山県の地図を見たこともがあります。 どちらも自分が真ん中の地図です。まさに、今日の講義にあった「自己中」ですが、そういう使い分け的な要素は今後学べますが?(悪意のない、意図をもった図という意味です) 以上、今後ともよろしくお願い申し上げます。
  • 講義所感を記載させて頂きます。図解で表してから文章にする、話すという部分について、非常に納得でき、人へ何かを伝える際に自分自身で勝手に難しく考えていたことに気づかされました。図解のレベルはまだまだですが、早速仕事でも意識しながら活用していきたいと思います。先生が最後にご教示頂いた「全ての講義の受け方、見え方も変わってくる」というお言葉で、履修に向けて更に前向きな気持ちになりました。論点は何か、本質は何か、俯瞰して物事を見れる力をつけて、所属組織に変化を働きかける存在並びに優れたリーダーを目指して取り組んで参ります。講義中に質問させて頂いた「勉強」について、この2年間で学んだ知識、経験を現在の実務、今後直面した問題等にいかに活かしていくか、というところがポイントという認識でよろしかったでしょうか。しっかり学ぶことに対しての本質も理解しこの2年間を充実した時間にしていきます。半年間よろしくお願い申し上げます。
  • 本日の授業、ありがとうございました。オンライン授業でも受身とならず、参加しているという実感が沸く授業でした。本日の学び(箇条ですみません。。。)ポイント:図解の力の無限さを垣間見ました。これからの授業とこの講座を通しての自身の成長が楽しみです。l 同じ文章から出来上がる図が異なる・文字による伝達には限界があることを体感しましたl ベストセラーになった理由を箇条と図解で表現するとわかりやすさが歴然と異なる・図にすることで、箇条書きからは見えなかったグルーピングや関連性を表現することが可能となることを理解できました。l 図を書く本人が進歩すると図も進歩する・ 書く人の視点が変わったり、視野が広がる(俯瞰的になる)と見えてくる世界も変わり、それを表現する図も変化することを学びましたl 図解は技術。訓練で上達する。・ 鳥の目の人と虫の目の人は脳の作りの影響が大きいのではと思っていましたが、講座内の実技訓練での自身のスキルアップに期待を持ちました。半年間、よろしくお願い致します。
  • 「文章はごまかし」「作者も読み手もわかったふりをしている」という言葉が印象的でした。現在、先生がお書きになられた「図で考える人は仕事ができる」を読んでおりますが、本日の授業で図解がコミュニケーションに大きな役割を果たすことへの理解がより深まりました。当社の経営陣にも受講いただきたいと思いました。当社内でコミュニケーションが問題となっておりますが、簡単にこのひとつの言葉で片付けられる問題ではないと感じております。私の視点から見た当社のコミュニケーションの問題点は下記のとおりです。①昨年7月より就任した社長への抵抗感②変わることへの恐怖③社長の話が理解できない。理由:きれいな日本語を使う(平易な日本語ではない)、一文が長い、社員の基本的能力が低い(井の中の蛙、タコつぼ状態)。当社は危機的状況にあるのですが、そのような状況でも今の「ぬるま湯」から出たくない社員が多く、その意識を変えようとする社長への抵抗勢力がすさまじいです。精神的ハードルがある集団に対し、対話で解決するフェーズではないと感じております。ただ、今の組織の状況や社長が発する文章を図解にすることで、抵抗勢力集団との溝が埋まる可能性があるのであれば、図解コミュニケーションを使わない手はありません。また、私はマーケティンググループに所属しておりますが、典型的な日本企業においてマーケティングの概念は理解されず社内で悪者になっております。本講座が終わるまでに、下記を図解して経営陣に示すことができたらと思っております。①当社におけるマーケティングの役割(現在とこれから取り組みたいこと。
  • 本日の講義を終えて、理解するためには全体像を把握すること。そのためには、図解すること。そして、俯瞰することが大切であることを学びました。 特に印象に残ったのが、「自分が理解・整理できていないことを、人には伝えられない」という内容でした。実際の仕事のなかで「どうしてスタッフは理解してくれないんだろう?」と思うことが多かったのですが、それは私の理解が不十分な状態で伝えていた可能性が高かったのではと自問しております。 今後ですが、「自分のための図解」と「相手に伝えるための図解」それぞれで注意するポイントを学んでいければと考えております。 次回以降よろしくお願いいたします。
  • 思考力:以前図解を見ていて理解しやすいとおもっていたんですが、コミュニケーション手段だと考えなかった。今回の授業を受けていて図解の形でコミュニケーションするのは理解しやすいだけではなく、色々視点から考えられるんで、多方面的の思考力を向上させると思う。まとめる力:図解をすると言うのは文章の文字や内容をまとめて、図に入れることだと思っている。それで、文章の内容をよくまとめないと文字が多くて、図に入れられないし、逆に理解しにくくなると思う。集中力:ご飯食べたばかり授業を受けると私は眠くなりますが、授業では先生が感想などを聞くのでずっと集中できる。決意:1. 新聞読んで図解して新聞の深読能力を向上させたいと思う。2. この授業を通じて図解する能力をつけて、他の授業レポート、プレゼンテーションでは使えるようになる。

