東京富士美術館「源氏物語」展の初日ーー音声解説。源氏絵の数々。AI研究の最先端。漫画「あさきゆめみし」。

東京富士美術館の開館40周年企画『源氏物語』展の初日に訪問。

平安中期に成立した紫式部の『源氏物語』は、その後も、文学、絵画、工芸、芸能、書道など実に幅広い分野に多大な影響を与え続けている。

この中でも物語の主要な場面を絵画化した「源氏絵」を中心に120件が展示された見ごたえのある企画展だった。

源氏絵は、絵巻、冊子、色紙、屏風などに描かれた。やまと絵系の土佐派、住吉派、そして漢画系の狩野派や岩佐派などの画家も手がけた貴重な題材となった。

そしてこの期かう点は、絵画だけでなく、工芸、現代アート、現代語訳の書籍、漫画など幅い分野の作品が一堂に展示された。

図録の冒頭に、稲本万里子「源氏絵研究から源氏文化研究へ」という総論が掲載されている。源氏絵データベース研究会、源氏絵データベース科学研究(AI班の研究成果)、源氏絵研究から源氏文化研究へ、12世紀の源氏文化研究で、まさに総論的な論考になっている。

知識データベース、個々の研究領域を超えた暗黙知の共有、DX,

Zoomミーティング、生成AI学習させて語らせる取り組みなども紹介されている。

源氏物語」は、江戸時代までも、そして近代以降も現代語訳などがもっとも多く試みられた古典文学である。それらが一堂に会したコーナーは圧巻だった。「源氏」については、挫折したりして、つまみ食い程度にしか接してこなかったので、入門的位置づけの大和和紀「あさきゆめし」13巻の漫画を読むことにした。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月24日。西山太吉「結論は全部、国民に正確に伝達しなければ、民主主義は崩壊する」

西山 太吉(にしやま たきち、1931年昭和6年〉9月10日- 2023年令和5年〉2月24日)は、日本ジャーナリスト政治活動家西山事件で知られる。享年91。

山口市出身。慶應義塾大学法学部、修士課程を終了後、毎日新聞社に入社し、政治部記者となる。

辣腕の記者であった西山太吉が歴史に名を残すのは、1971年の沖縄返還時にあった日米密約の暴露であった。1972年の国会で、横路孝弘楢崎弥之助が追求し、これが西山事件と呼ばれるまでに発展する。熾烈なスクープ合戦の中で、確証を求める記者は外務省事務官の女性と男女の仲になり、大スクープをものにした。

西山は東京地検特捜部から逮捕、起訴される。東京地裁は無罪としたが、東京高裁の控訴審で有罪となり、上告するも1978年に棄却され確定した。

ところが2000年になって密約を記したアメリカの公文書が発見される。西山は国家賠償請求訴訟を起こす。2006年には当時の吉野文六外務省アメリカ局長が密約の存在を認め、争ったが最高裁では密約文書を不開示とした政府決定を打倒とする判断を下した。

2012年に『佐藤栄作日記』第4巻を少し読んで食事を終えて、テレビを見ていたら山崎豊子原作『運命の人』をドラマをやっていた。沖縄返還時の密約をすっぱ抜いた毎日新聞の西山記者の物語だ。モックン演じる弓成は毎朝新聞の敏腕政治記者として活躍するが、ライバルの読日新聞の山部一雄はのモデルは、読売新聞の渡辺恒雄ではないかと調べたら、やはりそうだった。

1971年の沖縄返還協定の調印の日の佐藤栄作の日記を繰ってみた。沖縄返還協定調印式をインテルサットを利用しての、、初めての試みで行う。正文は東京で作成する。この調印式の前に夜の八時半から閣議決定。九時すぎ式場に入り予定通り進行、無事調印を終える。一部の学生を中心にしての調印反対のデモが行はれたが、大した事はない。沖縄も同様。一部の反対者の所論は諒解に苦しむもの。軍国主義に反対か或は日米安保に反対なのか、何れにしても困ったもの。、、」との記述がある。

東京地検特捜部では、1971年沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった。佐藤道夫はいわゆる西山事件の捜査を担当し起訴状を書いた。起訴状では、西山記者は外務省女性事務官と「ひそかに情を通じて」、これを利用して秘密文書を持ち出させたとした。この言葉で国家の密約問題から、スキャンダル事件へと本質がすり替えられたという批判がある。

後に佐藤道夫は「言論の弾圧といっている世の中のインテリ、知識層、あるいはマスコミ関係者なんかにもね、ちょっと痛い目にあわせてやれという思い」から起訴状の文言を考えたと述懐している。是非はともかく佐藤の意図どおりに進展したわけだ。

国民の「知る権利」と「国家権力」との戦いであったはずが、取材方法の方に、マスコミも世論も関心が移っていくことになってしまった。

西山太吉は、2013年の特定秘密保護法案を審議する紗人国家安全保証特別委員会で意見陳述をしている。冒頭の言葉は、その時の発言である。

沖縄返還時の密約は、核の持ち込み、基地の自由使用、日本側の巨額負担などであった。沖縄返還の代償も大きいものがあり、現在もその延長上にある。「知る権利」と「国家権力」の戦いは、今もT続いている。

読書会の2冊の課題図書「イスラエル」「中東戦争」。どう料理しようか。

3月15日の公文俊平情報塾(第二期)読書会の課題図書2冊が到着しました。

前回は、『万物の黎明』という人類史を根本からくつがえす本。

今回は「イスラエル」「中東戦争」がテーマ。これは「人類史上最もやっかいな問題」。どういう読み方をするか。 

 

