「日本探検」がテーマーー日本史。地域。白書。今の日本。(『図解コミュニケーション全集』第9巻「応用編3 日本探検」)

久恒啓一図解コミュニケーション全集』第9巻「応用編3 日本探検」。

テーマは「日本探検」。

以下の、著書を入れています。

図解今の日本がひと目でわかる!どうしても知っておきたい!社会人の常識[久恒啓一]

楽天ブックス: 図解今の日本がひと目でわかる! - どうしても知っておきたい!社会人の常識 - 久恒啓一 - 9784837922322 : 本 (rakuten.co.jp)

ーーーーーーーーーーーーー

午前:雑誌『アクティブ・シニア革命』の準備

夜:デメケンミーティングを1時間  

 『アクティブシニア革命』編集部会議を2時間。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月9日。加藤紘一「国会で、今生きている老若男女の日本人の“幸福観”を議論したらどうだろうか」

加藤 紘一(かとう こういち、1939年(昭和14年)6月17日 ‐ 2016年(平成28年)9月9日)は、日本の外務官僚、政治家。

名古屋で生まれ、山形県鶴岡市で育ち、東京へ。日比谷高校を卒業。東大理科一類不合格。翌年文科一類合格。法学部政治コースを卒業、外交官試験に不合格。公法コースに学士入学・卒業し外務省に入省。中国語を選択、日中関係をライフワークにしようと決意する。

 池田勇人前尾繁三郎大平正芳鈴木善幸宮澤喜一加藤紘一と続く、保守本流の名門派閥・宏池会。政策に明るいが政争に暗い「公家集団」と揶揄される宏池会。中道、リベラルの宏池会。その名は安岡正篤命名した。加藤紘一は「宏池会のプリンス」と呼ばれ、 防衛庁長官内閣官房長官自由民主党政務調査会長、幹事長、宏池会会長を歴任し、「総理に一番近い男」とも言われた。そして経世会に対して、Y(山崎)K(加藤)K(小泉)でYKKとして対抗軸を結成した。

宏池会自民党内のハト派の拠点であった。宮澤喜一は、リベラルとは「一億一心の対極」にあると述べている。一億火の玉、一億総保守、、など時代の空気に同調しない。主義主張を声高に論じるのではなく、全体の制約から距離を置いて、独立した個人とした自由な生き方、自分で考えることを抛棄しない、自立自尊、それがリベラルであるということだろう。

しかし、2000年6月の森内閣打倒を目指した「加藤の乱」の失敗で宏池会会長を退く。2002年、事務所代表が起こした問題の責任をとって議員辞職

その名門宏池会加藤の乱」以降、分裂した。加藤派は、小里派谷垣派になっていく。堀内派は、丹羽・古賀派古賀派となっていく。2012年に谷垣派古賀派が合流し、岸田派になる。2024年に岸田派は岸田文雄が解散する。

2007年発行の著書『強いリベラル』で、加藤は小泉政権以降、自民党市場原理主義に軸足を移し、共同体が破壊され、格差社会を生んだと批判している。また「保守」とは、コミュニティをまとめる側に立つことであり、「リベラル」は、他人を気遣う心であり、理想主義と責任感を兼ね備えた政治勢力の結集を「強いリベラル」の旗で表現している。

2009年の衆議院選挙で復活当選、2012年落選し、政界を引退。 2014年夏、インパール作戦で殉職した日本兵の慰霊のため、古賀誠と伴に訪れたミャンマーで倒れた。

加藤は議員辞職後に、地元山形で少人数のタウンミーティングを繰り返す。そして自分が今まで得意になって考えたり偉そうに語ってきた社会保障政策って一体なんだったろうと考え直し、政治は国民の「幸福」と「豊かな暮らし」を議論するところから始めるべきだと考えるようになる。失敗と逡巡も多かった政治家・加藤紘一の国会に向けての真実の遺言である。 個人の人生と生活にとって一番のテーマは「幸福」と「豊かな暮らし」だから、そこから出発するのがいい。

強いリベラル

強いリベラル

 

 

 

『図解コミュニケーション全集』第9巻「応用編3 日本探検」を刊行。

久恒啓一図解コミュニケーション全集』第9巻「応用編3 日本探検」を刊行。日本歴史、地域活性化、日本の白書、今の日本を図解で解説した。以下の著書が含まれている。「日本探検」のための数百枚の図解と解説を並べている。図解の書き直し等もあり、時間がかかった。

Ⅰ .『日本一わかりやすい 図解日本史』(PHP 研究所)

Ⅱ .『事業構想学入門』(学文社)「事業構想力を鍛える教育の試み」

Ⅲ .『大胆図解 日本の白書』(同文舘)

Ⅳ .『図解 今の日本がひと目でわかる!』( 三笠書房

まえがき。

 『図解コミュニケーション全集 第9 巻 応用編3 日本探検』は、4 つの書籍で構成されています。


Ⅰ .『日本一わかりやすい 図解日本史』(PHP 研究所)
教養のある人とは、日々いかに生きるべきかを問い続けている人だという定義があります。それには、まず足元の自国の歴史に対する自分なりの歴史観を持つことが求められます。この本が歴史に関する他の本と違うのは、歴史の流れやテーマごとの全体を丸ごと図解している点です。100 枚以上の図解とその解説文をたどることによって、日本の歴史を概観することができるでしょう。


Ⅱ .『事業構想学入門』(学文社)「事業構想力を鍛える教育の試み」
 宮城大学事業構想学部の立ち上げにあたり、同僚の先生たちと書き上げた「入門」編に、私は「事業構想力を鍛える教育の試み」というテーマで、私の担当している顧客満足ゼミ(CSゼミ)の活動を報告しました。宮城県や県下の市町村がかかえるテーマについて、フィールドワークをもとに、その解決策を提言する報告書を完成させる活動です。日本の一つの県という地域の課題についての深い理解と、解決の方向について考える中から事業構想力を鍛えるという方法論を確立する試みの報告です。


Ⅲ .『大胆図解 日本の白書』(同文舘)
複雑で、かつ巨大な「日本」という国の、個々の分野の問題と分野同士の関係、そして全体像をつかむのは至難の業です。経済、社会の実像を、国に周知する各種の「白書」は、法律の規定に基づいて国会に提出する報告書と、閣議への報告があります。日本の官庁は、最大のシンクタンクであり、統計や資料を駆使して、実態や課題、そして取り組むべき方向を示しており、日本の全体像を知るにはもっとも役に立つ情報源です。その1998 年版の白書を1 章1 枚の図解にまとめ、その図解をみながら解説を書いたのが本書です。

 

Ⅳ .『図解 今の日本がひと目でわかる!』( 三笠書房
21 世紀に入って、急速に混迷を深めつつある日本、「今の日本」の課題の全体像を図解で明らかにしようとした本です。経済、税制、金融、経営、高齢化、医療、年金、防衛……など山積みする課題について図解で明らかにした本です。この本を刊行した2007 年からすでに17 年が経過していますが、ほとんどの課題は解決できずに空しく時を重ねています。21 世紀に入っての日本の凋落をみる思いがします。


2020 年の『図解コミュニケーション全集』第1 巻の刊行以来、第9 巻の本書を刊行できることになりました。2024 年中に日本実業出版社から『図解の技術 大全』を刊行する予定です。この「大全」は、今までの「全集」各巻のエキスの総集編となるため、これを「全集」第10 巻に位置付けたいと考えています。

先行き不透明なまま始めた『図解コミュニケーション全集』プロジェクトは、2020 年以来4 年間で完結することになりました。この4 年は、コロナ禍の4 年間でもありましたが、私のライフワークの一つを完成することができたことを喜んでいます。この間、一緒に伴走してくれた近藤千恵子さんに感謝を捧げたいと思います。

ーーーーーーーーーーーー

久恒啓一図解Web :: 図解コミュニケーション全集 (hisatune.net)

第1 巻  原論編  図解コミュニケーション原論 
第2 巻  技術編  図解コミュニケーションの技術
第3 巻  実践編  よむ・考える・かく 
第4 巻  展開編1 ワークデザイン(仕事論) 
第5 巻  展開編2 キャリアデザイン(キャリア戦略)
第6 巻  展開編3 ライフデザイン(人生戦略) 
第7 巻  応用編1 世界の名著 
第8 巻  応用編2 ビジネス理論・ウェブ時代をゆく
第9 巻  応用編3 日本探検
第10 巻  総集編  図解の技術 大全(2024年中)
ーーーーーーーーーーーーーーーー

駒場の日本民芸館で開催中の「生誕130年 芹沢銈介の世界」展を妻と見る。昼食は東大教養学部の中にあるレストラン「ルベソンヴェール」。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月8日。水上勉西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」

水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年大正8年)3月8日 - 2004年平成16年)9月8日)は、福井県出身の小説家。享年85。

