駅前のダンスイベントをひやかし、古本市をブラブラした日曜日。

快晴の日曜日。駅前を楽しみました。

子どもたちのダンスイベントを見物。両親や祖父母たちのカメラ撮影の熱心な姿がなかなかいい。

古本市をのぞく。あまりに安いので、つい買ってしまう。地元以外に、吉祥寺、船橋あたりの古本屋などが出ている。

竹内宏『「元気」の経済学』(PHP)。塩谷賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)。樹木希林『一切なりゆき』(文春文庫)。『巻頭随筆Ⅱ』(文春文庫)。紀田順一郎『四季芳書ー読書人の日常』(実業之日本社)。戸板康二『役者の伝説』。山口洋子『百人の男』。締めて1500円也!

朝の神社への往復と午後の駅への往復で8200歩。過去7日平均7400歩。過去26週間7600歩。2つの駅から、歩いてそれぞれ16-17分の距離。駅からある程度、遠いところが住むのが健康にいい。昨年は年平均で7400歩あたりだったから同じペース。何とか1年を通じて8000歩にまで、もっていこうとは思っているが、、。

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三國連太郎

「名言との対話」4月14日。三国連太郎「でも、名優と呼ばれたらおしまい」

三國 連太郎(1923年(大正12年)1月20日 - 2013年(平成25年)4月14日)は、俳優、映画監督。

飢餓海峡」「神々の深き欲望」など幅広いジャンルの作品に多数出演した。1988年から22年間にわたって続いた映画「釣りバカ日誌」シリーズでは鈴木社長ことスーさん役をコミカルに演じて人気を博した。

自身の著作『白い道ーー法然親鸞とその時代』が話題になり、1987年には自ら監督を務めた「親鸞・白い道」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。この本が出たとき、私の関与していた勉強会で講演の依頼をしたが、なかなかつかまらず、返事はなく断念したことを思い出す。

戦争で中国から引きあげた時に、木下恵介監督と偶然に出会い、全くの素人ながら『善魔』という作品にでることになる。若い記者「三国連太郎」役でのデビューだった。それを芸名とした。この出会いがなければ、俳優にはなっていなかったと述懐している。「人は一人では生きられない。だからこそ、人とのかかわりに人生は大きく左右されます」という言葉は本音だろう。

「役者業は、趣味と実益を一緒にしてしまった素敵な世界」であり、「役者に年齢は関係ないし、演じることが僕の生きがい」だった。人々の生活の糧になるような映画に出ることを希望しており、死ぬまで正々堂々と歩くことができれば、自分自身の中で敗北することはないという考えだった。

私生活では4度結婚している。また結婚には至らなかったが、女優・太地喜和子との熱愛、同居も話題になった。3人目の妻との間に生まれた息子の佐藤浩市は小学3年生のときに、三国は映画をつくるため家族を捨てて家を出る。テレビのインタビューで俳優となった佐藤浩市が父のことを聞かれて「ひどいよ、そりゃ」、「世間一般の親子ということでの会話はできないんです。僕と彼との間に介在したのは役者という言葉だけなんです。ですから、父親として、どうのこうのということはいま言えません」と語っていたのを見たことがある。

佐藤は19歳のときに同じ道を進むことを決意した。「そのことを告げたのは早稲田駅のホーム。三國はそうかと一言いって、電車に乗って行った」。後に『人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じる。『笑っていいとも』に出演した際に「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。

BSで繰り返し放映されている『寅さん』シリーズの後が、『釣りバカ日誌』だったので、西田敏行三国連太郎の演技はよく見ている。釣りマニアの社長役を楽しんでいる。

三国連太郎は、役作りに徹した鬼気迫る演技を行う俳優だった。老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたことで、顔を腫らしたエピソードもある。役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になることもしばしばだった。

以下、三国連太郎の俳優哲学。

  • イメージに限定されてしまうのは、役者の堕落。
  • 芸を極めたなんて、とんでもない。まだまだこれから少しづつ階段を上っていかなくては。
  • 役者というのは、挑戦する以外にない。
  • 明日の芝居を考えていると、今日の生活が役と同じになってしまうんです。
  • 「自分の才能にプライドを持つ」ということ。志を高く、誇りを持って突き進むことで、人生を実り豊かにしてくれる出会いを引き寄せて欲しいです。
  • 名匠たちの良心に応えようとして今までやってきました。
  • でも、名優と呼ばれたらおしまい。

不器用を自覚していた三国連太郎は、演じている役柄で人格が変わってしまう。芝居のことを考えていると、生活と役柄が同じになるという。不器用だからこそ、役作りに徹底するから、名優というより「怪優」とも呼ばれるにふさわしい存在になった。

 

産経新聞 ENAK 「釣りバカ日誌」20作品目 俳優、三國連太郎に聞く

 

 

新雑誌「イコール」創刊パーティを開催。すてきなコミュニティのゆるやかなネットワークが増殖中!。

新雑誌「イコール」創刊パーティが外苑前のシェアラウンジ神宮前内FlatBaseで盛大に行われました。

第一部。

  • 『イコール』編集長の橘川さんの創刊の趣旨説明と来賓の紹介を兼ねたアジテーション
  • 私の『イコール』(知研責任編集)の「アクティブ・シニア革命」のアジテーション。「新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワーク、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところで発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する」「一人の人間が、一年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得る、、、、100年で100億人。速い革命、、破壊する革命ではなく、創造する革命」

第二部は、ラウンジでの懇親の時間。緩やかな交流会。ラウンジのあちこちで新しい関係が生まれている。すてきなコミュニティの生成の瞬間。私も多くの新しい友人を得ました。

最後に、集合写真を撮って終了。毎回感じることだが、全国から集まったイベントスタッフのチームワークのよさに感心。ありがとうございます!

