柳井正(ユニクロ):いいライフウェア。情報製造小売り。世界で稼ぐ。年金問題!。できることをやる。

東京MXテレビ「世界を知る力」。寺島実郎柳井正ユニクロ)の対談。

今回は、柳井正さんの発言だけを取り上げます。

(株)ファーストリテイリング有明本部での対談。本棚に囲まれたオフィス。

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  • 早大ロックアウトのうちに世界一周の旅をした。
  • 主体者としてビジネスをつくってきた。
  • 衣料は生活の一部。文化に左右される。主流は普段着、カジュアルになってきた。いい普段着(ライフウェア)。教育・文化支出の減少は、将来は危うい。
  • ユニクロは「製造・小売」というビジネスモデルでやってきた。今後は「情報製造小売」になる。スマホSNSで情報が支配する社会になる。
  • 日本はアメリカと同じでは危険。近隣に中国、ロシア、韓国、北朝鮮。日本独自の外交が必要。安定した関係、フランクな対話を。
  • 「世界で稼ぐ」「内向して成長なし」。アジアのリーダーは民主・自由の日本しかいない。アジア諸国の期待は、「日本よ、しっかりしてくれよ」だ。
  • 金融と財政だけで甦った国は歴史上ない。マイナス金利とは借金したら金をもらえるということ。経済倫理を損なう。経済がよくなるなずはない。これでは日本は滅びる。自民党よ、しっかりせよ。
  • 年金問題を解決せよ。これが国民の一番の不安材料。
  • 制限なしでできることを考える。そして実際にやることだ。そういう人がほとんどいない。

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朝:日曜美術館は、独学の建築家「白井晟一」。

橋本往復で1万歩。

夜:NHKBS1スペシャル「山本五十六と開戦」:「本心を言わない人だった」。組織の大勢と常に強気の世論、そして自分の信念とに挟撃された山本の苦悩をみた。公人としての立場と、個人の信念が乖離するという「変な」立ち位置に立たされたのだ。

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今日の「幸福」のヒント。日経新聞文化欄1月23日。樺山紘一(歴史家、東大名誉教授)

  • 樺山紘一のコロナ禍の我が道は「散歩」「遊学」「酔夢」。
  • 無類の酒好きの頼山陽にある人が人生の幸福について質した。咄嗟にでた返答は「剣菱」だったという。

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「名言との対話」1月23日。黒田初子「何もかもやりかけで死んでいきたい」

黒田初子(1903年1月23日-2002年5月22日)は、登山家、料理研究家。享年99。

東京出身。東京女子高等師範(現お茶の水女子大)家事科卒。卒業と同時に工学博士で雪氷研究家で7つ年上の黒田正夫と結婚した。 夫の影響で登山とスキーに開眼し、女性として剣岳八ツ峰などに冬季初登頂するなど登山家として業績がある。また料理研究家としても著名。

著作活動も活発で、『婦人ノ山トスキー』『家庭料理百科』『山への誘い』『旅と山と』『味と自然の散歩道』『いきいき九十歳の生活術』『お料理のレッスン70年』などがある。

黒田初子『いきいき九十歳の生活術』(草思社)を読んだ。90歳の著書である。

90歳の日常が紹介されている。

年間スケジュールでは、年末年始、2月初旬、3月初旬はスキー。夏休みは旅行。

週間スケジュール。週1回は病院。日曜は水泳。料理のクラスは平日に5組教えている。

毎日のスケジュールの詳細を記そう。5時起床。朝風呂。6時半テレビ体操。7時朝食。8時半NHK連ドラ。10時から午後2時まで料理クラス。夕方まで買い物、レシピ考案など。6時半夕食。日本酒かワインのどちらかを2杯。10時入浴。10時半ベッドに入る。

80代の最初までは超多忙であり、ブレーキをかけた90歳でも以上のスケジュールだ。本人によれば、体質に加え、食事とスポーツがエネルギーの源だ。

「毎日の母親のお料理が、子どもの健康や幸福に影響を与える」と考え、自宅で少人数での料理教室を70年にわたり開催している。レシピ300種を学んだ生徒には免状を出す。この時点で382人。1000種学んだ人は11人。1500種は数人。教え子の数は膨大である。米寿の会ではお祝いにスキー用具一式を贈呈され、パーティ会場では驚きの声があがっている。

「何もかもやりかけで死んでいきたい」、「何ごとも進行形で、行動中に人生を終わりたい」が信条だった。このでんでいうと昨今流行の「終活」などはとんでもないということになる。ライフワークを完成しなくていい。生涯を通じて進めていくのがライフワークだということになる。90歳の卒寿のお祝いの会で、郷里・中津の横松宗先生が新著を配って驚愕したことを思い出した。かくありたいものである。

黒田初子にとって、努力する楽しさ、進歩するよろこび、それが「しあわせ」だった。したいこと、するべきことがありすぎて、かたづける気が起こらない。常に前進しており、明日の計画がある。「何もかもやりかけで死んでいきたい」は、黒田初子の米寿の会での挨拶の言葉である。こういう姿勢で後輩の女性たちに勇気を与えた人である。それから10年ほど経って、99歳で永眠する。見事な生涯というほかはない。

 

 

 

