四十九日。初盆。納骨。

朝の散歩:近所の貴船神社

f:id:k-hisatune:20210804042653j:image

f:id:k-hisatune:20210804042632j:image

貞雄寺。
f:id:k-hisatune:20210804042639j:image

久恒貞雄の銅像

f:id:k-hisatune:20210804042635j:image

久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家銀行家実業家貴族院多額納税者議員衆議院議員(1期)。

豊前中津藩下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。漆生炭鉱を買収し、下山田、猪ノ鼻と鉱区を広げ、久恒鉱業を設立。1920年大正9年)同社社長に就任した。ほか、下毛銀行、大分商業銀行各頭取、筑豊石炭鉱業組合理事長、福岡県土木調査委員などを歴任した。

1928年昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では福岡県第2区から立憲政友会所属で出馬し当選し、1期務めた。ほか、1932年昭和7年大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1939年昭和14年)9月28日まで在任した

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

メインイベント:宝蔵寺で母の四十九日。初盆。納骨。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宇佐の大分県立歴史博物館で公開中の「久恒氏関係文書」を見る。

f:id:k-hisatune:20210804042649j:image
f:id:k-hisatune:20210804042643j:image

 

富貴寺

f:id:k-hisatune:20210804050249j:plain

浄土。

f:id:k-hisatune:20210804050246j:plain

ーーーーーーーーーーーーーーー
別府にて家族の打ち上げ。
f:id:k-hisatune:20210804042646j:image

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月3日。観世栄夫「伝統は守勢に立たされると衰退する」

観世 栄夫(観世榮夫;かんぜ ひでお、1927年8月3日 - 2007年6月8日)は、シテ方観世流能楽師、俳優オペラ演出家

一時喜多流に転流して後藤得三の芸養子となり、後藤 栄夫(ごとう ひでお)の名で活動したが、その後後藤との芸養子を解消して観世流に復帰した。

『華より幽へ 観世栄夫自伝』(白水社)を読んだ。以下、能楽界の革命家の言葉を抜き出した。

・能は自分の体を自分の思う通りに動かせるように、作り上げていかねばならない芸能である。

・毎日の稽古は義務感ではなく、自分が今日ここにいて、明日の目的を持って、そこへ向かっていく姿勢が汲み取れた。その強固な姿勢がなければ、毎日の稽古は単なる繰り返しになってしまう。

・ぼくがこだわったのは、自分が教わってきたこと、自分がやってきたことしか理解できないということである。

・伝承や伝統が断絶して、危機感が生まれたときの方が、伝統より意識するようになり、伝承や伝統が生き生きと蘇生するような気がする。

・危機感は、新しい伝統を生み出す最大の要素ではないだろうか。

・伝統の批判的摂取

・先人を批判して、その批判した人をその次の人も批判して、その中で残っていくのが伝統ではないか。

・舞うための呼吸ができる身体、その筋肉を鍛えていく方式である。喜多流にはその肉体を作り替えていくメソッドがあった。

太夫は一朝一夕には養成できない。太夫は楽器のように、自在に声が出る身体に作り変えなければならない

・能の持つ歴史は重い。誰がなんと言おうと、600年間繰り返し上演されている、伝統の重さである。

・能を演者の立場ではなく、演出家の立場で見ることをかけていると思った。

・能のシテは、ある意味で演出家である。

能楽界から離脱することになった演出家の目は、演劇やオペラの演出によって開かれていたと思う。

・演出家の目を鍛えるためによほど嫌いなものでない限り引き受けた。

・僕は演出的な視線を持った能があるべきではないかと思っている。

・能は一人の能役者の人生が反映される技術である。

・舞うたびに新しい発見がある。いつも課題を突きつけられる思いだが、同時に体力気力が必要な能である。

・様々なジャンルの俳優のぶつかり合いは、その長所や短所がよく見える。

・免疫学者で能作者の多田富雄先生が、「命の井」という脳死の能を作った。心臓移植がテーマである。「望恨歌」を作ったこれは従軍慰問題なども語れる能である。「原爆忌」という新作。

・現時点で「現代」を扱っているのはほとんどない。最終的には、現代としての様式ができない限り、現代を語り切れないと思う。

・能は室町期、観阿弥世阿弥父子中心とする大和猿楽の一座によって先行の諸芸能の要素を吸収して大成した。

・脳の基本はすり足を基本としている。腰が入った構えである。

・全神経、全筋力を一瞬のうちに働かせるのは、日常の稽古よって創られたた身体と深い呼吸法である。

・深く強い呼吸法と精神の集中力、持続力があって、初めて能は成立するのである。

いくらか今までの能からはみ出していかないと、どうしても新しい様式は生まれない。新しい内容に則した技術は、今までの技術では処理しきれない。必ず無理がある。

・芸術は社会的存在だと思う。芸術に社会性がなければ意味がないとさえ思う。

観世栄夫の思想と行動は、「伝統は守勢に立たされると衰退する」に集約されると思う。外に向かって開いていく、新しい分野と出会う、現代社会の課題と向き合う。そういう姿勢が伝統を蘇生させる。