Natsuki Nobu。You Ogasawara 『イコール』副編集長、AR三兄弟三男。ゴンザレス 上智大学神学部4年。まきりか 作曲家・脚本家・海辺の出版社代表。松永統行 国際社会経済研究所主任研究員。伊勢 司 NTT出版 出版本部長。伊藤正人 深呼吸学部塾生。越智二朗 クラウドクロッシング株式会社。遠藤 諭 元東京おとなクラブ編集長。垣内武 久恒図解塾幸福塾塾生。吉池琢磨 『イコール』スタッフ。橘川幸夫 『イコール』編集長。久恒啓一 NPO法人知的生産の技術研究会理事長。宮下英一。近藤千恵子 第二次深呼吸学部。高橋信行今井陽子 深呼吸学部塾生。佐々木浩産経新聞 夕刊フジ。左田野歩。最中義裕 真崎守研究家。山本コヲジ フローフロー。森 誠一郎 出版社再雇用勤務中 編集コンテンツ系。森上博司。森嶋良子。深谷康雄 知的生産の技術研究会 幹事。深谷桃子 深呼吸学部塾生。仁上幸治 図書館サービス計画研究所 代表。西山カオリ 第二次深呼吸学部。青海エイミー 作家。石花ちとく 石花師。石橋毅史 文筆家。川島和子 信頼資本財団理事長。浅沼正治 深呼吸学部塾生。浅野耕一郎 東京国際工科専門職大学講師。多田洋一 文芸創作誌「ウィッチンケア」発行人。大久保 青志 レーベン企画。大村紫乃 よりみち愛好家。大野誠ライフシフト・ジャパン 代表取締役CEO。地蔵真作 リブライズ。中島映介 合同会社Nakajimaya 代表。津田一樹。田原真人 デジタルファシリテーション研究所。田中よしこ。渡辺幸弘(ギリークラブ代表)。渡邉 啓 日本パブリックリレーションズ協会 常務理事。渡邉ちか 第二次深呼吸学部1期生。都築功 知的生産の技術研究会。道下裕史。南谷真 第二次深呼吸学部。楠 泰三 第二次深呼吸学部。入江武彦 シンエイ動画株式会社 常務取締役.。梅田雄基 受験マネジメントサロンBiden・塾長。柏木 誠。淵上周平 シンコ。平井太郎。平野友康 株式会社メタコード。片岡利允 軽井沢風越学園など。片岡玲実奈。堀鉄彦 公益社団法人著作権情報センターコピライト編集長。力丸萠樹(知研)。鈴木 敏行 アキバテクノクラブ・事務局長。國井正人 株式會社クーニーズ代表取締役小泉吉宏 マンガ家。芹沢類 作詞家。
配布したチラシ
説明がありません

第一部の会場の様子。


名刺交換した方々。

終了後は、都築さん、垣内さんと居酒屋で懇親。

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朝はヨガ教室で1時間。

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「名言との対話」4月13日。小池滋「余はいかにして鉄道愛好者となりしか」

小池 滋(こいけ しげる1931年7月15日 - 2023年4月13日)は、日本の英文学者。享年91。

東京都出身。東大文学部、大学院を経て、1959年から東京都立大学に奉職。1980年教授。1989年に退官し、東京女子大教授。2000年に退任。

19世紀ビクトリア朝文学を専攻。ディケンズの研究、コナン・どいるの「シャーロック・ホームズ全集」の翻訳、風刺新聞「パンチ」の翻訳も行った。イギリスの大衆文化に造詣が深い学者である。著作に「ロンドン」「ディケンズ」などがある。

小池滋という名前は英文学者としてよく知っていたが、一方で鉄道史の研究家としても多くの著作を発表している。文学作品の背景にある鉄道に関心が広がったのである。1979年刊行の『英国鉄道物語』は毎日出版文化賞を受賞するほど高い評価を得ている。

1977年から1年数か月、私はロンドンに駐在したが、事前に小池滋の著作などを読んでいる。私は滞在中に「英国経済とシェークスピア」を研究対象にした。小池滋ヴィクトリア朝時代に興味を持た。後に、親しくなったホームズ研究の河村幹夫先生(三菱商事の駐在員として英国に住んだ)と同じだった。国の勃興期には国力の総力を挙げて、インフラをつくり、文化も花開く。だから産業革命時代のヴィクトリア女王時代が面白いと小池滋も河村先生も考えたのだ。したがって、私が選んだシェークスピアより、ホームズの方が実りが多かったのだ。この点は今も残念に思っている。

幼いころから鉄道が好きだった小池滋は、本業である英国研究を深める中で、鉄道研究にものめり込んでいく。英国の鉄道保存運動、そして日本でも鉄道車両の保存運動にも参加している。

「鉄道」という対象は、多くの人を魅了してきた。鉄道マニア、鉄っちゃんの数は今も飛行機マニアに比べて圧倒的に多い。この名言との対話でも、鉄道を研究対象にした人を取り上げている。

阿房列車』の内田百閒。『南蛮阿房第2列車』の阿川弘之。『時刻表2万キロ』を書いた時刻表極道の宮脇俊三「鉄道院周遊俊妙居士」との戒名をもらった『気まぐれ列車』の種村直樹、、、。鉄道は旅行と結びついているため、こういう人たちの本には、愉快なエピソードが満載となっている。

2007年には小池滋は『余はいかにして鉄道愛好者となりしか』が刊行されている。ディケンズ研究の第一人者にして無類の鉄道マニアの自伝的作品である。豊富で多彩なエピソードや蘊蓄が語れられている。この本はまだ読んでいない。私もいつか『余はいかにして〇〇になりしか』という本を上梓したいものだ。その場合、〇〇は何になるだろうか、と空想する。

 

 

 

 

 

 

「有限と無限」ーー小椋佳の人生と、私の「名言との対話」

埼玉県川口市・シクラメン - 草花(11月撮影) - 無料写真素材 - あみラボ

ラジオ深夜便小椋佳(1944年まれ)の数年前のインタビューを流していた。

彼は49歳まで第一勧銀の銀行マンとして仕事をし、一方で日記をつけるように歌をつくっていたが、それがたまたまヒットしていく。その間、組織と個人の葛藤はあったものの、「銀行は寛大に無視してくれた」、と語っていた。この人は自然体の人だ。

そういえば、1997年に開学した宮城大学に翌年夫妻で訪問してもらったことを思いだした。野田一夫学長に会いに来たのだ。夫妻を私が学内をご案内した。翌日、小椋佳と野田先生はゴルフに出かけ、野田先生はホールインワンを達成した。人生2度目である。1度目は50歳の時に、城山三郎とまわった時だという。先生の腕前は私とチョボチョボだったから、ついている人は違うなあと感心したことがある。

さて、このラジオで、小椋佳は、銀行での仕事は「有限」の中から最適と思われる解決策を選択することであり、作詞作曲は「無限」の言葉や音の可能性の中からの選択だった、と発言していた。

自分の場合はどうだろうか。「有限と無限」をキーワードに考えてみよう。私は47歳までは「公人」としては企業のビジネスマンだった。仕事は同じく有限の選択肢の中で選択して問題の解決にあたっていた。その間、「個人」という側面では知研という場で、仲間と知的生産に関する修行もしていた。この辺りは、小椋佳と同じである。

47歳で転身し大学教員になって、公人としては「教育」と「運営」という仕事がメインとなった。「研究」については半分は出版社という他から要請、半分は自分の希望で、著作を量産することになった。これは、「半他半自」とでもいう時代だった。

そして数年前に公人という制約を脱した今は、時間を自由に使って、知的生産にいそしんでいる。最近は「連作と大作」をテーマにしているのだが、それとの関連で毎朝ブログに書くことが習慣となっている。それはもう7000日を越えており、途中で始めた「名言との対話」も3000日を越している。ブログは日誌であり、そして日記である。

「名言との対話」はその日に亡くなった人や生まれた人を選んでいる。今では弔辞、蓋棺録、墓碑銘といった色彩が強い人物論になっている。

命日と誕生日という視点で選んでいるから、どんな人があらわれるかわからない。職業、男女など、こちらの好みは許されない。難しい面もあるが、「今日はどんな人に会えるだろうか」との楽しみもある。