『図解コミュニケーション全集』第1巻「原論編」の電子版を刊行。

『図解コミュニケーション全集』第1巻「原論編」の電子版を刊行しました。

以下の3冊を収録しています。

久恒啓一氏の「図解コミュニケーション」の本質

               一般財団法人日本総合研究所会長                                   

                      寺島実郎

 「図解」は知的生産の技術の柱であり、この体系化と深化に久恒啓一氏はライフワークとして取り組んできた。その集大成がこの全集である。

 私は久恒氏と40年近い年月にわたって親交を深めてきた。 

 彼の人生の前半はビジネス現場でコミュニケーション能力を磨くことに集中し、所属企業の改革に実績を挙げた。

 後半は大学の教壇に立って後進に図解による意思疎通の高度化という実学を教えるとともに、大学経営に図解を持ち込んで成果を挙げた。

 そして、一貫してNPO法人知的生産の技術研究会の中心的リーダーとして、社会人の知の再武装とその社会的実装に心を配ってきた。

 この全集の意味は、論点を図解する技術論にあるのではなく、図解によって意思疎通を深め、時代の課題の解決のために行動しようという愚直なまでの情熱にあることに気付く。

 一隅を照らす人生に、こういうアプローチもあるのかと心が熱くなる。

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古田隆彦「人口波動論」の3回目。

  • 人口減少の原因は「少産化・多死化」。2008年1.28億人。近代農業・工業で7500万人。加工貿易でプラス5300万人。2050年前後1億人。資源浪費・市場原理・農高工安。人口抑制装置の作動。生理と文化。中国の人口減。少子化の心理。自我肥大率上昇。やる・あげる。コンデンシング。子育ての幸福。新大家族。

深呼吸学部

  • 時のメディアと空間の往復運動。関係づくり。人生時間2倍。マイクロソフトがゲーム会社を7.8兆円で買収。ブラックロックの運用資産1150兆円。ステイクホルダー資本主義。日本の個人金融資産2000兆円。30年で倍総。54%が現預金。振り込み詐欺。一応族の反乱。崩壊論。消費ニヒリズム、。ネオテニー。AIのべりすと文学賞。探偵社(地域)。旅行社。百貨店(BOOTH)。入学案内。
  • キャリア3倍・人生5倍。図解の技術。中津。人物記念館応援隊。〇△▢。図解塾テキスト。

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ヨガ1h。ウーキング1万歩。

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今日のヒント。久保田里花・文『椋鳩十』(あかね書房

「ばばさまと過ごす時間は、金色の湯だまりにいるような、幸せな気持ちになります」

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「名言との対話」1月22日。椋鳩十「死の瞬間まで、命の火をほうほうと燃やす。美しい生き方だ。こういう生き方なら、あの世に旅立つにも悔いがない」

椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本小説家児童文学作家

長野県生まれ。飯田中学を経て法政大学文学部に進学。21歳、初めての詩集『駿馬』を自費出版。25歳、法政大学を卒業し鹿児島県の種子島の高等小学校の代用教員、加治木高校教師。33歳、「少年倶楽部」に「山の太郎熊」を発表。

1947年42歳、鹿児島県立図書館長。55歳、「母と子の20分間読書運動」を呼びかけ全国運動に。59歳、『孤島の野犬』が産経児童出版文化賞と国際アンデルセン賞国内賞。61歳、図書館長を退任。

62歳、鹿児島女子短大教授、附属図書館長。66歳、第1回赤い鳥文学賞・児童福祉文化奨励賞。67歳、読書運動により文部大臣賞。73歳、教授を退任。

76歳、『椋鳩十全集』(ポプラ社)26巻完結。鹿児島県民教育文化研究所を設立。77歳、芸術選奨文部大臣賞。1987年82歳、永眠。

1990年、鹿児島県に椋鳩十文学記念館。1991年、長野県に椋鳩十記念館・記念図書館。

長野県の伊那谷での動物とのふれあい。飯田中学では、『狩人日記』と『ハイジ』が運命の書となる。また英語の正木ひろし先生と国語の佐々木八郎先生と出会う。法政大学では、豊島与志雄先生と森田草平先生が生涯の師となった。

家を持たずに山間を移動しながらテント生活をおくる山窩という人々に多い「小椋」の姓から「椋」を、加治木のかやぶきの屋根にとまる鳩を思い出して、鳩椋十というペンネームにした。

加治木高校の山口斉校長の後押しもあった「少年倶楽部」の須藤憲三編集長からは少年向けの野生的な物語を依頼される。動物の生態を調べて切り取り、文学的に豹変し、「命」の物語にしようと決意する。そして南アルプスの秘境・遠山の「星野屋」のおやじのアドバイスで狩人から話を聞くというスタイルができていく。戦時中は野生動物の姿を描くことで、生きること、愛し合うこと、命のすばらしさを書いている。

館長をつとめた鹿児島県立図書館では、19年にわたり自動車図書館、市町村の図書館づくり、地域の読書グループ育成、などを行い、「鹿児島方式」として全国に影響を与えた。1960年委は「母と子の20分間読書運動」をスタートさせている。図書館館長時代は、夜中から朝4時まで執筆し、朝風呂をあびて出勤するという生活スタイルを続けた。

70歳頃からは、離島に生きる人々を対象としたノンフィクションにとりかかる。徹底した取材で、生涯で200冊以上の本を書いたのだが、その半数以上は60歳以降である。」

7000年の命を持っている屋久島の縄文杉をみて椋鳩十は感動する。「死の瞬間まで、命の火をほうほうと燃やす。美しい生き方だ。こういう生き方なら、あの世に旅立つにも悔いがない」と生き方の理想をみる。

児童文学は「祈りの火を焚く文学」であるという。「「人間、いかに生きるべきか」という態度を、幼い人びとの心の奥に、土台のように、かっちりと、築いてもらいたいという、祈りにも似たものがこめられているのです」。