 

 

始末と準備。

 各種手続きと、四十九日と初盆の準備。

 ーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月2日。ルイジ・コラーニ「自然は角度を作らない」

ルイジ・コラーニLuigi Colani1928年8月2日 - 2019年9月16日)は、ドイツベルリン出身の工業デザイナー

少年時代は、親から木切れやボール紙を与えられ、自然にものを作る工作少年だった。1946年ベルリン芸術大学で彫刻と絵画を学び、その後、パリのソルボンヌ大学で空気力学を学んでいる。その結果、独特のデザインと流体力学を直結させる独自のスタイルを確立する。それは「バイオダイナミック」と呼ばれる曲線にこだったデザインとなった。
日本でも、1985年の国際科学技術博覧会でも彼のデザインによるロボットは芙蓉グループのパビリオンで活躍し、一部は、後に「ロボットミュージアム in 名古屋」で展示された。2005年にも京都工芸繊維大学でデザイン展が開かれるなどしている。

1968年にはデザイン会社を設立、家具業界との密接な関係を保って、数多くのデザインを手掛けている。球形のキッチンユニットや安楽椅子のような秘書用のタイプライターデスクなど。前衛的ながら機能的な家具は国際的にも評価され、米国の主だった近代美術館でも展示されている。

コラーニの独特のフォルムは、流体力学的にも人間工学的にも説得力をもち、航空機や船舶といったものから、住居・バスタブ(風呂桶)・靴、バスローブといった衣類、宝飾品・テレビ・オーディオ機器から、シャワーシステムに至るまで、幅広い活動を続けている。「毛抜きからスペースシャトルまで」とも呼ばれる。

日本でも馴染みがある。1980年のデザインであるチョロQ1984年の小樽博覧会、キヤノン一眼レフカメラ「T90」(1986年)、マルエムのスーツケース、独ペリカン社等のボールペン、眼鏡・家具など日用品も多く出回っており熱狂的な愛好者も見られる。手掛けた数多くの自動車(スポーツカーやコンセプトカーなど)や、独シンメルのピアノ"Pegasus"等も現存している。

1970年にはミュンスターにほど近い17世紀の古城「シュロス・ハーコッテン」に移り住んだ。ミラノ、カールスルーエ、上海、モスクワ、サンパウロにオフィスを構え、世界を股にかけて活動していた。収入に見合うだけの研究開発を惜しみなく行っているためだということで、空腹状態を保つことで創作意欲を刺激するという考えだった。

「自然は角度を作らない」というのがコラーニの基本思想であり、自然の造形物を最大の手本としており、日常的に顕微鏡で様々なものを見て過ごした。またデザインの段階では定規を使わないで、自身の肘や肩を基準とした曲線を引くといわれている。

自然をモチーフにした緩やかかつ生物的な曲面を持つデザインについて、コラーニは、特徴的な曲線は「空力学的に有効である」のと同時に「女性的なソフトなライン」を持つことこそが自然なアプローチであり、男女ともに魅力的な要素だと語っている。

人間を含む動植物、そして準備大地も、全て曲線でできている。コラーニの「「自然は角度を作らない」という発見は、生命のデザインを生んだのだ。

 

 

 

移動日。

移動日。

朝はやるべきことをすます。午後の移動中は本を数冊よむ。夕方の到着後は弟と打ち合わせ。

夜は中津で弟と妹夫妻と会食。

ーーーーーーーーー

「名言との対話」8月1日。渡辺京二「人間が生きていくうえで何が大事か。どんな異性に出会ったか、どんな友に出会ったか、どんな仲間とメシを食ってきたか、これに尽くされると私は思います」。

渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - )は、思想史家歴史家評論家

 

 渡辺京二という名前には記憶がある。私の属しているNPOがまだ産声を上げた頃、講師として出講していただいていた在野の日本近代史家として知っている。

この渡辺京二氏が書いた「逝きし世の面影」(平凡社)という文庫版600ページの大部の書物がある。この本の記述の美しさにひかれて一気に読み終えるのが惜しくなり、毎日少しづつ読み進めるという読み方をしてみた。一ヶ月ほど朝の短い時間、心が洗われる様なすがすがしい気分を味わった。