水上勉冬日の道・わが六道の闇夜』を読了した。ある編集者が「文壇へわらじ履きで登場してきた観がある」といったそうだ。中学をやっと出た後、多くの職業遍歴を重ねている。日本農林新聞、報知新聞、学芸社、三笠書房日本電気協会、小学校助教、虹書房を起業、文潮社、日本繊維新聞、東京服飾新聞、洋服行商人。、、、

自伝の後半の「わが六道の闇夜」は、53歳の時点で「私という人間が、どういう育ち方をして、今日のようなひねくれた心の持ち主になったのか、そこらあたりの事情を、出来る限り書いてみい」と思い立って幼少からの体験をつづっている。
20数年間電燈がなかったほどの貧乏。禅寺へ小僧として出家。食べ物の差別と兄弟子たちからの隠微な集団的いじめ。脱走。禅宗坊主の虚偽世界。京都府庁の雇として満蒙開拓少年義勇軍の募集と自らの応募。奉天で中国人虐待の生活。肺病となって帰国。多くの女たちとのこと。壮絶な前半生の記録だ。

1959年に書いた『霧と影』が売れて、一躍流行作家となる。『不知火海沿岸』『海の牙』を経て、中山義秀から「お前、人間を書け。人間を書くしかないぞ」と諭されて、『雁の寺』を書き、42歳で直木賞を受賞する。

その後、亡くなるまで社会派推理小説や純文学など膨大な量の作品を書き続ける。『五番町夕霧桜』、『飢餓海峡』、『一休』、『良寛』などが代表作だ。菊池寛賞吉川英治文学賞谷崎潤一郎賞、などの受賞を経て、1998年には文化功労者となった。没日は直木賞受賞作『雁の寺』に因んで「帰雁忌」と呼ばれる。

柴田錬三郎は「40数年間に36回も職業を変えた経験を持っているから話題も豊富だし、例の「水上節」で、会場をしいんとさせ、多くの中年女性にハンカチをとり出させたりする」と講演の名手としての水上を語っている。

水上勉と私の縁をふり返ってみる。

2007年に山形県天童市の「斉藤真一 心の美術館」を訪ねた。日本酒の「出出羽桜」がつくった出羽桜美術館分館である。ここで、瞽女を描いた斎藤真一に小説の挿絵を描いてもらっていた水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂泊の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記していた。

2007年の日経新聞のアート探求面に「奇縁まだら」という連載があった。画は横尾忠則瀬戸内寂聴が書いていていて、松本清張今東光遠藤周作などの人たちとの交流を描いており、なかなか面白い。作家たちの人間味に興味が湧く。11月10日の45回目は水上勉の話だった。著名で男っぷりがよかったから女優たちにもてたという話題のあと、「若州一滴文庫」について触れている。「若州一滴文庫」は水上が故郷の若狭に私財を投じて建てた文庫で、故郷の田園のど真ん中に広い敷地を買い取り、自分の集めた本や資料、自著や生原稿のすべてを収めている。それをふるさとの子どもたちに「本を読め」という思いをこめて贈った。いわば私家版の水上勉記念館だ。

2014年に訪問した世田谷文学館では「水上勉ハローワーク 働くことと生きること」展をやっていた。このテーマは不思議な感じがしたが、水上の人生の遍歴をみると、その資格はある。

  • 仕事から教えられる。仕事が人を磨いてくれる。
  • 職業というものはそれにたずさわる側の人の側で、ずいぶんちがうものであり、いいかえれば天職にもなるし、ならぬこともある。
  • 生き死にについて対立的に考えなくなり、ただ今、ここにあることが生命の全体だ、という考え方が深まってきた。

並んでいる資料を眺めていて気がついたのだが、就職のための履歴書には立命館大学を卒業したことになっていた。実際は入学したもののすぐに退学しているから、学歴詐称だとおかしくなった。

2015年に岡山県笠岡市の小野竹喬美術館を訪ねた。この時に手に入れた『素顔の「竹喬」さん』(小野常正。山陽新聞社)を読むと、向かいの等持院で修行中の小僧時代の水上勉が正月に遊びに招いていたとあった。その水上は「等持院を憶うことは、小野芸術への参入だといえる」と語っている。水上が毎日新聞に連載した『冬の光景』の題字は画家・小野竹喬の絵であった。

・「食べながら生きている以上、たくさんの“なにか”の“いのち”が、私たちの中に生まれ変わっています。結局、お互いに 生まれ変わり合い、大きな一つの命を生きている」

・「心の田んぼ──「心田」を耕すことを人は忘れてはいけない」

水上勉がたどり着いたのは、「西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」という心境である。生きることと死ぬことを対立的に考えず、今、ここにあることが生命の全体だとも語っている。壮絶な人生を生きたこの苦労人は、地獄であるこの世を「ただひたすら生きよ」と教えてくれる。

 