対象の人物は、日本の近代から現代の人であり、江戸後期の文化文政時代以降なので、「無限」であるといってもいい。一方で、その日にあらわれる人物は、例えば「明治命日編」など年によって時代区分を決めていることもあり、一日一人であり、「有限」といういうより、むしろ強制的に「限定」されることになる。「一日一殺」であるから、集中してなんとか続いている。

この活動をある人は「修行僧みたいだ」と言った。この修行を続けることで200年を越える膨大な時間と日本全国という広大な空間の中を旅をしている感じがある。いわば「日本近現代史の旅」である。早朝に一人の人物と向きあう時間では、人物論、人間学、日本人論を学んでいるとの幸福感に浸ることもある。

無限の時空の中から、歴史の中に生きる特定の人物から、自分のことを書け、書けるかと挑まれている感覚もある。その課題をにらみながら情報を集め、脳力を振り絞ってなんとか書いてるのである。

歴史と地理の交点という有限の一点を見つめて崖っぷちを歩きながら、遥か彼方に無限の世界が広がってることを感じるようになった。テーマが深まっていくこの過程で、歩むべき道が見えてくる。ライフワークとはこのようにしてあらわれるものかもしれないと感じている。

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「川柳まつど」4月へ12句を投稿。

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「名言との対話」4月12日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山命名は、マーガレットの愛称である「ペギー」に、御用邸がありいい感じのサウンドの「葉山」をくっつけたものである。

門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(KADOKAWA)を読んだ。

 「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山ジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レは「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

ペギーの夫は10歳ほど年上の俳優の根上淳である。二枚目スター、悪役、渋いわき役をこなす名優だ。

「歌を?なんでやめなきゃいけないんだい」という言葉は、プロポーズの時に仕事を辞めたくないというペギーに対しての根上の返事だった。続いて 「村の文化祭のスターならともかく、立派なプロの歌手のあなたがやめる必要なんかないだろう。それにこれからの女性は社会とのつながりが必要だよ。どんどん女は仕事すべきだよ」と言ったそうだ。それが決め手になった。

根上42歳、ペギー32歳での結婚である。本名は森不二雄と森繁子。同姓だ。そしてどちらも東京中野生まれ。年下の江利チエミは「おめでとうペギー! あなたの旦那様、私の初恋の人なのよ。私の大切な人を幸福にしてくれなきゃ承知しないわよ。アハハハ、、、」と二人の結婚を祝福した。二人はおしどり夫婦として有名だった。それを証明する夫婦の共著『代々木上原めおと坂』では、根上淳は妻を「信頼できる同志、戦友、上官殿」と語っている。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。

 

 

 

知研セミナー:原尻淳一「学びの再設計」ーーー「創造的聞き取り法」を試してみました。

知研セミナーのゲストは「知図」教育を展開している原尻淳一さん。テーマは「学びの再設計」。17名の参加。

 

講演を聴きながら自分の考えの補強に使うという「創造的聞き取り」を試してみる。自分の考え、カッコ内は原尻さんの講義内容による自説の補強。

  • 理解・企画・伝達のサイクル(理解「歩・あるく」「集・あつめる」。企画「想・あらわれる」「交・あわせる」。伝達「説・あらわれる」「伝・あらわす」
  • 認識・創造・表現のサイクル(仮説の星座と表現の星座)
  • 考える力の欠如(自前の母胎づくり、近代教育で失ったもの)
  • 地図(ノイズ「地」・シグナル・コンステレーション星座「図」。
  • 図解文章法(なりきり文章法の有効性。寺田寅彦森鷗外)。
  • 現場主義による実践知の獲得(フィールドワーク重視のイノベーションの方法)
  • 手帳と記録(発見の手帳。野帳。細部の構造はスケッチ「知図」。
  • 演繹法より帰納法(借り物でなく、フィールドワークの積み重ねによる事実の発見=帰納法
  • 知的実務家の時代(フィールドワークから理論化へ。文化人類学
  • 文献研究(知図:江戸時代の博物学者・本草学者:太田南畝・菅江真澄・国友一貴斎・松浦武四郎・鈴木牧之。南方・牧野・宮本・今西・梅棹・川喜田・ダ・ヴィンチのメモは3万枚)
  • 生成AI(ジェネレーター)

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知研幹部会:セミナーの前に開催:役所手続き報告。セミナーの予定。イコール知研版。13日のパーティ。サーバー・ドメインの費用、、、

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ルパンらキャラクターに囲まれ、モンキー・パンチさんを偲ぶ会 : スポーツ報知

「名言との対話」4月11日。モンキー・パンチ「水分がなくなった手ぬぐいを絞って一滴が出るか出ないか。これが勝負」

モンキー・パンチ本名加藤 一彦(かとう かずひこ)1937年昭和12年〉5月26日 - 2019年平成31年〉4月11日)は、日本漫画家。享年81。

北海道出身。手塚漫画の影響を受ける。雑誌『漫画ストーリー』でデビュー。編集長の命名モンキー・パンチが定着してしまう。1967年から『漫画アクション』で「ルパン三世」の連載を開始し、大ヒットとなる。大人のための作品を書き続け世界的な人気キャラクターを生んだ「青年漫画」の開拓者である。「ルパン三世」「一宿一飯」などアニメ化された作品も多い。

2003年、66歳から先に進むために勉強しようと東京工科大学大学院の修士課程で学ぶ。その後、大手前大学教授、東京工科大学客員教授として教鞭をとっている。

またアップルの初期からのユーザーであり、漫画のデジタル表現の最先端を走った。20033年にはデジタル漫画協会を設立し会長に就任している。

NHK「あの人に会いたい」では、漫画製作について「水分がなくなった手ぬぐいを絞って一滴が出るか出ないか。これが勝負」と語っているたのが印象的だった。

手塚治虫記念館で知った漫画製作の締め切りの苦労、石ノ森章太郎記念館で、休みは1月1日だけ息子が語っていたほどのすごい勉強量と仕事量、文部省主催の美術雑誌の座談会で直接聞いた矢口高雄の話など、この「名言との対話」で漫画家を何人も紹介してきたが、漫画かという職業は並大抵の苦労ではないことがわかった。漫画家には鉄の体が必要のようで、手塚が60歳で亡くなたように短命の人も多い。彼らは脳からアイデアを絞り出している創造家なのだ。

すでに大御所となっていたモンキーパンチが66歳から大学院で勉強しなおして再出発したことを知って感心した。いわば定年後に大学院で学び直して、80歳までの「実年期」でギアをあげさらに充実させ、そして人を育てることに尽力した人生であった。その実績に対して、アニメ功労賞、北海道新聞文化賞などを与えらえている。

 