江戸時代から明治中期までの期間に確かにあった美しい一つの文明の姿を描き出すために、著者はこの時代に日本を訪れたあらゆる人たちの紀行文、報告書、エッセイなどを実に丹念に読み込み、その観察を細かく紹介していく。長崎に来たシーボルトや黒船で来航したペリー提督、ゴローニン事件の当事者、外交官サトー、医師ポンペ、女性紀行家・イザベラ・バードといった著名な人物などの書物や、無名の男女の書き残した日記・観察記など、その渉猟した資料の膨大さと引用の的確さに驚く。長い年月と細かな作業の伴う労作といってよい。

一つの滅んだ文明の面影を、文明の当事者たちではなく、外から見た目で浮き彫りにしていこうとする試みであるが、読者はその記述の正確さとそのこ言葉が織り成す世界の美しさに心を奪われる。明治維新以降に行われた急速な近代化・西洋化によって死んだ、奇跡ともいうべき一つの文明の姿を私たちは脳裏に焼き付けることができる。著者の織り成すこの世界の残滓は、子供の頃の風景にいくつか見ることができた。たとえばこまかく分かれた職人の世界の記述は、近所に竹細工職人がいたことを想い出させる。この本を読んでいると何か懐かしい感慨がうかんでくる。

ここには私たちが学んだ封建時代という固定概念を覆す事実と観察が無数にちりばめられている。この文明の末裔である私たちは、その美しい文明の残滓を時折この世で見かけることがあるが、ここにはその文明の総体が面影として淡く存在している。

この文明が形づくった人々の精神は、明治時代に生きた人たちに中に確かに息づいていた。「明治の人は偉かった」という述懐を年配者から聞くことが多いが、それはこの失われた文明が育んだ精神だったのだろう。価値観という言葉がある。それは人生でもっとも大切にすべきものという意味だが、今の世に生きる私たちは恥ずかしくない価値観というべきものを持っているだろうかと自問せざるをえない。文明は独特の精神がつくりだすものだということを強く感じる。今日の日本人が読むべき名著であると総括しておこう

渡辺京二「無名の人生」(文春新書)は、自分の一生の主人であろうとした熊本在住の男の幸福論だ。好きなことだけをやってきて、それでもなんとかやれると、励まされる人がいれば幸いというタッチで書かれている。章立てのタイトルは、「人間、死ぬから面白い」「私は異邦人」「人生は甘くない」「生きる喜び」「幸せだった江戸の人々」「国家への義理」「無名のままに生きたい」。「成功」「出世」「自己実現」などはくらだない、というメッセージで、生きるのがしんどい人々への応援歌である。

「最後の仕事として、維新史を書きたい。来年に新聞連載、再来年の第1巻か。全10巻くらいになる。買い込んだ本数千冊をを全部読まねばならない。1日1冊でも360冊。ノートはとるが忘れる、字が読めない。途中で終わるだろう。書けるとこまででいいや」「明治維新は上からの緊急避難だった。庶民の日常世界とは関係なかった。下からの維新、下からの近代化を書きたい。庶民からの視線を代表するものを書きたい。何人かの思想家を追っている」。

この人の言葉を拾う。「人間の生命に限りがあるのは、退屈さにピリオドを打つためではないでしょうか」「人間にとって大切なのは、「自分中心の世界」、コスモスとしての世界です」「地方にいて知的ディズアドバンテージを感じたことは、一度もありません」「自分が何をやりたいのか、何が向いているのかが分かったら、一人前になるまで辛抱してやればいい」「清潔な生き方を目指したほうがよほどいい。、、心の安定が得られるし、澄んだ気持ちで生きてゆける」「陋巷に生きる」というのが好きで、理想の生き方だとさえ思うのです」「私の理想は、無名のうちに慎ましく生きて、何も声を上げずに死んでしまうことです」。

今回は「人間が生きていくうえで何が大事か。どんな異性に出会ったか、どんな友に出会ったか、どんな仲間とメシを食ってきたか、これに尽くされると私は思います」という言葉をかける名言に採った。人生観、幸福論というのは、やはりその人の性格に大いに影響を受けていると思う。自分とは違う人生観ではあるが、共感するところも多い。

90歳からのライフワークに挑もうとする渡辺京二は、途中で終わってもいい、書けるところまででいいという。完遂して欲しいと思うが、そいう考え方もあることには納得する。 

無名の人生 (文春新書)
 

 

 

無名の人生 (文春新書)

 

 

 