修了後、同じ時間に講座を開講している橋本大也さんと久しぶりに話ができて愉快でした。ビッグデータ領域のリーディング企業「データセクション」を創業。データサイエンス人材育成の第一人者。現在はデジタルハリウッド大学が本務校。隔週で会えるようなので楽しみが増えました。次回は最近の著作を献呈しましょう。

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橘川さんと昼食。

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大学院での授業の前に、品川駅の看板でみかけた「ニホンドウ薬ミュージアム」を訪問。企業ミュージアムのひとつ。ギャラリー、レストラン(薬膳レストラン10ZEN)、ブティック(ニホンドウ漢方ブティック品川本店)、スクール(薬日本堂漢方スクール品川校)が入店する、世界で初の漢方ライフスタイル提案型複合ショップ。薬日本堂は1969年創業の老舗漢方専門店で、全国に20店舗を展開している。資料をもらい、本も購入したので別途書く予定。

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一日先行して書いていて、4月14日が抜けていたことを発見。後ほど、アルファ創業者の岡田良雄を書くことにした。

「名言との対話」4月14日。岡田良男「仕方ない、自分たちで作ろう」

岡田良雄(1931年4月14日〜1990年4月21日)は、経営者。

紙の断裁を家業とする岡田家の長男として 大阪に生まれる。印刷会社に入社。何枚も重ねた紙を切ると切れ味が悪くなり、すぐに使い物にならなくなるという問題があった。そこで鋭い切れ味が継続するナイフを作ろうと考える。

使い込んで鈍った刃の先端の部分を折って捨て、刃の次の部分を先端として使うようにするカッターナイフを考案する。刃には何重にも折り目がつけてあり、先端を折ると次の刃があらわれ、切れ味が復活するというすぐれたアイデア商品が誕生した。鋭い刃を繰り出して固定し、小気味よく切る。切れ味が鈍ったら、刃先を折るだけで鮮やかな切れ味が甦る。刃先を捨て、切れ味を維持する。刃物につきものだった研ぐ必要はない。

岡田は「ガラスの破片でカットし、使えなくなったら割って新鮮な切っ先で切る靴職人」、「板チョコがぽきんとキレイに割れる」ことから着想した。

1967年、3人の兄弟とともに岡田工業(現・オルファ)を設立。世界に「折る刃」式のカッターナイフを普及させた。カッターナイフのブランドを「折る刃」をもじって「オルファ」と命名する。 

米国の大手工具メーカーが、乗り出すという情報が入ったとき、岡田は「海外の大手企業が進出するということは、カッターナイフが世界で認められた証拠。市場拡大のチャンスだ」と慌てることなく設備投資を行い、増産を進めた。

 OLFAは「もっとよく切れるように、もっと使いやすいように、もっと安全に」をモットーとして研究開発をすすめ、現在では、紙を切るものから、段ボール、さらにはタイルや金属を切るのにも、専用のカッターナイフをそろえている。

