午前:立川で体を整える(オステオパシー)。午後:新宿で打ち合わせ(都築・橘川)

8月分の書籍が到着した。書斎、リビング、トイレに分散して折りに触れて読むことにしよう。

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朝は立川で体を整える(オステオパシー)。その前に「珈琲館」。

昼食は新宿の星野珈琲。都築さんと打合せ。途中で橘川さんが加わる。

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「名言との対話」7月26日。中村紘子「ピアニストはバレリーナや体操選手と同じで筋肉労働者でもあるんです」

中村 紘子(なかむら ひろこ、1944年7月25日 - 2016年7月26日)は、日本ピアニスト。享年72。

山梨県甲州市生まれ、東京世田谷区育ち。3歳からピアノを習う。桐朋学園「子供のための音楽教室」の第1期生。同期に小澤征爾。全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部の第一位を皮切りに、各種コンクールで第一位を総なめにする。桐朋女子高を中退し渡米しジュリアード音楽院に進む。1974年、『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞をとった庄司薫と結婚。

世界各国で演奏活動を続け、一方で様々な国際コンクールの審査員をつとめた。1989年に、『チャイコフスキー・コンクール』で大宅壮一ノンフィクデョン賞を受賞するなど、エッセイストとしてもすぐれた作品を書いている。豊かな感受性と鋭い観察眼の持ち主でもあったという証明である。

安宅コレクションで有名な安宅英一の奨学金をもらうのだが、当時15歳の中村ひろこは「骨董趣味って、いやらしい」という名言を吐いていた。

「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」、「ロマンティックな音楽への親和力」が、中村ひろ子の演奏の特色だった。

 小柄で手も小さめでピアニスト向きの体格ではなかったが、筋力トレーニングなどを続けていた。以下、筋肉労働者としての芸術家の言。

  • 「ピアニストはバレリーナや体操選手と同じで筋肉労働者でもあるんです」
  • 「ピアノはハングリーじゃないとダメなんです。ボクシングと同じです」
  • 「ピアニストの肉体的な故障というのは野球のピッチャーと同じところを痛めるんです。腕のつなぎ目ですね。そういうのをしょっちゅう手入れをして、手入れするだけでは物足りなくなって、筋力トレーニングを始めてもう5年ぐらいになります」
  •  「一日休むと一日衰えてしまう。筋肉だけではありません。耳も感受性も一緒に退化するんです」
  • 「やはり日々の努力が必要。自分の血肉になるまで弾き抜くことが大切なんですよね」

中村ひろ子の演奏を聴いたとき、太い腕で弾く迫力に驚いたことがある。ピアニストをピッチャー、バレリーナ、体操選手、ボクサーに例えていたとは意外だった。今思えば、本人が言うように確かにピアニストは肉体労働者でもある。精神と肉体、感受性と超技巧、、。体操の平均台の上の狭い道を、微妙なバランスを保ちながら歩いているような人生だったのだ。

中村紘子著『ピアニストという蛮族がいる』を読んだ。クラシック音楽の中で生息するピアニストを蛮族と呼んでいる。この蛮族は3、4歳のころから一日77、8時間ピアノを弾いている種族だ。

西洋音楽という未開の地を開拓した日本最初のピアニスト・幸田延(兄の一人が露伴)、その教え子で日本一のピアニストとしてヨーロッパに乗り込んで、失意の中で38歳で自死した久野久の物語は心を打つ。

「楽器のなかの王者」ピアノは、表現力が豊かで、応用範囲は極端に広い。名作、大作、難曲を書いてもらった楽器はピアノだけである。「人生は短くピアノの名曲はあまりにも多い」。だからピアノニストは大変だ。人と付き合うことが苦手になる。女性ピアニストは勝気、強情、しぶとい、神経質、自己中心的、気位が高い、攻撃的、そして肉体的には筋肉質でたくましくなる。「ゆめゆめピアニストなんぞを女房にするものではない」とのたまわっている。夫となった庄司こそいい迷惑だったのではないか。そういえば、庄司薫は、芥川賞以来、話題になっていない気がする。

ピアノを演奏する手について、中村は細かく説明している。指先はデリケートな音色を作る。固い音、柔らかい叙情的な音。手の甲は音の厚みと関係する。手首は呼吸と同じ役目を果たす。ひじは、伸びやかさ、響きの美しさと関係がある。二の腕の筋肉は演奏にパワーを加えるために一番重要だ。

この本は、1990年1月から1年半にわたり『文藝春秋』連載したものをまとめたものだ。参考資料の一覧を眺めると、内外の音楽家、ピアニストらの自伝や伝記、日本人では幸田露伴集、山川捨松の伝記、大正人物辞典などが並んでいる。単なるエッセイではなく、ピアノに関わる人物誌となっている。そしてその筆致は中村のピアノの演奏のように、自由自在である。天は二物を与えた。名文家である。

中村紘子は、筋肉労働者としてのピアニストと、知的労働者としての文章家、この二刀流の生涯であった。

 

 

 

 

 

 

 

「昭和100年の100人」ーー「昭和には人類の歴史のすべてが詰まっている」

「文藝春秋」8月号の「昭和100年の100人」(激動と復活編)特集を読んでいて、私の「名言との対話」で取り上げた人がほとんどだ。縁者、弟子などが語る偉人の姿があり、興味深い。

2025年は、昭和100年にあたる。「昭和には人類の歴史のすべてが詰まっている」と保阪正康がいうように、昭和は激動の時代だった。その高度成長の黎明期までに活躍した代表的日本人たちだ。

2019年に北海道立文学館で「保阪正康の仕事展」が開かれた。保坂は、「帰納的な昭和史研究」を標榜し、過去に4000人に上る旧日本軍の関係者らを取材してきた。「下から目線」の独特の歴史観は、「保阪史観」と称される。私も保坂ファンの一人だ。

「まるで精米を重ねて芳醇な清酒醸造していくように、戦争体験者たちの証言を精査し、そこから「昭和の真実」を紡ぎ出していく。 「地道に、こつこつと書いていく。 その心中には歴史の中に葬りさられた人々の怨念を正確に残すべきだとの思いが込められていた」(保阪正康近現代史に自らの存在を問う』)