「段取り」考

f:id:k-hisatune:20210731223541j:image

明日から九州なので、仕事の「段取り」を考えながら過ごしました。

 「全集」第3巻の「まえがき」執筆。ブログやメルマガの仕込み。読むべき本の

の線引き。各種連絡。

「段取り」について。

佐川清段取りの出来る者が作業の進行を握り、やがては作業全般を掌握するのは成り行きというものだ」

・佐藤 忠良「段取り半分」

池波正太郎「約束も段取り・仕事も生活も段取りである。一日の生活の段取り。一ヶ月の仕事の段取り。一年の段取り。段取りと時間の関係は、二つにして一つである」

中原早苗「段取りの悪い人ね」

ーーーーーーーーーーーーー

夜は深呼吸学部の定例ミーティング。「パス」「レスポンス」「関係」「アンカー」「横尾忠則」、、、、。

f:id:k-hisatune:20210731223613j:image

f:id:k-hisatune:20210731223623j:image

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月31日。中原早苗「だって、シナリオがくるのよ。それをやるだけ」

中原 早苗(なかはら さなえ、1935年7月31日 - 2012年5月15日)は、女優

 東京出身。夫は映画監督の深作欣二、同じく映画監督の深作健太は長男である。

1953年の16歳の「村八分」(新藤兼人監督)デビュー以来の8年間で、日活で多い年は年間14本に出演している。1964年にフリーとなり、東映大映、松竹などの映画、またテレビドラマに多数出演。1965年に映画監督の深作欣二と結婚。

本名は宍戸早苗。芸名の「中原早苗」は、田中絹代の「中」と原節子の「原」をとって「中原」とした。因みに息子の深作健太監督の名前も、夫の深作欣二監督の映画人生で重要な高倉健の「健」と菅原文太の「太」を組み合わせたものだ。

中原早苗著・田丘広編『女優魂 中原早苗』(ワイズ出版)を読んだ。2006年から2008年にわたって行われたインタビューが土台となった自叙伝である。

このインタビューでは、監督や俳優に関するコメントも面白い。 「西村晃さん、こういうのをいい男というのよ」「今村昌平は大嫌い」「有名な清順さん。いい印象はないなあ」「赤木圭一郎がもう少し生きていたら。日活ももう少しもったかもね」「市川雷蔵さんスターらしくないスターよね」「藤山寛美さん、自然で一緒に演じてとても気持ちがいい方」、、。

夫の深作欣二については、「段取りの悪い人ね」「マイペース」「ヒット作の少ない監督だから養わなきゃいけない」などと語っている。深作欣二を男にしたのは、この妻だったのだ。

中原早苗は主役から脇役までどんな役でもこなした女優である。2001年までの48年間、女優として膨大な数の作品に登場している。この本の「出演映画作品目録」で数えてみると164本だった。1本から14本まで毎年間断なく仕事をしているのに驚いた。代表作は「村八分」「紅の翼」「学生野郎と娘たち」「狼と豚と人間」「男の顔は履歴書」など。

中原早苗という女優は、生活のためもあったが、くる仕事は何でも引き受けている。インタビューアーが細かく調べて聞くと何度も「覚えていないの」「覚えてない」という回答が返ってくる。有名男優とのラブシーンも忘れている。その都度、面白がって出演したおおらかな姿がみえる。仕事がくるから、ただこなし続けただけという姿勢が、この女優を大きくしたのだ。深作欣二監督に関する資料は、水戸市中央図書館に納めている。映画監督の夫も救われていたのだ。舞台俳優だった父と母の血を引いて女優となった中原早苗、この女優と監督の息子の深作健太は映画監督となっている。環境と血筋の重さを感じる機会となった。 

 

 

 