 「折れる」「替えられる」「収納できる」、しかも「使い捨て」ときている、この常識破りの画期的な商品は、世界中で重宝されており、世界ブランドに成長していった。

大阪市のオルファ株式会社本社にはオルファカッターの歴史が分かる資料室があり、刃の長さ・大きさ・厚さ・角度・折り線の深さやピッチなど、試行錯誤の連続である刃の試作品などが展示されている。企業の原点を、語り継ぐべき歴史を大事にしていることがわかる。

岡田兄弟はすぐれたアイデアをもとに大手メーカーに制作を依頼したが、業界常識からはずれた製品であるからと作ってもらえない。そこでしかたなく、自分たちでつくることにしたのだ。それが他の追随を許さない独特の競争力の強い製品と、独自の社風を持つ少数精鋭の企業への道を拓いたのだ。「人間万事塞翁が馬」、「禍福はあざなえる縄の如し」ということわざや、「ピンチはチャンスだ」という教訓も思い出した。ふだん何気なく使っているカッターナイフにもこういうドラマがあったのかと嬉しくなる。

 

加山又造ーー「世界性に立脚した日本絵画の創造」。「倣北宋墨山水雪風景」、「雪月花」、「猫」。

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 今週、多摩美術大学美術館の「タマビ DNA 現代日本画の系譜」をみた。「多摩美」の源流をつくった加山又造について記します。

加山又造日本画科、版画家。1927年生まれ。多摩美には7000点の索引と資料のあるアーカイブがある。この企画展では、加山の「倣北宋墨山水雪風景」、「雪月花」、「猫」の3点をみました。多摩美大教授、東京芸大教授を歴任した。

日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。2004年に76歳と画家にしては比較的早く亡くなっている。その前年には文化勲章を受章している。

加山は平面的装飾的な画面で構成される日本画に、ピカソなどが提唱したキュビズムなど西洋絵画の手法を加えた新しい日本画を目指した。華やかで優美ではあるが、どこか近代的な命も持っている、そういう絵である。

「伝統と革新」は加山の生涯のテーマだった。日本には「倣」(ほう)という考え方がある。これは単なる写生ではなく、本質を取り出し、それを制作の目標とする積極的な芸術行為である。「倣北宋墨山水雪風景」はその傑作だ。

加山は「飛行機の室内装飾」を手がけている。1968年(昭和43年)、加山41歳の時に、日本航空の依嘱によりボーイング747LRの機内コート、クロゼット、壁画面に「銀河の図」「「日輪草花図」などを制作した。よく見かけた機内の壁の絵は加山又造の作品だったのだ。

「日本独自の何かをつくってみようとね。できなければ、その芽だけでもつくっておいてやろうと思う」と語っている言葉は、生涯のテーマの源を示している。日本独自の何か、とは加山又造のいう「世界性に立脚した日本絵画の創造」であろう。

参考:『加山又造 アトリエの記憶3』(多摩美術大学美術館)

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NHKラジオ。ユーチューブ。

下中弥三郎インタビュー:自国中心ではない世界大百科事典完成の翌年に死去。著者中心から出版社中心の企画へ転換。編集には自由がありそれが面白さ。世界連邦。アジア会議。平和7人委員会。国民百科事典7巻はベストセラー。世界国家、民族、、共存自治。偏らない、囚われない。人に後ろ指をさされない生き方を母から学ぶ。母の教え一筋。

磯田道史波頭亮の対談:100年前のスペイン風邪島村抱月、マックス・ウエーバーが罹患死。アメリカのウイルソンもか。

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宮城大学で私のゼミ(顧客満足ゼミ)のゼミ生だった菅原正之君が日経新聞の「新社長」欄に出ていました。丸東産業の社長になっている。久光製薬に入社し、宮城のどこかで講演した折に、MRとして大活躍していると父親から消息を聞いたことがあります。2003年卒で40歳、顏写真も出ていました。おめでとう!