生成AI日誌から:「PLAUD NOTE」、「Claude」、「ChatGPT」、「perplexity」

ラジオ深夜便」のインタビューで、生成AIの威力を試す。

1:「PLAUD NOTE」を使って、文字起こし。

2:「Claude」で、修正してもらおうとしたが、著作権の関係で、要約しか提示されなかった。

3:「perplexity」

4:「ChatGPT」を使って修正。インタビューのまとめらしくなった。

ーーーーーーーーーーーーーーー

1:PLAUD NOTE

日本総合研究所会長の 寺島実郎さんのお話です。寺島さんは 1947年 北海道を生まれ、1973年 大学院を卒業後、三井物産に入社、イラン革命アメリカ大使館選挙事件など 行われました。その後、ワシントン事務所長などを歴任し、2009年からは大学の学長も勤めています。
 00:02:16
一方、商社時代から、雑誌に20年以上にわたって連載するなど、執筆や言論活動にも大きな軸足を置いてきました。各種のメディアを通じて、日本の文化や文化につながっていきました。政治、経済、外交、宗教など幅広い分野で提言を続けてきた寺島さん。寺島さんを形作った日々はどのようなものだったのか伺いました。聞き手は桜井陽子アンカーです。去年4月に放送したインタビューです。
 00:02:51
今日はようこそお越しくださいました。どうもありがとうございます。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。早速ですけれども。NHKの番組で、とても印象深い番組が終わりだと伺いました。例の大河ドラマっていうのがね、NHKで始まってですね、高校生だったんですけど、札幌のね。第1回のあの花の生涯っていうですね、ドラマっていうのは僕にとってやっぱり本当に衝撃的だったなぁって思い出すんですよね。
 00:03:25
というのは何て言いますか、歴史の見方を変えるっていうかね、その桜田文外の編っていうようなテーマっていうのはですね、ある時代の価値観からすれば、そのなんて言いますか、幕府の大老だった井伊直助がね、殺されて、明治っていう時代が開いていく時の、ある意味じゃあ井伊直助って悪役だったんですよね。それがね、歴史の見方っていうのを変えればですね、やはり日本を開国とかね、近代化だとかっていうような方向に持っていく、一つの天気に立ってた日本の人物なんだっていうことでね、
 00:04:00
実は花の障害だったというね、捉え方をしてきたのはNHK界なんて大河ドラマでやったと。歴史観としてこういう見方もあるよってんじゃなくてですね、大河ドラマでね、ある時代を一歩前に出てね、捉えてるテーマっていうことが多々あってですね、やっぱりあれがなんていうのかな、明治っていう時代に対する考え方を変えたようなと、僕自身もあるいは世の中のも。北海道の実路少年は衝撃を受けたんですね。いや本当にそうだったですよ。あのなんていうのかな、やっぱり歴史に対するものの見方っていうのは、今の言葉で言えば多元的でなきゃいけないとかね、
 00:04:40
多様な見方を吸収しなきゃいけないというきっかけになったですよね。ある教科書で教わったようなことだけじゃね、やっぱりダメなんだっていうことにね、ある意味気がつき始めたっていうかですね、やっぱり単純にものを考えちゃダメなんだっていうことをですね、相対化して考えるっていうのかな、そういう形になってきてるんです。私たちでね、やっぱり高校時代の我々にとってはですね、一つの衝撃でものを考えるきっかけになったなと思いますよね。その後の多彩なお仕事のね、ある意味一つの原点のような形だと思うんですけども、
 00:05:16
それにしてもですね、とにかくご本もたくさん書いてらっしゃいます。テレビ、ラジオにもご出演です。大学の学長もしてらっしゃいます。時間をですね、どこから燃出してらっしゃる、生まれるんでしょうか。僕は自分自身のアイデンティティはね、僕は総合商社っていう三菱さんという会社にずっと勤め上げたっていうのも僕の一つの柱なんですけど、経済の現場にいたっていうのがやっぱり僕の一番大きなアイデンティティです。今現在もね、そういう経済の現場の人たちと向き合って仕事してますし、
 00:05:51
次第にアカデミズムの方に軸足移して、今おっしゃっていただいた大学の学長もね、東京の郊外の多摩大学っていう大学の学長もやってるんですけども、まあいろんなことやってますよねってよく言われるんですけど、僕の中ではみんな繋がってましてね、みんな時代と向き合っている仕事っていうか、その中で実際に見ていることがシナジーになってですね、僕のものの見方や考え方っていうのを支えてくれてるっていう意味においてはね、ちょっともういろんなことに応策されてるっていう感じじゃなくてですね、一つのことを多様にやってみてるっていう感じで、
 00:06:26
ただその時間管理ってクソで言えばね、僕自身その辺がこだわりでもあるんですけども、要するに夜の無駄な時間は過ごさないっていうのがもう新入社員の頃からの僕のあれで、どうでしょうね、8時になるといかなる席からも駐座してたっていうか、最初は生意気な奴だなと先輩たちに追われてたんですけど、そのうち世の中って引っかかってくるもんで、先輩の方がですね、お前もう8時だぞと、帰った方がいいぞっていうぐらいの感じで、
 00:07:00
一種の生活習慣病みたいになってきてね。逆にそれがもう体のパターンですから、他の時間管理の方が逆に違和感を感じるっていう、それが本当に本音ですね。8時以降はどういう過ごし方?それはもう、僕の言葉でいう文献、つまり本を読んで自分のメモを作る。そして、明け方少し早めに起きて、今でもそうなんですけども、僕は今、いわなみの雑誌の世界っていうので、もう20数年にわたって連載続けてるんですけどね。
 00:07:35
そういう連載の作品を作るっていうのを朝は集中してて、夜はそのための素材としての文献をね、あるいは自分の体験、例えば1日で体験したこととか、面談した人間とのメモだとかっていうものを作ってですね、そういう時間管理ですかね、ざっくり言うと。じゃあ、ぼーっと何か音楽を聴いたり。あの映画を楽しむとそんな時間で。いやいやそれもやりますよ。結構あの3倍速人生ってよく最近若い人たちがね、早送りでもって映像を見るって言うけど、僕あの本を読む速さっていうのを見ては結構なんていうのかな、あの大概のものはですね、人の倍ぐらいのスピードで読めるって言う気してまして、あのご存知の今九段下にね、私の寺島文庫っていうまあ小さなライブラリーみたいなのができてるんですけども、それはもうもともとすると思わなかったんですけど、
 00:08:29
僕10万冊越そうとしてるんですけどね、あのなんていうのかな、どんどんどんどんその興味のある文献っていうのが増えてきてて、社会科学の分野の人間ですけども、ここのとこやっぱりAIだとかね、生命科学だとかですね、そのやっぱり時代生きていくためには吸収しなきゃいけない新しいジャンルの本の方がむしろ増えてるって感じますけどですね。伺いましたら、あの演科の本ですとか、美術の本とか。
 00:09:00
とにかく本当に多彩と言いましょうが、多様な本が。それはね、例えば戦後っていう時代を考えるときにね、やっぱりその、なんでふるさとと応答歌のような演歌が日本人の心を打ったのかっていうようなことを調べているうちにね、やはりどうしても必要になってくる文献っていうのが増えていってるっていうのがあれでね、音楽が特に好きだっていうわけでもないんだけど、そういう形でどんどんどんどん引き込まれていくっていうのかな、好奇心が強いんですかね。
 00:09:31
そういう寺島さんの本当、あの今日はですね、素顔と言いましょうか、どの辺りからですね、そういうことに向かってこられたのか伺っていきたいと思うんですけど、まずはお小さい頃のお話から伺いたいんですが、北海道の生まれなんですね。親父がね石炭の仕事してたもんですから、炭鉱のロームの関係の仕事だったんですけども、僕は戦争に敗れた2年後の1947年に、北海道のルモイの近くのですね、炭鉱で生まれたんですね。
 00:10:04
で、ところがその後ですね、一旦クシロの近くのシラヌカっていう地域の炭鉱に移って、そっから不思議なことに九州のチクホウにですね、小学校の2年から3年の期間ですけども行って、で、また再びソラチの炭鉱に戻って、小学校の高学年の時にサッポロっていう大きな町にですね、出てきた。ですから、小学校の高学年になるまでは全国の炭鉱を動いたって言いますかね。ちょうど僕はその戦後の日本の黒いダイヤと言われた時代から傾きかける炭鉱っていうところにね、
 00:10:40
少年時代いたんだなぁなんてことをですね、改めて思い出しますけども。ですから九州に行ったら北海道から来たって言ったらもう外国ですよ、当時の日本ではね。そうでしょうね。で、九州から北海道に戻ってきたって言ったら、またそれまた外国からやってきたようなやつっていうことで、まあ、あだ名が九州ってついたりね。北海道に着いたりですね、するような、だからその僕の一つの苦笑いですけども、カルチャーギャップに強いっていうのかな。つまりそうやって異文化の中をですね、まさにチビの時代にうろつき回ったっていうことがね、僕にとってはものすごい刺激にもなったし、
 00:11:20
あの、なんて言いますか、ある基本的な性格を作る上では、ある影響があったのかななんて最近思っちゃいますよね。今でこそね、笑顔でおっしゃいますけども、小さい頃はどうですか、転校生がね、例えば北海道から来たと、なんか言葉も違うし、どうだったんですか。いや、今の言葉で言えばいじめでしょうね。お袋が言った一言っていうのがね、その今んならと笑えるんだけども、山より大きな獅子は出ないよと言ったのを僕は思い出すんだけども、