「図解塾」7期ーーー「図解ジャパン」プロジェクトが発進。

「図解塾」7期。「図解ジャパン」プロジェクトと命名します。

「日本文化」編を開始しました。次の2つの図「囲碁」「和服」は、できあがりのイメージ図。「規定科目」と「自由科目」の2つでやっていくことにしたい。

 

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。いつものとおり久恒先生ブログの話題で肩慣らし。今回は『読書』まつり、久恒先生が読まれた本・作者に関連したトピックスについてお話を伺いました。①内田樹(うちだ たつる、1950年9月30日~フランス文学者/武道家)『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス):2011年、神戸に建てた『凱風館』(がいふうかん)、1階が道場(合気道能楽)で2階が自宅。学生・卒業生・道場の門人たちが集う、疑似家族的な「緩いコミュニティ」「ゲノッセンシャフト(横の信頼関係により構成される人為的団体)」を目指している。⇒これは橘川先生率いる「深呼吸学部」と同じコンセプトじゃないか!こういうコミュニティ同士がコンバインすることにより、何か新しい流れが生まれるかもしれない…期待を込めた久恒先生のお言葉に俄然ワクワク。同時に、そうなった際に相手との交流に気負うことなく「イノセント」に、自分は果たして伍して行けるだろうか?と少々緊張…日々の研鑽大事!。②今村省吾(いまむら しょうご、1984年6月18日~  小説家、書店経営者)『戦国武将を推理する』(NK出版):歴史は「現在起こっている事」と絡めて学ぶと共感から俄然理解が深まる…戦国武将を現在の環境に当てはめるとどうなるか?信長:スティーブ・ジョブス大谷翔平に匹敵するスーパースター。秀吉:契約社員から大企業の役員へ大出世した叩き上げ。家康:幼少~青年時代を人質として過ごした期間はまるで海外留学、分析・武芸ともに秀でた全方位型エリート。…まさに温故知新!③館神龍彦(たてがみ たつひこ、フリーライター・編集者、手帳評論家)『スマホとメモ帳を最強のバディにしよう』:「段取り」というコトバがカギ。直面する課題解決の「プロセスが解る」ようになり、その周辺工程含めて仕事全体を掌握する事ができる⇒マネージャの条件。また、仕事は早く手を付ける事⇒必ず「伏兵」が潜んでいるから、ぎりぎりでは上手く行かない。…仕事の極意、納得!。④川嶌眞人(かわしま まひと、1944年~、整形外科病院 理事長)『玄真堂と私の歩み』:故郷に戻り「世界水準の医療を」の志のもと大病院を開設。「不撓不屈」の精神:キレない、諦めない、くじけない…年度の狭間でもって怒涛の業務(ふじょうり、と読む)を抱えた今の心境に沁みました。オレガンバル!。⑤見田宗助(みた むねすけ、1937-2022、社会学者)『現代社会はどこに向かうか』:無限の追求が破綻した今、新しい世界の「萌芽となる集団」の「増殖」と「連合」が課題解決(=創造する革命)へのカギとなる…まさに「深呼吸学部」の姿そのものではないか!やわらかいココロとアタマでコラボしていくスタンス…来る4月13日実施の『イコール』トークライブを控え、大変ワクワク致しました。さて本題。本日始動、Japan図解プロジェクト。『日本を知る105章』(平凡社刊)を題材に「日本の文化、社会」を表す、「知ってるようでなかなか説明できない」105のキーワードについての日本を代表する作家・文化人による執筆を1枚ずつパワポで『図解』して行こうという試み。「いき」「生け花」「インスタントラーメン」「花火」「箸」「日光東照宮」「法隆寺」「忠臣蔵」「和歌」「歌舞伎」…多数。そういえば「第2期図解塾」(2021年)にその一部の図メモ化を行っており、当時作成したそれらと久しぶりに再会する事が出来ました。担当した「単元」について書かれている話の筋を、忠実に図メモ1枚で表現するというお題でしたが、当方が担当した話題は戦前~戦後を生き抜いた随筆家が最晩年に書き記した単元で、サイドストーリに登場する「古美術商」との関わり合いや旅の模様、登場する専門用語などがとにかく新鮮で、話の筋そのものはそこそこに夢中で調べて図メモ化したことが鮮明に思い出されました。単なる作文ですと、おそらく何も記憶に残っておらず3年前の成果物について何も語れなかったでしょうが、図を眺めていると作図当時が思い出され、どんな話であったか思い出し解説でき、その点において、やはり誤解を生じさせ易い「文章の羅列」とは違った、「図解」ならではの「解り易さ」「明確さ」がちゃんと機能している点を改めて認識出来ました。また当時の塾生の手になる図解夫々には、作者の個性がにじみ出ているという点も今回改めて確認することが出来、大変興味深かったことが印象に残りました。原文に対し忠実に図解化させるべきところを、装飾過剰気味な当方図メモの仕上がりは今見るとちょっと気恥しく、その辺も改めて考慮が必要と感じられ、それらを踏まえながら新たなステージへ心機一転取り組んでいこうと思いを新たに致しました。有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今日から第8期(?)の講義が始まりました。テーマは「図解ジャパンプログラム」。内容としては『日本を知る105章』(平凡社)の各章を図解することになりました。この課題については、第2期の期間(2021年3月)にそのうちの一部を図解したことがありましたので、参考としてそれらの紹介もありました。久恒先生から「図解には作成者の個性が出てくる。」と言われて、改めて一つひとつを見てみると、確かにその通りだと思いました。それぞれの図解は『図解塾第2期レポート』に掲載しましたので、講義を受けた当時のことやその期間に参加されていた方のこと、レポート作成時のことなどが思い出されてきて懐かしかったです。今回はすべての章を順に図にしていきますから、課題によっては第2期の作品と比較することもできます。3年経って、私はどんな図を作成できるのか、自分の個性は変化してるのか、よりわかりやすい図になっているのかなど、自分自身、比較するのが楽しみです。緊張しますが、チャレンジしますのでよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。いつも通りみなさんの近況から始まり、久恒先生の「本を読むと、触発され、自分の考えが深まっていくのがよい」ということ。また、「段取り」が大事。とのこと。聞いているだけではいけませんね。実践していかなければなりませんね。来週からは、「日本文化」の図解。図解塾第2期のころの皆さんの作られた図解を見ながら、なつかしく、頑張ってたなぁ。楽しんで図を書いていたなぁ。などと思いながら、みていました。果たして成長した図解がつくれるのか、ちょっと不安ではありますが、楽しんで課題に取り組みたいと思います。また、課題以外の日本についてのいろいろ、にも、挑戦していきたいと思います。次回もよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。はじめの近況報告の中でもいろいろと学びがありました。特に、「コミュニティ」と、「コミュニティどうしがゆるくつながる」というのはこれからの社会のキーワードの一つだと改めて感じました。”Japan Project"が始まりました。3年前に「日本を知る105章」の中からいくつか描いた図解を見せられ、懐かしく思い出しました。その頃の自分より進歩してないといけないことになりますが、果たしてどうだか・・・・課題として「日本を知る105章」がありますが、自由課題もありますので自分なりに日本や日本人について発見し、図解に表したいと思います。コラムまでできれば理想的ですが。考えたことのうちの一つに「現代の日本人と宗教」があります。寺島実郎さんの『人間と宗教』を改めて開いてみたら、日本人を知る上で深い内容のことが書かれているのを再認識したので、この本をベースに図解化していきたいと思いました。差し当たって、第Ⅶ章だけを図解してみました。「戦後日本人の宗教は、PHP司馬遼太郎」というのが非常に印象に残っています。
  • 図解塾、今日も頑張ったのですが、半分の21時からの参加で、ほぼ移動中の見るだけ参加になってしまい残念でした。日本を知る105章の話と2期生の図解作品をみて、個性的で面白いなと感じつつ、自分の個性ってどんなだろうかと想いを馳せてる時に、まさかの久恒先生からのお声がかかり、駅のホームで顔出しできて良かったです。歩きながらだったので不確実だったのですが、解説文の注目ポイントに線を引いて、重要なものを丸くで囲み、立体的にして図解にしていくであってますでしょうか。とにかくチャレンジしてみたいと思います。ありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、本日は図解塾ありがとうございました。前半の近況報告で、久恒先生から、読まれた本の紹介がいくつかありましたが、その中で、日本ペンクラブ『明日の言葉』の中にあった湯川れい子氏の「残り少ない自然環境を壊しながら、人類は実は水と食料の奪い合いを始めているのです。武器弾薬は食べられません。水を汚さずに食料を増やし、分け合って生き延びる。この日本に日本人が日本人として暮らせるためにはどうしたら良いのか。毎日考えます。」という言葉が強い印象を持って心に響きました。 そして本題は、今月から始まる「図解ジャパンプロジェクト」。『日本を知る105章』という本を題材に、書かれている日本文化に関する105個の文章を図解していくと言うもの。3年前の図解塾でもいくつか図解したとのことで、「落語」「マンガ」「浮世絵」「生け花」「文楽」など十数枚をサンプルとして見せていただきましたが、「図解すると、ひと目で分かる」ということを改めて実感しました。次回から、担当する章の図解と、日本を知るための自由課題の図解を持ち寄り、共有していくとのことで、とても楽しみです。また、いよいよ始動する「アクティブ・シニア革命」。こちらもどうぞよろしくお願いします。
  • 久恒先生、皆様ありがとうございました。今月から始まった「図解ジャパンプロジェクト」今回は、三年前の図解塾で行った振り返りで「日本を知る105章」の中から、日本文化についての言葉を図解で説明されました。 当時は私がまだ参加していなかったですが、よく耳にする日本文化についても人に説明できないものばかりでした。「落語」「マンガ」「浮世絵」「生け花」「文学」「ファミコン」「沖縄と日本」「アイヌ」「和服」「カラオケ」「受験戦争」「わびさび」「囲碁」などが図解で紹介されました。  一目みてあっという間に図解なら把握することができるので理解しやすいと思いました。興味深かったのは、「和服」は、ずいぶん前「洋服」が入ってきて、対比として「和服」と呼ばれるようになったことです。昔は、「和服」しかなかったから、あえて「和服」という言葉が必要になかったことがよくわかりました。また「囲碁」が多くの言葉のもとになっていることわかりました。例えば、「駄目」「布石」「死活」「八百長」「大局感」など多くの言葉があることがわかりました。今回の話を聞いて、図解の説明が本当にわかりやすいと再確認しました。また、日本の文化についてはまだ詳しく知らない人に説明するのは難しいことがわかりました。だからこそ、日本の文化を学ぶことがたくさんあると感じました。次回もまた楽しみにしております。
     