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「名言との対話」4月16日。団鬼六「運命は性格の中にある」

団 鬼六(だん おにろく、1931年4月16日(戸籍上は9月1日)- 2011年5月6日)は、日本小説家脚本家演出家エッセイスト・映画プロデューサー・出版人。

滋賀県彦根市生まれ。関西学院大学法学部卒業。1957年「親子丼」で文藝春秋オール読物新人賞に入選。バーを経営したり、教師をしたりしたが、60年代『花と蛇』が人気を博し、官能小説の第一人者となる。

一時断筆していたが、1995年に『真剣師 小池重明』で復活。『花と蛇』『肉の顔役』『夕顔夫人』『鬼ゆり峠』『肉体の賭け』『美少年』『不貞の季節』 などの官能小説をはじめ、『真剣師 小池重明』『蛇のみちは』『悦楽王』『往きて還らず』『落日の譜ー雁金準一物語』などの文学作品を多く手掛けた。
エッセイの名手としても知られ、『牛丼屋にて』『死んでたまるか』『快楽なくして何が人生』『生きかた下手』『我、老いてなお快楽を求めん』『愛人犬アリス』『手術は、しません』など多数ある。

アマ将棋連盟が投げ出した『将棋ジャーナル』を買い取り、将棋界と深くかかわり、その縁で50歳前の米長邦雄と懇意になる。50歳で名人位に就いた棋士米長邦雄をテーマとして団鬼六米長邦雄の運と謎』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んだ。

「異常小説を主眼にした異質の軟派小説を書いていて、この種のマニアからは暗黒文学の帝王などといわれていた」と自らを語る。

この本のテーマは「運命と性格」である。米長は常に「勝利の女神は謙虚と笑いを好みます」と語る。さわやか流女神教とでも呼ぶべき米長教の信者となった団鬼六が、この言葉の意味を追いかけた本ともいえる。

「謙虚」とは謙遜することではない。無邪気の上に成り立つ謙虚さである。私が知っている言葉では「素心」を持っているということだろうか。「野心も私心もない。あるのは素心だけ」と評された石田礼助と同様に米長は「卑」を嫌った。小林陽太郎にも「素心深考」という言葉がある。素直な心で、しっかり考えよ、という意味だ。また「菜根譚には、「人と作るには一点の素心が存することを要す。人と交わるには須く三分の侠気を帯ぶべし」とある。素直な心、それを素心というのではないか。一点の素心を持つ人とは、ものごとから目ををそらさない、逃げない。そして真正面から向き合う姿勢を持つ謙虚な人のことだろう。渥美清立川談志は、無邪気の上に成り立った謙虚な人であると団鬼六はいう。

「笑い」とは、ユーモアを持つということだが、滑稽さも含んでいるのではないか。周囲に笑いが渦巻く人である。その明るさを運命の女神が好きになる。

米長は6度名人位に挑戦するも夢を果たせなかったのだが、悔しさはなかった。「細部にとらわれず、全体を見る」という姿勢を米長は持っていた。時世、時流をみている人だった。敗れ続けた間、米長は名人となる運気に恵まれなかったと解釈し、時機の到来を待ち、50歳で念願の名人位を獲得する。

 米長邦雄『人間における勝負の研究』は名著だった。ユーチューブでも米長のインタビューを最近も聴いて、感銘を受けている。

「人はその人にふさわしい事件にしか出会わない」という小林秀雄の言葉を見つけて膝を打ったことがある。つまり、性格が事件を呼ぶ。事件の積み重ねが運命につながっていく。 芥川龍之介も「運命は性格の中にある」「運命は偶然ではなく、必然である」と言っている。「勝利の女神は謙虚と笑いを好み、才能ではなく性格こそが運気を呼び込む」という米長の人生哲学に団鬼六は深く共感する。そのテーゼを米長は実力と運が複雑に絡みあう将棋というフィールドで追究していった人だ。団鬼六は随伴者として描いていく。

団鬼六という人を、主たるフィールドの本ではなく、この本で知ったことは幸運だったような気がする。「謙虚と笑い」を身に着けた性格は、運命の女神を引き寄せる。私も同感する。さわやか流を信奉していこう。

米長邦雄の運と謎―運命は性格の中にある

 

 

 

 

 