大学院「インサイトコミュニケーション」の最終回は、「私の仕事」の発表会。

夜は品川。大学院「インサイトコミュニケーション」の最終講義でした。

f:id:k-hisatune:20210731050924p:plain

 以下、受講生の総括。
  • 今日も、楽しく学ぶことができました。久恒先生、皆さん、ありがとうございました。昨日、先生の著書「図で考える人の図解表現の技術」を読みました。思っていた以上に、本の内容が良く解りました。改めて、講義で学んだことの多さを実感しました。春学期のまとめの時期になり、レポートの作成においては図を多用しています。図解することで内容が整理できますし、その前段階でよく考えるようになりました。文章と組み合わせることで、解りやすくなっていると感じています。また、講義の内容(自分はいったい何を学んだのか)を図1~2枚に整理してみました。結構大変で、キチンと考えないと一葉にはまとまりません。間違いなく考えるようになっています。こう思えるのも、図解を学んだからだと思います。講義を受講して良かった!折角出会った、図解表現の技術です。今後もあれこれ活用していきたいと思います。先生、皆さんありがとうございました。今後もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、履修生の皆様、本日もありがとうございました。皆様の仕事図を拝見し仕事、業界について理解することができ、その人自身の魅力にも触れることが出来ました。実際に自分で手を動かし仕事図を作成することで、今やっていること、取り組みたい方向性を整理出来ることを学びました。久恒先生より「仕事図と人生鳥瞰図をしっかり描いていれば迷うことはなくなってくる」という言葉を聞き、その感覚が本日分かったような気が致しました。自分が今後どのような方向に進みたいのか、問題意識は何のか、壁に当たった時は、自身の仕事図、人生鳥瞰図に立ち返り考え直すことも手段の1つだと感じました。また「深堀すると成長する」という言葉についても非常に前向きな気持ちになり、今後図解も含め、しっかり今進めていることをしっかり深堀していくことを忘れずに取り組んでいきたいと思いました。久恒先生、履修生の皆様から多くの学びを得られたことについて感謝申し上げます。今後とも宜しくお願い致します。
  • 本日、最終講義【私の仕事図】。皆さんの仕事、これまでやってきたこと、これからやりたいことを聞かせていただきました。8回の講義を通して、私自身も含め、皆さんの図解が個性を出しながらも、考えを共有できる1枚の図解が出来上がっていくことに毎回楽しみを感じていました。最後に、「人間は仕事のなかで成長する」「今やっていることを深堀りすることで方向性が見えてくる」という先生の言葉が印象的でした。「私の仕事図」を図解することで、人生の目標やこれまで自分がやってきたこと、強みや弱みを整理することができました。これからも授業、仕事、そして修士論文の作成において、図解を使うことで状況の整理と見えていなかった気づきを発見できるのではなか、さらには図解を共有することで、自分の考えや仕事における課題を双方が誤解することなく理解できるのではないかと考えております。引き続き図解を日常に取り入れます。久恒先生、皆さん、ありがとうございました。
  • 最終講義ありがとうございました。皆さんの図解が進化しているとあらためて思いました。白黒以外の色が加わることで、訴えかける情報量が増えると感じました。大いに参考にさせていただき、今後チャレンジしてみたいと思います。 全く知らない分野の人とのコミュニケーションが図解を通して生まれることを体感しました。「コミュニケーション」の概念、定義が私の中で広がりました。「私の仕事図」では、自分の働く会社がどういう会社であるか、会社の中で自分の仕事がどういう位置付けにあるか、会社をどうしていきたいか、自分はどうありたいか、多くの情報を皆さん上手く盛り込まれていて、仕事、プライベートに真摯に向き合う姿勢に刺激を受けました。「図解」を通して様々な教養を身につけることができた4ヶ月間となりました。感謝申し上げます。
  • 久恒 啓一先生 7/30学び&感想。先生のおっしゃるように、皆さんの「私の仕事図」は皆さん個々の自分を中心とした説明でありながら、世の中の動きが垣間見れるという点で図解の表現の幅の広さに改めて感銘を受けました。これからも図解の思考と技術を高めていきます!今日で授業は最終講ですが、先生はじめ皆さんとの繋がりを大事にできればと思いますので、今後ともよろしくお願いします。【学び】・図にすることで抽象化されるので、そこに具体性(数値など)を持たせると現実味が増す・仕事図は「私」を中心に配置した方がわかりやすい(Sさん、アドバイスありがとうございました!)・言葉(販促、営業、コールセンター)の捕捉説明を加えることでよりイメージが沸く(先生、コメントありがとうございました!)・どうして糖尿病なのかということがよりわかるように数値的な説明などでその重要性を表現すると背景もわかる(Mさん、ご質問ありがとうございました!)以上、最終レポートで学びを仕事図に盛り込めるように頑張ります。4か月間、あっという間でした。ありがとうございました。
  • 先生、皆様、今日もありがとうございました!皆様の図解に、以前やった仕事、今の仕事、将来やることがとても明確です。また仕事に関する情報も細かくてわかりやすいと思います。医療、旅行、商売などの仕事に関する図解を通じて、日本企業、日本文化に深く理解するいいチャンスだと思います。大変勉強になりました。「私の仕事図」で皆さんが色々不足を教えてくれてありがとうございました。直してみます。先生の授業を通じて今まで、色々気持ちがありました。図解を描けなくて苦しんだり、どんどんできるようになって嬉しかったり、「正解はない」と言う言葉に感動したりした。面白い授業でした、図解と哲学があった授業は楽しかった。図解を引き続き書きます。ありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。「私の仕事図」を拝見することで、仕事の内容だけでなく、背景や思いや志ま1枚の図で見ることができることが深くてとても面白かったでした。また毎回思うことですが、それぞれの図解に個性があり、描き方がそれぞれ全然違うので、色んな手法があることもあらためて学ばせていただきました。何か考えに迷ったときや、節目のとき、考えを整理したいときなど、あらゆる局面で、「人生鳥瞰図」と「私の仕事図」を見直したり、書き直したりする事で、自分の考えがまとまり、方向性が確認できるのだと感じました。授業の最初の頃に、大学院での学びは図解を学ぶだけでもいいくらいですよと先生が仰っていたのが印象的でしたが、図解を学んだことで、自分の考えを整理するあらたな手段を手に入れた感覚です。これからも図解を使って理解を深めていきたいと思います。皆さま引き続きよろしくお願いします。

    f:id:k-hisatune:20210731051043p:plain

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    午後
    ・目黒で橘川さんと相談
    ・品川で税理士事務所の菊池さん、工藤さんと面談
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「名言との対話」7月30日。立原道造風信子(ヒアシンス)」
    立原 道造(たちはら みちぞう、1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、詩人、建築家。