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    「名言との対話」4月10日。大林宣彦「第二の黒澤にはならない、第一の大林になる」
    大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年昭和13年)1月9日 - 2020年令和2年)4月10日)は、日本映画監督文化功労者。享年82。
    広島県尾道市出身。成城大学中退。自主製作映画作家、CM(テレビコマーシャル)ディレクターを経て、恐怖映画「HOUSE ハウス」を監督し、映画監督となる。日本の映画史を切り拓いた「映像の魔術師」。
    青春デンデケデケデケ」で芸術選奨受賞。他に、ベルリン国際映画賞、日本アカデミー賞ブルーリボン賞、など数多くの賞を受賞ている。代表作は、出身地尾道を舞台にした三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」のほか、「ねらわれた学園」「はるか、ノスタルジィ」などがある。
    大林のテレビでのインタビューなどはよく見ていたが、今回調べてみて大林の映画のキャリアは独特でかつ実に多彩であることに驚いた。
    いきなり商業映画の監督にはなれないので、初めは8ミリで自主映画を撮っている。その後、まだ評価の低かったCMの世界に誘われる。私の大学生時代に風靡したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」は大林の作品だった。トヨタの仕事では海外ロケの第1号。ホンダ、化粧品、レナウン、コーヒーのCMなどで海外のスターを起用した先駆けとなった。TOTO「お魚になったワ・タ・シ」、国鉄フルムーン、「ワンサカ娘」、カルピスなどあげればきりがない。CM界の巨匠と呼ばれる。
    1977年の40歳前から本来の志望であった商業映画の監督になり、友人となった角川春樹と組んで角川映画をつくっていく。代表作となった「尾道三部作」で多くの支持を集めた。また8薬師丸ひろ子などのアイドルを起用し、80年代のアイドル映画の第一人者として活躍する。1992年には『青春デンデケゲケデケ』を製作、吉永小百合の起用、宮部みゆきの小説世界の映像化にも成功している。
    2000年代に入ると「ふるさと映画」を標榜し、反戦平和を主張するようになる。2019年には文化功労者に選ばれる。
    大林監督の作品は膨大である。映画の世界の最先端を疾走した人生だった。この人は何を考えていたのだろうか。『大林宣彦の体験仕事論』を手に取った。
    師匠は映画を発明したエジソンに決める。そして誰もが断る仕事を引き受けながら仕事自体を先生として成長していく。「前例のないことだけをやる」とい考えだった。嫌な人や苦手な人と付き合う。頼まれた仕事しかしない。一番高いギャラを要求する。第二の黒澤にはならない、第一の大林になる。平均点は目指さない。仕事に自分の痕跡を残す。得意なことほど慎重に。いいアイデアは人に言わせる。リーダーは凧である。経過を大事に。たくさん食べて安心させる。名前を覚える。小噺を用意。オンリーワンの時代にプロはいない。みんなでそれぞれに感じ合える映画・61年目の16歳。好きなことには引退はない。映画と出会って幸福だった。満身創痍だが愉しんできたから保った。映画を使ってなにができるか。客観性より普遍性。正義でなく正気。各論でなく総論。各論は情報、総論は物語。プラカードは正義、エッセイは正気。憲法9条は世界遺産。オンリーワンとして共存。今ある自由を大切に。、、、
    大林宣彦は映画を天職とした果報者である。映画という武器を使って平和へ向けての闘いを続けた人だ。そして技術に詳しい哲学者でもあった。こういう人が同時代にいたことを知らなかったこと、その思想に触れてこなかったことは残念だった。今からでも大林監督の作品をみることにしよう。
     