図解塾・課外授業の「続ける技術」の5回目ーーテーマは「最初の一冊、最後の一冊」

図解塾・課外授業の「続ける技術」の5回目。本日のテーマは、「著作」で、「最初の一冊、最後の一冊」でした。12名が参加。

1回目「ライフプランの実際」。2回目「日記・ブログ」。3回目「人物記念館の旅」。4回目「名言との対話」。

最初の一冊の壁をいかに越えるか、ライフワークにいかに取り組むか。実例をあげながら 語り、質問に答えるというスタイルで2時間過ごしました。次回4月28日の「続ける技術」は、本日の延長線上の「ライフワーク」をテーマとすることにしました。

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以下、参加された皆さんの感想集です。

  • いつもたくさんのキーフレーズや気づきを与えていただき、ありがとうございます。今回は、そのうちの3つを付箋に書いてパソコンに貼り付けて意識することにしましたので、報告させていただきます。・学び続ける生き方が新しい生き方。・ライフワークは何なのか?。・自分が「おもしろい」と思うことは継続できる。私はアウトプットすることが苦手なのですが、次回の講座までに、何かやり始めたいと思います。
  • 今夜もありがとうございました。小学生~高校生のアルバムや、大学の卒業論文。今見返すと、能動的・主体的になって書いた文章ではないように思えて、その結果、「私に著書なんて」という意識が生まれたように感じます。一方で周囲の同世代には、早くから思い思いの出版物を出している人がいたり、(コミックマーケット(コミケ)の影響が大きいかも)趣味から学問に繋がって自費出版に至っている友人もいたりします。さて、私と「最初の一冊を書くこと」とは無縁なのだろうか。そんなことないよ、と教えて下さったのが今夜の授業だったように感じられました。テープ起こしのあたりは非常に参考になり、考えてみると、文節を区切る・正しい漢字に変換する・内容の合間に空白を入れるといった、その後の深い理解につながるきっかけがあったのかな、と想像できました。(漢字ひらがなカタカナに変換が求められるあたり、日本語は難しい分、理解を深めるチャンスがあるのかも)あらためて、私は最初の一冊を書くことが出来るのかな。興味関心はまだ点在の域を出ないけど、今はこのままでOK。インプット・アウトプットの循環を大切にしたいと思います。
  • 今日もありがとうございました。いつものことですが、励みになり、心に残る多くの言葉がありました。問題は、自分がどれほど自分のものにして実行していくかですが。・仲間、装置が重要・自分の全体重をかけて掘れるのは自分の職場しかない/本は名刺代わり/経験値が大切。・若い時は経験値が少ないので経験値を上げること。・まじめに仕事をやったら一冊は書けるが、本人がまとめたことがないので書けないでいる。・新しいことに躊躇していたらそれで終わり。・旗を立てておくことが大切。・ライフワークをなした人たちは、若い時からやっていたわけではない。・あまり最初から大事に考えない。この他にもいろいろありました。とにかく「はじめの一歩」を踏み出せるようにしたいと思っています。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。人生2毛作時代、「ライフワーク」探しが重要と肩の力が入りましたが、「面白いと感じた事」にただのめり込む、「重く考えずに飛び込め」という先生の言葉にただ元気づけられました。一方、1・毎度先生のブログの面白さ→シンプルに言い切ることの魅力→要点をまとめる力→洞察する力、この流れが見えた事、2「自分のペースでリラックスする」からそれができるという事、以上が自分の気付きでした。自分の暮らしにも生かしたい…次回も宜しくお願いします。