 00:11:51
息子である僕がいじいじとね、くよくよとね、あの、すまらん愚痴言ったりですね、あの、いわゆるなんて言いますか、獅子狩れてるとですね、度胸据えろとね、腹くくって生きろって意味なんでしょうね。山より大きな獅子は出ないよって、確かに獅子ってのは猪とかそういうことなんだけども、山より大きな猪は出ないよと、確かに出っこないですよね。次元が違うんだから。そういう捉え方がね、形勢逆転っていうかですね。
 00:12:23
え、どういうことですか。いじめる側に回ったわけじゃないけれども、いつの間にかなんか、学校とかクラスでの存在感がね、あれして、なんとなく、要するに祭りあげられてましたよ、どこでも。あれですね、僕はいろんな意味で、例えば九州に行ってみてね、筑豊の炭鉱がワーッと傾きかけてですね、自分が目撃したものってのはご存知でしょうかね、筑豊の子供たちっていう写真集があるんですけども、
 00:12:53
どもんけんさんですね。どもんけんさんの。あそこに写っている写真こそ、僕自身が肉眼で目撃した。つまりわかりやすく言うと、学校行ってみたらね、いじめなんか虜してですね、弁当を持ってこれない子って写真があるんだけども、我慢して、要するに昼、みんなが弁当食ってるのに本読んでるわけですよね。初め、この人はお腹がいっぱいで飯食えないのかなっていうふうに単純に思ってたら、そうじゃなくて、我慢してね、みんなが食べてるのを食べれないんだっていう。
 00:13:28
いや僕はね、本当に驚いたのは、親がね、子供捨ててですね、両親ともにもうどっかに消えてしまって、小学校3年生ぐらいのお姉ちゃんがですね、妹、弟、食わせるために川でザリガニ取ってきて醤油で煮て夕飯食わしてるみたいなシーンをね、見ることになっちゃったわけですよ、九州行って。今、社会科学って言葉をさっき僕使いましたけども、世の中にはね、子供ごっこがいいんですよ。どうしようもない。
 00:14:00
今で言う不条理っていうんですか、許しがたい出来事があると。こんなことがあっていいのかっていうことが現実にあるんだと。親だって追い込まれると子供を捨てていなくなるんだと。それで子供がそうやって自分で生きていけなきゃいけないなんていうような状況が起こるんだっていうね。そういうシーンを見たことがね、ある意味じゃあ社会科学的問題意識の原点っていうんですか。僕はなんか世の中ってどうなってんだよと思うようなね、問題意識の原点に子供が起こる、小学校2、3年ですよ。
 00:14:32
今でも思い出しますね、その時のシーンを。ですからそれが僕のあれですね、ちくほうの思い出だしですね。そういう中でどうなんでしょうね、要するに逆境に耐えるなんて意識一切なかったけども。僕自身は何も恵まれてた立場だったというふうに思いますけれども。だけど世の中の矛盾だとか、おかしいこととかに対する問題意識が芽生え始める瞬間っていう。そういうのがね、ああいうことにつながっていくんだなって思い出しますよね。
 00:15:05
そここそ本当にまさに、まさに原点なんですね。でしょうね。でもそういう子どもたちに対して、お母様が非常にその尽力をされたと。日本赤十字の看護婦養成学校。広島からですね、一人東京に選ばれて出てきてですね、国際赤十字の資格でね、中国の大陸戦線を動いてたっていうぐらいのキャリアの人だったんですよ。めちゃくちゃ度胸な人だった人で、僕なんかよくは、なんて言いますか、こう、ケチくさいこと言うと笑い飛ばされてましたけどね。
 00:15:40
お母さんに。うん。だからそういう雰囲気の人だったからですね。ある意味では、さっきのカルチャーギャップも超える上でもね、お袋のインパクトっていうのがやっぱり引きずっているのかもしれませんね、どっかで。今で言うとあれですね、その炭鉱で働いている若い幸福の人たちが。子どもたちの奥さんだとか、子どもたちだとかを集めての、今でいう文化活動ですよね。文化祭みたいなものとか、運動会だとかね。そういうものを、炭鉱を挙げて盛り上げていくっていうのかな。
 00:16:13
そういう時の中心に踊り出て僕らやってましたよね。それがまあ、親父がその炭鉱、なぜそんなに炭鉱を動いたのかっていうことにもつながるんですけど、当時、労働紛争なんていうのがものすごい、あれ狂っててですね。資本と労働の対決なんていうのが三井三池闘争なんてあったの覚えてると思いますけども、そういう時に、その問題を抱えている炭鉱ね、そういうもう要するに労使紛争のあるような、そこに転勤していって、それを何か収めて、一つの流れを作っていくっていうことだったから、
 00:16:47
ある意味じゃ、夫婦力合わせてね、そういう炭鉱の近代化と言えば一番分かりやすいのかもしれないけども、戦後の日本のですね、そういうコミュニティというか、コミュニティのトラックにきちっと乗せていく活動をやっていたといえば、一番僕、的確だったんじゃないかなと思います。ですから、北海道の炭鉱で、親父が次の炭鉱に移る転勤、僕にとっては学校を変わっていくときに、駅に何百人という人が日の丸の旗で送ってくれた思いでありますよ。
 00:17:21
働いている方々がね。働いている人たちが。働いている人たちが。だから、そういうシーンというのが今でも浮かびますね。あの大学ですね、入学登場も学生運動、真っ只中でしたよね。1968やろうという言い方があるんですけどね。トランプと僕というのはトランプの方が1年上なんですけどね。つまり日本でいう段階の世代でね。つまりそれはどういうことかというとね。
 00:17:53
ちょうどね、60年安保で日本の政治の季節というのが一番盛り上がって、70年安保から、全教頭運動なんていう時代にバーンとぶつかったのが、僕の大学生活だったわけですよ。で、僕は大学が紛争でもってロックアウトになってね、1年以上も全く授業なんか行われないという状況の中で、一種の左翼運動と正面から向き合ってたわけですよ。で、僕は一般学生っていうね、当時のカテゴリーで言えば、
 00:18:24
つまりノンポリの一般学生を集めて、集めてっていうか集まってね、それなりに大学の変革とかね、世の中の在り方とかっていうものを、しっかり向き合おうっていう立場でやってたんですけども、左翼黄金時代のね、我々の位置づけっていうのは、一般学生なんていうのは右翼秩序派ってことになるわけですよ。だから、なかなかの覚悟のね、いることではなかったんですか?いや、ものすごいですよ。6回のね、徹夜のですよ、この深夜便だけど、もうそれこそ、丸一日続く学生大会ってやつをね、
 00:18:56
6回やりましたけどね、もう最初はその前に、全京都からの紙つぶてどころか石つぶてね。そしてその角材ヘルメットに取り囲まれてですね。いや何人か怪我もしたし、本当にご存知かと思いますが、あの当時わさび何人も死にましたからね、本当に物理的に。で、そういうある意味では、戦後日本の政治が一番熱気はらんでた時期ですよね。その右と左の対立の中で。で、その状況の中での大学生活だったですから。
 00:19:27
1年半くらいね、とにかく大学が閉鎖された。で、実は最後の、つまり機動隊が導入されてですね、カギかっこつきの大学の正常化っていうのが実現したらですね、僕の周りにいた仲間であったはずのですね、そこで1000人以上の人たちが僕を取り巻いてたんですよ、一般学生としてね。4年生、3年生中心に、一刻も早く世の中に右肩上がりになり始めた、要するに経済の時代に向けて就職決めて出て行こうって人たちがファーッとやってたんですよ。
 00:20:01
我々のグループの最後のティーチーンというのをやったら、集まった人はわずか6人だったんですよ。その時僕はですね、何だったんだこれはと。また思い直してですね、大学院に行ったんですね。というのは、ダメだと。もっと勉強しなきゃダメだと。本気で。そういうことで大学に行ったんですか。そうなんです。ですからもう、ある種の覚悟を決めてね、真剣に集中して勉強しようと。僕は大学院の時代は文部科学省、今なってますけど、統計数理研究所というところでアルバイトしながらですね、大学院に出たんですけども。
 00:20:36
で、全国のフィールドワークでね、学生を10人、20人引いてですね、例えば青森県六ヶ所村に半月、一月って踏み込み、九州の渋市に行ったことがあるし、倉敷に入り込んでとかって、つまり開発っていうものを抱えている地域に入って、住民意識の変化みたいなことを分析するっていう、社会医学のフィールドワークみたいなことを。そういうことをやりながら僕、大学院に通っていたわけですよ。その縁があってね、さてこれからどう生きようかという大学院の2年を終えてですね、
 00:21:11
で、大げさに言うと経済界の中心部みたいなところで日本を見てやりたいと思ってですね、それからまた大学院に戻ってもいいじゃねえかという、それぐらいの気分で実は僕三井部署に入っていったんですよ。ですから経営企画とか調査情報とかっていうところを商社で走ることになっちゃったんですけど、73年という積極的な年に入るわけですけども、日本資本主義の総本山に近いようなね、かつて財閥と言われたような企業の中にですね、
 00:21:47
バーンと踏み込んでいったっていうのがね、結局僕のある人生の方向性を決めちゃったようなものなんですよ。でも入っていかがでした?本当はね、ものすごいショックでね。またやっぱり大学院に戻って教団を立とうと思って、というのがね。それこそ、今年春党だ、なんだって話で、満額解凍って言葉が出てましたけども、つまり労働組合が賃上げ要求すると。ああ、それぐらいなら出してやるよって言うんで、
 00:22:18
満額解凍って、まさに僕の入った年ね、満額解凍だったんですよ。それでもう右肩上がりもものすごい状況の中で、で、そのいわゆる雰囲気がね、何しろ新入社員に勝手に使えって言うんで、束になってるタクシーチケットをくれましたからね。ああ、これはダメだと。こんなとこにいたら人間ダメになると。だからもうやっぱりもう少し真面目に、そのいわゆる教団に立とうと思ってね、
