塙保己一の生涯自体が一大事業だったーー「盲人の最高位」の獲得。「和学講談所」の起業。『群書類従』670冊の刊行。

埼玉県本庄市塙保己一記念館を訪問。

近年建て替えた重厚な外観を持つ記念館だ。

1746年から1821年の76年間。青年期・壮年期は松平定信寛政の改革、晩年期は文化文政の時代で町人文化が栄えた。

誕生日は5月5日。7歳の時、失明。1760年、江戸に出て当道座という盲人の一座に入る。保己一は不器用で針灸、按摩などは上達しなかったが文章を覚えるという徳義があった。師の雨富検校は、3年間は養うからやりたいことがあればやりなさいと励ました。

当時の盲人社会には位があり、初心、打掛、座頭・衆分、勾当、検校・別当、十老、総検校と細かく分けると73の段階があった。最終的には塙保己一は総検校まで昇りつめる。

「千日の間、一日に百巻の本を読む」ことを誓い、18歳で衆分になっている。賀茂真淵国学を学ぶ。般若心経百巻を千日間読誦するという願をかけ、1775年に師の後押しもあって勾当に昇進する。当時の盲人の出世には大金が必要だった。師や友人の太田南畝らが工面したようだ。このときい師の本姓の塙と改名している。さらに検校を目指し二千日を祈願した。

1779年、34歳「世のため、後のため」に一大叢書『群書類従』の編纂を決意する。般若心経百万遍の読誦の実行し成就を祈願した。この事業は各地の散財する貴重な書物を集め、版木を起こし出版するという一大事業であった。

38歳、検校に昇進。1793年に和学講談所をつくった。

1800年、「ここまで来たからには、総検校になってみたい」と言ったとおり、55歳で検校の最上位の総晴の検校に昇進している。

1819年、ついに『群書類従』670冊の刊行は終了する。1821年、最高位の総検校に任命される。この年76歳で死去する。戒名は「和学院殿心眼智光大居士」である。「成らぬのはせぬからだ」との考えのとおり、年少の頃、「おら、おっかあ、心の目が見える大人になる」との志を実現したのだ。まさに「心眼」で「和学」を修め、国学者として大成した。

「番町に過ぎたるもの二つあり、佐野の桜と塙検校」と川柳に詠まれた。塙検校とは保己一のことである。

「さてさて目が見える人は何と不自由なことか」。源氏物語の講義の時に、風によって灯火が消えた時の逸話。

私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて『群書類従』670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。今回の訪問で塙保己一のことをベルに伝えたのは文部省の役人であった伊沢修二であったという記述を発見した。伊沢は植民地時代の台湾の日本語教育に功績のあった人であるが、障碍者教育にも熱心だった人だった。こういうつながりの発見も「人物記念館の旅」の愉しみの一つだ。

盲目の身で国学者として大成し、『群書類従』を完成させるという途方もない大事業をやってのけたことに感動する。

またこの人は、73段階あった盲人の位を一つ一つのぼっていき、たった一人の総検校という位人身を極めたことも特筆したい。世事にもたけ、人間としての交際もうまくこなしたのであろう。また師や上役にも可愛がられ、有力な友人も力を貸してくれ、門人も多く輩出している。

現世では組織の中で最高位にまで昇りつめ、後のために学校を起業し人材を養い、長く後世に残るライフワークを40年以上かけて完遂する。この人の生涯自体が稀にみる大事業であったのだ。しかもこの人は盲人であった。

 


f:id:k-hisatune:20230320221522j:image

f:id:k-hisatune:20230320221525j:image

 

 


f:id:k-hisatune:20230320221601j:image

f:id:k-hisatune:20230320221555j:image

f:id:k-hisatune:20230320221604j:image

f:id:k-hisatune:20230320221558j:image

 

 


f:id:k-hisatune:20230320221809j:image

f:id:k-hisatune:20230320221812j:image

f:id:k-hisatune:20230320221806j:image

f:id:k-hisatune:20230320221803j:image

 


f:id:k-hisatune:20230320221733j:image

f:id:k-hisatune:20230320221730j:image

f:id:k-hisatune:20230320221723j:image

f:id:k-hisatune:20230320221726j:image

 

 


f:id:k-hisatune:20230320221921j:image

f:id:k-hisatune:20230320221923j:image

f:id:k-hisatune:20230320221918j:image

f:id:k-hisatune:20230320221926j:image

 


f:id:k-hisatune:20230320221842j:image

f:id:k-hisatune:20230320221848j:image

f:id:k-hisatune:20230320221846j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月20日速水御舟「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年明治27年)8月2日 - 1935年昭和10年)3月20日)は、大正昭和初期の日本画家である。本名は蒔田栄一。

東京浅草出身。1908年に優れた教育者でもあった画家・松本楓湖主宰の安雅堂が塾に入門。同門の兄弟子・今村紫紅と行動をともにする。禾湖浩然の号を経て、1914年に速水御舟を名乗る。御舟とは貴人の乗る舟の意味である。1917年、第4回院展に出品した『洛外六題』が激賞され、日本美術院同人に推挙された。

1925年、軽井沢に3か月籠って代表作『炎舞』を完成させる。

1930年、大倉喜七郎後援の「ローマ日本美術展覧会」参加のため横山大観らと渡欧し、『名樹散椿』を出品。イタリア、ドイツ政府から勲章を受章した。

速水御舟今村紫紅の新南画、装飾的な琳派、写実技法の西洋画と、常に新しい日本画を模索し続け、将来を期待された。

代表作の一つ『炎舞』は、深い黒の闇の中で真赤に燃える炎の周りを蛾たちが舞う姿を描いたもので、幻想的であるが、迫真の写実作品である。この作品は山種美術館に収蔵されている。山種美術館には速水御舟の絵が100点以上収蔵されているのだが、もともとは安宅産業の安宅英一が集めたコレクションの一部である。有名な安宅コレクションは、中国陶磁、韓国陶磁、速水御舟の3本柱でできていた。そのほとんどは大阪市立東洋陶磁美術館の核となっている。その一部を山種美術館が一括購入したのである。

渋谷区広尾のこの美術館はよく訪れるが、速水御舟川合玉堂奥村土牛のコレクションが中心である。

御舟は惜しいことに40歳の若さで亡くなっており、寡作でもあったために、生涯で600点ほどの作品しか残っていない。原三渓がスポンサーになり、そして武智鉄二が集めた御舟の作品が安宅コレクションに結実している。

婦人画報』2019年7月号では、御舟と市川雷蔵に関するコラボ企画が載っている。その記事の中で、「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という御舟の言葉をみつけた。ある分野の頂点を極めようとするには努力だけでなく凛凛たる勇気が必要だ。そこから見える景色をわがものにしたら、そこから降りて、再びさらに進化した分野の頂点に向かって勇気をふりしぼって登っていこうとする御舟の心意気を感じることができる名言である。