「イラスト、地図、年表、図解」に着目し、他の著者の説明との「関係」を重視する読書術の実験をしてみようか。

ーーーーーーーー

「名言との対話」2月23日。松本キミ子「三原色と白だけを使って、モデルごとに描き始めを決めて、色づくりをしながら隣を隣へ描き進めていく絵画指導法(キミ子方式)」

松本 キミ子(まつもと きみこ、1940年5月4日 - 2022年2月23日)は、日本の彫刻家、美術教師、絵画教育の研究者。享年81。

北海道沼田町出身。東京芸大彫刻家を卒業。中学校t高等学校の教諭免状を取得。1967年から1982年まで東京三多摩地区の小中学校産休補助教諭。

1975年に多摩市連光寺小学校で新しい絵画教授法(キミ子方式)を考える。翌年日野市立第一中学校時代にキミ子方式の公開授業を実施。1979年、幼児にも有効な教授法と認められ、活動が全国に広がる。

1980年、美術の授業研究会を創設し代表。1983年の白浜以降、2013年の長野県飯綱町まで30回にわたりキミ子方式全国合宿研究大会を全国各地で開催した。

この間、1985年には朝日新聞天声人語」で紹介される。以降、有限会社の設立、アートスールを開設する。

短期大学、薬科大学、美大などで教授や非常勤講師をつとめる、2000年年と2006年には短大の教授となる。2006年には北海道旭川市に「メゾン・ド・キミコ(キミ子方式資料館)を開設した。またトンガ王国、メキシコ、キューバなど海外でも教えている。

実に精力的な実践者だ。このキミ子方式とは、三原色(赤・青・緑)と白だけを使って、モデルごとに描き始めを決めて、色づくりをしながら隣へ隣へと描き進めていく絵画指導法である。

従来の美術教育は、分析的部分的な絵画方法であり、全体的・総合的な問いかけを忘れている。絵を描く喜びと作品の生命感が大事であり、キミ子方式ではただちに絵が描け、生命感にあふれる作品が生まれる。その過程で多くの友人を持つことができる。そういう主張であった。

松本はキミ子方式の実践だけでなく、1982年から2010年まで28年間に28冊の著書も刊行している。「ひろびろ」「誰でもできる」「フィールドノート」「スケッチ」「カット」などの言葉が並ぶタイトルは絵を描く楽しさを感じさせる。

松本キミ子を見出したのは板倉聖宣(1930-2018年)である。板倉は東大で科学史を学び、卒業後に国立教育研究所に勤務。仮説実験授業研究会を設立。教育雑誌『ひと』、月刊誌『たのしい授業』を創刊。日本科学史学会会長。2018年の「産経抄」では「残念ながら教育にはノーベル賞がない」というタイトルで追悼された人だ。

板倉は「科学的認識はすべて仮説をもって対象に目的意識的に問いかけることによってのみ成立する」「子どもにとって楽しいことを教えるべきである」と考えており、松本キミ子の活動を支援した。

板倉によって松本キミ子は勇気をもらうだけでなく、精力的な普及活動も展開できた。仮説をもって、実験と実践を重ねる中で「独学」による新しい美術教育方式の発明をしたのだが、それを大きな視点から認め励ましてくれる人を得たことは幸運だった。このことは人生における「出会い」の大切さを教えてくれる。

 

 

 

 

知研読書会の20回目ーー 私は平野啓一郎(小説家)の著作を紹介。

知研読書会の20回目。私は「現代と近未来」を書き続け、分人主義で一貫している平野啓一郎の著作を紹介しました。

以下は発表用のメモです。

以下。都築さんの総括メモ。
左巻健男編著『世界が驚く日本のすごい科学と技術』笠間署員(2024)
日本で発明された技術を歴史的に位置づけてみようと、左巻健男(『RikaTan(理科の探検)』誌編集長)+RikaTan委員有志の共同で取り組んだもの。第1章の古代~江戸では漆、藍染め、発酵食品など自然物の日本ならではの加工、法隆寺五重塔などの建築、江戸時代の華岡青洲宇田川榕庵など。第2章の明治~戦前では西洋の技術を取り入れ近代化を進める中でのイノベーション、池田菊苗、高峰譲吉など。第3章の戦後の昭和では、私たちの暮らしを大きく変えた全自動炊飯器、光ファイバーなど。第4章の平成~令和ではQRコード、非接触ICカードなど。
 ■谷合 稔『天気と気象がわかる83の疑問』
日々経験するいろいろな天気や気象の現象について、非常にわかりやすく、それぞれの事項について見開きで解説しています。「気象の基礎知識」「天気予報と天気図」「日本の気候」「気象現象」「気象の仕事」に分かれています。例えば「春一番って何ですか?」とか「虹はどうやってできるんですか?」「蜃気楼はどうやってできるんですか?」など。
■桜井政成『コミュニティーの幸福論』明石書店
10章から成っていて、最初の「社会の個人化とコミュニティーの幸せ」では、大きな物語の近代から、小さな物語のポストモダンへ。そこでどう人と関わればいいか。
日本人の未だ強く見られる文化性についても述べられています。日本人は人と調和したとき幸福観を得るが、これは助け助けられる関係にはマイナス。居場所を考えるのに、第一(自分の部屋)、第二(家庭や学校)でない第三の居場所(喫茶店など)が大切。助け合える幸せなコミュニティー、助けられる人が助ける関係。パッチワーク型コミュニティー参加は、分けられない個人がいろいろなコミュニティーに属する。
特筆すべきは、章ごとに見事に図解化して紹介されていたことでした。
■山口謡司・水元きもの『なんでもない一日の辞典 1日を1時間ごとに切り取った864のことばたち』
ふと見過ごしがちな一日の何気ない日常的な風景、ようす、生活を短いことばで綴っています。ほっとさせてくれます。1時間ごとに、扉にはオノマトベがちりばめられているのも特徴です。
平野啓一郎の著作
平野啓一郎は1975年生まれ。梅田望夫との対談『ウェブ人間論』や『本の読み方』『私とは何か「個人」から「分人」へ』といった評論もよいが、今回小説を続けて読んで、すばらしいと思った。AIで母をつくる『本心』、イラク戦争から3.11までが舞台の『マチネの終わりに』、2030年~2040年に火星に行く宇宙飛行で起こる現代や近未来の出来事や乗組員を描いた『ドーン』。また、23年かけて三島由紀夫研究をした成果である『三島由紀夫論』。
今回紹介された本は、現在の活動ー「代表的日本人」だったり「参加型社会」だったりーと結び付けることができました。自分に求める気持ちがあれば、どのようなジャンルの本も関心のアンテナにひっかかってくることを改めて知りました。