    東京日本橋生まれ。父の死により5歳で家督を相続。7歳、子供向け科学雑誌を愛読。13さい、パステル画を始める。14歳、短歌に関心。15歳、神経衰弱。北原白秋を訪問。天体観測に熱中。16歳、校長留任運動のリーダー。金田久子への愛をテーマとした自選詩集『推奨簾』を書く。17歳、府立三中を四年修了し一高理科甲類に入学。短歌雑誌「詩歌」に投稿を開始。堀辰雄の面識を得る。18歳、一高文芸部委員。三好達治を愛読。19歳、堀辰雄を訪ねる。20歳、東京帝大工学部建築学科に入学。丹下健三の一つ上。軽井沢で室生犀星を知る。21歳、小住宅の設計で建築界の奨励賞である辰野賞を受賞。新鋭の詩人として注目される。22歳、2回目の辰野賞。23歳、3回目の辰野賞。卒業後、石本建築事務所に就職。信州追分の定宿の油屋の火事で九死に一生を得る。24歳、水戸部アサイと交際。第1回中原中也賞を受賞。24歳8か月で急逝。

    命日の3月29日は「風信子(ヒアシンス)忌」である。ヒアシンスはギリシャ神話の美少年ヒアシンサスの額を割った血から生まれた花だ。道造自身も白皙の美青年だった。恋人だった水戸部アサ子によれば、道造は計画魔であり、便箋と封筒は新橋のいとう屋でなければ承知しないというように、こだわりの強い人だったそうだ。

    立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。師にも師がいる。兄貴分の堀辰雄立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を執筆している。
    1997年、文京区弥生に立原道造記念館が設立されたが、2011年2月20日に閉館。2012年2月、信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)内に「立原道造記念展示室」が新設されたが、後に閉館している。
    立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工した。ここを拠点に今でも「ヒアシンスの会」がある。この地は昭和初期に「鎌倉文士に浦和画家」といわれた芸術家の村だった。道造は五坪ほどの小住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼んでいた。
    同級生への手紙には「、、浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなしいかげりのなかで花ひらくのだ」。「五十坪のなかへ 四坪半の小家?を建ててもまだ広すぎる位です」と語っている。

    草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」では、ヒヤシンスハウスとおぼしきイメージが語られている。「僕は、窓がひとつ欲しい。あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……」
    立原道造は、1937年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。「芸術家コロニイ」を構想し、自ら住む週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだ。

     角川春樹立原道造詩集』(ハルキ文庫)を読んだ。やさしい語り口の詩で青春のただ中にある青年を感動させるだろう。林、鳥、小鳥、雲、小川、風、微風、夢、麦藁帽子、花などがでてくる。

    2005年に本郷の竹久夢二美術館と立原道造記念館を駆け足で訪問したことがある。今度は、夭折の詩人、立原道造の夢の住宅「風信子(ヒアシンス)ハウス」を見に行きたい。 

     

     
 

野田一夫先生(94歳)に近況報告。お元気です。

野田一夫先生(94歳)に近況報告。

近著『50歳からの人生戦略は「図」で考える』と『名言の暦 戦後命日編』をお渡ししてきました。

広尾の レストラン「シェ・モルチェ」で、ステーキ・ピラフ、スープ、そしてノンアルコールビールを飲みながら談笑。お元気です。

隣は「私の趣味は野田一夫」という50年以上秘書役をつとめている藤村さん。私も野田先生とは、JAL時代、宮城大時代、多摩大時代の25年を超えてご指導いただいています。

f:id:k-hisatune:20210729154026j:image

 

f:id:k-hisatune:20210729154044j:image

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 帰りに東京ステーションギャラリーで開催中の「木彫りの申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」展をみてきました。

f:id:k-hisatune:20210729154135j:image
f:id:k-hisatune:20210729154140j:image

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月29日。橋本龍太郎終戦でなくて敗戦」

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年昭和12年)7月29日 - 2006年平成18年)7月1日)は、日本政治家。