 00:22:48
辞めようと思ったんですよね。なんていうのかな、その、迷いながらこう、あれしてたらやっぱりね、こう何事もこう向き合ってみると、先輩っていうのはやっぱり。ありがたいもんでね。何だと、入ってきて半年ぐらいでね、持標確認、とんでもないだろうなと、生意気だと。で、俺の仕事手伝えっていうことになっちゃったわけです。で、その経営企画っていう時にね、それはお分かりだと思いますけど、73年っていうのは、いよいよ秋に、バーンと中東でですね、まあ、そのいわゆる中東戦争っていうのが始まって、
 00:23:22
第一石油危機っていうですね、で、その後オイルショックですよ。そのオイルショックにあたってね、今でも思い出しますけども、要するに、消費者批判っていうのは吹き荒れたんですよ。つまり、売り惜しみ買い溜め批判っていうことでね。で、こんなに物価が高くなっているのは、消費者のせいだなっていう話ですね。で、まあ、要するに、その人の仕事と一緒になって、要するに総合消費者の経営戦略っていうのにこう、引き込まれていくわけですよ。ところが、世の中がうまくいかなくてね、1979年にですね、
 00:23:54
ご存知のイラン革命っていうのがイランでバーンと起こってですね、ホメイニ革命ってやつですね、イスラム原理主義革命。当時、三井グループ、とりわけ三井物産はですね、謝恩をかけるということはありますけども、まあ要するに今でもですよ。ハーバードビジネススクールケーススタディとこれが出てくるんだけど、カントリーリスクのね、つまり戦争と革命に襲われた、呪われたプロジェクトとしてですね、イラン石油化学プロジェクトっていうのがですね、IJPCってやつがあったんですよ。で本当にですね、会社潰れるかもしれないということなんで、最終的に三井物産これによって7000億円を失ったんですよ。
 00:24:31
よく潰れなかったと思いますけどね。でそれで、おめえに革命が起こったイランの革命政権と向き合うために、交渉しなきゃいけないからですね、要するに情報活動っていうことでね、一体どういうふうに今後イランはなっていくのかとかですね、どういう、要するに戦いっていうか、要するに闘争していったらいいか、つまり交渉ですね、していったらいいかということになって、若蔵ですけど末席でね、当時アメリカのテヘランの大統領が、
 00:25:02
革命の勢力によって占拠されてるって事態が続いてたんですね。で、アメリカの国務省が人質救出タスクホースっていうのを作ってですね、5人のイラン問題専門家をノミネートしたっていう情報が入ってきた。で、その責任者の人からですね、呼び出されましてね、アメリカの5人の専門家ってやつに会ってこいっていうのがね、僕がそもそもこの問題に首突っ込むきっかけになったんですけど、南カルフォルニア大学からハーバードまでですね、
 00:25:35
5人のイラン専門家を尋ね歩くと、おっとり方がね、私中東の専門家でもなければですね、その、例えばそのプロジェクトの専門家でもなかったんだけども、バックアップの舞台でですね、どんなに僕が期待されたって意味じゃないんだけども、まあとにかく今後イランの革命政権と向き合わなきゃいけないから、アメリカ今どう考えてんのかですね、まあ探ってこいっていうぐらいの文脈でですね。5人と会ったんですね。 そのうち3人がユダヤ人だったんですよ。そのユダヤ人の人たちが口を揃えて僕に言ったのはね、
 00:26:09
三井っていうのは日本のコングロマリッドだと。 ところがその会社がですね、なんでね、イランイラクの国境戦場なんていうところ\に\謝恩をかけるようなそんなプロジェクトをやったんだと。我々はもう3年も5年も前からね、 イランに革命が起こるよっていう可能性のあることを 予言してたんだというレポートを見せられて、 びっくりですよ僕は。で生意気盛りですから、要するに経営会議に対してね、こういう謝恩をかけるようなプロジェクトを、 民族宗教入り乱れている中東なんかでやるんだったらですね、
 00:26:45
もっと戦略的な情報活動をしてですね、 準備しておくべきだったみたいなことを書いたんですね。そしたらここがまた三井ってかしら面白いところで、お前が行けってことになって、 僕がイスラエルに入りつくことになったわけですよ。で全くその…そのなんて都市空間で、その要するにイスラエルに張り付いていった時期があるんですね。誰一人と知り合いのいない状況でもってですね、イスラエルに入ってね、で、テルガビブ大学のシロア研究所っていうところなんですが、そこを一つの起点にしながらですね、
 00:27:16
イラン情報に対する活動っていうのを始めてたっていう時期がですね、僕にとってものすごくなんて言いますか、大きな転機になったんですね。今までね、まあ世の中に満身っていうこともありますけども、僕はですね、お預かしながらね、純風満帆とは言いませんけども、自分に対する過剰なまでの自信っていうのかな、俺は大したもんだっていう思いでね、胸そらしてたって言っても決して誇張じゃないってくらい、自信満々で持って走ってたって言ってもいい時期ですよ。
 00:27:46
ところが、イラン革命が起こっちゃって、自分自身がいいことになっちゃってイスラエルに行ってみて、言葉が通じないっていうのは英語が通じないっていう意味だけじゃないですよ。つまり、つまり、自分が持ってた世界観だとか、自分が持ってた知識なんてね、全く意味ないじゃないかと。もう少し本気でね、例えば中東と向き合うんなら、そのユダヤ教、それを根っこにしたキリスト教イスラム教って一体何なんだというものについてね、
 00:28:20
最小限度の勉強ぐらいしてなかったら相手とコミュニケーションなんかできねえんだという衝撃に愕然としたわけですよね。で、そういう中で、なんだよと、俺って結局頭でっかちだけだった人間でね、なんか優れてると思ってたけど全くダメじゃないかということでね、フィールドワークと文献活動で、文献を読み込む活動でもがいてたというかね。でもその時に折れないでフィールドワークをなさってたんですか?例えばイスラエルに行ってですね、要するに活動すること自体がどうやって生き延びるのかというようなもんですから、
 00:28:57
そのなんていうか、打ち引かれていられないわけですよ。本当に。だからそれぐらいね、我々って極端に平和なですね、安定した時代を生きれた世代なんですよね。で、そのことをね、ほとんど知らないままに生きてきた人間なんですよね。突然ね、それこそ重厚を突きつけられたっていうかね、お前は何考えてんだって言われたようなもんでね、サバイバルのためには必死で持って、しのがざるを得なかったっていうのが本当のところで、僕が強い人間だったからでもなんでもなくですね、
 00:29:30
まあ、ひたすらそうせざるを得なかったっていうのが本当の本音のところですよね。しのぐために何をしたんですか?人と向き合ってね、その人の本音っていうものをやっぱり引き出さなかったら情報活動はできないわけですよ。で、そのためには自分自身がやっぱり全く無知では相手にされませんよ、情報の世界では。あ、こいつも相当なもんだなっていうですね、自分が本気で話すに値する人間なのかっていうことをね、極めて短い時間に集中して引き出せるようになった。知るくらいの力がなかったら、情報の世界は生きられませんよね。
 00:30:04
それをやるためにもがいてたっていうことなんでしょうかね。だからそういうプロセスの中からね、例えば僕はイスラエルのテルワビュー大学のシルバー研究所に行ったってさっき言いましたけども、我々にとって例えばイランは今後どうなるんでしょうねなんてとぼけた話じゃなくて、イスラエルっていう国はね、情報でサバイバルゲーム出てますから、例えばホメイニシ。この人物についてですね、タスクフォースが組まれてるんですよ研究所に。例えばお医者さん、心理学者、言語学者、様々なジャンルの人がですね、タスクフォースで10人くらい。
 00:30:41
僕後ろでもっとオブザーバーで聞いてていいよっていう機会が得られるようになって、じーっと聞いてたらですね、例えば先週ホメイニシは何を食べたなんて情報活動的な情報ももちろん入ってるけども、例えば言語学者がね、この人は過去に4冊本書いてると。で、その言葉の使い方とかですね、ロジックの組み立てとか、こういう事態に直面した時に、この人間はこういう判断を下すっていうですね、傾向があるっていうのがね。
 00:31:11
で、心霊演者でこういう病人がいると、こういう病気をするにはこういう人たちの精神構造ってのはこういう傾向があるとかってのことを分析しててね、びっくりするようなレベルの情報がですね、生き返ってるわけですよ。だから僕はね、情報っていうのは本当に命がけなんだなと。で、イスラエルの人たちにとってみるとね、アラブの海って言い方しますけども、要するにイスラムに取り囲まれて、いつ地中海に追い落とされるかもしれないっていう状況の中でね、生き抜いててですね、そういう中で情報は彼らにとってはもうサバイバルファクターなんですよね。
 00:31:45
そのことを思い知らされたっていうのがイスラエル体験でありね。で、今度はイスラムの世界のワンガン三欲を動き回りですね、イラクを動きってそういうことからね、まあとにかく僕自身の物の見方や考え方っていうのが。鍛えられたということですね。一面的なものではなく、あらゆる層の、あらゆる方向のものを集めて情報とすると。それはご自身の仕事の最終的にはね、スタンスというか相関関係はあるし、きちんと抑えると。
 00:32:18