73歳で仕事をやめて、やっと執筆活動に専念できるようになり、集大成である二つの全集が完結する。子供向きの『椋鳩十全集』全26巻と大人対象の『椋鳩十の本』全25巻+補巻である。82歳でも「まだ死ぬもんか。うんとすばらしい、キラキラしたものを書くんだ」と発言している。

高校教師時代、図書館長時代、短大教授時代、自由人時代、その都度、全力投球で自らのテーマに立ち向かった尊い生涯である。高齢時代の生き方のモデルだ。

今回あかね書房の『伝記を読もう』シリーズの久保田里花『椋鳩十』をじっくりと読んだ。以上はすべてこの本の中から取り出した内容である。この過程で児童文学に取り組む作家たちの仕事の尊さに感銘を受けた。私自身が、椋鳩十という人の生き方に励ましをもらったのである。

 

 

「先生の慧眼」ーー母校の小学校の創立150周年記念誌へ投稿した「思い出」

母校の大分県中津市立豊田小学校が創立150周年を迎えた。その記念誌に「思い出」を頼まれたので、書いてみました。

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『先生の慧眼』

久しぶりに、小学校時代の通知表を手に取った。担任の名前とハンコが押してある。1年は高山先生。2年は野村先生。3年は川江先生。4年は菊池先生。5年は池江先生。6年は高茂先生(披露宴で祝辞をいただいた)。1年、2年時は嶋通夫校長となっていた。嶋先生は中津の誇る文化人だったことを後で知った。

1年時の高山先生からの「通信欄」には「無邪気で活発明朗ですが、常にそわそわしているので聞き漏らしが多く、充分な実力の発揮が出来ていない様です。仕事は速いが、少し雑なようですのでお気をつけ下さい」というコメントがあり驚いた。

あれから半世紀以上が過ぎた。それなりに勉強し、東京の企業で悪戦苦闘し、そして教育者にもなるなど、自分を磨いてきたつもりだったが、何のことはない。小学1年生の姿は、今の私の姿そのものだったのだ。最近亡くなった母と一緒に苦笑したことを思い出す。慧眼に恐れ入った。やはり先生は偉い!

小学校の先生がもっとも大事だという人は多い。池田勇人首相は「体の中に滲み渡るような教えというものは、小学校教育にあるのではなかろうか」、田中角栄首相も「学校教育で一番大切なのは大学でなく義務教育だよ」と語っている。私も同感する。

偉人が出る不思議な町といわれ続ける故郷・中津であること、そして母校の豊田小学校がその中心であることを祈りたい。

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兄弟3人の写真。

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以下、このエッセイを書くにあたってのメモ。600字が最大という注文だったから、使えなかった。

  • 創立150年ということは、1872年、明治5年である。太陽暦が採用され、新橋・横浜間に鉄道が走り、学制が発布され、福沢諭吉のまた従弟の増田宗太郎の妻が中津の士族の娘を引き連れて働らかせた富岡製糸場が開いた年だ。それから150年の歳月が流れ、多くの人が学び、世に出た。
  • 私の自宅は上宮永4丁目だが、「三丁目の夕日」という戦後の映画をみると、故郷を思い出す。
  • 今でも目に浮かぶのは校門の右手にあった大きな銀杏の木である。世界最古の現世樹木であり、生命力が強い。花言葉は「長寿」である。銀杏の木の下で遊び、喧嘩をしたことも思い出した。帰省するたびに小学校の近くを通ると、目に入る。
  • 中津という町は偉人が多く出る不思議な町である。福沢諭吉ら大学創業者が3人、中上川彦次郎ら実業家も多数、梅津美智郎ら軍人、蘭学者、、、。校歌は、福沢諭吉先生の「独立自尊」を意識している。「仰ぐ自尊の碑は 力の泉湧くところ」とあったことを記憶している。
  • いつの時代も、国家も地域も盛衰は人による。「100年の計は人を植うるにあり」というが、銀杏は実に1000年の木である。銀杏の花言葉は「長寿」だ。実がなるにも長い時間がかかる。銀杏の木を大切にして欲しいものだ。

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今日のヒント

日経新聞社「NIKKEI安全づくりプロジェクト」シンポジウム。「ポストコロナ禍の人生100年時代をどう生きるか」。
講演者のテーマから「新型コロナからの教訓」「心臓の守り方」「安心・快活」「自分らしく」

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「名言との対話」1月21日。伊藤野枝「自分の思うことをずんずんやる代わりに人のわがままの邪魔はしません」

伊藤 野枝(いとう のえ、1895年明治28年〉1月21日 - 1923年大正12年〉9月16日)は、日本婦人解放運動家無政府主義者作家翻訳家編集者

福岡県出身。上京し上野高等女学校を卒業後、郷里で親の決めた結婚をするが、すぐに婚家を出て再上京。上野高女時代の英語教師・辻潤のもとに身を寄せる。平塚たいてうの「青鞜社」に入社。1915年から『青鞜』の編集長になる。1916年『青鞜』を辞め、辻潤と別れてアナキスト大杉栄と同棲。1921年アナキストの赤瀾会結成に参加するなど活発な活動を続けた。1923年の関東大震災に際し、大杉栄とともに、甘粕正彦憲兵大尉によって、リンチを受け、扼殺(手で首をしめて殺す)され、素っ裸にされ、古井戸に放り込まれた。28歳という若さであった。

大逆事件で殺された幸徳秋水や、アナキスト大杉栄社会主義者・山川均らの足跡を追っていると、よく見かける名前が伊藤野枝だ。栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んだ。