  • 本日もありがとうございました。久恒先生が、本を出し続ける秘訣を、あらためて、お伺いすることができました。図解は、いろいろな分野で、専門分野ではなくとも、その都度図解しながら学ばれて書籍にされてきたこと。もう一つの偉人の記念館を訪れて、言葉や人となりをまとめてブログに綴る。似た共通項で本にまとめていく。インプットとアウトプットを続けてこられてることが、出版し続けてきていることですね。ブログ、日記などは、習慣化することが大事。本当にそうですね。近ごろ、なかなか続きません。何か自分にはこれ、と思えるような題材?をいろいろトライして、習慣化していきたいな。と思いました。また、次回もよろしくお願いいたします。
  • 皆様、本日はお疲れ様でした。久恒先生のお話しから、学んだことは継続の大切さと自分のテーマを見つけていくことでした。私も、久恒先生のおだてと励ましで71歳で人生、最初の本を出版することが出来ました。自分が興味を持ったことに、自分のために、恐れず、恥ずかしがらず、書き始めることです。よかったら、著作「国民の国民による国民のための憲法改正」を購入してくださると嬉しいな。素人の国民目線で書いたもので、難しくはありません。インターネットで検索すれば、すぐ、出てきます。
  • 本日もありがとうございました。壮大な事を話されていますが、継続力、実行力があるので叶うなと感じます。とにかく継続力の鬼ですね。一行でも何か書く。最近はインスタグラムに毎日投稿するよう心がけています。インスタグラムは動画も載せられますし、面白いです。まずは日々の学びをまとめる!図にする!完璧を目指さない。まず、やる。はい、やります(笑)
  • 今回もありがとうございました! 図解塾の皆さんも案外本を書くことに興味がある、ということがわかってとてもうれしかったです。また、初めの1冊を書くときの苦労とそのときの編集者の役割にいろいろと考えさせられました。あとは編集者はITが学べない、というのはちょっとショックでした。汗汗。
  • 貴重な時間をありがとうございました。久恒先生の講義を受けるといつも、自分にもなにかできるかもしれないという錯覚のような思い込みが呼び起こされます。なにかに没頭したり時間を割いている間にも、きちんとアウトプットできる習慣を磨き上げていきたいです。未就学児2名と向き合う時間を保ちつつ、諦めかけていた〈ブログの毎日更新〉にまた挑もうと思います。30代の残り数年をかけて、やったことのないことに挑戦したり、真剣に取り組んできたことを深堀りしてまとめたりしながら、もっともっと経験値を積み、記録を残していこうと決意しました。
  • 「全体知」の集約 久恒先生のズーム授業。14日、日経。持ち株微増。デイサービス、用心のため欠席。古いメモ原稿等をチェック。バラバラの著作原稿「全体知」の集約。ウォーキング1km。Sさんより電話、お水が不調とのこと。久恒啓一先生のズーム授業「出版」が2時間、久しぶりに話し非日常の時間を持つ。出版累計150冊、「図解の技術」の出版で人生が変わる、図解を毎日使っていたら仕事がうまく行った。何かを毎日継続していると楽、一旦休むとかえって辛くなる。「100歳まで生きてやるべきテーマがないと困る、ライフワークが大事」。ジャストシステムよりセンサーライト出荷の連絡あり。