そこのところにつながっているような気がするので、いかがでしょうか。そうですね。いや、ですから、それこそ、アメリカから帰ってきた年が50歳なんですけども、約ね。10年いて、40代アメリカにいたんですね。で、戻ってきて、さっき申し上げたように30代は中東にイレビだったんですけど、40代はアメリカを起点にして、欧州とか世界を動いていたんですね。で、50代になって日本に戻ってきてですね。で、僕はこう思ったんですね。
 00:32:48
自分らに努力して、現場の情報、現地の情報に張り込んできたけれども、やっぱり歴史の脈絡だとか、世界史の脈絡だとかですね、地域史の脈絡だとか。歴史の脈絡の中で、もっと体系的に物事を見抜くことが必要だと。つまり、歴史の脈絡というものをどこまで深く体系的に整理できているかが、物事を見抜く鍵なんですよね。そんなもんだから、僕自身もやっぱり自分の歴史軸を踏み固めなきゃいけないというのは、今現在もストラッグ。
 00:33:21
まずその20世紀、それから戦後日本史、今近代史というところにですね、もうようやくですね、一歩一歩這うように、自分自身の歴史に対する見方を踏み固め直しているというのが本当のところでしょうな。今でもその最中。まだ続いているんですよ、それって。先ほども少し出ましたけれども、そういう意味でその歴史軸をですね、踏み固める意味で非常にやっぱり拠点となっているのが寺島文庫ですね、東京区大使団や。
 00:33:55
今度は有用性と言いましょうが、とにかく愛してもいるし必要と。アナログ世代だからって意味じゃなくて、僕は本気でそう思いますけどね、これだけネットの時代であり、例えば図書館の管理だってね、コンピュータ検索っていう時代だけれども、やっぱり廃下している本っていうのはすごく重要でね、例えば、僕のアメリカっていうコーナー見ていただくんですけども、原爆について開発した人、それからその原爆の被害を受けた側の広島長崎に関わっている人、
 00:34:30
それからさらにですね、いわゆる原爆の開発に関わった科学者の立場からの、党科に関わった政治家の判断に関わる本だとかですね、そういう類のものを重層的に一つの書家の中に置いてですね、じーっと眺めながらこう、ものを考えるとですね、そういえばあの本とあの本とのつながりってのはこうだよなとかですね、見え方が変わってくるっていうか、例えば、原爆っていうことの核ってことで、
 00:35:01
切り口にしてもね。それって、コンピューターで検索エンジンかけてですね、タイトルだけ見たりね、実際の本を手にしないでもったりするのと、まずれで、イマジネーションが違うというかですね。僕は物理的に配下されている本というのがものすごく大事だというかですね、自分が物を書くにも、物を整理するにもですね。寺島さんの活動の拠点だと思うんですけども、重層的、体系的なご本、それはまさしく思考のね、やはり重層的、体系的な考え方って言いましょうかね、そこに繋がっていきますよね。
 00:35:41
全くそうでですね、僕が大事だと思うのは、自分がね、要するに自分の努力や向上心じゃなくて、ある時代のテーマを背負って海外を動くことになっちゃったと。見ちゃったんですね、いろんなこと。中東から、欧州から、アジアから、中南米から。アメリカまでね。見たことの責任っていうのかな。自分が見たっていう断片的な体験じゃなくてね、それがどういう意味を持つのかっていう体系化していくって感じね。物事の繋がりを組み立てていくっていうのがね、見た人の責任だと思ってるんですよ。 だから例えばね、僕はあの。
 00:36:19
あなたどういう世界観持ってるんですかっていう時に、そういうことなんですけど、ネットワーク型世界観って言い方するんですけどね、物事の繋がりの中で考えると。例えばイギリスもイギリスの本土単体で考えるんじゃなくて、英連邦ネットワークの中で考えるってこと。今度イギリスがTPPに入ったって言うんだけど、日本人にしてみるとなんでアジアの貿易の自由化の仕組みにイギリス入ってくるんだって思いますが、TPPっていうのは元々シンガポールだとかですね、いわゆる英連邦ネットワークの人たちが最初にTPPをアジアで、つまり4カ国で作ったんですよ。
 00:36:54
ですからそれがイギリスに繋がったと考えればね、これユニオンジャックの矢って僕は呼んでるんだけど。イギリスを単体と考えずにですね、ネットワークで捉えるという見方で世界を見るとですね、見え方変わってきますよと。つまりそういう物事を繋がりで考えるという習性がですね、僕自身のフィールドワークと文献研究の中で世界の見え方としてね、僕自身に身についてきたり、結論的に僕が身につけたものって何だろうかって自問自答してみるとそういうことなのかなって思いますけどね。
 00:37:31
歩んできた道の中で、攻撃の中から生まれた死者ということですよね。ご提言もされているわけですけど、若い人への何か提言ってありますか。若い人たちというのがまたさらにね、ITで武装し、SNS武装した世代というのが育ってきて、それがまた新しい可能性を切り開いてくれるということを僕は大いに期待するけれども、であるが故に学生と昔に。
 00:38:02
同時にですね、やっぱり日本という国が世界の中でも割れに見るぐらいですね、幸運現象って言うんですけど、カイコニのようなイメージですね。このある幸せな空間の中に閉じ込められているのがためにですね、あの、なんて言いますか、こう、別格って言うこともありますけど、別格なぐらいですね、ある面じゃ、幸せな幻想の中を生きているというかですね、要するに世界の抱えている不条理だとかね、それから我々が解決していかなきゃいけないテーマなんかについて、
 00:38:36
本当にさっきだって問題意識を持っている人間というのが育つのは非常に難しい環境の中にあるのが日本だと思うんですね。しかもどんどん内向きになってきている、日本がですね。今ぐらい日本人が内向きになっているっていうのかな。しかも高齢者もですね、どんどん生活保持主義ということで、自分の身を守る方向にですね、関心領域をどんどんどんどん狭めていっているというね。で、やむを得ないという分もよくわかるけれども、ここでやはりですね、自分の果たすべき役割についてもっと真剣に考えないといけないところに来ているのかなって思いますよね。
 00:39:13
先ほどその国運現象と言いましたけれども、一方でその格差と分断のね、時代、なかなかやっぱりひどく厳しい時代をね、若い人たち生きていると、そういう実態もありますよね。うん。それはどんなふうにお考えですか。教育という視点から言うとですね、なんて言ってもですね、教育の一番重要なポイントは自覚を持たせることなんですよ。つまり、カルティベートしてね、その人の持っているポテンシャルを借り立ててあげるっていうのかな。
 00:39:44
で、そのために、つまりですね、誰かが手を差し伸べてくれて、人生っていうものが組み立てられるものじゃないっていうかですね。で、やっぱり環境がいかに厳しくてもですね、その中で自分自身の問題意識を研ぎ澄ましていかないとダメだと。AIが進んできてですね、スマホ人生になってきて、つまりこれ思考の外部化ってんですけども、つまり自分の頭で考えてることと、AIが考えてくれたことと、検索エンジンかけてですね、情報から得られることとか混在してきてるからですね、
 00:40:22
自分が本気で考えたことじゃないことでも、情報らしきものを手にできるんですよね。だから本当の意味でものすごく弱いっていうかですね、環境が大きく変わった時に持ちこたえていけるような地の基盤を作るって言ったら、逆に言えば今ほど難しい時期ないんじゃないかなと、いつの間にか思考を外部に委ねちゃってる、自分が考えたかのように錯覚を起こしてるっていうかですね、そういう状況を跳ね返していくだけのね、たくましい知的基盤を作るためには、やっぱりこれってですね、紙に自分のペンでね、自分が考えたこと、
 00:41:00
自分が自分の目で読み込んだアナログな文字をしっかり見つめながら、行間を見つめて物事を考えるという言い方がありますけれども、それをやらないと本当の意味でのクリエイティブな思考回路というのは育たないというふうに僕は思います。いろいろ伺ってもらいましたけれども、今後についてはいかがでいらっしゃいますか。ここ自身が今考えていらっしゃる。いや僕はですね、もういい都市格好になっているんですけれども、いやこの間から僕ちょっと意図的に90代のね、初先輩に、例えば飯月裕之さんにしてはですね、
 00:41:35
山織哲夫という宗教の大先生ですけど、本気で向き合って話をしてみる機会を与えられてですね、やっぱりあの先達とはあらまほしきものかなというかですね、やはり戦後なる時代をね、僕の15年、20年前を生きて、全く違った見せんで戦後と関わってきていると。僕は段階の世代として戦後と関わってきている。その息子たちの世代がその下に、また段階ジュニアみたいな形で育ってきてるんだけども、我々もですね、実は子どもたちにね、
 00:42:11
君は自由にしてていいんだよっていうメッセージぐらいしか語れなかったとも言えるんですね。で、その連中が今度は自分の頭で考えてどういう社会を作ろうとしてくるのかね。まあそれをですね、見つめながらもね、まだまだですね、このいわゆる僕はですね、世代として自分の目撃してきたことをつなぐ責任とかね、あるいは自分が世界を動くことをですね、与えられた世代っていうのかな。その要するにその与えられた世代の自分自身の目撃したものを体系化して理論化して、
 00:42:46
残していかなきゃいけない役割とかっていうのはまだまだね、まだ著についたばかりで、これからこそですね、より本気でもってギアを入れなきゃいけないなって思ってるのが全く本音ですね。このような形で拝読、拝見させていただきます。本当にどうもありがとうございました。