以下は、この本の目次からとった言葉だ。壮絶な人生である。

わたしはけっしてあたまをさげない。わたし、海賊になる。恋愛は不純じゃない、結婚のほうが不純なんだ。貞操論争・堕胎論争・廃娼論争。カネがなければもらえばいい。あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。結婚制度とは、奴隷制度のことである。この腐った社会に、怒りの火を玉をなげつけろ!失業労働者よ、団結せよ。非国民、上等! 失業、よし! 村に火をつけ、白痴になれ。、、、。

野枝の考え方。「自分の思うことをずんずんやる代わりに人のわがままの邪魔はしません」。貞操という発想がおかしい。避妊はいいが堕胎はダメ。セックスワークは普通の労働。いざとなったら、なんとでもなる。、、、

大杉栄とともに伊藤野枝が信奉したアナキズムとは、他人の支配を受けない、受けなくてもやっていけるという思想だ。権力階級の資力や支配がどれほど大きくとも、人間の生きる権利を奪うことはできない。助け合って生きていく。困った時はお互い様。相互扶助の輪をひろげていくと行政はいらなくなる。要するにアナキズムとは、自助と共助の思想なのだろう。公助をあてにしない、だから無政府主義者と呼ばれるのだろう。

野枝は9つ上の辻潤との間に男子2人。10上の大杉栄と間に女子4人、男子1人を生んでいる。摩子、エマ、エマ、ルイズ、ネストルという名前をつけている。1913年から1923年まで10年間で7人だ。エマは尊敬するアメリカのアナキストフェミニストエマ・ゴールドマンからとっている。

松下竜一ルイズ 父に貰いし名は』 (講談社文庫)という小説がある。ルイズはパリ・コミューンで大活躍したアナキストのルイズ・ミッシェルからとった名前である。この本は、アマゾンでは次のように紹介されている。ルイズは野枝の四女である。

「虐殺された大杉栄伊藤野枝の遺児の青春と自立を追う。「主義者の子」という重い十字架を背負いながら、1人の女として自己を確立していく軌跡を、克明な取材で綴った感動の記録。単なる人間ドラマで終わらない、昭和という時代を明らかにする生きた証言がある。第4回講談社ノンフィクション賞受賞作!」

私の高校の先輩である松下竜一は、『豆腐屋の四季』で有名な人であるが、自然保護、平和などの運動に関わり続け、短歌、小説、随筆、そして伝記文学まで多くの作品を残した作家である。伊藤野枝とその残したものを知るために『ルイズ 父に貰いし名は』も読んでみたい。

 

 

 

 

Kindleの世界を探訪:「Kindle Oasis」と「kindle Unlimited」

「名言との対話」の2月分の読むべき本が届きました。

2022年は明治生まれの人が対象ですが、2月の人選は外国人が多くなったこと、資料としての本が少ないことが特徴。写真で示した書籍以外に、kindleで無料で読める本が数冊ありました。

一昨日、購入した「Kindle Oasis」で、「kindle Unlimited」というサービスと、無料で読める書籍を活用することにチャレンジしてみることにしました。

 

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幸福のヒント 岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社

アドラー「幸福とは、貢献度である」「『わたしは誰かの役に立っている』と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる」

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1万2千歩。

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「名言との対話」1月20日。佐藤義美「ワンワン ワワーン ワンワン ワワアーン」「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」

佐藤 義美(さとう よしみ、1905年1月20日 - 1968年12月16日)は、童話作家、詩人。

大分県竹田市出身。 鹿児島、小倉の小学校を経て、大分県の竹田中学に入学。その後、父の転勤のため、横浜第二中学校に編入。詩や童謡を作り始め、「赤い鳥」などへ投稿、早稲田大学国文科在学中にはすでに童謡作家として活躍した。最終学歴は早稲田大学大学院修了。63年の生涯で3千以上もの作品を残し、「日本のアンデルセン」と呼ばれている。

童謡の代表的な作品に、『犬のおまわりさん』、『グッドバイ』、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。童話集『あるいた雪だるま』は1954年に第1回産経児童出版文化賞を受賞。『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。『犬のおまわりさん』は、死後の2007年に日本の歌百選に選出されている。

2005年1月に竹田市を訪問した。岡城は同じく竹田出身の滝廉太郎作曲の「荒城の月」のモチーフとなった印象深い名城だった。滝廉太郎記念館をみたあと、2000年春にオープンした佐藤義美記念館を訪問した。

晩年を過ごした神奈川県逗子市の建物を再現したもので、大正ロマン漂う木造の洋館である。童謡詩人で、佐藤義美の著作権を継承する稗田宰子が自費で建設し、建物及び所蔵品を竹田市に寄贈したものだ。館内には、再現した書斎、肉筆原稿、愛用のペン、童謡や詩を発表した雑誌などの遺品が展示されている。絵本のビデオコーナーや童謡の試聴コーナーなどもある。

付設のミニホール「このこのおうち」では、現在でも「絵本の読み聞かせの会」等が開催されており、子どもから大人までが楽しく童話や童謡の世界を楽しんでいるそうだ。

この記念館のホームページをのぞく。佐藤義美という人物がこの市にとって重要な人物であることがわかる。竹田市は『童謡・童話の里』を標榜している。竹田市では、1992年から毎年「さとうよしみ竹田童謡祭」と「『佐藤義美賞』竹田童謡作詩コンクール」等が開催されている。佐藤義美生誕100年を機に佐藤義美顕彰と童謡・童話の里づくりをすすめている。

佐藤義美の童謡をみていると、子どもの頃の記憶がよみがえってきた。『いぬのおまわりさん』の「にゃん にゃん にゃなーん」や「ワンワン ワワーン ワンワン ワワーン」、そして『グッドバイ』の「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」などのくり返しのリズムは、私もまだよく覚えている。