中国の南宗画由来の文人画とも呼ばれる南画、装飾性が豊かで大胆なデザイン性を持つ琳派、そして徹底した写実を重視する西洋画と何度も梯子を登り、登り返した速水御舟の画家としてのキャリアがみえる。この画家に長い時間があったなら、日本の近代絵画の世界も大きく変わったかもしれない。改めて山種美術館で御舟をしのびながら『炎舞』をみてみたい。

 

 

群馬の旅の3日目ーー上野三碑(山上碑。金井沢碑)。渋沢栄一記念館。塙保己一記念館。

ユネスコの「世界の記憶」に登録されている「上野三碑文」は世界遺産への登録を目指して活動している。地方行政の在り方、婚姻や氏族のつながり、仏教思想のひろがりなどがわかる。渡来人(新羅系)がこういった事業に参画している。

その一つの多胡碑(711年)は以前にみているので、今回は他の二つをみる。

「山ノ上碑」。完全な形で残る日本最古の石碑。天武天皇の681年に造立。

この地はヤマト政権の直轄地。この碑文を書いた放光寺の僧・長利の母方の系譜と父方の系譜を述べ、最後に母の供養のために建てたと記している。


f:id:k-hisatune:20230320054133j:image

f:id:k-hisatune:20230320054130j:image

f:id:k-hisatune:20230320054136j:image

 

金井沢碑。726年に造立。一族が仏教の教えで結ばれいると書かれている。群馬のいわれがわかる。


f:id:k-hisatune:20230320054243j:image

f:id:k-hisatune:20230320054240j:image

これで、上野三碑を全部めぐったことになる。

 

深谷市渋沢栄一記念館。東京の飛鳥山の渋沢史料館、青渕文庫は何度か訪問しているが、やっと深谷の記念館を訪ねることができた。

渋沢栄一アンドロイド」の「論語と算盤」の講義を聴いた。ドトール鳥羽博道氏の寄贈で、作者は大阪大学石黒浩教授だ。70歳のときの風貌。153センチ。


f:id:k-hisatune:20230320054453j:image

f:id:k-hisatune:20230320054447j:image

f:id:k-hisatune:20230320054450j:image

 

本庄市塙保己一記念館。7歳で失明し、15歳で上京。国学の道に進む。34歳の時に「世のため、後のため」に『群書類従』の編纂を決意。40数年をかけて、正編666冊を完成させた。48歳では「和学講談所」を設立し門人の教育を行った。亡くなる1821年には盲人としての最高位の総検校に就任。76歳で没した。この人は極め付きの偉人である。


f:id:k-hisatune:20230320054346j:image

f:id:k-hisatune:20230320054352j:image

f:id:k-hisatune:20230320054355j:image

f:id:k-hisatune:20230320054349j:image

f:id:k-hisatune:20230320054343j:image

埼玉ゆかりの3偉人は、塙保己一渋沢栄一、そして日本初の女医・荻野吟子だ。この3人の記念館を全部まわったことになる。この3人は縁があるので、別途書くことにしたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月19日。藤島武二「油絵の本質は、どこまでもどこまでも突っ込んで行くところにある。体力のすべてを動員し、研究のすべてを尽し、修正に修正を重ねて完璧なものにするのが油絵である。そしてそれがためには断じて中途で挫折することにない強烈な意欲が必要なのである。」

藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。

藤島武二(1867-1943年)と岡田三郎助(1869-1939年)は、1868年の明治維新を挟んで生まれており、同世代だ。藤島は横顔の女性像、岡田は気品あふれる画風で知られている。2人とも近代洋画の世界で大きな足跡を残しているのだが、その人生行路が全くと言ってよいほど似通っていることに驚く。藤島は1943年3月19日に他界。

2011年に横浜そごうで「藤島武二・岡田三郎助展」をみた。藤島の代表作「婦人と朝顔と岡田の代表作「あやめの衣」が展示されていた。藤島は横顔の女性像、岡田は気品あふれる画風で知られている。2人とも近代洋画の世界で大きな足跡を残しているのだが、その人生行路が全くと言ってよいほど似通っていることに驚いた。

藤島は薩摩藩、岡田は佐賀藩の出身で、同時に西洋画を志、その志を遂げて、同時に第一回の文化勲章を受章しているのは面白い。まさに切磋琢磨する永遠のライバルだったということだろう。日本画の方は、東京の大観と京都の栖鳳が受賞しており、美術界はこの4人で進めてきたのがわかる。

藤島は中国や韓国の服装をした日本女性を描いた。東洋とか西洋とかいう観念を撤回することが年来の藤島の主張だった。岡田は和服の女性を描いた。藤島は男性美、岡田は女性美という中沢弘光の対比もある。また「武二の剛に対して三郎助の柔」とも対比される。
この二人の関係は、親友というほどの近い関係ではなかった。反発することもなく、最も身近な画家同士という関係だたっとされているが、実際はどうだったのだろうと想像する。

藤島は、夢中になると休憩しなくなるから、葉巻を吸う習慣を持つことで体力の消耗を防いだと述懐している。

「油絵の筆触には、油絵の具を充分伸ばすだけの腕力」そして「腕力よりも一層腰の力が大事だ」と言うように、全身を使って絵を描いている。そして口癖は「もっと大きく見よ。大体に注意せよ」であった。

藤島は薩摩藩、岡田は佐賀藩の出身で、同時に西洋画を志、その志を遂げて、同時に第一回の文化勲章を受章しているのは面白い。まさに切磋琢磨する永遠のライバルだったということだろう。日本画の方の第一回文化勲章は、東京の横山大観と京都の竹内栖鳳が受賞しており、日本の近代美術界はこの4人で進めてきたのがわかる。

群馬の旅、2日目。金山城。大光院。新田荘歴史資料館(新田義貞)。旧中島家住宅(中島知久兵)。大隈俊平美術館。

金山城の頂上の新田神社。

f:id:k-hisatune:20230319045137j:image

中山知久平の銅像を発見。中島飛行機の創業者。f:id:k-hisatune:20230319045224j:image

万葉歌碑。
f:id:k-hisatune:20230319045206j:image

 

金山城跡ガイダンス施設
f:id:k-hisatune:20230319045156j:image

 

万葉歌碑。
f:id:k-hisatune:20230319045227j:image

 

大光院。呑龍さま。
f:id:k-hisatune:20230319045150j:image

 

新田荘歴史資料館。

f:id:k-hisatune:20230319045147j:image

新田義貞

f:id:k-hisatune:20230319045144j:image

 

旧中島家住宅。
f:id:k-hisatune:20230319045220j:image

中島知久平。

f:id:k-hisatune:20230319045141j:image
f:id:k-hisatune:20230319045209j:image

 

大隈俊平美術館。刀剣。
f:id:k-hisatune:20230319045212j:image
f:id:k-hisatune:20230319045202j:image
f:id:k-hisatune:20230319045153j:image
f:id:k-hisatune:20230319045159j:image

 

 