私がまだ取り上げていない人も10数人いた。鈴木タカ。麻生和子秩父宮妃勢津子阿部定吉田満。ウォーリズ。伊福部昭小平邦彦。皇太子妃美智子。永田鉄山武藤章。田中清玄。小沼丹谷内六郎。田中美知太郎。

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著書の刊行。

  • 「図解コミュニケーション全集」の第9巻の発刊のめどもついた。
  • 10月発刊予定の本の最後の部分を検討。光明が見えてきた。明日以降、その方向で取り組むことにしよう。

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【追悼】早川和男さんの残した言葉【建築学者】1931年5月1日~2018年7月25日 - YouTube

「名言との対話」7月25日。早川和男「福祉は住居に始まり住居に終わる」

早川 和男(はやかわ かずお、1931年5月1日 -2018年7月25日)は、日本の建築学者。

奈良市出身。父は神主、母の実家はお寺。神社仏閣をよく見ていることから建物に興味を持つようになった。奈良高校を経て京大工学部建築学科卒。1955年に日本住宅公団に入り1962年建設省建築研究所の建築経済研究室長などを経て、1978年に新設の神戸大学工学部環境計画学科教授(47歳)。1982年日本住宅会議事務局長。1993年『居住福祉の論理』で今和次郎賞受賞を受賞。

「人間らしい住居の確保は基本的人権である」という理念のもと、「居住福祉」の概念を国際的に展開する「居住学」の第一人者となった。1979年刊行の早川和男『住宅貧乏物語』(岩波新書)を読んだ。過密化、環境悪化、遠距離通勤、生活不便、ローンによる家計圧迫など、住宅の問題を指摘している。加藤秀俊の「通勤電車、奴隷船」説が載っている。満員電車が事故で30分以上動かない時、気分が悪い人や、失神する人がでる。古代ヨーロッパの奴隷船が目的地に着くまでに4人に1人は死んでいた。それに近い環境なのだ。

人生においては突然の不幸は、さまざまな形で襲ってくる。そのとき、住宅に不安があると生活は惨めな状態になる。たとえば交通事故による母子家庭、老人の賃貸拒否、、、これらの指摘は、40数年後の今日も変わっていない。

1995年の阪神・淡路大震災では、老朽家屋の倒壊で多数の犠牲者を出したことから「行政が招いた災害」と指摘した。「確かに大地震である。だが、それを『大災害』にしたのは、このような脆弱な都市にしてきた行政にあるのではないか」。自宅のある神戸で被災した早川は「消防車は何をしているのか。湾岸戦争時のイラク爆撃の光景と同じでないか」と激怒する。2011年の東日本大震災もそうだが、天災が、人災とあいまって、大災害になるのである。 

1992年3月発行の「経済科学通信」69号の「研究者群像」でインタビューを受けている。自伝的な内容だ。まず、この人は「血の気」が多い。工高校時代の教師の強制転任反対運動、大学寮の自治会委員長、新設の日本住宅会議の事務局長など、正義感と問題意識が高い人だ。

そして多くの人と交流を持っている。高校時代の斎藤文男(九大教授)、建築研究所時代の下河辺惇(国土庁次官)、「住宅と教育」が大切というイギリス時代の森嶋通夫ロンドン大学教授)、宮本憲一(経済学)、大河一夫(東大総長)、磯村英一(社会学)、日野原重明伊東光晴(経済学)、都留重人、中坊公一(日弁連会長)、、、、。社交性の高い人だった。こういう異分野の人たちを眺めると、新しい分野に関心を持つ人たちが多いことがわかる。住宅問題の中心にいた早川にそういったエネルギーが注がれたのだろう。

ミツカン 水の文化センター」のホームページに神戸大学名誉教授の肩書で「日本の福祉には「居住」が抜け落ちていた」というインタビューが載っている。早川らは「住宅が劣悪だと在宅福祉は困難」と日本居住福祉学会を立ち上げた。住宅は生命を守る。1995年の阪神大震災の犠牲者の98%は家の倒壊が原因であるという。寝たきり老人の原因では脳卒中、老衰の次に多いのが住宅などでの骨折だ。予防福祉のポイントは住居なのだ。福祉政策に「住居」が抜けている。ヨーロッパでは「福祉は住居に始まり住居に終わる」という言葉も紹介している。ストックとしての住居に心配が無ければ、フロー所得の差はそれほど大きな影響はなくなる。そして生活を支える住居・生活環境である隣人、店、医者、風景、寺社、水辺などのミュニティの存在が重要となる。それらを「居住福祉資源」と呼んでいる。

先ほどの「経済科学通信」の最後には、「人間にとって住居はいかなる存在かという本質を考えること」「境界領域研究が大切であること」「主体的な研究が大切であること」というメッセージを若手研究者に贈っている。そして子どもたちを管理教育から解放して、主体的にテーマを考えさせることが重要だという。「人権」という概念も、既存の枠組みから解放させ、住居という視界から再創造することが必要だと主張している。「居住」という切り口から、現代社会の問題を発見し、論じ、進化していく。生活学を提唱する今和次郎を記念した今和次郎賞を受賞しているのにも納得した。

 

 

 

 

 