ーーーーーーーー
笑福亭笑瓶 - 「カムカムエヴリバディ」大阪編にオダギリジョー、市川実日子、早乙女太一ら出演 [画像ギャラリー 8/9] - 映画ナタリー
「名言との対話」2月22日。笑福亭笑瓶「偉くなるよりも誰もが気楽に笑ってくれるようなポジションにいたいねん」
笑福亭 笑瓶(しょうふくてい しょうへい、1956年〈昭和31年〉11月7日- 2023年〈令和5年〉2月22日)は、日本落語家お笑いタレント司会者。享年66。
大阪府出身。大坂芸大卒。笑福亭鶴瓶に魅せられて1981年に鶴瓶の師匠である松鶴の口添えで弟子入りし、鶴瓶の付き人になる。ベッコウ色のプラスチックフレームの眼鏡をトレードマークにテレビやラジオで、玉置浩二高倉健畑正憲三木のり平柳生博などのものまねなどで、知名度を上げていく。風邪薬「コンタック」のコマーシャルは20年以上続いた。
2000年代以降は、師匠の鶴瓶が落語にめざめた、一も恩の落語会を催すようになり、落語の道にも入っていった。演目は自作の新作落語が中心。「横山大観」「ある日の六代目」「一日早い死神」「レトロミュージアム」などを口演した。
由緒のある笑福亭という屋号を重く感じていた。笑福亭で思い出すのは、松鶴(六代目)、仁鶴、鶴瓶、松之助、その松之助の弟子の明石家さんまなどである。
松鶴(六代目)は、桂文枝(五代目)、桂米朝(三代目)、桂春団治(三代目)と並び、「上方落語の四天王」と呼ばれた達人である。
笑福亭仁鶴「四角い仁鶴がまぁーるく収めまっせ」の口上で、NHK大阪放送局制作の法律バラエティ番組の元祖『バラエティー生活笑百科』の2代目相談室長として知られた。
笑福亭鶴瓶の公式サイト(つるべ,net)には「無学の会」というページがある。六代目松鶴の住居跡地に建てた寄席小屋で1999年から月1回、当日までゲストは秘密の会で、2024年1月現在で286回を数えている。ゲストのリストをみたが、ここ数年でも戸田恵子、古舘一郎、辛坊治郎、ヒコロヒー、具志堅用高、アンミカ、内村光良リリー・フランキーなどが出演している。これほどの人を招く力が現在の鶴瓶の人気を支えていることを知った。
笑福亭松之助多くの弟子に自身の本名にちなむ「明石家」の亭号を与えた。その一人が明石家さんまだ。実家が魚屋だったことから「さんま」になった。さんまが売れ出した頃、高座で必ず開口一番「売れているさんまの師匠の笑福亭松之助です」と言って笑わせた。
明石家さんまは、ビートたけしタモリと並ぶ「お笑いBIG3」の一人である。
鶴瓶の最初の弟子である 笑瓶は、2023年に家族と師匠に看取られて亡くなった。鶴瓶は「師弟関係というよりも、信頼のおける親友のようでした」と追悼している。「誰もが気楽に笑ってくれるようなポジション」にいたのだが、残念なことに早い死であった。
 
 
 

「図解塾」:「梅棹忠夫著作集」第13巻「地球時代に生きる」

「図解塾」:「梅棹忠夫著作集」第13巻「地球時代に生きる」。

  • 塾生の近況報告。
  • 久恒の近況報告:「AIセミナー」「世界を知る力」「FM鎌倉」「池大雅」「名言との対話:西郷輝彦。田代博。大町陽一郎。小泉清子。船村徹」。「イコール創刊号」。