童謡には繰り返しが多いような気がする。「きんきんきらきら」で始まる葛原しげるの「夕日」。「ちいさい秋 小さい秋 小さい秋みつけた」から始まるサトウハチローの「ちいさい秋」。「ほうほう蛍こい」から始まる北原白秋の「蛍」。「ブンブンブン ハチがとぶ」から始まる村野四郎の「巣立ちの歌」。「オモチャのチャチャチャ」の吉岡治など。繰り返しのリズム感で気持ちがよくなり、それが長い間、頭に残るのだろう。童謡を思い出すと懐かしく幸せな気持ちになる。童謡の世界の一角に陣取った佐藤義美の童謡はまだまだ、日本の子どもたちに歌われ続けるだろう。童謡詩人という仕事は尊いと改めて感じることとなった。

 

参考

佐藤義美記念館HP

 

 

 

 

 

久恒啓一の「幸福塾」、開講です!

「幸福塾」が始まりました。初回は13人が参加。今日はオリエンテーション

  • ◎幸福学が求められている。
  • 〇日本は人口減少社会へ。成長から成熟社会へ。価値観の転換!
  • 人生100年時代(2050年)。どう生きるか?  ライフデザイン?
  • 〇コロナ禍で、自分自身の生き方の眼が向いた。仕事(公人)から、家族(私人)、何を残すか(個人)への流れへ!
  • 〇自分なりの幸福論(人生論のこと)がなければ生きていけない時代になった。
  • 〇「幸福」という言葉を見かけることが多くなった。
  • 〇新しい「幸福論」(「幸福学」)が求められている! (宗教への関心、スピリチュアルの隆盛、殺伐とした事件、親子関係、孤独、自殺の増加、、)
  •  
  • ◎「幸福塾」の建付け
  • 月2回が原則。水曜日20時から2時間。投げ銭方式。参加型の運営。
  • 1時間:講義。古今東西。歴史上の人物。著名人。仏教。論語など中国思想。西洋の宗教者、哲学者、著作家、、、。
  • 1時間:各人の収集した「幸福へのヒント」の披露と話し合い。
  • 毎回、FBグループの「幸福塾」に学びを書き込むことで学びの共有をはかり、自身とグループ全体の学びを深めていく。

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note 久恒啓一の「幸福塾」https://note.com/metakit/m/mf75a06e13b64

 