「図解塾」:図解「JAPAN」プロジェクト。本日のテーマは「床の間」「琉球」「日光東照宮」。

今期の「図解塾」。図解「JAPAN」プロジェクト、順調に進行中。

前半:寺島実郎村上春樹。カマラ・ハリス。無着成恭益川敏英

本日のテーマは、「床の間」「琉球」「日光東照宮」。

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以下、塾生の学びから。

  • 本日もありがとうございました。本題に入る前の様々な話題もたいへん役に立ちます。寺島実郎の「世界を知る力」を見られなかったので図メモが非常に参考になりました。日本のところでは子供の貧困率の上昇が非常に気にかかります。アクティブ・シニアとしてやれることがあるのではないかと感じました。また、タイトルを付けると全体が見えることもよく分かりました。「まとめた人の勝ち」「まとめた人がリーダーとなる」は至言です。カマラ・ハリスの「カマラ」は「蓮」のことだったとは初めて知りました。村上春樹ミュージアム村上春樹氏のエピソード。無着成恭の「山びこ学校」の話には、日本のすぐれた教育者を再度ひもといてみたい気持ちも起きました。 本題の「琉球」「陶器(改訂版)」「日光東照宮」「床の間」については、本当に知らなかったことだらけでした。沖縄については複雑な思いです。廃藩置県に寄る琉球処分以前は中国と日本の両方に属していたような琉球王朝。海流のために沖縄と東北日本の共通性がみられることや仏教の伝来から空白地帯だったこと。私たち本土にいる人間には気づかないけど、沖縄はスコットランドカタルーニャと並ぶ三大紛争地の一つだったということ。第二次世界大戦末期に戦場となった沖縄、戦後25年たってようやく復帰がなされてからも米軍基地の大部分の下にある沖縄。台湾有事の時には最前線になってしまう沖縄。日光東照宮」に関しては伊勢神宮を頂点とする神道との対立構図が非常に分かりやすく感じました。しかし日光東照宮が批判的に見られていたのは、戦前の国家神道のせいもあるのではないかと思いました。いずれにせよ、日本および日本人を理解するのに神道国家神道ではない)、仏教、儒教の3つが共存しているという見方は納得できました。今後も楽しみにしています。
すべてのリアクション:
斎藤 吾朗、
他5人
 
 
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は『日本を知る105章』の中から「琉球」「日光東照宮」「床の間」の3つテーマと「陶器」の図解のバージョンアップ版を読みました。「琉球」ではその歴史と文化について、初めて知ったことがいくつかあり、興味深く聞きました。中でも、琉球には仏教伝来の影響を受けていない強烈な古代性が温存されている、という点については、とても印象深く、なぜ仏教が伝わっていかなかったのか、とても不思議に思いました。また「日光東照宮」では、その建築物の評価に関して、建築家ブルーノ・タウトの考えが大きく影響していることが分かりました。また伊勢神宮との対比で、徳川幕府と明治政府の対立の構図が浮き彫りになっているところも面白いと思いました(伊勢神宮はすがすがしい、日光東照宮はけばけばしい)。 「床の間」では、床の間・違い棚・附書院の3つを配することが和室の基本的な作りであることを知りました。また、茶の湯の世界と密接に繋がっていること、さらには神道との結びつきも感じられというところに興味を引かれました。確かに床の間のある部屋は心が落ち着く場所だと感じます。精神性の高い空間だと改めて思いました。『日本を知る105章』、次回もまた楽しみです。よろしくお願いします。
  • 図解塾に参加しました。久恒先生、みなさま、ありがとうございました。今回は『日本を知る105章』の中から「琉球」「日光東照宮」「床の間」「陶器」にて学びました。今回もとても興味深い内容ばかりでした。特に印象に残った内容は「琉球」でした。琉球王国の歴史について特に興味深いと思いました。 琉球王国は、中山・北山・南山の三山に分かれていた時代がありました。最終的に中山王が他の二山を統一し、琉球王国が成立した事は全く知りませんでした。琉球王国は仏教の伝来の影響をほとんど受けなかったことも知りませんでした。そのため古代からの伝統や習慣を強く保ち続け、琉球の文化が他の日本の地域と異なる特徴を持つ要因の一つになったことに納得しました。廃藩置県により、琉球王国沖縄県となりましたが、私の知人も琉球王国出身であると誇りを持って行っている方がおられます。琉球の人々は独自の文化と歴史を誇りに今も思い続けていることが、今回の説明により、よくわかりました。「床の間」の説明では、床の間の重要性と価値について改めて認識でき、今まで意識していなかったので、床の間に日用品を置いていることに反省し、これからは床の間と言う神聖な空間を大切にしていきたいと思いました。次回もまた楽しみにしております。ありがとうございました。
  • 図解塾本日もありがとうございました。最初の寺島さんのMXテレビの図メモからの内容のお話。今は鎖国状態だというのが印象に残りました。また、図解コミュニケーションするときには、タイトルのつけ方が大事。タイトルを眺めると世界が見えるとのことでしたが、良いわかりやすいタイトルをつけるには、内容を理解していることが必要となりますね。あと、蓮の花と、カマラ・ハリスのお話はとても印象的でした。日本文化は、「琉球」「日光東照宮」「床の間」の3つでした。「琉球」は、沖縄と日本を、異父兄弟と例えてのお話でした。言語・民族が母で、父が歴史。琉球王国は薩摩が入るまでは貿易国家で平和だった。独立王国としての文化があり、独自性を持っていた。というのは、何となく知ってましたが、仏教の影響がなかったというのは知らないことでした。新鮮な内容でした。
  •  日光東照宮」は、修学旅行などで何度か訪れたことがありますが、けばけばしい、という表現にはびっくりでした。でも言われてみればとても精巧な飾りできらきらしたものが多い気がします。徳川家康をまつっていて仏教的要素が混じっている日光東照宮と、明治新政府の王政復古、神仏分離神道国教化という思いの伊勢神宮との対比の図解が分かりやすかったです。「けばけばしい」と「すがすがしい」この対比が面白い。両方ともまた訪れてみたいと思いました。「床の間」はそんな大切な場所だったんだと思いました。床の間に飾るものは、この図解塾で学んでいるものが並んでいるなぁと思って聞いてました。聖なるものの象徴的な空間。聖なる生命との交流の空間。なんて神聖な場所なのでしょう。我が家には畳の部屋はあるけれど床の間ありません。床の間っぽい空間でも作ろうかと思いました。毎回、楽しませてもらっています。次回はお休みいたしますがそれ以降、またよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。久しぶりに参加できたのですが、大遅刻したため、残念ながら他の方の発表を見ることができませんでした。そのため、自分が発表した2つのテーマについて感想等をまとめさせていただきます。私が担当したのは、規定科目の『日本を知る105章』の「10_日光東照宮」と「16_床の間」の図解でした。いずれも課題文の言葉を引用するだけで、その他外部からの情報はあまり追加していません。例えば「10_日光東照宮」では、伊勢神宮との評価の違いについて書かれていたため、図解の定番である「見比べやすい形」を意識して作成しました。おかげで参加者のみなさんから、シンプルだからわかりやすいとか、矢印の使い方などについて感想をいただくことができました。また、「16_床の間」では、床の間の建築物としての説明が細かく書かれていましたが、文字で表記せず、イラスト(無料素材)を貼付することで省略する一方、言葉は簡略化できなかったため、掲載文をそのまま抜粋する形で作成しました。 今回の2つのテーマについて、久恒先生から、人物記念館を訪れている中であったのは、「日本人の宗教について語る時、神道と仏教と儒教、または神道と仏教で説明している場合があった」とのお話がありました。また、参加者のみなさんからは、自分が持っているイメージと違うとか、身近にあるのに知らなかったとか、気づかなかったといったいろいろな感想をいただけました。たまたま2つ同時に発表させていただいたおかげですが、自分も発表しながら、2つの共通点などに気づくことができ楽しかったです。次回の図解も楽しみにしていますので、引き続きよろしくお願いいたします。