図解の発表

  • 国際紛争の理解のために」
  • 「もう一枚の文化地図がみえる」
  • 「もう一枚の文化地図がみえる②」

以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。冒頭の塾生近況シェアでは、「継続は『勢力』なり」のワードが印象的でした。①趣味の先生って良いよね、良い人柄が伺える。支える弟子の勢力。②超有名シンガーソングライターコンサート。むかしジョイントしたバックミュージシャンがサプライズ出演、「知ってる」観客はそれだけで総立ち、『あうん』で通じ合えた、その場の人々の勢い…。久恒先生近況では、1)寺島先生「世界を知る力」、『金の価格高騰』の話題では、具体的な事例や数字の『リアリティ』で見るものをひきつける。また俯瞰による全体構造と構成因子同士の関係という夫々の視点に基づく定点観測で変化を報じるスタイルは、毎回見ずにはいられなくなる構成、視聴者の3割は海外在住とか、支持する視聴者の『勢力』。2)FM鎌倉で番組に出演、インタビュアの事前の仕込みが秀逸だった。十分なリサーチから繰り出されるゲストへの「事前質問」はどれも『刺さるコトバ』で、楽しく出演できたとの事。番組スタッフの日頃の研鑽「継続」がチカラを発揮。頭が下がります。3)名言では「戦略」が共通テーマに。西郷輝彦(歌手・俳優):「ひとつの仕事に固執せず新しい分野への挑戦を継続」する生き様。田代博(地理学者):「道楽を仕事にしない」割り切り。小泉清子(着物研究家):「有名時代劇での衣装監修」が話題となり、経営する呉服チェーンは有名に。船村徹(作曲家):手掛けた曲は5,000を超し、弟子は300人、ここでも『勢力』がキーワード。平井和正(工学教授):京大山岳部で今西錦司梅棹忠夫の薫陶を受ける、羨ましき環境。4)雑誌『イコール』は5月創刊。図解塾・幸福塾として8ページ分が割り当てられた。企画書鋭意製作中。「日々漫然と過ごさず、新たな課題にチャレンジすること、記録を付けること、残し報告すること」久恒先生より激を頂きました。さて本題。梅棹文学『地球時代に生きる』のパワポ化。いつもの様に久恒先生お手書きの図メモを塾生がパワポに起こし解説、本日3件。③国際紛争の理解のために:かつて100年前の「帝国」が分裂し、「民族国家」へ。いま、言語、宗教、習慣といった「文化的伝統」が夫々国の背骨に。国際的に互いの相手との差異を知り・認めあう関係が大事、世界諸民族研究の蓄積が必要。④もう1枚の地図:「政治」「分化」「人種」様々な概念で国家が定義されている構図、そして歴史の流れの中で国が形を変えていくダイナミズム(ソ連、ユーゴ、東欧)…国境のない地図。⑤もう1枚の文化地図:「民族」、大戦後に民族国家が独立した…国境をはじめとする表面的な違いのみならず、相手との差異を理解・尊重し合う心の有り方、『これぞ文化』と解釈した次第です。今日は戦争・侵略といった歴史的側面および民族・人種の分布といった地理的側面、双方の切り口で世界を俯瞰できた事が学びとなりました。また一方でより良い相互理解の為には、更に教養を深める必要性に改めて気付かされました。おわりに久恒先生よりお話頂いた、「アメリカは『人種の坩堝』ではなく『サラダボール』である」という梅棹先生の言葉が非常に印象的でした、一様にマヨネーズで整っていても、決して溶け合うことなく、個々が存在を主張し合っている様子を仰ったとの事ですが、もはや現代では一つの器に幾つもの味付けが入り乱れた「とても食えないサラダ」ぶりで、あまりの的を得た表現につい笑ってしまい痛快でした。次回も新たな図メモが楽しみです。有難うございました。
  • 久恒先生、皆様、本日は図解塾ありがとうございました。前半の「名言との対話」の中で、きもの研究家 小泉清子の、女性起業家としてのひたむきさに感銘を受け、「凍りつく 道歩みつつ 創意湧く」という句が大変印象に残りました。ありがとうございました。
     本題の梅棹忠雄著作集は、第13巻『地球時代に生きる』の続き。「国際紛争の理解のために」「もう1枚の文化地図が見える」「もう1枚の文化地図が見える(2)」の3枚の図解を読み解きました。いずれも大きなテーマは「民族」でした。民族と言うと、「国」や「人種」と何が違うか、はっきりと意識していませんでしたが、それは同じ文化を共有していることがベースで、世界には、3000から4000の民族があるとのこと。まずその数に驚きました。世界の国の数は200位。多くの国が複数の民族を抱えているということがわかりました。そして、時代の流れとして、大国から民族独立の方向に動いており、世界で紛争が絶えないのも、そういったところに理由の1つがあるとのことで、大変納得がいきました。逆に国としてひとつに纏まるということは大変なことだと改めて思いました。次回は『地球時代に生きる』の後半。楽しみです。ありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。「地球時代に生きる」を学んで、「国家」ではなく「民族」という視点で世界を見るということがいかに大切かを知りました。全体のタイトルも国家(とりわけ大国と呼ばれる国々)の交流・連携にとどまる「国際時代」ではなく、一つの地球に存在する3000-4000の民族が共に生きるという「地球時代」という言葉を使っている意味がよく分かります。民族はそれぞれ独自の歴史・文化・言語をもっているのでどうしても摩擦や衝突が起きる、しかし世界大戦をはじめとして得た教訓をないがしろにしてはいけない。互いに独立した存在ではあるが、尊重し合い、共存を図らなければならない。たとえばEUのように経済や安全保障で連合体をつくる形が望ましいのではないか。その意味でEUは一つの実験といえるのではないか、そんなことを考えました。折しも、2月21日は「世界母語デー」という日だそうで、バングラデシュパキスタンから押しつけられた言語から母語を守るために命をかけて抵抗したとされています。日本は多民族ではない(単一でもない)のでそのような発想になれませんが、文化や言語の多様性を尊重することを考えなければいけないと思います。また、一つになれないのは国家に限らず、地方自治体の合併や、人間集団でも見られ、相似形であることに改めて気付かされました。次回以降も楽しみにしております。
  • 本日もありがとうございました。最初の『世界を知る力』の寺島さんのお話で戦争がお凝るかもしれないというキーワードがありましたが、今日の梅棹先生の国際紛争と民族との関係について、かかわりがありそうなことがわかりました。国と呼ばれた国が解体されたり、多数の民族がいる国の数に驚きました。似たような顔をしていても、それぞれの宗教とイデオロギーと掛け合わさって民族問題を超えることができないのではないか。という問題提起をされていて、そこを知るには、民族の知識を携えた旅が必要だということが、今回手描きの図解を清書してみてわかりました。学生のときは、昔話を聞いている感覚で歴史の授業を受けていたように思います。民族の問題は現在につながっているのだとわかっていたら、もう少し前のめりになって聞いていたかもしれません。
    戦争にはじまるいろいろなイヤなニュースが絶えませんが、民族や個の歴史から紐解いていく必要があるのを、今回の講義で再確認できました。民族問題をこえることはできないのではないかと梅棹先生もおっしゃってますが、少しでも解決方法があればよいなと思いました。 次回からもどうぞよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今日の図解は梅棹忠夫著作集第13巻「地球時代に生きる」の中から、「③国際紛争の理解のために」「④もう一枚の文化地図がみえる」「⑤もう一枚の文化地図がみえる2」の3つについて解説がありました。3つを通して書かれていたキーワードが「民族」。世界の国の数は200ほどなのに民族は3,000~4,000もあるとのこと。そして、国際紛争は宗教による争いというよりは民族独立の争いだということがよくわかりました。私は普段「民族」について意識することはありませんが、大阪には梅棹先生が創設された国立民族学博物館があり、そこへ行くと、各民族の文化に触れることができるので、たくさんあるんだと実感します。「民族とは何か」を説明するほど理解できていませんが、共通する生活様式や習慣を持った人々の集まりがその最小単位で、だから他と区別できるし、他を受け入れがたいものがあるのかなと思いました。現代社会は世界的に「多様性を尊重・重視する社会」を目指していますが、だからこそ民族国家を目指した争いが無くならないのかもしれません。 梅棹先生がおっしゃる「地球時代(地球の一体化)」はいつ訪れるのでしょう。奇しくも今年はみんぱく創設50年にあたりますから、「民族」についてもう少し意識するようにしたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月21日。佐々木照雄「真の道を悟り 深くざんげし会い 世界平和を 心から 祈りましょう」