以下、参加塾生の「本日の学び」。

  • 幸福塾、オフィシャル第1回参加しました。みなさんありがとうございました。昨年までのおさらいとして、ヒルティの幸福論から始まり、久恒先生の年始からの「幸福」に関係する言葉、論説の収集の披瀝まで、様々な視点から幸福について考えていきました。なかでも、今後社会的に「幸福論」のニーズがどんどん高まっていく、という将来ビジョン、その根拠として成長から成熟社会へ向かっていること、人生100年時代に差し掛かってきたこと、コロナによる価値観の大転換が起こっていることを挙げられ、公人、私人、個人というそれぞれのドメインにおいて、公人(仕事人としての自分)だけでいいのか、私人(家族関係の中での自分の立ち位置、役割)への気付き、そして日本人の最も弱い、個人(自分とそのアイデンティティ)の確立がますます重要になってきているのだ、という本講座の大前提が印象に残りました。異なる価値観から、今後、どのような「幸福」感、幸福「論」が出てくるのか、楽しみです。
  • ご縁に導かれ、幸福塾で学ぶことになりました。「価値観に沿って生活することが幸福である」が印象に残っていて、確かに自分が一番大切にしていることと共にいられることが幸せであることは、頭で分かる。だけど、それを実感できているかと言われると、微妙なところです。幸せを求めて生きているのが人間、ということは幸せは求めてもいいものだとも言えます。求めることにOKを出せる自分であるためにも、揺るぎない自分の価値観を見出していきたいです。生き様からたくさん学び取ります。
  • 本日の幸福塾に参加いたしました。ありがとうございました。前回までのお話を聞き、やっぱりアランの上機嫌療法が気になり、自分の不幸は人に言わない、悲観主義は気分、楽観主義は意志。三木清さんの「人生論ノート」。機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、幸福はつねに外に現れる。ということとつながるなぁと、思いました。また、コロナ禍ではの大きな時代のテーマとして、幸福のヒントを求めている、幸福になろうとする人々の戦い。実現した人が偉人。その生きざまを学ぶことで、幸福について考える。自分の価値観を考える。ことになるのではないかと思いました。毎日、幸福のキーワードへのアンテナたてて過ごしてみようと思います。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 皆様ありがとうございました。幸福塾第1回目は、過去3回のプレ幸福塾のおさらいと絡めて、参加者それぞれの感想に対して、久恒先生が話題や視点を膨らませ、今回の塾の形でもある参加型の形式がイメージできる初回の講座でした。価値観に沿った生き方をできることが幸せ」という意見にとても共感し、「価値観とは自分が一番大切にすること」と表現しなおしていただいたときに、一人のひとにとっても大切にすることは今おかれている環境によってある程度の振れ幅はあるだろうと思うと、幸福は年齢を重ねる中で変化してくるのもある意味当然ではないかとも感じました。次回の講座で、自分の幸福アンテナにかかった幸福のヒントになる言葉を持ち寄る宿題がとても楽しみです。
  • 今日も幸福塾、ありがとうございました。今日、印象に残ったのは1月1日から18日まで毎日拾われた幸福に関する言葉の多様なことでした。参拝の時の言葉、日経の成長の未来図、中国の幸福観、幸福寿命・・・・昔の偉人の言葉もいいですが、こうした現代の私たちを取り巻く様々な幸福に関する言葉から、私たちの生き方を考える手がかりをつかめるのではないかと思いました。また、「ウェルビーイング」という言葉に関して気づかせていただいたのは、カタカナ言葉の曖昧さには注意しなければいけないということでした。ビジネスの世界でもそうだし、教育界も実は「ウェルビーイング」だけでなく「コンピテンシー」「エージェンシー」などカタカナ言葉が流行っています。今後自分が説明できないものは使わないように気を付けたいと思います。今後の幸福塾は後半が参加型になるということで、楽しみですし、宿題に限らずアンテナを張っていい言葉を集めようと思います。
  • 「幸福塾」第1回目、ありがとうございました。幸福に関係する言葉もたくさんあり、それぞれに微妙なニュアンスの違いがあって、面白いと思いました。幸福、ハッピー、幸せ、well-beingなど単語を拾っていくだけでも、同じ語感のものはなく、このテーマの幅の広さ、奥行きも感じました。また、幸福について考えることは人口減少社会と関係があるという視点は、改めて新鮮でした。確かに、人口が増え経済的に成長していた時期よりも、今のほうがより精神的な豊かさに価値を感じることが多い感じます。次回の幸福塾までに「心に残った幸福へのヒントとなる言葉」を拾って参ります。どうぞ宜しくお願い致します。
  • 本日の幸福塾、ありがとうございました。幸福という言葉に惹かれるのは、自分がそうありたいと願うからなのか、人にそうあって欲しいと願うからなのか、その両方か。人の様々な価値観(人生で一番大切にしたいこと)を知ることの積み重ねが、自分の多様性を深め広げていくのかもしれないと、改めて感じました。大変楽しみにしております。
  • 久恒先生、塾生の皆様、本日もお疲れさまでした。「幸福塾」第1回目に参加し、まっさらな状態で皆様と一歩目の足跡を印す事ができ、先ずはこれこそ本日最大の「倖せ」と記したいと思います。相変わらずの勢いで滴り落ちる先生からの情報「シャワー」もさることながら、様々なフィールドから参集された塾生の皆様からは様々な視点からのコメントが出るわ出るわの勢い。私はそれをメモする「防戦一方」な、脂汗だらだらの2時間を過ごさせて頂きました。集めた言葉を組み立てると…①今、皆が不安な心持ちで過ごしている環境(時代背景)には次の2つが有り、②先ずは外的に「価値基準が多様化」して『迷い』に陥る(下手をすると中傷に走る)ものと、③もう一方は「成果主義」や「コロナ」環境のもと内的な『遮断』に陥る(下手をすると巻添え自殺)もので、共に「私って何?」と自分の存在(意義)を求めている。④この「欲求」を満足する為には他人様と自分の「生き様」を互いに見る「俯瞰」が欠かせず、⑤これをドライブするものは「教養」と「努力」であり、⑥何よりもこの状態に誘導する「素直な心」が必要不可欠。…このような思考のもと、まんだらを作図致しました。ご笑納頂けましたら幸いです。また、某アニメーション映画で印象深い「善き哉」(よきかなぁ)の言葉を添えました。2週後の次回に向けて、各自の「倖せの気付き」を持参する旨、早速宿題も頂き、垂直立ち上げの勢いで、ワクワクです。次回も宜しくお願い致します。有難うございました。
  • 昨晩は、「幸福塾」に参加させていただきありがとうございます。帰宅後買ってあった「週刊文春」の年末年始号を確認しましたところ、先生が仰っておられた小林武彦先生の対談記事は、池上彰さんとのものでした。小林先生のことは存じ上げませんでしたので、これを機に関心をもつようにします。これも塾受講の役得です。

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今日のヒント。アンブローズ ・ピアス「悪魔の辞典

「幸福とは他人の不幸を見てわきあがるここちよい気持ちだ」

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「名言との対話」1月19日。水原茂「問題があるときに必要とされるのは、利口者ではなく信頼できる人」

水原 茂(みずはら しげる、1909年1月19日 - 1982年3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督・野球解説者・野球評論家。
現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。日本プロ野球史上の名監督だ。

 現役選手であった1942年に兵隊に取られ、シベリア抑留を経験した。7年後にようやく帰国し、そのまま巨人・大映戦が行われた後楽園球場で観客に「水原茂、ただいま帰ってまりました」と感動的な挨拶をした。7年間のブランクのため、選手としての記録はあまりないが、水原は野球を熟知しており、監督としての記録は輝いている。

水原茂と三原侑の二人は水原小次郎と三原武蔵と並び称された、いわれた永遠のライバルだった。実力の拮抗した好敵手の存在がプロ野球を盛り上げた。

水原茂を深く知るために、野村克也『私が選ぶ名監督10人ー采配に学ぶリーダーの心得』(光文社新書)を読んだ。

名将・野村が高い評価をしているのは、「三原魔術」の三原脩、「血も涙もない勝負師」水原茂、「親分・子分の精神野球」の鶴岡一人の三大監督だった。さらに「人間教育をした」川上哲治、「幸せな名将」西本幸雄が加わっている。

野村は日本プロ野球史のなかで水原茂をこう評している。納得させて選手を動かすタイプ。勝つためにはどうしたいいか。選手への接し方や勝利に対する意思については一本芯が通っていた。上を向く選手には温情もあった。5年連続セ界を制した「巨人の第2期黄金時代」。水原の背番号「30」はアマチュア野球の監督の背番号という伝統。進取の気性。

野村克也は、選手として、監督としてともに一時代を築いた野球人である。さらに野球に関する文筆活動で、プロ野球界に大きな貢献をしている。内部で起こっている人間ドラマや野球世界を存分に描き出したことは、だれにもできなかったことだ。