衆議院議員(14期)、厚生大臣第57代)、運輸大臣第58代)、大蔵大臣(第9394103代)、通商産業大臣第59代)、副総理村山改造内閣)、内閣総理大臣(第8283代)、沖縄開発庁長官第42代)、行政改革担当大臣初代)、沖縄及び北方対策担当大臣初代)、規制改革担当大臣初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。

政治家の父の後継は次男の大二郎(後の高知県知事)となっており、龍太郎は慶應義塾大学を出て呉羽紡績に勤務するが、父の急逝で、1963年25歳で衆議院最年少で議員になる。

1996年「自社さ政権」の村山首相が退陣した時、宮沢内閣退陣以来、自民党は2年半ぶりの政権復帰に際し、副総理だった橋本は総理に就任する。慶応出身の初の総理である。1997年4月1日の消費税5%を断行し、これが長期不況の始まりとなった。その後の参院選で負け、首相を退陣し、小渕が首相となる。2001年に森首相退陣後の自民党総裁選に出馬するが、小泉純一郎に破れた。

橋本龍太郎は、多趣味の人であった。剣道は錬士6段、写真はプロ級、エベレスト登山隊の総指揮をとるなど登山家としても活動した。

「見識はあるが、人望はない」などと揶揄されることもあったが、座右の銘の「誠」と「初心忘るべからず」を胸に秘めて政治活動を行った。橋本行革と呼ばれた省庁再編では、22省庁を1府12省庁とし、この体制は現在まで続いている。「火だるま宰相」と異名をとった行革には命をかけていたことがわかる言葉である。

以上を命日の2018年7月1日に書いている。今回の「大正から昭和へ 誕生日編」では少し書き加えたい。

1963年の衆議院銀当選同期には、小渕恵三渡辺美智雄中川一郎、田中六助、伊東正義という多士済々の大物が並んでいる。総理になった人(小渕恵三)、総理になれなかった人(渡辺美智雄、田中六助、中川一郎)、そして総理にならなかった人(伊藤正義)がいて、戦後の政治史を華やかに彩っている。

2000年に森喜朗内閣の不信任案が国会に出た。加藤紘一らが同調する動きをみせたとき、谷垣禎一が泣きながらとめたあのシーンを思い出すが、このとき、主流5派閥の会合で橋本は「熱いフライパンの上で猫踊りさせとけばいい」と言い放った。大勝負をかけようとした総理候補・加藤はこのとき、政治生命を失ったのである。

2009年に自民党が下野して社会党委員長の村山富市を担いで、自社さ政権をつくった。その村山は1995年8月15日に有名な「村山談話」を発表する。通産大臣であったは橋本は、文案にあった「終戦」というあいまいな言葉を、「敗戦」に書き改めさせている。

第二次大戦中に、「退却を転進」と呼び、「全滅を玉砕」といい、「敗戦を終戦」と言い換え、あいまいにして事実を認めない風潮にあった。村山を首班とする社会党内閣のレガシーとなった「村山談話」において、終戦を敗戦にせよと言い切った橋本龍太郎は、行革では「火だるまになって」というなど、慶應剣道部時代に「突貫剣士」と呼ばれたままにふるまったことを改めて記したい。

 

 

 