佐々木照雄(ささきてるお 1933年3月26日ー2023年2月21日)は、実業家。享年89。

広島市に本社を置く「オタフクソース株式会社」の創業者・佐々木清一の五男で1994年から1998年まで社長をつとめた。

1953年、お多福造酢入社。1969年、常務。1975年、オタフクソース常務。1979年、副社長。1994年、社長。1998年、副会長。

オタフクソース株式会社は濃厚な風味と高い粘度が特長の「お好み焼き」の用途に特化したソースを主力商品とし、その名前を冠した企業である。

お好み焼きのソースは、干したナツメヤシを原料としていることもあり、普通のソースとは違う味である。もともとは砂糖の代替品としてデーツを使い始めたのだが、健康にいいということで、ずっと使っている。

この会社はユニークな体質を持つ企業だ。

2006年からは、初級インストラクター、中級コーディネーター、上級マイスターの三段階からなる「お好み焼士」マイスター制度という社内▢制度を導入している。

2008年には、WoodEggお好み焼館を設けた。ここは広島名物なったお好み焼きの文化や歴史を紹介する施設である。

2018年には「OKOSTA(オコスタ)」というお好み焼き体験スタジオを開店している。

また「お好み焼・たこ焼研修センター」を各地に設け、お好み焼き店、たこ焼き店の支援をしている。

なずオタフクか。もともとは酒や醤油の卸小売りから出発した。その後の醸造酢を商うことになった。「人のお役にたちたい」という意味でつけたブランド名だ。戦後に広島の人空腹を満たす一銭洋食から始まって、自宅を一部改良してお好み焼きを提供するというスタイルが出てきた。広島は原爆で壊滅状態から再興に向かったのだが、この企業も原爆で全焼している。創業者の佐々木清一はお好み焼きのソースを提供する企業として、再建を図った。

オタフクソースの車内に設置されている「安碑銘」という石碑には「真の道を悟り 深くざんげし会い 世界平和を 心から 祈りましょう」という創業者・佐々木清一のメッセージが刻まれている。

広島という土地に根差した企業として、社員全員が平和と向きあうことを原点としているのだ。佐々木照雄の言葉は見つからなかったが、1969年に死去した創業者の父と一緒に汗を流して独特の企業文化を持つ地元企業を育てたのであろう。

お好み焼きのソースはたしかに独特だ。そして、そのソースを全国ブランドにまで高めたこの企業も実にユニークだ。このことを知ったうえで、お好み焼きを味わうことにしよう。そして、それを目的に広島を訪れたい。

 

 

 

 

 

サントリー美術館「大名茶人 織田有楽斎」展。「FM鎌倉」の収録。

先日、六本木ミッドタウンのサントリー美術館「大名茶人 織田有楽斎」展をみてきた。

織田有楽斎(うらくさい)は、織田信秀の十一男で、13歳年上の次男の信長の弟だ。

織田信長の有力武将の織田長益として活動、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕え、関ケ原の役以後は徳川家康から3万2千石の禄をもらい豊臣秀頼の補佐役として和平に奔走した。