     
     
     
 

新雑誌「イコール」創刊パーティで配るチラシが完成。

4月13日のパーティで配るチラシの作成で、力丸、都築両氏とやりとり。

説明がありません

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「図解塾」の準備。

「大全」執筆の検討。

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asahi.com(朝日新聞社):沖縄へ 終わりなき思い 井上ひさしさん未完の戯曲 - 演劇 - 舞台

「名言との対話」4月9日。井上ひさし「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ゆかいなことをまじめにかくこと」

井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。『吉里吉里人『ひょっこりひょうたん島。』

『青葉繁れる』は、著者の精神的故郷である仙台で少年時代に妄想ばかりしていた男の思想的半自叙伝を、すべての権威を相対化してしまうパロディ意識で描いた愉快な青春小説、と文庫の解説にある。ヒロインの若山ひろ子(第二女子高生)は、若き日の若尾文子だ。

2007年の「新装版あとがきに代えて」には、この小説を書いた理由が記されていていた。敗戦後、日本には三種類の大人がいた。

第一群「わたしたち大人はまちがっていた。そのまちがいを子どもたちの前で明らかにしながら、この国の未来を、彼らに託そう」。

第二群「わたしたちにまちがいがあろうはずがない。、、しばらくひっそりと息をひそめて復権の機会を待とう」。

第三群「今日の食べ物はあるのか」。

仙台の第一高等学校の先生たちはほとんどが第一群にあった人々だった。昭和20年代の後半から第二群の大人たちが「復古調」というお囃子にあわせて息を吹き返し、学校を子どもたちを管理する施設に仕立て直した。第一群の人たちが子どもたちを懸命に後押ししていた時代があったことを文字にのこしておきたくて、この小説を書いたとある。確かに先生たちの描き方には愛情がこもっている。青春小説の不朽の名作、というだけではなかったのだ。

 神奈川近代文学館の井上ひさし展」。仙台文学館の初代館長を9年つとめて、2007年3月に退任している。この文学館はいい企画をするのでよく通ったものだ。企画展で資料を眺める中で、この人の母親・マスが偉い人だったということを感じた。野口英世の母・シカ、田中角栄の母・フメ、遠藤周作の母、そしてヘレン・ケラーの母、世の中で名を成している人は母親が偉かった人が多い。父は文筆に関心があったが病没で叶わなかった。

 井上ひさしの遺した蔵書は22万冊にも及ぶ。それを生前から山形県川西町に1987年にできた「遅筆堂文庫」に寄付しており、そこでは1988年から2012まで生活者大学校が開かれ著名な人たちが講義をしている。遅筆堂とは、締切りギリギリニならないと台本が完成せず、関係者をハラハラさせることを自嘲した命名である。

「仙台に来る映画をすべて観よう」「日に三本の映画を観て、一日に約10-20枚の原稿書き、、」が若き日の自分に課したデューティだった。

「書き抜き帳」を用意して、本でも新聞でもなんでも、是は大事だと思うことは書き抜いていく。出典とかページ数とかも書いておく。そんな手帳が1年に5-6冊。一種の「知的日録」。情報のポケットをひとつだけにする。中身を単純に時間順に並べる。井上ひさしの知的生産の技術である。妻であった西館牧子は「下調べの丁寧さ、字のきれいさ、それを越える陽気な顔と愛嬌かな、と井上さんは自分を分析していた」「古本あさりと図書館での勉強ぶりは鬼気迫るものがあった」「風呂場でも本を読む習慣があり、そのため湯気が出ないようぬるい温度にして入る」と観察している。

 井上没後に西舘好子さんが書いた『』井上ひさし協奏曲』を興味深く読んだ。この本のオビには「誰も知らない「井上ひさし」がここにある」と書いてある。「都会と田舎、笑いと哀しみ、才能と狂気、妻と夫、出会いと別れ、生と死、、、。すべては表裏一体、あんなにもつらく、楽しかった25年間ともある。この本を読み終えて、このオビがすべてを語っていると感心した。好子さんは「「世の中に新しいことを」と言う井上さんは、もっとも古い日本の男だった」と結論付けている。

昭和8年生まれの伊丹、10年の大江、9年の井上ひさしは、「焼け跡世代」と呼ばれている。皇国教育から民主教育への大転換を子ども時代に体験したから、彼らは日本国憲法を護る立場で奮闘する。一方で井上ひさしは、私生活では明治の男であったとのことだ。

  井上ひさしは 「一番大事なことは、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書くということ」を自分に課していた。冒頭に掲げ言葉は井上ひさし文学の真骨頂だ。誰でも書けることを、誰にもわからない文章で書くことはやめることにしよう。

以下、没後の私の「井上ひさし」体験。

2011年。 井上没後に西舘好子さんが書いた『』井上ひさし協奏曲』。

井上ひさしと知り合い、結婚し、彼の才能を育て、劇団をつくり、そしてその過程で、最強の同志となり、また憎まれて最後に家族がバラバラになるという哀しい結末を迎えた筆者が、時効となった狂気の宿った天才との実生活の物語をすべて書いた出色の井上ひさし論である。

嫌いな作家は「醜さを公然とさらし、破滅無頼を気取り、それを「生きる」と称している輩」である、織田作之助坂口安吾太宰治だったそうだ。

孤児院、勤勉、遅筆、家族愛を知らない、暴力、離婚、家族の反目、、、、。

愛と憎しみの物語は省いて、裏から見た井上ひさしの仕事の秘訣について抜き書きしてみたい。

  • 読んで、考えて、書いて、正しい規律の生活を送り、プロの作家として認められるようになるのが人生の「合格」の目的だった。
  • ひょっこりひょうたん島」の登場人物は、当時流行の外国映画や「リーダーズ・ダイジェスト」の世界のニュースからヒントを得ていた。事件や政治のパロディー、冗談や落語などからネタを仕入れていて、旬の話題を採りいれることを忘れなかった。
  • 取材に走るのでなく、資料を綿密に読み込み、想像力で虚構の世界にのめり込んでいくというタイプの作家であった、、、
  • 「評伝」はもっとも得意とした分野で、素材を見つけるために読まれる日記は、ほぼ完璧に近い読み込み方だった。
  • 事実から想像を膨らませ、物語を作ってはぶち壊し、作ってはぶち壊して練っていく。、、、どんな有名人や偉人でも渦の中に巻き込んで井上戯曲ができあがるのだ。

井上ひさしの死を疎遠になった三女から連絡を受けたが、葬儀には長女も本人も参列を許されないところから始まり、最後は父から疎まれた長女の回想で終わる構成もよくできており、編集者の冴を感じる本だ。
全編を読み終えた後、「表裏 井上ひさし協奏曲」というタイトルにも深く納得した。