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第5章、完成。

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Japanese novelist Seiichi Morimura, known for trilogy about wartime ...

「名言との対話」7月24日。森村誠一「行き着きて なおも途上や 鰯雲

(もりむら せいいち、1933年昭和8年〉1月2日- 2023年令和5年〉7月24日)は、日本小説家作家。享年90。

埼玉県熊谷市出身。青山学院文学部卒。新大阪ホテル(リーがロワイヤルホテル)を皮切りに、ニューオータニなど、ホテル勤務は9年の及んだ。

1965年、32歳で『サラリーマン悪徳セミナー』デデビュー。1969年、ホテルを舞台にした本格ミステリー『高層の視覚』で江戸川乱歩賞

東京地検検事、辣腕の弁護士、ベストセラー作家、人気テレビタレントとして活躍した佐賀潜に、乱歩賞を受賞して挨拶にいったところ、「それで次の作品はできているのか」と問われ、「受賞作が出るころには、第2作、第3作ができ上がっているようでないと、この世界では生きていけないぞ」とはっぱをかけられたとウェブサイトで語っている。

1970年の『新幹線殺人事件』がヒットする。1973年、『腐食の構造』で日本推理作家協会賞。代表作は、『人間の証明』シリーズ。『野生の証明』。赤旗に連載した『悪魔の飽食』は日本軍731部隊の実情を明らかにした。この本を私も読んだが、人体実験など衝撃的な内容だった。

推理小説にとどまらず、歴史小説、時代小説、ノンフィクションなど、精力的に作品の幅を広げていった。

2015年には『祈りの証明ーー3・11の軌跡』を書いている。社会派推理小説の大家となった森村誠一東日本大震災の1年後から描き始めた渾身の作品だった。戦場カメラマンの中年男性を主人公に、その青春と3・11以降の日々をだぶらせながら描いている。大震災、被災地の人々、原発という凶敵、電力企業を中心とする体制、被災地巡礼、新興宗教の跋扈、権力と宗教の癒着、などの道具立てで日本の今を描く鎮魂の力作。森村が手掛けている、写真と俳句を合わせた「写俳」を効果的に使って、現代の問題を描く手法はさすがである。

非情、鬼、生存と生活、救済、原爆と同根の原発、飼いならせない猛獣、制御不能の化けもの、原発ジプシー、悲話と美談、改易流行が実態のマスメディア、人間性が濃縮する天災と希薄になる戦場、避難所巡礼、尊い臭気、行脚僧、ヘドロの海に向かっての読経、号泣作戦。指導力と復興に向ける姿勢。祈りは他人そして自分に捧げる、孤独死より自殺力、グリーフケア、人生の縮図、災害文化、、、。「社会への始発駅には人生の全方位に向かう列車が勢揃いして、新卒の乗客たちを待っている。終着駅は楽園か、極地か、永久凍土か、不明である。全方位に向かい分かれる人生列車には同時に無限の可能性がつまっている。青春とは未知数の多いことである」。この作品の中で、森村は震災俳句を詠んでいる。「夫焼く荼毘の炎で暖をとる」は衝撃の傑作だ。

救出の順位選びて我は鬼 寒昴たれも誰かのただひとり 火の海に漂流しつつ生きており 敗れざる鉄の遺骨や供花まみれ 生き残り松の命に雪が舞う 炎天下原発無用の座禅僧 被災地をまっすぐ照らす月明かり 七夕やママが欲しいと被災孤児

 森村さんは「写真俳句」を提唱していて、写真と俳句を結合させた試みを展開している。「森村誠一写真俳句館」http://shashin-haiku.net/.ブログは「写真俳句歳時記」で「人生の証明日記」http://blog.livedoor.jp/morimuraseiichi/という森村さんらしいタイトルだ。

私は『写真俳句のすすめ』。『写真俳句の愉しみ 四季の彩り』。この2つの入門書に大いに触発された。森村の写真も素晴らしい。俳人にとって俳句に勝る人生の記録はない。人生の記録であるから凡句でも構わない。」「写真俳句の特徴は、抽象化の極致である世界最短詩型の俳句と、具象的な写真をジョイントしたものである」。私が最近始めた「川柳」も、人生の記録として凡句を重ねればいいのだと思う。

・写真を撮り、あとでじっくり観察して俳句をつくる。・俳写同格・時間と空間・悠久の歴史。深遠な心理描写。・句会にはでない。他人の句を批評しない。名句をたくさん読む。歳時記に親しむ。俳句は足でつくる。・句境は持続性がある。句材は至るところに。・俳人にとって俳句に勝る人生の記録はない。人生の記録であるから凡句でも構わない。・写真俳句の特徴は、抽象化の極致である世界最短詩型の俳句と、具象的な写真をジョイントしたものである。・350年近い歴史の俳句と最先端の機器を合体して写真俳句をつくる。・人事。日常。旅。アウトドア。1万歩。