ーーーーーーーー

2:Claude

寺島実郎氏は1947年、北海道の炭鉱で生まれました。彼の父親は炭鉱関連の仕事に従事しており、幼少期は北海道から九州まで、日本の主要な炭鉱地域を転々としました。この経験は、寺島氏に多様な文化への適応力と社会の矛盾に対する鋭い洞察力をもたらしました。

1968年、大学入学時は学生運動の真っ只中でした。寺島氏は一般学生としての立場を取りながらも、大学改革や社会のあり方について真剣に向き合いました。大学紛争後、より深い学問的探求を求めて大学院に進学し、全国各地でフィールドワークを行いました。

1973年、三井物産に入社。経営企画部門で働く中、1979年のイラン革命を契機に中東問題に深く関わることになります。イスラエルでの経験は、寺島氏の世界観を大きく変えるきっかけとなりました。情報活動の重要性と、自身の知識の不足を痛感し、必死に学び、成長していきました。

40代はアメリカを拠点に世界を飛び回り、50代で日本に戻った後は、自身の経験を歴史の文脈の中で体系化することに力を注いでいます。寺島氏は、見聞きしたことの責任を強く感じ、それらを体系化し、理論化して後世に残すことを自身の使命と考えています。

現代の若者に対して寺島氏は、幸福な空間に閉じこもりがちな日本社会の中で、世界の不条理や解決すべき課題に対する問題意識を持つことの難しさを指摓しています。同時に、AIやスマートフォンの普及による「思考の外部化」の危険性を警告し、自らの頭で考え、アナログな方法で知識を吸収することの重要性を説いています。

寺島氏は、自身の世代が目撃してきたことを次の世代につなぐ責任があると感じており、これからも精力的に活動を続けていく決意を示しています。

ーーーーーーーーーーーーーー

3:ChatGPT(インタビューをきちんとした文章に)

寺島さんは1947年に北海道で生まれ、1973年に大学院を卒業後、三井物産に入社されました。イラン革命アメリカ大使館占拠事件など、国際的な出来事に直面し、後にはワシントン事務所長を歴任しました。2009年からは大学学長も務められています。

商社勤務時代から20年以上にわたり雑誌に連載を持つなど、執筆や言論活動にも積極的に取り組んでこられました。政治、経済、外交、宗教など、多岐にわたる分野で提言を行ってきた寺島さんに、彼の視点が形成された背景についてお伺いしました。このインタビューは昨年4月に放送されたものです。聞き手は桜井陽子アンカーです。

寺島さん、今日はお越しいただき、ありがとうございます。早速ですが、寺島さんにとって、NHK大河ドラマ花の生涯』が非常に印象的だったとお聞きしました。この作品は、幕末の桜田門外の変をテーマにしています。当時、高校生だった私は、この作品を通して歴史の見方が大きく変わったと感じました。井伊直弼が暗殺され、明治時代が幕を開けるといった流れが描かれていますが、それまで悪役とされていた井伊直弼が、日本の近代化における重要な人物として描かれていたのです。

このドラマを通して、私は歴史を多面的に捉える必要性を感じました。それまで教科書で教えられていた単一的な視点では、歴史の真実を十分に理解できないことに気づかされました。

寺島さんは多忙な日々を送りながらも、大学学長として、さらに執筆活動やメディア出演もされています。そんな中で、どうやって時間を捻出しているのでしょうか?

寺島さんは、総合商社での経験が彼のアイデンティティの一部であり、経済の現場で培った視点が彼の考え方の基盤となっていると語ります。また、彼は夜の時間を無駄にしないことを徹底しており、8時以降は自宅に戻り、読書や執筆に集中しているそうです。特に、長年にわたり執筆を続けている雑誌の連載は、朝の集中時間に書き上げているとのことです。

寺島さんは、興味を持った分野について積極的に学び続け、近年ではAIや生命科学などの新しいジャンルにも触れています。

寺島さんは、ただ新しいことに興味を持つだけでなく、深く探求し、関連する書籍や文献を幅広く取り入れています。例えば、戦後の日本社会を考える際に、なぜ演歌が日本人の心に響いたのかを研究するために、音楽や文化に関連する本も多く読むようになったそうです。彼の好奇心は旺盛で、いつの間にかその分野を深く掘り下げていく過程で、多くの知識を得ています。

また、寺島さんのルーツについても伺いました。1947年、戦後間もない北海道の炭鉱で生まれ、炭鉱労働者の家庭で育ちました。その後、彼の家族は九州の筑豊へ移り住み、再び北海道に戻るという、子供時代から様々な地域を経験しました。この転校生活の中で、カルチャーギャップに強くなるという性格が培われたそうです。当時、北海道や九州のような異なる文化圏での暮らしは、彼に大きな刺激を与え、異文化理解の素地を育んだと振り返っています。

彼が幼少期に経験したいじめについても語られました。九州に転校した当初、北海道から来たというだけで異質視され、いじめの対象になりましたが、寺島さんは「山より大きな獅子は出ない」という母親の言葉に励まされ、逆境を乗り越えました。この言葉は、彼に「恐れるものはない」という心構えを与え、その後の人生にも大きな影響を与えたと語っています。

寺島さんの少年時代の経験は、後の社会問題への関心や、格差や不条理に対する問題意識の芽生えに繋がりました。特に、筑豊で目撃した、貧しい家庭の子供たちが弁当を持たずに学校に通う光景や、親がいなくなった子供たちが自力で生き延びる姿は、寺島さんの社会科学的な視点の原点となりました。こうした経験が、彼のその後の仕事や研究に大きな影響を与えたのです。

寺島さんの大学生活は、1960年代後半から1970年代にかけての激動の時代でした。学生運動が盛んだった時期に大学に通い、彼自身もその運動に巻き込まれながら、一般学生として自分の立場を確立しようと努力しました。彼は「ノンポリ」として、政治的に中立の立場を取り、大学の改革や社会の在り方について真剣に考えました。しかし、彼が率いた一般学生のグループは、激しい対立の中で数を減らし、最後にはわずか数人が残るだけでした。

その経験を経て、寺島さんは「もっと学ばなければならない」と決意し、大学院に進学します。大学院時代には、統計数理研究所でアルバイトをしながら、フィールドワークを通じて地域社会の変化を研究しました。青森県六ヶ所村や九州の渋市、倉敷などの地域に赴き、開発と住民意識の変化を分析する社会科学的な調査を行いました。

その後、彼は経済界でのキャリアを築くため、三井物産に入社しました。入社後、彼は経営企画や調査情報の部門で活躍し、オイルショックイラン革命といった国際的な出来事に直面しました。特に、イランでの石油化学プロジェクトが革命によって大きな損失を被った際、寺島さんはアメリカの中東専門家と情報交換を行い、戦略的な情報活動の重要性を痛感しました。

この経験を通じて、彼はイスラエルでの情報収集にも従事するようになり、テルアビブ大学の研究所を拠点にイランに関する情報を集めました。この時期、彼は初めて自身の限界に直面し、自分の知識や世界観がいかに不十分であるかを痛感しました。そこで、彼は中東やユダヤ教イスラム教などの宗教や文化について深く学び、真のコミュニケーションには相手の背景を理解する必要があることを実感しました。

寺島さんのイスラエルでの経験は、彼の視野を広げ、物事を多面的に捉える能力を養いました。情報を収集する際には、単に表面的な事実を集めるのではなく、相手の思考や行動の背景にある心理や文化を深く理解することが重要だと感じたそうです。

彼の経験を通じて得た知識や洞察は、商社での戦略的な仕事に大きな影響を与え、その後の人生にもつながっていきました。

イスラエルでの経験を通じて、寺島さんは単なる知識や情報の蓄積だけでは不十分であり、物事の背景や根本的な考え方を理解することの重要性を痛感しました。彼は、そこで得た教訓をもとに、情報の収集と分析に一層の努力を重ねていきました。イスラエルという国家自体が、情報をサバイバルツールとして活用し、周囲の危険な環境に対抗している姿を目の当たりにし、彼自身もその厳しい現実を体感したのです。

また、寺島さんは40代の10年間をアメリカで過ごし、欧州や他の地域も含めて広く世界を見て回りました。そして、50代を迎えて日本に帰国した際、彼は改めて「歴史の脈絡」の重要性に気づきます。彼は「歴史をどう体系的に捉えるか」が、物事を見抜くための鍵であると考えました。世界史や地域史、さらには戦後日本史をより深く理解することで、物事の本質を見抜く力が養われると確信しました。

寺島さんは、こうした視点を持ちながら、東京の九段下に設立された寺島文庫を拠点に、多くの文献を集めて研究を続けています。彼のコレクションには、歴史的な事件や人物に関連する本が数多く含まれており、原爆の開発や被害に関わる資料も含まれています。これらの資料をじっくりと手に取って読むことで、ネット検索やデジタルデータでは得られない「物事のつながり」を見出し、新たな視点を得ることができると彼は語ります。

寺島さんはまた、自分自身が目撃してきた世界の現実や歴史的な出来事について、「見た者の責任」として、それを体系的に整理し、後世に伝えることが自分の役割だと感じています。彼が培った「ネットワーク型世界観」は、物事を一つの点ではなく、多くの要素が絡み合うネットワークとして捉えることの重要性を教えてくれます。例えば、イギリスを単独の国として見るのではなく、英連邦のネットワークの一部として捉えることで、国際的な関係性がより明確になるといった視点です。

彼は、そうした広い視点を持つことが、情報の本質を捉えるために不可欠だと考えています。そして、その視点を若い世代にも伝えたいと強調します。若者たちは、ITやSNSといった新しいツールを駆使して、さらに新しい可能性を切り開く力を持っていますが、一方で、現代の日本は「幸運の中に閉じ込められている」と寺島さんは感じています。彼は、日本が他国の抱える不条理や課題に対する問題意識を持ちにくい環境にあることを懸念しています。