プロ野球に人はなぜ熱狂するのだろうか。猛者ばかりの集団が織りなす戦国の世は人生の縮図である。そこには実力と運に支えられた栄光と敗北の物語がある。この集団を率いる監督たちは日本的リーダーのあり方を教えてくれる。問題が起こったとき、誰と心を割って相談するか。頭がよいアイデアマンか、そうではない。心から信頼する人である。水原茂はその機微を知っていた。

 

参考。

「50代で考えたい。人生後半で輝く生き方と自分に合った仕事」ーー「ヤフーニュース」で取り上げてもらいました。

幻冬舎ゴールドオンラインの連載を、ヤフーニュースで取り上げてもらいました。

50代サラリーマンで「私に合った仕事」がいま就いている仕事と合致していて、仕事に満足している人は天職に就いているといえます。しかし、合致せず、むしろかけ離れている人はすでに「中年の危機」を迎えているかもしれません。そういう人はどうすればいいのでしょうか。久恒啓一氏が著書『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)で解説します。

目次。

「5W2H」で自分に合った仕事がわかる

■「WHO」「関心」「能力」をチェックする

■「WHY」自分の「価値観」を確認する

■「WHEN」どんな「時代」が来るかを考える

適職についていないという「中年の危機」

■「WHAT/WHERE/HOW」で仕事を選択する

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「ヤフーニュース」で流れると、アマゾンの順位はやはりアップします。

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今日のヒント。『人生の名言1500』(宝島社)

川端康成「一生の間に一人の人間でも幸福にすることができれば、自分の幸福なのだ」

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明日からの「幸福塾」の準備。1万歩。

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「名言との対話」1月18日。石原莞爾「私は若干の意見をもっていた。意見のない者と、意見の対立はない 」

石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)1月18日- 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。

山形県鶴岡市生まれ。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮したことで知られる。 1909年陸軍士官学校、1918年陸軍大学校卒業。ドイツ駐在。陸軍大学校教官などを歴任後、1928年中佐、関東軍参謀。
その後、ジュネーブ軍縮会議随員、参謀本部作戦課長などを経て、日中戦争勃発時 (1937) の参謀本部作戦部長、次いで関東軍参謀副長。対ソ戦準備のため、戦線拡大に反対した。 1939年東亜同盟発足に伴いその指導者となる。19 41年東条英機陸相に批判的であったため、現役を追われ、中将で予備役に入る。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について) 

2019年発刊の新書版の石原莞爾『世界最終戦争』(毎日ワンズ)を読んだ。再刊版である。

第一部「最終戦争論」:戦争史の大観。世界最終戦争。世界の統一。昭和維新の目標。仏教の予言。結び。

第二部「戦争史大観」:戦争史大観の由来。戦争大観の説明。戦争指導要領の変化。会戦始動方針の変化。戦闘方法の進歩。戦争参加兵力の増加と国軍編成。将来戦争の予想。現在に於ける我が国防。

石原の戦争観は、「戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するもの」ということだ。戦争においては、敵に損害を与える、損害を我慢すること、その二つが大事だ。今後の戦争は、決戦戦争となる。老若男女、山川草木、豚も鶏も。空軍による真に徹底した殲滅戦争になる。もはや軍艦、大砲の時代ではない。空中戦が主体となる。量の時代から、質の時代へ。ニューヨーク、モスクワの空爆できる世界一の空軍を建設すべきだ。

太平洋を挟んで空軍による決戦。相手は西洋の覇道の王者・アメリカである。決戦兵器とは、一発あたると何万人もがペチャンコになる新兵器だ。世界最優秀決戦兵器の創造と防空対策の徹底。この2点が肝要だと主張する。原子核破壊による驚嘆すべきエネルギーを武器とする道を示している。つまり原子爆弾を意味している。他にも地下の放熱物体、成層圏の上の空中電気、水素の活用、なども視野にあった。

防空については、都市人口の大縮小をはかり、防空都市とする。中等学校以上は全廃するなどの教育制度の根本革新を行い戦争に対処する。それは最終戦争必勝のための昭和維新の断行である。

東洋の王道と西洋の覇道の最終決戦が迫る。そのために、日本と満州を中心とするアジアの国々の連邦である東亜連盟の建設など昭和維新の断行が必要だ。

以上が有名な石原莞爾の構想である。「信仰によって直感している最終戦争を、私の専門とする軍事科学の貧弱な研究により、やや具体的に解釈し得た」と後に質問に答えている。信仰とは日蓮法華経信仰である。

2015年に岡山県浅口市の仁科会館を訪問したことがある。仁科芳雄博士によるウラン濃縮研究が密かに行われており、サイクロトンという原爆製造装置の実験が行われていたことを知った。1935年(昭和10年)には原子核実験室でサイクロトンを完成させていた。その模型を見たことがある。石原はそのことを決戦兵器と呼んだのだ。仁科は広島に新型爆弾が落ちた時、これは原子爆弾であると即座に断定した。占領米軍は東京湾の海底に投棄している。

石原莞爾は、独立不羈、奔馬にような性格であった。 莞爾とはにっこりほほえんでいるさまを表すのだが、実際の石原はどうであったろう。莞爾は『論語』陽貨編に出てくる「夫子莞爾として笑ひて曰く、鶏を割くに焉ぞ牛刀を用いん」からきている。