 2022年、「町田市民文学館 ことばランド」で、町田市名誉市民表彰記念 森村誠一展」をみた。1965年のデビュー作以来、2011年までの46年間で、315冊を刊行している。それ以降も、2022年の『老いる意味』も私は読んでいるから、総計では何冊になるのだろうか。

2022年に『老いる意味』(中公新書ラクレ)を読了。「最先端にいるというのは、未来に接続していながら、自分が耕した過去にもつながっていることだ」「作家という仕事には定年がない」。「私は100歳まで現役を続けるつもりである」と語っていた。享年は90だ。

。2011年にNHK俳句王国」に出演していた。「行き着きて なおも途上や 鰯雲」という自句を森村さんは紹介して、創作者はもうこのへんでいいかなと自分に妥協したら終わりであり、こういう心境で仕事をしている。芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野をかけ巡る」と同じ心境だ。芭蕉は俳句と文章の両方を持っていたから今日まで残っている。自分は芭蕉を超えるつもりで仕事をしている、と語っていて感銘を受けた。 新田次郎も「春風や 次郎の夢の まだ続く」も同じ心境だ。かくありたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「蓮」の花の美しさを堪能ーー米大統領候補カマラ・ハリスの「カマラ」はヒンズー語で「蓮」の花、女神のこと。

薬師池公園の「蓮」の花の美しさを堪能した。

ヒンドウー語で「蓮の花」をカマラという。女神ラクシュミーの別名である。清らかさや聖性の象徴。聖なる花。お釈迦さまはこの蓮の上で坐している。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という成句もある。穢れた人道から天道へと至る「輪廻転生」を象徴している。

「結果を最高神に任せ執着なく義務を遂行する者は、罪に迷わない。あたかもハスの葉に水が触れぬがごとく」。確かに蓮の大きな葉は水をはじいている。大きく広がりみずをはじく姿は、泥水のような俗世にまみれず、清らかに生きるというイメージだ。

アメリカのバイデン大統領の後任候補となったカマラ・ハリスは、黒人女性でインド、アジア系だ。このカマラは、ここから採っているのだ。カマラ・ハリスは女神のハリスということになる。面白くなってきた。

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Kamala Harris hopes not to be the Senate tie-breaker - The American Bazaar

 

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Maskawa Toshihide | Biography, Nobel Prize, & Facts | Britannica

「名言との対話」7月23日。益川敏英「若い人は憧れとロマンを以て進んでほしい。それから英語は重要」

益川 敏英(ますかわ としひで、1940年昭和15年〉2月7日 - 2021年令和3年〉7月23日)は、日本理論物理学者。享年81。

名古屋市出身。名古屋大学理学部、大学院卒。仁科芳雄の学風を継承する「坂田モデル」で有名な坂田昌一のグループ員となり、名古屋大学助手時代に小林誠と共同研究を始める。京都大学助手、東京大学助教授を経て、1980年に京都大学教授。2008年に「小林・益川モデル」でノーベル物理学賞南部陽一郎とともに受賞。この時が、初の海外渡航だった。

ノーベル賞受賞時の記者会見で、「大してうれしくない」と語り、話題になった。ノーベル賞は古い業績から順に贈られるので、2008年には「きょうは遅くなるかもしれない」と妻に言って出ている。予感があったのだ。

益川敏英『僕はこうして科学者になった』(文芸春秋)を読んだ。自分を「あまのじゃく」「いちゃもんの益川」「浮気性」と自認している。

家具職人の父から教えてもらった雑学の影響で、理科や数学が得意だという勘違いが、錯覚を生み、勉強していくと得意になっていった。勘違い、錯覚、没頭、得意になる。これはよくある一連の流れだ。

大学院に入るときには数学と物理で迷う。心理学の河合隼雄は数学科だったし、哲学の梅原猛も数学が得意だった。きれいな解、美しい式を好む人たちが、他の分野でつじつまのあった理論を好むという特徴を発揮しているということなのかもしれない。

益川は歩きながら考えるという思考法だ。博士論文執筆時は自宅から大学までの15キロを途中で喫茶店によりながら往復10時間をかけていた。

益川の定理に「井の中の蛙の定理」と「ドン・キホーテの定理」があるそうだ。後者は偉人に憧れて、近づこうとするとロマンが成長の原動力になるという理論だ。

科学について。パスツール「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」。坂田昌一「科学者は、科学者として、学問を愛するより以前に、まず人間として、人類を愛さねばならない」を座右の銘としている。

そして益川は「科学者こそが、科学や技術があわせもち危険性を事前に指摘していかなけければならない」と科学者の役割を述べている。近年の科学界については「大学の基礎科学が危ない」との警鐘を鳴らしている

平和運動にも熱心だった。60年安保やベトナム反戦運動。九条科学者の会。「日本国民は憲法9条変更に賛成するほどばかではない」。「憲法前文は涙が出るほど美しい。それこそ日本の生きる道が書かれている」。

教育。考えない人間を作る「教育汚染」、親は教育熱心なのではなく、教育結果熱心だと批判している。

エネルギー問題。これ一つでオッケーというものがない。それぞれの欠点を補いながらだましだましながら使うしかない。「コンデンサーやコイルで小さな回路をたくさん作って電気をためたらどうか」。

英語は生涯苦手で通している。ノーベル賞の記念講演でも日本語で発表した。中学1年時に、「money」を「もーねい」と読み爆笑され、先生からも「確かにお金はすぐになくなるよなあ」と笑われて、英語を学ぶのが嫌になった。大学受験でも200点満点の30点しか取れなかった。この本の最後には「若い人は憧れとロマンを以て進んでほしい。それから英語は重要。ありがとう」という落ちでしめていて笑わせる。

この本を書いた2016年に益川は70代半ばになっているのだが、大好きな謎解きはやめられない。新幹線に乗っている人の時間はゆっくり進み、高層ビルの屋上に置かれた時計は速くすすむ。この不思議な謎を解こうとしている。