大坂夏の陣の前に隠棲し、以後は再興した正伝院で茶人として活躍する。二人の息子に1万石筒譲渡し、自身は隠居料として1万石を残した。その後、75年の生涯を閉じるという数奇な運命の人だ。

有楽斎は利休に茶を学び、利休十哲の一人に数えられた。正伝院の茶室「如庵」は国宝。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「FM鎌倉」の「理系の森」の収録を行いました。インタビューは樋口さん、アドバイザーは富山さん。笑いの多い2時間となりました。

3回の放送で、3月16日(土)、3月23日(土)、3月20日(土)の16時半から。再放送はそれぞれ翌週の月曜日。以下、質問のキーワード。

蜃気楼大学。「イコール」。橘川幸夫。。引き寄せのコツ。バイオグラフィー。樋口裕一。JAL時代。図解コミュニケーション。JICA。グラレコ。鳥瞰図。継続力。偉人の共通点。飽きませんか。継続の方法。ブログ。、、、、、、。

以下、1994年開局の鎌倉エフエムの株主リスト。

鎌倉市
  松竹株式会社
  湘南信用金庫
  スルガ銀行
  大和證券グループ本社
  宗教法人高徳院
  株式会社豊島屋
  株式会社井上蒲鉾店
  グリーンハイヤー株式会社
  (株主総数55名)

ーーーーーーーーーーーーーー

Saigo Teruhiko - DramaWiki

「名言との対話」2月20日西郷輝彦自分を甘やかしてはいけない」

西郷 輝彦(さいごう てるひこ、1947年昭和22年〉2月5日 - 2022年令和4年〉2月20日)は、日本シンガーソングライター俳優タレント

鹿児島市出身。1964年に「君だけを」で歌手デビューし、この曲と「十七才のこの胸に」で日本レコード大賞新人賞を受賞。同名の映画で銀幕デビュー。1966年には「星のフラメンコ」がリリースから2カ月で50万枚を売り上げる大ヒットを記録する。歌手としては、橋幸夫舟木一夫と共に昭和歌謡の「御三家」の1人として人気を博した。

ヒット曲は「十七歳のこの胸に」「恋人を探そう」「初恋によろしく」「星娘」など。私もよく歌ったから懐かしい。1964年 - 1973年 10回連続出場している。1966年と1973年は「星のフラメンコ」だった。

1973年以降は歌手活動を縮小し、テレビドラマ「どてらい男」で主演。1975年からは時代劇に進出した。以下、どのような人物に扮していたのかを調べてみた。

芸名は郷里の英雄で尊敬する西郷隆盛に因んでいる。その西郷隆盛の役を演じたのは俳優冥利に尽きるだろう。

ドコモ団塊倶楽部出演時に、著書「生き方上手」で「笑って死にたい」の真意は、と問われて次のようにこ答えている。

「50代過ぎて、60代になるとまた違うものが見えて、面白いですよね。人生、本当に楽しいですよ、今。」
仕事がけっこう面白いんです。新しい発見があって「なんだ、そうだったんだ!」って、やっとわかったようなことがたくさんあるんで、面白いです。」

西郷は「ずっと、一生夢を見続けていたいな」というように、安定した場所にとどまらずに、夢を追いかけた人生だった。そして「自分を甘やかさない」ことを信条としていた。これは西郷隆盛の言葉である。

西郷輝彦の75年の生涯を追うと、歌手での行き詰まりを予想し、俳優業に転じ、そこで森繁久彌という師匠に学び、テレビ、映画、舞台で、次々と新しい役に挑戦する姿が見えてくる。前立腺がんで亡くなったのだが、満足して笑って死んだのだろうと思う。

 

 

 

出光美術館「生誕300年記念 池大雅ーー陽光の山水」展。「照るといひ曇ると見るも世の中の人の心にありあけの月」

出光美術館「生誕300年記念 池大雅ーー陽光の山水」展。

f:id:k-hisatune:20240220071437j:image

京都出身。江戸時代中期の画家、書家。1923年生まれ。妻は池玉瀾。15歳のころから篆刻を業とした。柳沢淇園の影響をうけ、文人画を独学する。日本各地を旅し、詩情豊かな作品をうみだした。日本の文人画の祖。1976年に54歳で死去。

代表作に「山亭雅会図」「楼閣山水図」、与謝蕪村との合作「十便十宜帖」などがある。「照るといひ曇ると見るも世の中の人の心にありあけの月」。同時代には与謝蕪村(1716-1784)、伊藤若冲(1716-1800)、丸山応挙(1733-1795)がいる。18世紀にはこういう画家たちが覇を競った。

池大雅の絵は、素朴、大らか、太く緩い線が特徴で、色づかいに優れ、見ていて楽しくなってくる。

旅と登山を好んだ池大雅は、白山、立山、富士山、浅間山にのぼり、絵にしている。

池大雅 中国の南宗画由来の文人画(南画)の巨匠である。文人とは学者兼画家。文人にとって、自分自身の本質すなわちその全人格的なものを表現する手段が文人画である。ドラッカー文人画を好んで蒐集しているのは、文人画と共にいればそれだけ自分自身について学ぶことになるからである。このことは千葉市美術館で知った。

「楼閣山水図屏風」(国宝)。総金地に群青、朱、青緑、金泥などの鮮やかな彩色が施された豪華絢爛な屏風。「先憂後楽」「偕楽」の精神が込められており、一橋徳川家の伝来の作品。池大雅は原本を模写し、拡大し、屏風にした。幸福感の漂う楽園世界。