2012年。仙台文学館で開催中の「井上ひさし安野光雅ーー文学と絵画の出会い」展を観る。作家と画家のコラボ企画は珍しい。井上ひさしの小説の表紙や挿絵を安野は「吉里吉里人」など60冊以上の手がけている。

2013年。神奈川近代文学館で開催中の「井上ひさし展」。井上ひさしは、『吉里吉里人』ひょっこりひょうたん島』などで馴染みのある作家だ。仙台文学館の初代館長を9年つとめて、2007年3月に退任している。この文学館はいい企画をするのでよく通ったものだ。

母親・マスとの手紙のやり取りでわかる。涙が出る。仙台の児童養護施設ラ・サール・ホーム(光ヶ丘天使園)などにいた当時の母親との手紙が展示されている。
「私も元気に土方の道に精進します。土方とは地球の彫刻家だそうですから、安心しました」「映画の友社あきらめずに毎月投書しなさい。どんなことでひさしちゃんの運命が善展するかわかりません。、、君の文才には大きなる期待をかけて居ります。紙よいとし子を守りなせ」「なあ、この世はちゅうもんは、わしには水晶みたいな階段じゃなかったぞ、、」

入り口の映像では、そもそも動物には笑いがない。笑いは人間が外でつくるしかない。そしてそれを共有する。それが最大の仕事だ。哀しみなどを忘れさせるにが精いっぱいの抵抗だ、という井上が主張している。

井上ひさしの言葉。

  • 自分を大切にしていれば私の本来の目的の、ほんとに日本人の新劇も書けるでしょう」
  • 、、華々しいようですが、一字一字書かねばならないことを考えると死にたくなります。

5歳で失った父親の影響は本だった。「父親の遺した本の山の前に立つたびに、わたしは生命の連続性ということに思い当たる」。井上ひさしの遺した蔵書は22万冊にも及ぶ。それを生前から山形県川西町に1987年にできた「遅筆堂文庫」に寄付しており、そこでは1988年から2012まで生活者大学校が開かれ著名な人たちが講義をしている。

売店で『本の運命』『作文教室』『青葉繁れる』を購入。本の読み方十箇条。以下、参考になった部分。

  • 「索引は自分でつくる」:本の扉とか見返しに、大切だということがら、言葉をずーとならべて、それが出てきたページを書いておく。、、大事な本はそうやって読む。引用もすぐできるし、あとでとても役に立ちます。
  • 「本は手が記憶する」:「書き抜き帳」を用意して、本でも新聞でもなんでも、是は大事だと思うことは書き抜いていく。出典とかページ数とかも書いておきます。そんな手帳が1年に5-6冊。一種の「知的日録」。情報のポケットをひとつだけにする。中身を単純に時間順に並べる。
  • 「本はゆっくり読むと、速く読める」:最初の10ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると自然に速くなるんですね。
  • 「専門書は、目次を睨むべし」
  • 「大部な事典はバラバラにしよう」
  • 「個人全集をまとめ読み」:ダイジェスト、索引、そして著者の言葉遣いや書き癖について気がついたことを小まめにメモしていく。読み終わったときには、評伝や作家論が欠けるぐらい、充分な資料が自然に抽出されている寸法になる。

井上ひさし 作文教室」から。

  • 自分にしか書けないことを、だれでもわかる文章で書くということだけなんです。(だれでも書けることを、だれにもわからない文章で書いている人がいる)
  • 自分を指す人称代名詞は、ほとんどの場合、全部、削ったほうがいいんです。
                                                                •  

2020年。世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展ーーー希望へ橋渡しするひと」。井上ひさしは、仙台時代によく通った仙台近代文学館の初代館長だったことを思い出しながら、そして宮城県大崎市吉野作造記念館の名誉館長だったのは、仙台一高の後輩だったからか。井上ひさしについては、企画展、小説、エッセイ、演劇などで、持っている情報は豊富だと思っていたが、館内をまわると、また新しい情報を得ることができた。

井上ひさしの創造世界(ユートピア)」特集の『東京人』最新号、そして『自家製 文章読本』を購入した。

以下、会場でメモした言葉と、会場で買った『井上ひさし展』から、井上ひさしの言葉をピックアップする。

・本の読み方十箇条:「オッと思ったら赤鉛筆」「索引は自分で作る」「本は手が記憶する」「本はゆっくり読むと速く読める」「目次を睨むべし」「大事な事典はバラバラにしよう」「栞は一本とは限らない」「個人全集をまとめ読み」「ツンドクにも効用がある」「戯曲は配役をして読む」。

・作文教室:文章とは何か。これは簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人氏しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。

・文章を書くときの心得:1なによりも一つ一つの文を短くすること。2一般論は絶対に書くな。常に自分を語れ。だれにも書けないことを、だれにも分かるように書く。3主語(S)と述語(V)はなるべく近くに置く。4文の基本形は次の三つしかない。何がどうする(犬が歩く)。何がどんなだ(海は広い)。何がなんだ(彼は会社員だ)。文章を書くときに、この三つのどれにあたるか、つねに確認する。

・演劇そのものが、つまり舞台のそれ自体が絵画であり、音楽でもあり、彫刻でもあり、詩でもあると感じました。演劇はすべてを備えている表現のこと。

・言葉を選ぶときも、私は主に大和言葉を使っています。「洗う」「洗濯する」「クリーニングする」、、自分の皮膚感覚に訴えてくる大和言葉で話し、考えたほうがいいと思います。

・まだ調べのついていないところを空想力と想像力でがばと押しひろげて芝居にする。

・大問題の前に、周縁部の人間や市井の普通人を立たせると、一気に喜劇の要素が立ち上がる。

・「平和を守れ」というかわりに、「この日常を守れ」という。

・日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。

・自分の好きなもの:「大根おろしをのせた炊きたての御飯」「湯呑から立ち上る煎茶の香」「洗濯物を嗅いだときの陽の匂い」「雨上がりの木々のあざやかな緑」「わが子の寝顔」「なにか食べているときの妻の顔」「なにも書いていない原稿用紙の束」「稽古場に差しこむ光の中に浮かぶ埃」「成功した芝居の休憩ロビーのざわめき」「自作新刊本の手ざわり」。

「没後10年」ということで、昨年末から全国のゆかりの地で「井上ひさし展」が開催されている。鎌倉文学館、遅筆堂文庫、仙台文学館吉野作造記念館、市川氏文学ミュージアム世田谷文学館

井上ひさしという希代の大作家に関する企画は、今後も続いていくだろう。

 

 

 

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朝ドラ「寅に翼」に因んで、「女性初」の人々を追った。

始まったばかりの朝ドラ「寅に翼」の主人公は、日本初の女性弁護士・三淵嘉子。「女性初」というキーワードで、人物を探してみることにしました。みな、ガラスの天井をうち破った人。三淵を入れて50人。