益川敏英の「へそ曲がり」精神とそれが故の行動と発言にはユーモアがあふれているが、案外真面目な人だったようだ。照れ隠しが人々の笑いを誘ったのだろう。

 

 

 

村上春樹ミュージアム(国際文学館)ーー「学ぶというのは本来、呼吸をするのと同じです」

村上春樹ミュージアム(国際文学館)

早稲田大学は、キャンパスそのものをミュージアムにするという目標を持っている。坪内博士記念演劇博物館、会津八一記念博物館にはなんども訪ずれてる。

その一つがこのミュージアムだ。ここは1979年の『風の歌を聴け』から始まる村上春樹作品の日本語の書、翻訳書あわせて3000冊(2021年)を所蔵している。海外で刊行された50言語以上の翻訳書、そして本人が蒐集したレコードやCDが所蔵されている。

このミュージアムは卒業生の柳井正ユニクロ創業者)さんの寄付。

村上春樹(HARUKI MURAKAMI) - 「村上春樹インタビュー 人と人をつなぐ場を、未来へ <前編>」のアルバム - T JAPAN ...

村上春樹「学ぶというのは本来、呼吸をするのと同じです。、、、このささやかなライブラリーが、学校や国境の壁を自由に抜けて、あなたにとって「息をしやすい学びの場」となることを祈っています。」

 

書斎の再現。

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著作の年譜の一部。

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ロバート・キャンベル早大特命教授。ミュージアム顧問)の案内動画で全体像がよくわかる。

  • 海外の翻訳書(フランス、スペイン、スエーデン、中国語、、、)。デザイン、色彩、厚みが違う。
  • 書斎の写真
  • 著作年譜(1979年から2021年まで)。色分け(自身の本。翻訳本、共著)。受賞(色分け:日本、海外)。
  • 企画展示室(今回はカフカ展)
  • ラジオスタジオ(対談、、、)
  • オーディオルーム(ピータ・キャットカフェの経営時代から収集したアルバムを聴ける。)
  • 隈研吾設計の大階段の書棚空間。世界文学。グルーピング。境界を越えて、死生観、、、、
  • ポケット・パーク(外のリラックス空間、テーブル)
  • カフェ(書斎の展示。学生が経営のカフェ「オレンジ・キャット」

デザイン、意匠など細部にこだわった気持ちのいい空間だ。

https://youtu.be/mVYPlFslQB0

36歳頃か、JAL広報部にいた私は面識がなかった村上春樹さんから電話をもらった。では赤坂の「重箱」で、というと五木寛之さんと来談した場所ですという返事だった。

素朴な印象の一つ年上の村上さんからは夫婦でギリシャにしばらく住みたいという相談だった。私は企業の中で毎日戦っているというと、自分も同じだという返事だった。プレイボーイやペントハウスなどの裸の女性のページの間に書きたくないということだった。彼も戦っているのだなど共感した。JALの機内誌「ウインズ」で連載を書いてもらうことにした。後日手にしたギリシャのことを書いた本に「JALにはお世話になった」という記述があった。

そういう記憶を思い出しながら、間断なくすぐれた小説を発表し続けている彼の仕事ぶりを示す年譜や作品を見て回った。村上春樹今まで何冊作品を発表しているのだろうか。

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このミュージアムで「変身・カフカ」展をやっていた。

村上春樹には『海辺のカフカ』という作品がある。

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「名言との対話」7月22日。杉浦日向子「江戸までいくとまるっきり違う世界ですから、外国みたいで「新しい」感じがするんですよね。

杉浦 日向子(すぎうら ひなこ、本名:鈴木 順子(すずき じゅんこ)、1958年昭和33年〉11月30日 - 2005年平成17年〉7月22日)は、日本漫画家江戸風俗研究家、エッセイスト。享年46

東京都生まれ。稲垣史生に弟子入りし時代考証を学ぶ。1980年、「ガロ」で漫画家としてデビューする。1984年、『合葬』で日本漫画家協会優秀賞を受賞。1988年、『風流江戸雀』で文藝春秋漫画賞受賞。漫画作品としては、『杉浦日向子全集』(筑摩書房、全8巻『二つ枕』『合葬』『百日紅(上・下)』『東のエデン』『風流江戸雀』『百物語(上・下)』収録)などがある。

1993年に漫画家引退を宣言。ライフワークである江戸風俗研究家として活動を開始する。NHK総合テレビ『コメディー お江戸でござる』では江戸の歴史、風習についての解説コーナーを足かけ10年務めた。晩年は文筆業に専念し、『江戸へようこそ』(筑摩書房)『江戸アルキ帖』(新潮社)『ぶらり江戸学』(マドラ出版)など、多くの作品を遺した。2005年7月22日、下咽頭がんのため46歳で逝去。

杉浦日向子『憩う言葉』『粋に暮らす言葉』には、江戸っ子の生き方に惚れた言葉が並んでいる。「江戸では、頑張るは我を張る、無理を通すという否定的な意味合いで、粋じゃなかった。持って生まれた資質を見極め、浮き沈みしながらも、日々を積み重ねていくことが人生だと思っていたようです」

 また、「人間一生、物見遊山」が江戸の人生観だという。杉浦日向子のいう江戸の価値観は、庶民である江戸っ子のものだ。一生懸命は野暮で、努力をみせないのが粋という。現代人は野暮になったから、少し息を吐いて江戸っ子のように遊びながら粋な生き方をしようというのが杉浦の提案である。子ども時代は「巨人・大鵬・玉子焼き」ではなく、「可楽・柏戸・味噌おにぎり」だった、というからずっと粋の精神で生きたのだろう。山形県鶴岡の横綱柏戸記念館を訪問した時、「阪神柏戸・目玉焼き」という言葉をみつけて驚いたことがある。鶴岡の人々も粋だったのだろうか。杉浦は私生活では、博物学者荒俣宏と結婚し、後に離婚している。

『江戸へおかえりなさいませ』を手にした。一番の夢は働かないで食べることという杉浦は、40歳くらいで隠居したいと述べている。

  • 江戸までいくとまるっきり違う世界ですから、外国みたいで「新しい」感じがするんですよね。
  • 実録物や日記、随筆ですね。、、旧幕府にいた人たちにインタビューしたものがあるんですけど、そんなのが一番面白いです。