「名言との対話」3月18日。吉野作造「人世に逆境は無い。如何なる境遇に在ても天に事へ人に仕える機会は潤沢に恵まれている」

吉野 作造(よしの さくぞう 1878年明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。

宮城県生まれ。東大教授。論壇で活躍し『中央公論』などに多くの評論を発表、民本主義を提唱し、普通選挙・政党内閣制実現を主張。枢密院・貴族院・軍部を批判し、その改革を唱え、また黎明会 、東大の新人会,社会民衆党結成にも関係し,大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1924年軍部の圧迫で東大を辞し、一時朝日新聞社に入社。また明治文化研究会を創立し『明治文化全集』24巻の編集にあたった。(出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について
以下、大崎市吉野作造記念館の2度の訪問記を記す。

2005年に吉野作造記念館を訪ねた。この記念館は、古川市関係の審議会や委員会で何度も訪問している。しかし本気で訪問するのは今回が初めてだ。個人記念館としては各地の記念館と比べても立派な建築物である。入館すると丁度12時からの映像が始まったところだった。

綿屋をしていた家が新聞の取次ぎ配達をしていたため常に新しい出来事に興味を持つきっかけとなった。吉野は小学校、尋常中学校(後の仙台一高)、第二高等学校、東京帝大政治学科とすべて首席で通しているのには驚いた。町では評判の秀才で「吉野家の作さんのように」といわれていて、町長をしたことのある父親に連れられて仙台へ出た。中学校の校長は言海を編んだことで有名な大槻文平である。仙台時代には、「勤勉」という自らを激励する紙とともに「五時ニ起キルコト」と書いた紙も机の前に貼ってあって、自らを奮い立てて勉学に励んだ姿と、乾布摩擦で体を鍛える姿が映った。

高等学校時代にはミス・ブゼルにキリスト教の感化を受け、20歳で洗礼を受ける。そして21歳で阿部たまの(19歳)と学生結婚をしている。東京帝大には1900年に22歳で入学。2年生のときに小野塚喜平次教授の政治学に興味を持った。呼び寄せた家族を抱えての猛勉強をしながら、本郷教会での海老名弾正の説教に影響を受ける。信徒となったキリスト教と自らの専門となった政治学を結びつけることに関心を持った。処女論文である「ヘーゲルの法律哲学の基礎」では、キリスト教に基づいて政治を実践すべきと書いている。

28歳からの中国・天津での3年間は、袁世凱の息子克定の家庭教師をつとめ、いったん帰国し31歳で東京帝大法科助教授に就任。「袁世凱の家庭なるもの、馬鹿らしさと支那の高官なるものの無責任とを口を極めてののしった」「我々はこの若い秀才の率直さにドギモをぬかれた感があった」(大内兵衛)とある。32歳から3年間欧米(ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、アメリカ)を回った。外国暮らしは8年に及ぶ。36歳東京帝大教授、37歳法学博士。

1916年に中央公論に「憲政の本義を説いて有終の美、、」という論文を書いた。民本主義という言葉で吉野作造を知ってはいたが、その思想の内容が今回初めてわかった。

民主主義という思想は、国民が政治の主人公という意味でありこれは天皇が政治の主人公であるという憲法に反する考え方であった。吉野は憲法に違反しないで現実の政治の変革を達成するために、政治は国民の考えに基づいて行われるべきであると主張した。政治は国民全体の幸福を中心に考えるものであり民衆を政治の根本におくという意味で「民本主義」と称したのである。民衆の利益を考え、民衆の意向によって政治を行うべきであるとして、天皇制下の民主主義として、最低限のデモクラシーを確保しようとした。この考え方は大正デモクラシーの中心的な思想となった。1912年の美濃部達吉博士の天皇機関説を1916年に政治学上にあらわした思想が民本主義である。

大正デモクラシーは、1912年(大正元年)―1926年(大正15年)をいうが、広くは1904年(日露戦争)から1931年(満州事変勃発)までをいう場合もある。この大正知識人の代表が吉野だった。1924年には退官し朝日新聞に入社したが4ヵ月後には退社している。1933年に55歳の若さで死去している。もともとは体は強くはなかったが、広い交遊、社会変革向けての行動など多忙を極めて命を縮めることとなった。

また、吉野は天皇:内閣・議会:国民というピラミッドが理想で、天皇にくっついている枢密院や軍部、国民にくっついている制限選挙を取り払おうともして運動をした。天皇制は認めた上で、国民から離れた枢密院を廃止、貴族院や郡部などの特権を抑え、国民が選んだ議会を中心となって、政党内閣の首相のもとで国民の意向を汲み、国民の幸せを目指す政治を実現しようとしたのだ。

また、吉野作造は大変に広い交友関係を持っていた。中学校時代には大槻文彦真山青果。文化生活研究会では、有島武郎。黎明会では、阿部次郎、与謝野晶子新渡戸稲造。中国関係では、袁世凱後藤新平明治文化研究会では宮武外骨普通選挙運動・社会運動では、鈴木文治、尾崎行雄、市川房江(吉野より15歳若い)。ジャーナリズムでは、徳富蘇峰、阿部次郎、長谷川如是閑、青山青果。論壇での論争では、山川均、大杉栄。あとは、バイブルクラス、弓町本郷教会、東京帝大、賛育会、大学普及会などの友人と多くの親交を持っていた。

展示は、アカデミズムの人、ジャーナリズムの人、インターナショナリストの3つの区分で資料を並べている。

「路行かざれば到らず 事為さざれば成らず」と筆名の古川学人で語っている碑もあった。古川学人は、主に「中央公論」誌上で好んで使用したペンネームで、故郷を思う気持ちが現れている。

吉野作造賞は1966年から始まっている。第一回は、坂本義和と衛藤審吉で、今日まで著名な政治学や経済学関係の碩学が並んでいる。永井陽之助伊藤光晴、永井道雄、入江昭高坂正尭、矢野よう、猪口邦子米本昌平北岡伸一、野口由紀男、渡辺利夫田中直毅、、、、、、、。

2000年から始まった読売・吉野作造賞では、吉川洋白石隆猪木武徳などの名前があった。この賞は、中央公論が読売傘下に入ったのも機会に、読売論壇賞と中央公論吉野作造賞を一本化して、2000年度から新たな賞としてスタートしたものだ。

10周年を記念してこの記念館のロゴマークを募集したところ、宮城大学4年生の鈴木寛君が最優秀に選ばれたとの紹介が掲示されていた。138人、183点の応募があり、私の大学の鈴木寛君が選ばれたというので、嬉しくなる。

吉野作造の精神である人を大切にする意味をモチーフに作成。人という文字を囲むように点を三箇所に配置し、線と点で和・輪を表現。ひげをたくわえた顔も隠喩したデザイン」と紹介されていた。飾ってあった作品を全部見たが、この鈴木君の作品がデザイン力、ユーモア力で群を抜いているという印象を持った。

吉野作造記念館だより」は、NPO法人古川学人が編集・発行を行っている。平成14年よりこのNPO法人古川市より管理運営を受託している。記念館の名誉館長は作家の井上ひさしさん。入り口に建つ吉野作造顕彰碑の大事は長谷川如是閑筆。