「十便十宜図」は池大雅「十便図」と与謝蕪村「十宜図」の合作。自然の恵みを受けた生活の酒の肴の入手、詩が向こうからやってくるなどの便利さと、自然の素晴らしさを示す宜しきことをそれぞれが描いた作品。

「富士白糸瀧図」

ーーーーーー

立川:整体(オステオパシー)。

ーーーーーーーーー

「名言との対話」2月19日。田代博「地図と富士山。このふたつが、私が生きていく柱です(笑)」

田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021年2月19日)は、日本地理学者地理教育者。享年70。

広島県尾道市出身。東京教育大学理学部地学科地理学教を卒業。神奈川県立高校教諭となる。1997年から筑波大学付属高校教諭。2014年に退職後は、日本地図センターなどで仕事をする。2007年からはNHK高校講座地理の講師や4つの大学の非常勤講師も務めた。

日本国際地図学会功労賞、国土地理院から「測量の日」の功労者感謝状などをもらっている。

田代の研究分野として、「地図学」と「富士山学」があげられている。

富士山世界遺産国民会議の木村由理江のインタビューを見つけた。田代は私と同い年であり、興味深く読んだ。

まず「地図学」。世界を小さな一枚に凝縮して手のひらサイズにおさめる。古地図は昔の様子がわかるタイムマシンだ。つまり、地図には現在の空間と過去の時間が込められていると考えていたのだ。

次に「富士山学」。田代は「山岳展望マニア」であった。山頂に周囲の山の名前を示した看板をよく見かけるが、間違いが多いらしい。「山座同定」を仲間とやっていた。その延長線上に富士山が登場する。どこから富士山が見えるかという「富士山可視マップ」を山の雑誌「岳人」に掲載した。20都府県で富士山が見えることがわかった。日本全体で人口の3分の一の4000万人が富士山がみえるエリアに住んでいることがわかる。世界196カ国の中で首都から最高峰がはっきり見えるのは日本だけだ。「カシミール3D]を使うとダイヤモンド富士を眺められる日時がわかる。

富士山は見ると元気がでるという。高校教師時代には「日本一の高さを保っていられるのは膨大な裾野があるから」と、生徒たちを励ましていた。実に楽しそうな表情の写真が掲載されている。

富士山については日本史を通じて実に多くの人たちが、日記に書き、短歌や俳句を詠み、絵画にし、音楽にしてきた。写真という手段を用いて富士山に挑んだ人が「富士はわが命」といった岡田紅陽だ。19歳から77歳で亡くなるまで富士を命がけで追い続けた。現在の五千円札の裏側の「本栖湖の富士」は紅陽の作品である。

夏目漱石の「道楽と職業」を思いだした。道楽である間は面白いに決まっているが、その道楽が職業と変化するとたんに今まで自分本位であったはずが、一気に他人にゆだねることが多くなる。道楽は快楽をもたらすが、同じことをしているようにみえても職業となれば苦痛を伴うことになる。職業というものは、一般社会が本尊になるのだから、この本尊の鼻息をうかがいながら生活を送らざるを得ない、という見立てだ。岡田紅陽は、富士山を職業にしたから、苦労が絶えなかっただろう。

梅棹忠夫は何かにはまる人には、「通、好き者、道楽者、極道者」というランクがあるとしている。紅陽は「極道」の領域にまで達したのだろう。

田代の口癖は「私の生きていく柱は、地図と富士山だ」だった。そしてどちらも職業にしなかったから、気楽にいろいろなことがでてきるかもしれないと述懐している。田代博は、富士山を職業にしなかった。高校教師という本業をこなしながら、楽しみとして一生をかけて富士山を相手にしたのだ。田代は地図学に支えられた富士山学を道楽者として楽しんだのである。

 

 

 

 

2月の「世界を知る力」ーー2024年の世界経済見通し。第3の戦争。現物資産「金」の暴騰。全員参加型秩序。日米関係の落とし穴。

「2月の「世界を知る力」(寺島実郎)。「体系的・課題解決・進化」。ユーチューブ1021万回。3割は海外から。

  • 世界経済(IMF見通し):世界は2023年3.1%成長、2024年3.1%。意外にゆるやかなスローダウン。米は2.5%、2.1%。独は低迷。日本は1.9%、0.9%。アジアは堅調:印6.7%、6.5%。アセアン5は4%台。中は5.2%m4.6%となっているが苦しい(国内は不況、デフ。外交は孤立)。ロシアはルーブルの下落、孤立。
  • ウクライナイスラエルに続く第3の戦争が中東で起こる恐れ。イランのシーア派ヒズボラ、イエメンのプーシ派など、、。正面戦でなくこういうゲリラなど相手の非対称戦争はアメリカは苦手。スエズ運河通過に問題があり喜望峰まわりでコスト2割上昇(イタリアパスタなど)・パナマ運河渇水で物流は4割ダウン。
  • 金価格の高騰:2000年から「1億円:現金̠▲1割。株1.8億。原油3倍超。土地▲6割。米ドル1.2億円。金9.3億円」。金(ゴールド)の暴騰は1次と2次の世界大戦の間、1973年の石油危機の時代、そして21世紀の今と3回ある。金は炭坑のカナリア説。リスク不安、インフレ不安、ドル基軸通貨体制への不安など、構造変化への不安で、現物資産の金に向かっている。中東諸国は金が好き。
  • 18-19世紀の イギリス発祥の「産業資本主義」は、20世紀は大量生産大量消費、フォーディズムで大衆資本主義となりアメリカの世紀となった。冷戦の終了後のIT革命(シロコンバレー、GAFAM、ビッグテック)による「デジタル資本主義」、そして理工系の金融分野進出(ヘッジファンドデリバティブ、ウオールストリート)による「金融資本主義」へと変質。実体経済と信用経済の巨大な落差が金指向に投影している。
  • 2024年は選挙の年。21世紀の日米関係はそうなるか、日本はどこに進むべきか。20世紀から21世紀の日本は、アングロサクソンとの2国間同盟だった。20年間の日英同盟、70数年の日米同盟(1994年には世界GDOの18%)。国連、ガット、WTOなどの国際主義。それが過剰な固定観念化した。
  • 21世紀の世界システムは、全員参加型秩序に移行中だ。国家だけでなく、巨大企業、地域統合、多国籍武装勢力、、、。同盟に多次元の要素を加えて向かい合わねばならない。
  • 日米関係の落とし穴:アメリカ経由でせかいをみる視点、過剰同調と過剰依存という固定観念アメリカのジャパンハンドラーという知日派親日派ではない。アーミテージグループ、ジャパノロジスト、安保マフィアたちはトランプ以降は排除されている。日本の転機でもある。ワシントンの変化もある。4月の岸田首相訪米のテーマは何か。非核平主義、アジアへの責任、日米関係の柔らかい見直しなど。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大町陽一郎/ブルックナー:交響曲第8番