コメディーお江戸でござるでは江戸の歴史、風習についての解説コーナーを担当していて、私も10年近くその博識な名解説を楽しみにしていた。漫画家はみな勉強家だ。江戸時代を中心に漫画を描いた杉浦日向子の江戸風俗に関する勉強量は半端ではないはずだ。杉浦は「時代考証」に興味を抱き、朝日カルチャーセンターでの稲垣史生の「時代考証教室」に通い、その熱心さに稲垣史生に正式な「弟子」として認められ、稲垣の川越の自宅に3年間通ってものになった。元夫は博物学者の荒俣宏であるいかにも江戸っ子に心酔した杉浦日向子らしい。40代半ばでの死はあまりにも早い感じがするが、江戸時代なら隠居している年齢だから、運命だったのかもしれない。時代物を多く書いた作家・池波正太郎は長く江戸に逗留したと言われたが、杉浦日向子も江戸に帰っていったという感じもする。

 

 

寺島実郎の「世界を知る力」ーーアメリカ。欧州。日本。中国。

寺島実郎の「世界を知る力」(7月)。「今月の世界と日本」。

トランプとバイデンのマトリョーシカ

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アメリカ:政治的には晩鐘、しかし経済は堅調。

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欧州:政治の新局面で欧米関係は微妙に。世界は多次元化。

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日本:円安で国民は幸せか? 物価上昇、賃金下落。

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中国:危うさを抱えた習近平政権。「中華民族の偉大な復興」の内実

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「名言との対話」7月21日。無着成恭「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない」

無着 成恭(むちゃく せいきょう、本名同じ、1927年3月31日 - 2023年7月21日)は、日本教育者禅宗僧侶。享年96。

生活綴方の代表的な文集『山びこ学校』を刊行。全国こども電話相談室』の回答者を28年間務めた。

山形市出身。山形師範学校を卒業し、県内僻地の山元村の中学校に赴任し、「生活綴方運動」に取り組んだ。1951年にクラス文集を『山びこ学校:山形県山元村中学校生徒の生活記録」として刊行し、ベストセラーとなった。1952年には、今井正監督により映画化された。地元の恥をさらしたとして村から追放される。

1953年に上京し、駒沢大学仏教学に編入し、卒業。1956年から大正デモクラシー色の色濃い明星学園(東京都三鷹市)の教諭になり、教頭をつとめた。科学的、体系的な言語教育を研究する。1964年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者となり、28年間つとめた。

1983年に明星学園を退職。1987年に千葉県の住職。2023年には大分県国崎市の泉福寺の住職となった。

無着成恭については、「全国こども電話相談室」の二つので知っている。独特の山形弁で子どもたちの質問への回答には深い愛情と工夫が感じられて人気があり。わたしもファンの一人となった。「宇宙人は何を食べてるの?」という問いに、「宇宙人はねぇ、宇宙食を食べてるのよねぇ」との回答で笑いを誘ったというエピソードもある。子どものころから思いやりの深い、トンチに富んだ性格であったという。

無着成恭『山びこ学校』(岩波文庫)読んだ。

冒頭には山元中学校2年生一同の名で「日本全国の子供がみんな、手紙のやりとりができるようになれば問いと思っています」(1950年3月3日)というメッセージがある。

無着成恭は、「ほんものの教育をしたい」という考え、国語教育と社会科を結びつけた。

『山びこ学校』は、映画、劇になった。英訳、ヒンドゥ語、中国語に訳された。インド、ユーゴスラビアで紹介された。ユネスコでも取り上げられた。内外に大きな影響を与えたのである。

「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない。そして正しいことを正しいと言いい、ごまかしをごまかしであるという目と、耳と、いや身体全体をつくることである。そして、実行出来る、つようたましいを作ることである」と着任したはじめての授業で壇上で叫んだ。

「いつも力を合わせて行こう。かげでこそこそしないで行こう。いいことを進んで実行しよう。働くことがいちばんすきになろう。なんでも、なぜ? と考える人になろう。いつでも、もっといい方法がないか、探そう」が無着先生の教えだった。

生徒たちの文集を読むと感動する。みな、考える人になっているではないか。

  • あんなに働いても、なぜ、暮らしが楽にならなかったのだろう。
  • しょうばいとしてなりたつののか、なりたたないのかということを研究する必要があるんだ。
  • しかし、ほんとうにそうだろうか、、、僕は今、そういう疑問をもっている。
  • 日記なんか、一日ぬかすと、ずっとかかれなくなってしまう。
  • 私は、そういう世の中が来るように頑張って、そうしひて一日も早くそういう世の中にすることが、死んだ父を安心させることではないか。

卒業時の佐藤藤三郎君の「答辞」では、「私たちは、この3年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです。たとえ、試験の点数が悪かろうと、頭のまわり方が鈍かろうと、私たち43名は、ほんものの勉強をさせてもらったのです」という言葉があった。そして、「ああ、いよいよ卒業です。ここまでわかって卒業です。本日からは、これも先生がしょっちゅういっている言葉どおり、自分の脳味噌を信じ、自分の脳味噌で判断しなければならなくなります」という感動的な言葉があった。

「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない」、この言葉をほんものの教育を志した無着先生の名言として採ることにしたい。私の教え子の一人に、明星学園時代の無着先生にならった人がいる。こういう先生に教えてもらったのだなあと納得するところがある。今放映中のNHK朝の連ドラ「寅に翼」で、女性初の火家庭裁判所所長となる女性主人公が「ハテ?」という言葉を連発しているが、それはこの『山びこ学校』の影響なのではないか。至言である。

 

 

 

 