個人記念館を訪問すると、偉人が身近に感じられると同時に、理解が自然に深まってくるのを感じた。吉野作造は、故郷に強く郷愁を感じるタイプの偉人である。

2007年に再訪。仙台駅の12番ホームで降りて向かいの11番線の各停の新幹線に乗り換えた寺島実郎さんと車内で待ち合わせ。今日の小旅行の目的は古川にある吉野作造記念館を訪問することだ。先日東京で会った時、雑誌連載の取材の一環として訪れたいとのことだったので東京から日帰りの旅が実現した。

市内を流れる緒絶川のほとりにある橋平酒造店の酒造蔵・家財蔵・屋敷を再現した「醸室」(かむろ)の味所あらいではっと料理を昼食に食べ、そのまま記念館へ。

小一時間二人で館内を見学する。記念館は土曜日だったのだが、寺島実郎さんと私の二人しかいない。それぞれ興味のある展示を見て歩く。

大正デモクラシーの中心人物だった吉野はキリスト教倫理に基づき政治を実践することをテーマとした実践の人だった。東大では小野塚教授の「君主も国家の一部」という思想に感銘を受けるが、キリスト教の本郷協会で海老名弾正(1856−1937)という人物に大きな影響を受ける。海老名は吉野より22歳年上であるが、経歴をみると熊本洋学校同志社、本郷教会を経て、1920年には同志社の総長をつとめている。熊本出身徳富蘇峰新島襄らの影響を受けた人物であろう。吉野はキリスト教の正義と愛を実現すべく社会事業家としても活動をしていて、東大キリスト教青年会理事長としてセツルメント活動にも熱心だった。それが東大セツルメントにつながっていく。

寺島さんは岩波書店の雑誌「世界」の「脳力のレッスン」(本質を見抜く眼識で新たな時代を切拓く)という連載を持っている。この7月で63回目の連載というから5年以上続いているが、現在のテーマは「ベルサイユ講和会議が今日に示唆するもの」だ。ここで近衛文麿吉野作造を取り上げる予定で今回の訪問となった。「人物を書くからには真正面から真剣に向き合わねばならない」「根本のところは何か」などが寺島さんの問題意識だ。

館長の田中昌亮さんを呼び出し、短い時間だったが少し話をする。この記念館は講演を頼みたくて何度もアプローチしてきたそうだ。だから書面上では面識があるらしい。

私は二度目の館内訪問だったが、今回は「吉野作造評論集」「古川よ影」「吉野作造--人生に逆境はない」「故吉野博士を語る」などを買った。吉野作造日記を読みたかったが、絶版で古本屋しか手に入らない。吉野も30歳過ぎから亡くなるまで日記を書き続けていた。

ほとんどの時間を人物論を語り合いながら過ごしたが、「1900年の旅」など近代の日本人の足跡を日本のみならず世界に足を伸ばして訪ね歩いている先達の寺島実郎さんは、目線深くその人物の本質に迫ろうとする。

今日は、いつもとは違って、ブログに書いた訪問記を整理してみた。

「人世に逆境は無い。如何なる境遇に在ても天に事へ人に仕える機会は潤沢に恵まれている」。吉野のいう「人世」(ジンセイ)という言葉に興味を持った。人が生きていく世の中、世間という意味である。人世を生きていくのが人生である。天と人につかえる機会を生きよ。キリスト教者らしい思想とそれを実践した人である。

参考:『吉野作造』(吉野作造記念館)

 

x

群馬の旅。不動産 今は哀しき 負動産

群馬を旅しています。宿は古い温泉旅館。川柳が二句できました

 不動産 今は哀しき 負動産

  古旅館 客が見かねて 加勢する

 

上毛新聞の新聞小説を見つけました。

著者は直木賞作家の門井慶喜。江戸を建てる

という良書があり、読んでいます。

 

83回。ゆうびんの父。房五郎。漢籍、仏典、王朝和歌の注釈書、庄屋の日記、を写す仕事も。蘭学、コーヒー、人体、兵学、、。手で読む。身につく。16から19。書物は最高の師。

84回。嘉永6年の1853年、ペリー久里浜に上陸。アメリカ大統領フィルモアの親書を渡し翌春の回答を要求。房五郎は、西洋人の実物、軍艦の現品が見たい、と行動する。そしてこの現場に房五郎が立ち会う。  

房五郎は、後の郵便の父、前島密

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月17日。藤原銀次郎「仕事の報酬は仕事である」

藤原 銀次郎(ふじわら ぎんじろう/ふじはら ぎんじろう[2]明治2年6月17日1869年7月25日〉 - 昭和35年〈1960年3月17日)は、日本実業家政治家

戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、貴族院廃止まで在任。米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。戦前の財界には日本全国に篤志家がいたが、藤原はそのうちでも最も代表的な人物であった。1960年3月17日に90歳で死去。

藤原には『福沢諭吉 人生の言葉』という著書がある。自己の体験を基に、福沢諭吉が教えさとした日常生活の訓言を抜き出した本で、第一級の処世観・経営観をわかりやすく説いている。「偉大なる平凡人」が到達した境地だ。自身を平凡人とみているだけに、藤原の言葉は胸を打つものが多い。

「第一に知恵である。第二に涙である。第三に勇気である。」

「 いやしくもこれをもって身を立ててゆこうというならば、ほんとうに自分で一生懸命になって自分の仕事を覚えてゆくというのでなければならない。」

「事業は人なりとは、昔から変わらぬ私の信念である。80余年の永い私の過去を振り返ってみて、事業が興るのも衰えるのも、結局人次第であると信じる念はいよいよ強くなってきている。」

冒頭の「仕事の報酬は仕事である」とは、藤原銀次郎の言葉だったのか。報酬とは金ではない、地位でもない。優れた仕事をすると、さらに困難な、やりがいのある仕事が与えられる。それがキャリアを磨くということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『図解コミュニケーション全集』第7巻「応用編1 世界の名著」を発刊。

『図解コミュニケーション全集』第7巻「応用編1 世界の名著」を発刊。

まえがき


 『図解コミュニケーション全集 第7 巻 応用編1 世界の名著』には、
2 冊の本を収録しました。第3 巻実践編「よむ・考える・かく」の「よむ」
で紹介した「図読」の応用編です。

 「図読」は一冊の本を一枚の図であらわすという読み方です。知的緊張を
伴う究極の精読法です。図解を見る人にとっては、一目で著者の主張の概略、
本質が理解できるという究極の速読法でもあります。
 今まで、ウィルキンソン『誤解』、八木哲郎『大器の条件』、寺島実郎『ふ
たつの「FORTUNE」』、浦達也『仮想文明の誕生』などを図読し、そして30
以上の白書を図読した『大胆図解 日本の白書』などを刊行してきました。
 第3 巻ではマネジメントの発明者・ドラッカーの代表作3 冊を図読した
本を収録しています。文庫版はベストセラーの一角をしめました。この第7
巻に収録した2 冊の本と同様に、手に取っていただけると幸いです。
 読書というものは、この本にはこういうことが書いてあるという読み方も
あるでしょうが、「この本をわたしはこう理解した」という読み方でもいい
のではないでしょうか。それが図読です。