「名言との対話」2月18日。大町陽一郎「指揮者というのは教育家である」 

大町 陽一郎(おおまち よういちろう、1931年8月22日 -  2022年2月18日))は日本の指揮者。享年90。

少年時代、作曲家呉泰次郎が開いていた音楽私塾で音楽理論、作曲法、指揮法の手ほどきを受ける。旧制成城高等学校を経て、東京芸術大学作曲科に入学したが、指揮への興味が募り指揮法を学ぶ。東京芸大、卒業後ウィーンに留学。カラヤンベームらに師事。東京フィル、ドルトムント歌劇場の常任指揮者、ウィーン国立歌劇場専属指揮者などをつとめる。東京芸大教授。

大町陽一郎『楽譜の余白にちょっと』(新潮文庫)を読んだ。

親しかった解説の深田祐介によれば、大町は精力的な勉強家であり、好奇心が強気、エネルギッシュだ。そして芸術とは「考え抜く」行為を指すといいう。

大町によれば、音楽家としての自分の分野は、指揮者、作曲家、ピアニスト、教育家、訳詞家、評論家、そして旅行家でもあるという。棒振りは同行の人たちに説明する旗振りでもあるわけだ。

芸大で先生から、指揮では、岩城宏之山本直純大町陽一郎三羽烏と言われ、その気になる。食えるかどうかわからないので、高校教職課程の単位も取得していたから、多忙だった。

大町は指導者に恵まれているようだ。留学先のウイーンではカラヤンベームに師事している。東京フィルのホームページの大町のインタビュー記事が掲載されている。オーストリアの巨匠、カール・ベームとの交流のことだ。昼前にミュンヘンのホテルで会ったとき、ベームデュッセルドルフへの午後の便がキャンセルとなり指揮する予定があり焦っていた。大町はワーゲンの新車で800キロのアウトバーンを走った。その6時間で指揮者として必要なことをすべて学んだと語っている。ちょっとした偶然が縁で大きな運を引き寄せたのだ。

1961年から運がまわってきて、当時は「不急不要」といわれていた東京フィルの常任指揮者に就任し、10年を過ごす。 

音大の卒業生の大半は卒業時には「近所の小さい子にピアノを教えます」という。最優秀の数人が演奏家、次がNHK、民放、音楽雑誌の編集者、そして最後のグループが批評家になって演奏家をこきおろす、という構図になっている。就職のことを視野に、実際的な教育の方向に進むべきだと憂いている。

このエッセイの中で、2000曲以上を書き94歳で亡くなった作曲家ロベルト・シュトルツをシューベルトの次に来るべき作曲家と讃えている。86歳のカール・ベームについては「偉大な指揮者を失って、町(ウイーン)は色褪せて見える」と書いた。天才カラヤンからも直接指導を受ける幸運を授かっている。大町は「幸運にも私は師に恵まれた」と語っているが、持ち前の好奇心、行動力で、運を勝ちとってきたのだろう。

さて、「指揮」とは何か。大町陽一郎の指揮論を聞いてみよう。

1・「指揮とは信頼である」。信頼感がないと集団は従わない。2・「指揮とは準備である」。規律が大事である。マネージャー的仕事が大事。3・「指揮とは練習である」。遅れない、意見を持つ、直すべきところは直す。4・「指揮とは手旗信号である」。送るべき内容を送るのが指揮だ。5・指揮とは音楽的教養である。楽曲の解釈者として音楽的知識が指揮者の真髄。6・「指揮とは経験である」。経験と熟練と柔軟性。7・「指揮とは威厳である」。なんとなく言えない雰囲気。

以上を踏まえて、大町は指揮とは人の心をつかむこと、二つの手で百のハートをつかむことだと結論づけている。

大町自身は指揮者の次は、教育であるという。「指揮者は教育家である」が持論だった。芸大以外にも、小学生などの指導にも熱心だ。縁のあった社会人と過ごす「大町サロン」、そして教育家として「大町スクール」からも、多くの音楽人材が生まれているのだろう。 

起業家、経営者、芸術家など、それぞれの分野で名を成した人たちは、教育に向かうことが多い。次世代の人づくりである。