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「名言との対話」4月14日。田原総一朗「「朝生」の最中に死ぬこと」

田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年昭和9年)4月15日 - )は日本ジャーナリスト評論家ニュースキャスター

1934年、滋賀県彦根市)生まれ。60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。

98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年3月まで)。現在、「大隈塾」塾頭を務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。また、『日本の戦争』(小学館)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』講談社)、『誰もが書かなかった日本の戦争』(ポプラ社)、『田原総一朗責任 編集 竹中先生、日本経済 次はどうなりますか?』(アスコム)など、多数の著書がある。

以上のプロフィールは「田原総一朗 公式サイト」のプロフィールだ。200冊を超える本を書いた本人が語るキャリアだ。

さて、本日で87歳になった田原については、見聞きする情報が多いのでどう書くか難しいが、直近の2020年9月刊行の著書『90歳まで働く』(クロスメディアパブリッシング)を読んだので、そこから肉声を拾うことにした。

  • 元気なのは「現役であることが最大の理由だ」。
  • 大隈塾では「一流の会社を目指すな」とアドバイスしている。
  • 渋江抽斎』を書いた森鴎外から学んだ「ドロップ・イン」的生き方は、「組織から外れることなく、自分のやりたいことを存分にやる」という生き方だ。進みたい道が見えているのなら、それにつながる働き方を考える。
  • 2人の妻に先立たれた後、70歳を過ぎてから学生時代に好きだった女性とデートをしている。王貞治は78歳で再婚、猪瀬直樹は72歳で再婚、阿川佐和子は63歳で結婚。
  • 60歳を過ぎてから、日本の近現代史を一から勉強し始めた。還暦を機に晩学を始めた。
  • 酒は一滴も飲めないが、人と会うのが趣味で毎日4、5人に会うという仕事のスタイルをとっている。
  • ジャーナリストとしての3つの目標がある。「言論の自由を守る」「戦争をさせない」「野党を強くする」。
  • 人生の節目で失敗する人の共通点は、やりたいという本意ではなく、損得というモノノサシで動いた場合だ。
  • 人との関係を無視して浮き上がれる人生はあり得ない。
  • 仕事は、「運」を呼び込む入口みたいなものだ。

公式ブログでは毎月、時事問題を中心に書いている。2021年1月「バイデン大統領は民主主義をとり戻せるか」。2月「ミャンマーだけではないアジアの危機、今こそ日本が役割を果たすとき」。3月「総務省接待問題に見る、日本政治の「緊張感のなさ」」。4月「世界120位、日本の「ジェンダー・ギャップ」をどうするのか?」では、最後に4「月、多くの若者が社会人としてスタートを切った。僕もあらためて、気持ちを新たに進んでいきたいと思う」と書いている。こういう姿勢が若さを保っている理由だろう。

「90歳まで働く」という決意だそうだが、それではおさまらないのではないか。セザンヌは「絵を描きながら死にたい」といいその通りの死を迎えた。「ピアノを弾きながら死にたい」と言ったのはジャズの山下洋輔だ。田原総一朗の理想の最後は「朝生」の最中に死ぬこと」、つまり「死ぬまで生テレビ」ということである。さて、どうなるだろうか。見ものだが、そこまでいくのはまだまだ時間がかかりそうだ。

90歳まで働く――超長生き時代の理想の働き方とは?

 

 
 
 
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松山英樹の名言録ーー「メジャー優勝は夢ではなく目標です」「目標が定まっている人間は強い」「僕のメジャー初勝利もマスターズならいいなと思います」

ゴルフの松山英樹のマスターズ制覇に日本中が湧いています。野球の大谷翔平、テニスの大坂なおみ、水泳の池江璃花子など若い才能の素晴らしさを改めて感じています。そういえば、彼らの苗字は、「山あり、谷あり、坂あり、池あり」なのは面白い。まるでゴルフ場にようです。いずれにしても松山英樹は一つの山を越えたのでしょう。

4日間パープレーとして288打、そして優勝と2位の差はたった1打という過酷な競技がゴルフ。技術だけではなく、究極の精神力が要求される。トップゴルファーには名言が多いのはそのためだと思います。

29歳の松山が、33回目のメジャー挑戦、10回目のマスターズ挑戦で、やっと勝ち取った念願のタイトルがマスターズの優勝。「かなえたいと思うものは目標。メジャー優勝は夢ではなく目標です」、そして「マスターズは僕が初めて出たメジャーだし、タイガーのメジャー初勝利はオーガスタでした。もちろん僕はタイガーの後を追っていきたいので、出来れば僕のメジャー初勝利もマスターズならいいなと思います」と語っていたとおりに目標を達成しました。その松山の言葉を拾ってみました。今後も松山の成長とともに発する言葉に注目していきます。松山は「独学」の精神の人らしい。

・目標とする試合で勝てなかった以上、満足することはできません。「目標が定まっている人間は強い」というのが僕の信念です。

・僕はシードやトップテンに入ることが目標ではなく、メジャーで優勝することだけを目指している。

・「4大メジャー(マスターズ、全米オープン全英オープン、全米プロ)で勝つこと」は、僕にとって唯一の目標です。

・僕は誰かにこれがベストの方法だよと言ってもらうよりも、自分で何かを見つけることを、思いのままに捜し求めて違うことを試し、何が自分に最もあっているかを見出すことをいつも楽しんできました。