Ⅰ『一枚の図で読む! 図解 世界の名著がわかる本』

 人類史上の名著をタテにつなごうという趣旨で取り組んだ本です。大げさ
に言えば、人類の思想史ともいえます。出版社によるこの本の紹介には以下
のように記されています。
・宗教、哲学、経済、社会...... あの名著が、あの大作が、読まずに“ わかる”
すごい本! 『聖書』『君主論』から『孫子』まで古今東西の名著47 編を厳選! 
社会人として必要な「教養」が、あっという間に身につく本。

・一度は読んでおきたい名著の数々をあらすじと図解で読み解くことのでき
るお得な本です。古今東西の名著47 を頭にいれておくだけで、あなたの人
生を豊かにしてくれること間違いなし。


Ⅱ『図解 資本論

 世界を変えた本の代表格。世界を震撼させた、とびきりの一冊で、今なお
影響力がある名著です。多摩大に赴任した初期の時代に、社会人大学院生た
ちと図読に取り組んだ懐かしい本です。この本は台湾でも翻訳出版されてい
ます。
 この本の紹介は以下のように記されています。 「資本主義は、本当に人々を幸福にするシステムなのか。知識ゼロでも図解なら手にとるようにわかる! 世界一やさしい“ お金のカラクリ”」


 読者の反響もいいようです。では、人類の思想史の旅をご覧ください。   

                      

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月16日。宮部金吾「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」

宮部 金吾(みやべ きんご、1860年4月27日(万延元年閏3月7日) - 1951年(昭和26年)3月16日)は、日本の植物学者。

北海道大学初代植物園園長。札幌市名誉市民第一号。北海道民初の文化勲章受章者。 宮部は「初代」「第一号」「初」などの肩書が多い。開拓者であったという証拠だろう。

江戸生まれであるが、父と親しかった探検家・松浦武四郎(北海道の命名者)の著作を読み、北海道の植物に興味を持って、札幌農学校にクラーク校長が去った二期生として入学し、同期の内村鑑三新渡戸稲造と親しくなる。特に内村鑑三とは4年間同室であり、終生にわたって手紙のやり取りがあった。内村から宮部への手紙は225通にのぼる。

内村の70歳での逝去にあたって、宮部は「内村君の如き我同窓会中の一大偉人」とし、「特に内村・新渡戸稲造両君と私の三人は、最も親密の交際を致しました。斯くして札幌に於ける学生生活中、三人は始終行動を共にしました」と偲んでいる。三人ともプロテスタント集団である札幌バンドの一員だった。

宮部は札幌農学校卒業後、東大に2年間国内留学し、札幌農学校助教授となる。その後、アメリカのハーバード大学に3年間留学し、千島・樺太の植物の採集・分類をした「千島植物誌」を刊行し国際的な名声を得る。帰国し教授。北海道帝国大学には46年間在職した。

 私は2019年に札幌市内にあるカデル27というビルの7階にある「アイヌ資料センター」を訪問した。向かい側に北大植物園があった。正式には北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園。札幌農学校のクラーク博士の進言で、1900年にできた植物園で、初代園長は宮部金吾であった。1927年に二代目の伊藤誠哉園長まで長く園長をつとめた。1991年にオープンした宮部金吾記念館も園内にあるのだが、月曜日は残念ながら休みだった。ほとんどの博物館、美術館、記念館が休館だ。「月曜日開館のミュージアム」というサイトで見つけたのがアイヌ資料センターだった。他の曜日と半々にするとか、何か工夫はできないのか。月曜日は鬼門である。観光立国が泣く。

北大構内に青年寄宿舎という私設の学生寮があり、宮部金吾教授の指導により、リベラルで節度のある生活と運営のスタイルの寮だった。禁酒禁煙、勉強家の集まりとして知られていた。教育者・宮部の姿を垣間見る思いがする。この寄宿舎は2005年に閉じるまで107年で900余人を輩出している。北海道大学付属図書館には宮部金吾文庫がある。

1947年、宮部金吾は90歳で他界する。内村鑑三は70歳、新渡戸稲造は71歳。「北海の三星」とよばれた三人だが、宮部がもっとも長く活躍したことになる。この三人に共通するのは英語が堪能であったことだ。内村鑑三は英語で『代表的日本人』を書き、新渡戸稲造は英語で『武士道』を書いた。そして宮部金吾は「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」と語る。

近代日本を牽引した3人3用の足跡が示すように、札幌農学校の教育が人格教育も含めいかに優れていたかがわかるエピソードだ。

 

 

 

「幸福塾」ーー三枝成彰。宮本輝。片山晋呉。白川義員。徳富蘇峰。本居宣長、金子鷗亭、イチロー、大谷翔平、本田圭佑

本日の「幸福塾」は計画的にライフワークに取り組んだ人たちを取り上げた。三枝成彰宮本輝片山晋呉白川義員徳富蘇峰本居宣長、金子鷗亭、イチロー大谷翔平本田圭佑らも紹介。

近況報告の中では、最近触れた高岡正明(陽光桜)、羽生善治安藤和津夢野久作三国清三を話題にした。

陽光桜

 