高円寺で「橘川幸夫さんの活動を支援する会」。

朝はヨガ教室で心身をリセットする。参加者が3人と少なかったので、たっぷりと個人指導を受けて汗をかく。

夜は高円寺の「バーミイ」での夏の忘年会改め、「橘川幸夫さんの活動を支援する会」に参加。

 (参加型社会 雑誌『イコール』 | 参加型社会学会 (sankagata.com)

 https://peatix.com/group/16309588

年齢、分野、興味など、実に多様な人たちの会。ほとんどの人は知り合い。

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放送批評。タテ映画。著作権ビジネス。誰でも図書館。NHKテクノロジー。本の長屋。読夢の湯。、、、、。

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橘川幸夫さんの活動を支援する会」参加のお願い  久恒啓一

 橘川幸夫さんは、「参加型社会」をキーワードに、時代を先取りする前代未聞の雑誌の創刊と独特の鋭い切り口の著書の定期的な刊行など、この半世紀を疾走してきました。
 未来へのメッセ―ジを携えながら、メディア界で活躍する時代のキーマンとの交流を財産に、次の時代を担う若者たちを励ます、貴重な存在となっています。
 その橘川さんが、AIの激流とシェア書店の台頭という機をとらえて、2024年になんと、紙の雑誌『イコール』(季刊)を発刊する、一見暴挙に見えるプロジェクトを立ち上げました。橘川さんのつくったモデルを下敷きに、日本各地の橘川さんの方向性に賛同する人たちが、それぞれのコミュニティを土台とした未来を展望する雑誌を刊行する流れができつつあります。
 このプロジェクトは、本人によれば「最後の仕事」だそうです。この雑誌を舞台に、先人から受け継いだ思想、自ら獲得した革新のノウハウ、あらゆる分野の豊かな人脈を、次の世代の若者たちに無償で継承しようとする大事業です。この大いなる遺産相続をライフワークとするという宣言です。
『イコール』は、執筆・取材・編集などのソフトコストは、橘川コミュニティを形成する信頼する友人たちが担当するため、独自のコインの発行などでまかないます。かかるのは、印刷などのハードコストのみとなっています。そして流通については全国の仲間を通じ、各地のシェア書店で常備するというメディア革命ともいうべき画期的な仕組みで進めています。
 ゼロ号(1月)と創刊号(5月)については、ハードコストはクラウドファンディングでまかないました。
 そして、このプロジェクトを安定的に運用することが次のテーマに浮上してきました。私は友人である橘川幸夫さんが取り組んでいるこのプロジェクトが、混迷を深め衰退の様相がみえてきた日本と若い日本人の未来にとって、大きな意味を持つとの確信をもっており、橘川さんの持続的な活動を支援する「橘川幸夫さんの活動を支援する会」を立ちあげることといたしました。
 組織の論理に縛られない自由闊達な精神、『イコール』のタイトルそのままの平等感覚、そしてあらゆる世代を励ます博愛主義……。「現代の異人」である橘川さんの畢竟の大事業に参加し、あるいは応援することによって、社会変革を志す仲間になりませんか。

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「名言との対話」7月20日鶴見俊輔「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ」

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。享年93。

政治家の父・鶴見祐輔後藤新平の娘の母との間に、長男として2番目に生まれた。姉は社会学者の鶴見和子。11歳で不良。自殺未遂。精神病院入院。家出。父の計らいで渡米。ハーバード大に入学。結核。逮捕。

帰国後は海軍勤務、腹膜炎で辞職。戦後、雑誌『思想の科学』の創刊に参加。桑原武夫から見込まれて京大人文研助教授に就任。東京工大助教授を経て、同志社大学教授。小田実を代表にベ平連を結成する。大学紛争で辞職。九条の会の呼びかけ人。

こうやって鶴見の人生行路を眺めてみると、感受性と正義感が強く、生きにくい人だったのだろうと感じる。

都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる鶴見の名前は私は知っていたが、本を読んだことはなかった。たまたま鶴見俊輔編『老いの生き方』(ちくま文庫)を読んだ。中勘助富士正晴金子光晴室生犀星幸田文串田孫一野上弥生子らの論考が並んでおり、「経験は、人生を狭くする」「老年の空虚さは、実人生の場から離れた、補給不足による」などが印象に残った。

当時75歳の鶴見は冒頭の「未知の領域に向かって」という総括の小論を書いてる。この中で「潔癖な人は、幸福になることはできない」という処世術を披露している。理論をかざす教条主義を排し、毎日の一コマ一コマに興味をもち、日常生活の中で浮かんだ疑問を突きつめていくという生き方を貫いた人だ。

鶴見は潔癖さの欺瞞を見抜いており、矛盾に満ちた人間という存在に愛情を持って接した人だと思う。論壇で活躍した人であり批判も多く受けたが、自分の頭で考え、自分の言葉で語った人であることは間違いない。

鶴見俊輔上坂冬子『対論・異色昭和史』を読んだ。憲法九条はたわごとという上坂と「九条の会」を立ち上げた鶴見の興味深い対談集である。二人は「思想の科学」でつながっていた。

  • 和子(姉の鶴見和子)は脳出血の十年の仕事が最高だった。
  • お袋(家庭内暴力の人)とアメリカが私を育てた。親父は私に研究の種(転向)をくれた。
  • 教育勅語には)諫争、つまり諫めること、臣下には諫争の義務があるということが抜け落ちているんです。

父は自分が総理になりたいから伊藤博文の幼名の俊輔とつけた。父の遺言を読むと、軍部を抑えて戦争を止める気持ちだったが、二・二六事件以降は軍国主義に反対しなくなったとし、「ああいう連中」と批判し縁を切っている。

この本の中で鶴見俊輔は「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ」と語っている。反対陣営の上坂冬子の思想も樹木の成長のようだと評価している。知識人というのはケミカルコンビネーション、人間力に支えられていないから信用できない。勉強した色々な思想を混ぜ合わせているに過ぎないとして信用していない。

実体験から自分自身をつくりあげた人が持つ人間力というしっかりした幹が、時間の経過とともに天空に伸び、枝を張り、その先に葉を伸ばす。土台がしっかりしているから少々のことではびくともしない。そういう人は信用できる。「思想」を科学した鶴見俊輔の人間観である。

鶴見俊輔編『老いの生き方』(ちくま文庫