・今のところは専属のコーチを持たないことで楽しい経験を積んでいます。これが自分に合っているのです。

・でも将来はコーチが必要な時が出てくると思います。その時は何人かのコーチと話をしてゲームのやり方やスイングについて自分と同じ考え方をする人を見つけたいと思っています。

・ちょっとでも、隙を見せたら負ける。

・ストレスを声に出して発散しようが、クラブを叩きつけて発散しようが、何も良いことはない。

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午前:上野の東京芸大美術館で「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展。これほどの画家が忘れられていたのは驚きでした。本人は文展などには出展しなかったこと、注文に応じた作品を描いていたことが、その原因でした。素晴らしい画家の渡辺省亭については後ほど書く予定。

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 「 旧東京音楽学校奏楽堂」が開いていたのでのぞくと、渋沢栄一の碑を見つけました。「永遠」という字が揮毫されていました。「栄一書」とだけ書いてある。この奏楽堂の建設や保存にも渋沢栄一力を貸したのでしょう。ここにも渋沢栄一がいたのか。

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午後は新宿で6月初めにP社から刊行する次作の女性担当編集者(長い付き合い)と、著者校正をもとにした打ち合わせ。タイトル、字句の確認、、。「50歳。図で考える。人生鳥瞰図。キャリア。人生戦略」がキーワードになる本です。修了後、荻窪の出版社に少し寄って帰宅。

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「名言との対話」4月13日。霍見芳浩「富国貧民の日本」

霍見 芳浩(つるみ よしひろ、1935年 - )は日本の経済学者。

熊本高校を経て慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に交換留学生としてスタンフォード大学で学ぶ。慶應大学の大学院を卒業し、助手をつとめた後にハーバード大学で、日本人初の経営学博士号を取得。その後、ハーバード大、コロンビア大、カリフォルニア大教授を経て、ニューヨーク市立大学大学院教授に就任した。太平洋経済研究所理事長。日米の経営比較論、比較経済論の第一人者。日米欧企業の温サルタンと、国際通貨基金IMF)や各国政府からも産業政策や通商政策などで諮問を受けるなど、国際経営学分野では指導的立場にあった。

1991年刊行の『世界の心、日本の心』(ほんの木)を読んだ。

「精神的なものも含めて、全ての旧習の大改革なしには、今後の日本経済の成長はおぼつかない、、」「富国貧民の日本」、、。まさに30年前の予言はあたったのだ。

ハーバード・ビジネススクールで受け持ちの学生の一人にジョージ・ブッシュ・ジュニアがいたと書いている。「金持ちのドラ息子を絵にした様なのがいた」。「こんなスポイルされた息子を育てた親の顔が見たいもんだなと思っていた」ら、その親が大統領になったという。「普通、授業を教えた生徒の事はいちいち覚えていないものだが、彼は非常に出来の悪い生徒だったのでよく覚えている」「もう箸にも棒にもかからない」「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろかどんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と取材に答えている。霍見は父親のブッシュにも批判的だった。

湾岸戦争のあたりには、「筑紫哲也NEWS23」などによく出演していた。当時、日本の自衛隊派遣を激しく糾弾してたことを思い出した。

1997年には「日米安保は米国による日本人の「マインド・コントロール」であり、日本人はこれに完全に「ポア」されてしまった」「日本が世界のなかで生き残るためには、まず真の政治感覚の回復が必要であり、そのための方策として、安保を廃棄して「新拡大安保」の交渉を始めよ」と主張した。

2020年のアメリカ大統領選では日経新聞で8月にバイデン当選を予想している。「5つの複合ショック。コロナ感染。経済崩壊。差別抗議。異常気象。外交」「民主党は下院だけでなく、上院でも議席過半数を得る可能性が高まっている」「トランプ減税を廃止するだけで税収は戻る」。

富国強兵ならぬ「富国貧民の日本」か。世界3位の経済大国。一人当たりGDPは韓国、台湾にも追いつかれようとしている。中国にも3倍近く引き離され、情報革命にお遅れをとって富国もあやしくなりつつある日本。精神革命、旧習(アンシャンレジーム)の大改革、安保廃棄による新拡大安保などの提言に耳を傾けたい。

 

 

 

世界の心、日本の心