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もおつかれさまです。本日の幸福塾、冒頭久恒先生より、「陽光桜」平和のシンボルとして世界中で植樹を行った高岡正明氏についてお話頂きました。農業科の教員として、教え子達を戦場へ送ってしまった贖罪から彼らが眠るかつての戦地で植樹を行う傍ら、病気に強い品種への改良の為、私材をなげうち活動。やがて長男へひきつがれ、長年献身的に活動を継続、特に植樹を通じて築かれた世界中の要人達との交流関係は、これからの国際社会に不可欠な俯瞰的視野に基づく心構えと共感しました。また久恒先生より最近のブログや身近な気付きとしてさらにお二人紹介頂きました。①将棋の羽生善治氏:「至らぬところを改善して次に目指す」、ひたむきでおごらない姿勢や打たれ強さ、②オーナーシェフの三國  清三氏:若き日にジュネーブ日本大使館への修行に抜擢、腕を磨き帰国後レストラン事業が大成功もこれをたたみ小さなレストランで再出発、師匠(村上信夫帝国ホテル初代シェフ)と同じ84歳まで現役を目指す、憧れた若き日への回帰。お二方夫々の人生テーマと真摯に向き合う純粋さに惹かれました。次に今日の本題、個人『ライフワーカー』について引き続き久恒先生よりレクチュア頂きました。これまで40人くらいの人物模様を学んできましたが、今迄は「結果としてそうなった」ライフワークが主流、今回は「計画的に築き上げられたライフワークの持ち主」が紹介されました。1) 作曲家三枝成彰氏:ワーグナー(14時間)を超える16時間の大作作りを目指す。ほかの仕事もあるから、1日11時間仕事に没頭。書きあがる迄は死ねないが「討ち死に」上等。題材は日本の歴史。2)小説家宮本輝氏:広告代理店退職後新人賞に応募も落選、「素直に淡々と書け」との指導を実践すると、大当たり!『泥の河』で第13回太宰治賞(1977)、『螢川』で第78回芥川賞 (1978)を受賞。生涯に100本、量で世界を目指す、「あと20年書きたい」(65歳でのインタビュより)、3) プロゴルファ片山晋呉トレードマークはカウボーイ・ハット、25歳の時に未来予想:「35歳で25勝」…達成できた、体格に恵まれなかった分、体づくりに腐心、積み上げて来た。4) 写真家白川議員:世界の風景写真集全12巻の出版を27歳の時決意し、以後世界を飛び回る。アルプス、ヒマラヤ、名瀑…世界143か国と南極大陸、85歳で完成、撮影では準備の苦労が95%、総費用18億円、前人未到の超大作。5) 徳富 蘇峰:近世日本国民史全100巻、個人編著の歴史書としては、世界でも屈指の規模、34年間で17万枚の原稿用紙、資料集めへの執念。5)元メジャーリーガーイチロー:小学校時代バッティングセンター通い父との二人三脚、夢かなう。6) メジャーリーガー大谷翔平曼荼羅図(目標達成シート)、カラダ・ココロ共に鍛え、夢は「ドラ1 8球団」…当方お気に入りは「イチロー」 、大好きな野球にいつまでも取り組んでいきたい、いまも欠かさないトレーニングで、エキジビジョンマッチではピッチャーをこなす、そして率先垂範で若き球児たちの手本となり…。いつでもどこでも最高のプレーが可能な「プロ」の姿勢に頭が下がります。心から『好き』だから『真摯に』に目の前の『怒涛の課題』との対峙をいとわず『継続』する『ひたむきな姿勢』…夢に向かってこちらから出向いていく「勇者たち」に共通した心持ちが少し理解できた気が致しました。相前後致しましたが、本日は力丸先生がゲスト参加され、学生達への課題解決ワークショップ計画について紹介頂きました。微力ながらお手伝いさせて頂ければと思います。さて、東日本大震災から12年が経過し、先週の東京新聞紙面には連続2日に渡り「夢と希望」に向かってタッグを組む2つの企業広告が掲載されました。街づくりという壮大なライフワークに果敢に取り組んでいく人びとの心意気に、久々に明るい話題に触れた気が致しました、共有致したく図を添付致します。有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は「計画的ライフワーカー」ということで、若いうちから、今世で到達したいことを明確に定め、そこから数十年かけて達成した人物についてご紹介いただきました。いわゆる「夢」というのか、生きがいという言い方が合うのかわかりませんが、彼らはそれを決めた時点で到達点のイメージを具体的かつ明確に持ち、しかも、そのためにどんなことを今からすべきなのか、何が大切か、どれくらいの時間がかかるのかなども同時に考え、その後は、ひたすら計画的に実行し続けたとのこと。これまで紹介されたライフワーカーは、コツコツと積み重ねた行動等が長期間に及んだことで、結果的にそれまで無かったレベルに到達したという方々でした。 共通点としては、どちらも何かに没頭し続けた結果であるという点ですが、「終着点を決めずに続けること」と「あるところに達成するまで続けること」とを比べて、どちらが続けやすいのかなとふと思いました。私にとってどちらが取り組みやすいか。内容によって違うかもしれませんが、一度考えてみようと思います。そして、ワクワク感を持って長く没頭できるものを早く見つけて、スタートさせたいです。これからもいろんなライフワーカーをご紹介いただきますようよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は「個人」のライフワーカーで、計画的にライフワークに取り組んでいる人、ということで、音楽家三枝成彰、作家の宮本輝、ゴルファ片山晋呉、カメラマン白川義員、ジャーナリスト徳富蘇峰古事記本居宣長、野球のイチロー大谷翔平、サッカーの本田圭佑などの紹介がありました。それぞれに、早い時期から志を立て、圧倒的な量と時間をかけてライフワークとするものを実現していくところに感銘を受けました。特に印象に残ったのが白川義員の写真集。27歳のときに12冊の写真集を出すことを志し、日本、世界各地の原始の風景や聖地を実際に訪れて写真を撮り続け、 85歳で完成させたという偉業。 具体的に 「12冊の写真集 」という  ライフワークの形が若いときからはっきりと見えていて、迷うことなく実現に向け邁進していったという印象です。「撮影の苦労は5%。準備の苦労が95%」という言葉からも着実に仕事を進めていくイメージが伝わってきました。計画的にライフワークに取り組んでいる人というのは、目標とするものが具体的で鮮明。何歳までにここまでいきたいということをはっきり意識している人が多い、と感じました。わが身を振り返り、少しでも近づければと思います。次回も「計画的ライフワーカー」とのこと。どのような偉業を成し遂げた人が登場するか、とても楽しみです。
  • 本日も濃い学びの時間をありがとうございました。本日はライフワークの中でも、「計画的ライフワーク」。若い時に具体的な壮大な目標を決め、その実現にひたすら向かって他のことには目もくれず邁進した人たちです。例えば作曲家の三枝成章はオペラ「平家物語」の四部作を書こうと決意し、1本書くのに3年かかるので1日8時間かけても間に合わない、11時間は必要だと。とにかく「これを書き終えるまで死ねない。」という強い執念に支えられてきたことを知りました。カメラマンの白川義員も27歳から83歳までに12巻の写真集を出すという計画。「私の仕事は歴史上類をみない撮影である」という誇り。徳富蘇峰の34年間にわたる17万枚の原稿用紙による「近世日本国民史」の仕事といい、本居宣長の35年かけた44巻の古事記伝といい、あまりにも壮大であっけにとられます。イチロー大谷翔平本田圭佑らの子供の頃からの夢実現のための絶えざる努力。イチローは修学旅行にも行かなかったというほどの禁欲的なひたむきさ。「身の程知らず」の望みをもつことが大切であることを改めて知りました。
  • 本日もありがとうございました。計画的にライフワークに取り組んでいる方々のお話でした。徳富蘇峰さんの、55歳~89歳の34年間で17万枚の原稿で「近世日本国民史」。明治の元勲たちへインタビューしたものを書いている。とのこと。歴史の教科書の元は徳富蘇峰なのかもしれない。と感心いたしました。また、本居宣長も、35歳~70歳まで、古事記伝。金子鷗亭さんの57歳~80歳「全国戦没者之霊」という標柱を書かれていたこと、白川義員さんは27歳~80歳まで天地創造と呼ばれる写真を撮っていたなど、また宮本輝さんの一年に2冊書けば50年で100冊、を目指しているなど、すばらしいお話の数々でした。白川義員さんの写真展など観てみたいと思いました。素晴らしそうですね。本日もありがとうございました。次回も楽しみにしております。
  • 幸福塾ありがとうございました。今回は、ライフワークを計画的に行った方のお話の紹介で大変興味深かったです。特に印象に残った内容は、白川議員です。20代から人生を計画して世界中の山を歩き、写真を撮ったり、写真集を出し、80代になってもつづけたということが、素晴らしいと思いました。私は、人生の長期の渡っての計画を立てることが難しいと感じていますが、一つ考え方として参考にしたいと思います。また徳富蘇峰が17万枚の原稿を書いたというお話を聞いて、驚きました。積み上げるとどのくらいの高さになるのだろう。どれだけの苦労があっただろうかと思いを巡らせました。他にも興味深い内容や皆さんの発表があり、また感想や意見を共有できたのでとても参考になり、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。次回も楽しみにしております。