満州事変を先導した石原莞爾については、戦犯の候補にもなったが、『世界最終戦争』を読む限り、大構想家であることはわかるし、再評価する向きもある。

2013年に鶴岡を訪問したとき、大宝館で先人たちが顕彰されていた。このとき、石原莞爾が紹介されていたことを思い出した。戦後、東条英機との確執を問われたとき、石原莞爾は「私は若干の意見をもっていた。意見のない者と、意見の対立はない 」と答えている。痛烈な批判である。この「若干の意見」が「世界最終戦争論」であったということだろう。

 

 

東京MXテレビ「寺島実郎の世界を知る力」ー3・11とコロナ禍の違い。MMTとベーシックインカム。山本五十六の本質・評価・教訓。

16日(日曜日)の東京MXテレビ「寺島実郎の世界を知る力」。

以下、図メモです。

3・11とコロナ禍の違い。MMTベーシックインカム山本五十六の本質・評価・教訓。

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立川で整体。知研の福島さんとミーティング。1万歩。デメケン。

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今日のヒント 

・「ハッピー・リタイヤメント」(happyと幸福は同じ意味か?)

・前野隆司(慶應義塾大学大学院教授)「ハッピーは短期的な心の状態を表す感情。幸福は長期的なある状態。健康を含めた幸福ならウェルビーイング」。

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「名言との対話」1月17日。細川隆元「悪友は善友に優る」

細川 隆元(ほそかわ たかちか、1900年1月17日- 1994年12月19日)は、日本の政治評論家・衆議院議員

熊本県熊本市出身。五高を経て東京帝大を卒業し、朝日新聞社に入社。政治部長、ニューヨーク支局長、編集局長を経て、1945年参与。1947年に社会党から衆院議員に当選、片山内閣の渉外部門で活躍した。次の選挙で落選。以後政治評論家として活躍。1958年から始まったTBSの「時事放談」は1987年3月まで30年間続き、時局時世をその鋭い舌鋒で切りまくり人気を集めた。

中教審や宇宙開発審などの委員を多数歴任し、政府のブレーン的役割も務めた。著書は「昭和人物史」「実録朝日新聞」「田中義一」「朝日新聞外史」「戦後日本をダメにした学者・文化人」「隆元のわが宰相論」「男でござる」(全2巻)「天皇陛下と語る」など多数。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)から)

『隆元のはだか交友録』(山手書房)を読んだ。交友の相手は多彩だ。

越路吹雪吾妻徳穂飯田蝶子藤田小女姫河野一郎佐藤栄作。佐藤弥。橋本登美三郎。保利茂緒方竹虎小汀利得。今道潤三。伊志井寛。伊牟田直敏。末延三次。矢次一夫。

秘密の話、名誉にかかわる話も多い。ここに紹介された男たちはほとんどが悪友だといえるだろう。以下、面白いところ。

武原はんは大仏次郎の彼女だった。

霊感の美女・藤田小女姫に占ってもらったら、「あなたは一生涯金はたまりません。そのかわり、ほしいと思う時は自然に金が流れてきます」といわれたという。

朝日新聞同期入社の河野一郎はから、裏口入社で入ってきたんだといわれる。

佐藤首相は「僕の内閣は2年もつだろうか」と僕に聞いた。

池田勇人総理の浮気による家庭騒動のさわり。
小学校時代の恩師から得たものが大きく、「体の中に滲み渡るような教えというものは、小学校教育にあるのではなかろうか」と述べている。

佐藤栄作は、大変律儀で友情に厚い人柄の持ち主であった。友人、知人への叙勲の話。
熊本済々黌に入学し野球の選手になった。ライバルは熊本中学である。川上哲治済々黌に入ろうとして落ちてしまい、やむなく熊本工業学校に行った。野球の神様・川上に影響を与えたことが自慢。

支那」という言葉は、chinaからきており、悪い意味ではなく、尊敬のニュアンスを含んだ言葉である。

朝日新聞の先輩の方竹虎から「下品な手は絶対遣ってはいかん。堂々とタネを取れるだけの頭と信用を得ることが大前提だ」と教えらえた。朝日の若い村山社主は緒方に対する嫉妬心があった。

細川隆元で思い出すのは、何といっても小汀利得との「時事放談」だろう。

小気味よい語り口で、政治、経済、外交等を切って切って切りまくる名物対談であり。わたしも楽しんだクチだ。毎週土曜日に30分の間に2人で話す。この二人の番組は13年間続いた。その後も相手を変えて長く続いている。

1957年7月から日曜日のTBSの早朝番組として放送され、朝日新聞出身の細川隆元日本経済新聞出身の小汀利得の歯に衣着せぬ毒舌が評判を得ていた。小汀は1970年6月7日放送分で番組を降板。以降は、細川と藤原弘達、土屋清、加藤寛斎藤栄三郎らなど国会議員や政財言界の主要人物らを招いた。30年目の1987年3月に同放送を終了した。以後は『日曜放談』と題して1992年3月まで放送された。

「悪友は善友に優るというのが、僕の人生観だ」は、「まえがき」の冒頭に記されている。細川によれば、善友は互いにいい面だけの交友であり、ありがたい友達としている。淡々とした交友が続く。悪友はたやすくつくれるものではない。相手を救ってやろうと真実の友情が湧きおこる友である、ということになる。

善友は、荘子のいう「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」の君子の交わりを指しているのだろう。醴はあまざけと読む。甘酒のことだ、

悪友とは何か。悪いことを一緒にする仲間、遊び仲間、愉快な友、というほどの意味がある。もっというと、心を許した友という意味合いが強い感じがする。

善良な友人、益がある友人を示す善友よりも、悪友の方が大事だということになる。悪友という言葉の中には善友よりもやや格の落ちる良友の意味も入っていると考えるべきなのではないだろうか。

 

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)