二階堂トクヨ:日本最初の女子体育専門学校(日本女子体育大学)を創設。

佐藤千夜子:日本人レコード歌手第一号。「波浮港」。

田部井淳子:女性で世界初のエベレスト登頂に成功。女性世界初の6大陸最高峰征服。

大関早苗:女性におしゃれの仕方を教える学校(東京チャームスクール)を開設。

向井千秋:日本女性初の宇宙飛行士、日本人では3番目。

荻野吟子:日本最初の女医。

樋口久子:全米女子プロ選手権を制したゴルフの女王。

吉永みち子:女性競馬記者第一号。『気がつけば騎手の女房』で大宅賞

杉野芳子:日本初のファッションショーを開催。ドレスメーカー女学院。

中里恒子:女性初の芥川賞受賞者。『乗合馬車』。

安藤幸:女性初の文化功労者。バイオリニスト。幸田露伴の妹。

三浦環:日本初の国際的プリマドンナ。『蝶々夫人

平塚らいてう:日本初の女性による文芸誌を発刊。『青鞜』。

徳永恕:日本で最初の母子保護施設を創設。「母の家」。

藤原あき:タレント議員第一号。

吉沢久子:家事評論家第一号。

猿橋勝子:女性初の日本学術会議会員。

野田愛子:女性初の高等裁判所長官。札幌高裁長官。

中根千枝:東大初の女性教授。『タテ社会の人間関係』。

緒方貞子:女性国連公使第一号。

桂由美:日本初のブライダル専門店を設立。「桂由美ブライダルサロン」

黒柳徹子:史上最大のベストセラー作家。『窓ぎわのトットちゃん。』。

今井通子:世界女性初のアルオウス三大北壁登頂成功。

小林則子:日本女性初のヨット太平洋単独横断成功。

和泉雅子:日本女性初の北極点到達者。

飯田深雪:アートフラワーの創始者

奥むめお:主婦連を創立した婦人運動家。

松井須磨子:レコードヒット歌手第一号・発禁レコード第一号。「カチューシャの唄」。「今度生まれたら」。

吉岡弥生:日本初の女医養成機関を開設。東京女子医科大学

岩崎恭子:リンピック史上最年少金メダリスト。バルセロナ五輪女子200m。

浅賀ふさ:日本最初の医療ソーシャル・ワーカー。

太田朋子:女性初の学士院賞受賞。

伊藤みどり:世界女子初のトリプルアクセル成功。ジャンプの女王。

上村松園:女性初の文化勲章受章者。

伊達公子:日本女子プロテニス史上初の世界トップ10入り。4位。

増井光子:女性初の動物園長。多摩動物園の園長。

土井たか子:女性初の衆議院議長

前畑秀子:日本女性初の五輪金メダリスト。ベルリン五輪。日本女性初の米国水泳殿堂入り。

森英恵:日本ファッション界のパイオニア

人見絹枝:日本女子初の五輪金メダリスト。アムステルダム

岡本綾子:日本人初の米国ゴルフツアー賞金女王。

田中絹代:日本初の女性映画監督。

保井コノ:女性博士第一号。

黒田チカ:日本初の女性理学士。女性2番目の理学博士。

中山マサ:女性大臣第一号。厚生大臣

高橋久子:女性最高裁判事第一号。

江上トミ:日本初のテレビ料理番組に出演。

松永はつ子:日本初のトイレ壁画デザイナー。

今きいれ教子:日本女性初のヨット単独無寄港世界一周成功。世界2番目。女性で世界初の「単独太平洋往復横断航海に成功。

以上、『県別 はじめて人物伝』(河出書房新社編集部編。1997年刊行)より。

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午前:図解塾の準備

平野啓一郎三島由紀夫論』を巡って、島田雅彦白井聡。(エア・レボルーション)。『People』2月号。

夜:デメケンミーティング。

 「アクティブ・シニア」編集会議

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「名言との対話」4月8日。植田康夫「どんな場所でも自分の書斎に変えられるということのほうが大事なのではないでしょうか」

植田 康夫(うえだ やすお、1939年8月26日 -2018年4月8日)は、日本編集者ジャーナリスト。享年78。

上智大学文学部新聞学科卒。「週刊読書人」勤務。編集長、取締役、退社。上智大学文学部新聞学科助教授、教授。取締役『週刊読書人』編集主幹、編集参与、代表取締役社長、顧問。上智大学名誉教授。大宅壮一・東京マスコミ塾の第一期生で、後に大宅壮一文庫の副理事長もつとめている。

1983年に私の所属する「知的生産の技術」研究会で『私の書斎活用術』という本を編んだことがある。16人の知的生産者の取材報告だが、「子供部屋との兼用書斎で執筆を続けるタフガイ」というタイトルで当時は毎週月曜日発行の『週刊読書人』勤務で、上智大学で非常勤講師の42歳の植田康夫を紹介している。

「限られた時間、限られた空間に負けることなく、敢然と知的生産に挑む姿には心底尊敬の念を抱いた。サラリーマンをやりながら、これほどの活動を行う人がいるのだから、時間がないとか、書斎がないとかいうのは言いわけにすぎないことがわかる。全国のサラリーマンよ、植田氏を見習おうではないか。」(1981・8・29)。これは取材後の感想である。2DKの6畳を娘と併用。通勤電車の中で原稿を書く。足を進行方向に向けて160度開いて固いノートを台にしてボールペンで書く。その姿を実演してもらった。その後、私も試してみた。年中無休で朝6時から2時間執筆する。これが縁で『週刊読書人』に書評を頼まれて「副業、複業」をテーマに書いたことがある。

手にした植田康夫編『読書大全』(講談社)は、『週刊読書人』の創刊25周年企画で過去の「読書論」を編集した本だ。五味康介、高田宏、尾崎秀樹、水田洋、、などの小論を読んでみた。

『編集者になるには』(ぺりかん社)では、出版は「人間的な全的な活動」を開花させる仕事であるから、覚悟があるなら小さな出版社で仕事をすることをすすめている。また編集者を志すなら布川角左衛門『本の周辺』の最終章「編集者という仕事」を読めという。芸術家、職人、実務家の才能の統一が編集者という論考である。

 2014年の日本作家クラブ主催の小中陽太郎先生の『翔べよ!源内』(平原社)が第一回野村胡堂文学賞の受賞し、その祝賀パーティで久しぶりにお目にかかった。週刊読書人の社長という名刺をもらった。

どこでも書斎として活用せよという植田康夫は「時間の使い方は、時間の制約のある勤め人の方がうまい」「会社の仕事と、物書きとしての自分の仕事とを関連づけるようにしています」などと語っていて、30代に入ったばかりの私は影響を受けている。

植田康夫の生涯を眺めると、テーマが一貫していること、そして関わった組織などと長く誠実に付き合っていることが印象的だ。夢は明治以来の編集者の歴史をたどり、書籍と雑誌双方の編集の方法を体系化したい、だった。

それは、『出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ』(水曜社)という死去する2年前の著作になったのだろうか。