ーーーーーーー

「名言との対話」8月13日。伊波普猷「深く掘れ己の胸中の泉、余所たゆて水や汲まぬごとに」

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年明治9年3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

沖縄県那覇市出身。士族身分の素封家に生まれる。中学校で校長排斥のストライキで退学処分。三高から東京帝大の言語学の第一期生として入学し、琉球語学を学ぶ。新村出の講義を金田一京助アイヌ語学)と聞いた。上田萬年の講義は鳥居龍蔵と聞いた。伊波は三高時代から琉球の歴史や文化に関心をもち、東大時代には沖縄の祭祀歌謡集『おもろさうし』の研究を始めている。

卒業後に沖縄研究を志して帰郷し沖縄県立図書館長としてつとめながら啓蒙運動をエネルギッシュに展開した。琉球史、宗教、音声学などの講演活動、読書会、子どもの会、婦人講話会、エスペラント講習会など実に多様な分野が対象だった。

1921年柳田国男との出会いによって、1924年に上京し沖縄研究に打ち込む。大二次大戦後の1947年に没した。享年71。

伊波の研究は沖縄研究を中心に言語学民俗学文化人類学歴史学宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の」とも称された。『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人アイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。

「沖縄歴史物語」で、日本の帝国主義と中国の夢の真ん中に沖縄があるとも語っている。伊波普猷琉球は言語などにみえるように、沖縄は日本文化の古層であり同じ民族であると主張し、民族の統一を積極的に進めるべきだと説いた。そして琉球の伝統文化の保存が行われた。伊波の沖縄学はアイデンティティの確立に強い影響を与えた。一方、近代日本の沖縄差別に対する批判が弱く、同化政策に力を貸したとの批判も起こっている。

浦添城跡の顕彰碑には「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれている。死後半世紀上たった1974年から1976年にかけて平凡社から『伊波普猷全集』全11巻が刊行された。

伊波普猷は「自覚しない存在は悲惨である」と語っている。歴史を学ばない民族の未来は暗澹としているということであろう。冒頭の言葉はニーチェの警句「汝の立つ所を深く掘れ、其處処には泉あり」を愛した伊波普猷が沖縄語に翻案した琉歌である。自分の源を深く深く掘れ。己の立つ場所を深く掘りきった人の言である。この人は沖縄の歴史と文化を研究し、沖縄の近代をみつめた人である。

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月15日。堀口大学「日本語の美しさが身にしみる」

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体堀口 大学1892年明治25年)1月8日 - 1981年昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人歌人フランス文学者

東京・本郷生れ。 大學という名前は出生時に父が帝大の学生であったことなどに由来。創作詩作や、訳詩集の名翻訳により、昭和の詩壇、文壇に多大な影響を与えた。1970年文化功労者。1979年文化勲章受章。

17歳。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に通う。生涯の友・佐藤春夫と出会う。一高入試に2人とも失敗し、永井荷風が文学部長をつとめており、小山内薫、野口米次郎、戸川秋骨らが教授陣いた慶応義塾大学文学部に一緒に入る。外交官の父から任地に呼ばれて、慶應を中退し、メキシコ、ベルギースペインスイスパリブラジルルーマニアと、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。画家のマリーローランサンや詩人のジャン・コクトーらとの交友があった。

ブラジルにいた1919年に創作詩集『月光とピエロ』を出し、帰国後の1925年には佐藤春夫に献辞を捧げた訳詩集『月下の一群』を刊行する。甘美な作風で、中原中也三好達治など若い文学者たちに多大な影響を与えた。

 「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」。「雨の日は、雨を愛そう、風の日は、風を好もう、晴れた日は、散歩しよう、貧しくば、心に富もう」

官能的な詩も多い。「拷問」というタイトルの詩、「お前の足元にひざまいて 何と拷問がやさしいことだ 愛する女よ 残酷であれ お前の曲線は私を息詰まらせる ああ 幸福に私は死にそうだ」。「帯」というタイトルの詩、「白鳥の歌は 死ぬ時。花火のひとみは 消える時。あなたの帯は 解ける時」。

1935年には島崎藤村が会長の日本ペンクラブの副会長に推される。堀口大学はの仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、実に300点を超えている。堀口大學全集 全9巻+補巻3+別巻1 が1981年-88年に刊行され、日本図書センターが2001年に復刻している。

10代から1964年に佐藤が亡くなるまで堀口と佐藤の二人の友情は続いた。堀口は友人代表で以下の挽歌を捧げている。

忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死に顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉じてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを

同い年の佐藤春夫は、二人を一卵性双生児と書き、挽歌で堀口大学はシャム兄弟と詠った。佐藤春夫の死から17年後に堀口は89歳で亡くなるのだが、NHK「あの人に会いたい」の最晩年の映像では、「日本語の美しさが本当に身に染みる」と語っている。外国語に堪能であった堀口大学は、翻訳を通じて日本語の美しさにほれ込み、そしてその美しさをさらに高めた人である。

 