図解塾のテーマは「日本経済」ーー全体知で考える。歴史と事実の体系化。分かることが楽しい感覚。

図解塾のテーマは「日本経済」でした。

f:id:k-hisatune:20210728225914j:plain

  • 今日もありがとうございました。本日の課題は「寺島実郎の『世界を知る力』の図解でした。人数が少なく淋しかったけど、1人1人の作成した図に時間をかけて、内容の深堀などもできました。最後の全体的な感想について述べましたが、この図解塾によって、プレゼンテーションの技術の習得にとどまらず、図解の作成過程を通して日本の外交や経済について日々のニュースのレベルではなく全体知として捉え、考えることができるようになったことです。これは大きな収穫でした。8月はちょっとお休みして、9月から再開とのことです。図解が初めてという方向けの回、少し進んだ応用的な内容の回など、いろいろなニーズに対応できるような企画をしてくださるそうで、期待しています。また、「課外」も、「人生100年時代の生き方」を引き続き期待したいと思います。なお、先日、「50歳からの人生戦略は図で考える」の読書会が開かれました。初めてのブレークアウトルームで少人数で深い話ができてよかったと思います。読書会もぜひ継続していただければ嬉しいです。あれこれ注文ばかりですみません。
  • 本日もありがとうございました。今回は、日本の経済について、勉強できました。一枚の図から、いろいろな見方、いろいろな方向から知識がでてきて、さらにみなさんの図解も工夫されていて、感心しきりでした。分からない・あいまいな言葉は調べ、この図解塾を通して、勉強させていただいてました。図解については、たくさんの情報を一枚にまとめるのは時間と根気が必要ですが、分かってくると楽しさになり、とりあえずまとまったときはうれしくなりますね。分かってくることが楽しい。感覚。良いですね。8月はお休みですが、出歩くことが難しい夏なので、図解にじっくり取り組むのも良いかもしれません。これもモノづくりなのかな。と思いました。今回もありがとうございました。
  •  久恒先生、皆様、本日もお疲れ様でした。図をupした際にもコメントしましたが、「起承転結」を把握するため「世界を知る力」全5回を全て見直す羽目になり、怒涛の情報量となりました。結局、一度の作図だけで満足してしまい、一言に要約して言い換えたり、注釈となるキーセンテンスの差し込んだりという、解り易くする為の「一工夫」を加える事無く粗削りな仕上がりとなってしまいました。プレゼン後ご指摘頂いた訳ですが、このように一度他の方のご意見を頂き推敲するというプロセスは欠かせないという事を再認識しました。一方「日本の埋没」について背景を調査し事実の裏付けを行ったので一層理解を深めることが出来た事は良かったと思いました。先日実施した「国際問題」にも共通していることですが、その問題を取り巻く「歴史」や「事実」を集め組み立て「体系」として理解する事こそ図解の肝であるという事を改めて実感できたことが本日の学びとなった次第です。やはり自分で行動して理解するという事は楽しい事ですね。今回もありがとうございました。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月28日。江尻光一「花は誰のために咲くのか」

江尻 光一(えじり こういち、1926年7月28日-2011年5月6日)は、日本園芸家である。

 東京農大を卒業して須和田農園をひらき,洋蘭の栽培及び品種改良に従事する。1973年からNHKテレビ「趣味の園芸」に出演している。この番組は1967年から総合テレビ、1991年からは教育テレビで放映され、毎回季節に応じたさまざまな植物の育て方や管理法などについて実技を交えて解説する人気のある長寿番組だ。

そのホームページで、江尻光一は「趣味の園芸」放送開始直後に、洋ランの栽培の説明を求められたのがきっかけで、以来2000年代まで洋ランを中心に説明を担当した。趣味の園芸プラスや雑誌にも頻繁に登場した」と説明されている。須和田農園を引き継いだ息子の江尻宗一も江尻光一と同様にランに詳しいとされている。1995年NHK放送文化賞

1991年カトレア「ヨランダ ナカゾネ」での第1回世界らん展日本大賞。1994年(パフィオペディルム「コウガ」)、2011年(セロジネ「ピュアホワイト」)の3度にわたり世界らん展日本大賞を受賞した。2004年には世界らん展で英国王立園芸協会2百周年記念トロフィーを獲得。江尻は「ラン」を育てる大家であった。

2010年第3回市川市民芸術文化賞。日本セントポーリア協会会長などもつとめた。東京農大客員教授もつとめた。

『江尻光一のしくじり園芸日記―失敗から学ぶ花づくりのポイント』という著書では、園芸は才能ではなことを示すため、「いつも枯らしてしまう」「なぜか、花が咲かないなど、数々の失敗を赤裸々に告白し、失敗から学んだ栽培テクニックを書き連ねていて、ガーデナー志望者の共感を呼んでいる。

講演も多かったようで、最晩年の「私が植物から学んだこと~花は誰のために咲くのか~」というタイトルの講演では、風格ある物腰と穏やかな風貌、そしてスーツに蘭の花をあしらったネクタイで登場している。「植物を育てること」と「人を育てること」は共通するという視点で聴衆に感銘を与えている。

「土作り」とは植物が健全に育つ環境を整えることを意味する。ふかふかの土がいいといわれる。栄養分が豊富で、根が伸びる隙間があり、弱酸性の土がいいそうだ。本や人がまわりにあり、学ぶ自由があり、こだわりが少ない中立に近いところが、人が育つ理想的な環境ということだろうか。「見えないところを大事に」とは、根がしっかりしていないと育たない。つまり基礎を大事にせよという示唆であろう。

禅語に「百花春至為誰開」(花は誰のために咲くのか)という言葉がある。講演のタイトルに使っている言葉だ。 哲学的な問いである。禅ではこの問いを心に抱きながら、探していくのが大事だとされる。花は誰の為でもなくただ無心に咲いている、自己実現のために咲いている。それを八木重吉「花は何故美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」とも言っている。人も同じということだろう。
植物は人である。花は人である。そして蘭は人である。江尻光一が取り組んだ「蘭」には愛、美、雅、そして淑女というイメージがある。美しい淑女を育てることが江尻光一のライフワークとなった。そのテーマは息子にも引き継がれており、私たちはその姿を愛でることができる幸運を持っている。