「知的生産の技術」ゼミ発表会:情報産業時代の知的生産の「技術」と「知的生産」のパーティ学。

「知的生産の技術」ゼミの発表会。以下、リーダーの都築さんの総括。
深呼吸学部 梅棹忠夫ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」最終回(=総集編=発表会)が終わりました。参加者は、聴くだけの方を入れて7名。最初の約30分間、都築から、このゼミを始めた経緯と、第1回~第5回のスライドにコメントなどを入れたものを次々と示しながら、振り返りを行いました。
  • 大きく、次のようなキーワード・キーフレーズがありました。 ・単に「知的生産の技術」を理解するだけにとどめず、自分ごととしてとらえ、現代の生活に活かしていくかという読み方をしていきたいと思います。・あえて漢語を少なく、ひらかなで表している言葉が多い。・「知的生産」という言葉は、頭をはたらかせて、何かあたらしいことがらー情報ーを、ひとにわかるかたちで提出すること。・学校は、知識はおしえるけど、知識の獲得のしかたはあまりおしえてくれない。・この本でかこうとしていることは、「いかによみ、いかにかんがえ、いかにかくか」。「いかにかんがえるか」が最も大切。・知的生産は現代に生きる人間すべての問題。・記憶は信用できない。記録すべきだ。・明日になれば自分は他人であり忘れてしまうので、あとで使えるように文章化する。・発信の必要性があればいろいろなことに気づき、記録するようになる。・「知的生産の技術」が出てから非常に多くの人がカードを購入したが、うまく使っている人を見たことがない。・カードは、共同研究の中で必要性に迫られて使われ、進歩していった。共同研究にはたいへん有効である。・カードは、わすれるためにつけるもの。・カードを活用するとは、カードを操作して、知的生産の作業をおこなうこと。いちばん重要なことは、くみかえ作業。・今日、日々の業務に追われる中でもいかにして知的生産をおこなっていくか。それを追求するのが大きな一つの課題。・読書について梅棹氏は「はじめからおわりまでよむ」「一気によむ」「本は二度よむ」などを提案しているが、読書のしかたは目的にもよる。梅棹先生の読書のしかたは名シェフの料理法と同じ。いきなり真似ると失敗する。・読書は「私にとっておもしろいところ」つまり「私の文脈」が大切。・かくときに「かんがえをまとめる」ことが大事。「こざね法」は、「図解」と同じ。
この後、参加者からコメントをいただき、久恒さん、橘川さんからのコメントもいただいた。
  • 久恒さんからのコメント。・知的生産の中核は考えること。特に、関係を考えること。自分のデータベースを基に。そのために図解コミュニケーションが最も良い。・『知的生産の技術』は名著ではあるがあまり神聖化してはいけない。梅棹氏は名シェフだが、ヒントを得ても真似る必要はない。自分なりの手作りの料理法をつくる。・生き方が重要。習慣をコントロールできるか。それにはタイムマネジメントが必要。・情報産業社会では全ての人が人生の研究者。例えば芸術的なものも知的生産。表現のない所に知的生産はない。
  • 橘川さんのコメント。・梅棹氏は知の巨人だが、時代背景もあり、京大の中で育まれた。その時代は情報化社会の端緒。しかし現在は情報化社会の真っ只中。・昔はテーマを見つけることが重要で、その過程でいろいろな分野に触れてきたが80年代頃から情報をどこかから引っぱってくることが主になった。知的消費の拡大。・深呼吸は吸ってはく。その間に肺のフィルターを通す。AIの時代になっても同じ。・AIのべりすと、α碁などいろいろ出ているが、AIは人間がやらなくてもよかったことをやってくれると捉える。人間が優れているのは入力デバイス
  • 最後に、今後のことについて都築からひとつの案を出しました。あくまでも例ですが「AI時代の『わたしの知的生産の技術』」。「発見」「読書」「かんがえる」などのテーマごとに、と思っていました。しかし、「本を書くことだけが知的生産ではない。作曲やゲームづくりや学校の授業も知的生産と捉えていいのではないか。そうなると、それぞれの仕事や活動の中での広い意味での知的生産を語ってもらうのもよい。」という助言をいただいて、確かにそうだと思い、検討中です。

以下、私のメモ。

f:id:k-hisatune:20230314214945j:image

f:id:k-hisatune:20230314214841j:image

f:id:k-hisatune:20230314214844j:image

今後の方向のヒント。

・「知的生産」の範囲を広げる:ゲーム開発、各種芸術、研究、授業、日記、仕事、川柳、、、。それぞれの「技術」があるはず。情報産業時代においてはあらゆる活動が知的生産活動になる。手作り、IT、AI。情報産業時代の知的生産の「技術」。

・グループによる「知的生産」を実践する:個人による知的生産の零細技術と、組織による知的生産の巨大技術の中間の領域。知的生産のパーティ学。

ーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月14日。吉本せい「笑わせなあきまへんで」

吉本 せい(よしもと せい、1889年12月5日 - 1950年3月14日)は、吉本興業創業者、芸能プロモーター

明石家さんまダウンタウンなど、人気芸人の宝庫ともいうべき吉本興業。日本の「お笑い界」を席巻する吉本興業の創業者が吉本せいである。山崎豊子の小説『花のれん』(1958年)のモデルである。芸術座で、菊田一夫の演出で同名の公演が行われた。1978年には「おもろい女」という題名で芸術座公演が行われるど、その後も劇場で吉本せいの人生を主題とした舞台がつづいている。

吉本せいは20歳で老舗荒物問屋「箸吉」の息子と吉本吉兵衛と結婚。22歳、「第二文芸館」を買収し寄席の経営を始める。変化する入場料、物販のアイデア。機転と気配りの天才。複数の寄席を「花月」と改名。寄席以外にも、ものまね、義太夫、娘義太夫剣舞、曲芸も興業に加えていく。客を呼べる看板芸人にはサラリーマンの10倍以上の破格のギャラを出す。吉本せいは、優れた起業家であった。1948年、吉本興業合名会社から「吉本興業株式会社」に改組し会長。1950年、死去。

落語に比べ歴史は古いが地位の低かった万歳に目をつけ、エンタツアチャコのインテリ万歳で成功をおさめる。万歳を新しい名前「漫才」に変えて芸能の世界を変えていく。ラジオ時代に乗って客をどんどん増やしていく。ついにせいは「女今太閤」「女版小林一三」と呼ばれるまでになる。吉本せいは、大実業家となっていく。

「心許すときはしっかりその人を観なはれ。時代を先取りして、誰の意見でも有り難く聴くことです。実行する、せんはこちらが決めればよろしい。失敗は何にでもつきもんです。恐れてては何もできまへん」

吉本せいをモデルにした2017年10月から始まったNHK朝ドラ「わろてんか」でその人生ドラマを楽しんだ。語りはNHK の小野文枝アナウンサー。京都編、大阪編船場編、笑売編、女興行師編と続くドラマである。平均視聴率は20.1%。

吉本興業の使命は大衆を「笑わせる」ことだった。人を観る。時代を先取りする。意見をよく聞く。そしていいと思ったものは失敗を恐れず断固実行する。お笑いに人生を賭けた女大将は、「笑わせなあきまへんで」と常に言いながらお笑いの集団を組織していった。

私もファンの「ピース」の又吉直樹の活躍など、今をときめく吉本興業は、現在では社員数868名、所属タレントは約6000名をかかえる企業に発展している。劇場運営だけでなく、テレビ・ラジオ、ビデオ、CM、その他映像ソフトの企画、制作、販売。イベント、広告、不動産、ショービジネスなど手広く活動をしている。創業は1912年だから、立派な100年企業だ。因みに「スクール」部門では、吉本総合芸能学院、よしもとアカデミー、よしもとデジタテイメントアカデミー、吉本興業高等学院、沖縄ラグ&ピース専門学校、沖縄ラフ&ピース専門学校高等課程などを擁している。BSよしもと、住みます芸人などの地方創生、アジア、中国、アメリカなどのグローバル展開、最年少三冠王の村上などのスポーツ関係者も一員だ。ヨシモトブックスで芸人の出版活動も支援している。

吉本せいの「笑わせなあきまへんで」という創業の精神は、100年以上たって大きく花開いているといえるだろう。人材の宝庫となった吉本興業の将来が楽しみだ。