特に、世界中で格差や分断が深刻化している時代において、若い世代がこうした問題に対する自覚を持つことが大切だと寺島さんは考えています。彼は、教育の最も重要なポイントは「自覚を持たせること」だと言います。どんなに厳しい環境にあっても、自分の中にある問題意識を研ぎ澄ませ、深く考える力を育むことが必要だと語ります。

寺島さんは、AIの普及やスマホの利用が進む中で、人々が「思考の外部化」を進めることに警鐘を鳴らしています。自分で考えることが減り、AIや検索エンジンに頼ることで、思考が外部に委ねられ、本当に自分で考えたのかどうかの区別が曖昧になっている現状を危惧しています。寺島さんは、クリエイティブな思考回路を育むためには、自分の手で書き、自分の目で文献を読み込み、行間を読み解くアナログな作業が重要だと強調します。

インタビューの最後に、今後の活動について伺うと、寺島さんは「まだまだ本気で取り組むべきことが多い」と答えました。90代の先輩方と向き合いながら、自身の世代が果たすべき責任を感じ、これからも目撃した事実を体系化し、後世に伝えるための努力を続けていく決意を新たにしているようです。

寺島さんは、自分の目撃してきた世界の出来事を、単なる個人的な体験としてではなく、それがどのように世界の大きな流れとつながっているのかを整理し、理論化していくことが、自分の世代の役割だと考えています。そのため、彼はこれからも文献研究とフィールドワークを続け、多面的な視点から世界を捉えようとしています。

このインタビューを通じて、寺島さんの豊富な経験と、彼が抱く広い視野が浮き彫りになりました。彼の知識や洞察は、私たちにとって大きな示唆を与えるものです。そして、彼がこれからも果敢に挑戦し続ける姿勢は、私たちにとって大きな励みとなることでしょう。


寺島さんの話は、単なる過去の振り返りにとどまらず、彼がこれからも新たな挑戦に取り組む決意を示しています。彼は、自身の世代が果たすべき役割について強い意識を持ち、その責任を全うするために今後も精力的に活動していくと語っています。

寺島さんが特に強調しているのは、歴史を体系的に捉える視点です。現代に生きる私たちは、情報があふれる時代にいるものの、表面的な知識に頼ることが多くなっています。彼はその中で、歴史の脈絡や物事のつながりを深く理解することの重要性を強調します。これは、単に知識を詰め込むだけではなく、その背景にある本質を見抜くために不可欠な視点です。

さらに、寺島さんは「見た者の責任」という考え方を重視しています。彼が若い頃から各地で目撃してきた様々な出来事や社会問題を、単なる個人的な経験として終わらせるのではなく、それらをどう整理し、未来に役立てるかを常に考えているのです。これは、寺島さんのフィールドワークや文献研究を支える重要なモチベーションとなっていることでしょう。

また、寺島文庫の設立や運営も、彼の哲学を具現化するための一環です。彼は、アナログな本の価値を強調し、現代のデジタル情報社会にあっても、物理的に手に取って読むことの大切さを訴えています。特に、原爆に関連する書籍や文献を収集し、それらを整理して体系化することで、より深い理解を得ることができると考えています。このような資料の蓄積は、寺島さん自身の思考を支え、彼の提言や分析の基盤となっています。

さらに、寺島さんは未来の世代へのメッセージを繰り返し発信しています。若者たちがITやSNSを駆使して新しい可能性を開拓していくことを期待する一方で、彼らが自分自身で考える力を持ち続けることの重要性を強く訴えています。AIが進化し、情報が簡単に手に入る時代だからこそ、自分の頭でしっかりと考え、物事を整理していく力がより一層必要であると寺島さんは感じています。

教育の観点からも、寺島さんは人々に自覚を持たせ、彼らの潜在能力を引き出すことが大切だと考えています。彼は、自らの努力や問題意識を研ぎ澄ませることで、厳しい環境下でも自分の進むべき道を見つけることができると信じています。この考えは、彼自身の人生経験に基づくものであり、特に彼が様々な困難に直面し、それを乗り越えてきた過程から生まれたものです。

最後に、寺島さんは自身の年齢についても触れつつ、「まだまだ挑戦すべきことがたくさんある」と語っています。彼は90代の先輩方と接する中で、自分もまだ果たすべき役割が多く残っていることを再確認し、これからも一層真剣に取り組む意欲を示しています。歴史の目撃者としての役割を果たし、自らの経験を次世代に引き継ぐことを、彼は大きな使命と感じています。

寺島さんの話を通じて、彼が持つ広い視野と深い洞察が改めて浮き彫りになりました。そして、その知識や経験は、これからも多くの人々に影響を与え続けることでしょう。彼のこれまでの歩みや考え方は、私たちにとって多くの示唆を与え、今後の社会を見据えるための貴重な指針となることは間違いありません。寺島さんの言葉は、未来を見据える上での重要なメッセージとして、深く心に刻まれることでしょう。

寺島さんのメッセージは、その広い視野と深い洞察に裏打ちされたものであり、特に次世代に向けた提言として大変重要です。彼のような世界を実際に見てきた「目撃者」が果たすべき役割は、単なる過去の記録や知識の伝達ではなく、それをどう次の世代に役立てるかを考えることです。

寺島さんは、世界各地で目撃してきた出来事や国際的な経験を整理し、それを体系化して理論化することで、次の世代に伝えようとしています。これは、単なる知識の継承に留まらず、現代の問題を解決するための重要な手がかりを提供することでもあります。特に、日本が今直面している課題について、寺島さんは内向きになりがちな社会の風潮を憂慮しており、国際的な視点を持って行動することが今後の日本にとって重要であると強調しています。

彼はまた、若い世代に対して、自分の考えをしっかりと持つことの重要性を繰り返し訴えています。AIやスマートフォンが発達し、情報が簡単に手に入る現代において、思考が外部化される危険性が高まっていると感じています。検索エンジンで得られた情報やAIが提示する解答が、そのまま自分の考えとなってしまう現象に警鐘を鳴らし、そうした便利さの中でも自分自身の思考力を鍛えることが必要だと述べています。

寺島さんは、紙に自分の手で書くこと、そして本を自らの目で読み、考えることの大切さを強調しています。アナログな手法は、現代のデジタル時代とは対極にあるように見えるかもしれませんが、彼はそこにこそ深い思考の基盤があると考えています。特に、彼が蓄積している膨大な文献や書籍の中から、じっくりと考えを練り上げることで、新たな発見や視点を得ることができると語ります。

このような考え方は、寺島さんが若い頃に身をもって体験してきた困難や挑戦から生まれたものです。彼は、異文化の中でカルチャーギャップを経験し、多様な価値観と向き合いながら成長してきました。その過程で得た視点や知識は、彼自身の思考の基盤を形成し、今の時代においても貴重な洞察を提供しています。

さらに、彼は今後も、自分の経験を次世代に伝えるための努力を続けると決意しています。彼が「まだまだやるべきことがある」と語る背景には、彼自身がこれまで蓄えてきた知識や経験を、どのようにして次世代に活かすかという使命感が強く根付いています。彼は、自分の人生を単なる過去の振り返りとしてではなく、これからの日本社会、さらには世界に向けての貢献として捉えているのです。

寺島さんのこうした視点は、現在の日本が直面している多くの課題にも応用できるものです。彼が語る「ネットワーク型世界観」は、物事を個別に見るのではなく、全体のつながりの中で理解するというアプローチであり、これは現代のグローバル化する社会においてますます重要となっています。日本が国際社会の一員として、また、歴史の中で果たすべき役割を認識するためには、このような多面的な視点が不可欠です。

寺島さんが提唱する「歴史を体系的に捉える」という考え方は、私たちが過去を学び、未来に活かすための重要な指針となります。現代社会における情報の多さやスピードに惑わされず、しっかりと自分の足で立ち、自分の目で見て考えることが求められる時代です。寺島さんの経験や知識は、まさにそのための羅針盤となることでしょう。

彼のメッセージは、特に若い世代に向けた強いエールとして響きます。現代の若者が自分の考えを持ち、世界と向き合いながら、自分の役割を見つけていくためには、寺島さんが示すような深い思考と広い視野が必要です。彼が歩んできた道は、現代に生きる私たちにとっても大きな指針となり、未来への光を示してくれるでしょう。

寺島さんは、これからも自分の経験と知識を次世代に伝え、社会に対する提言を続けていくことでしょう。そして、その歩みは、単に彼個人のものではなく、私たち全員にとって大きな学びと示唆を与えるものです。彼の言葉は、これからの社会を築く上で、重要な羅針盤として私たちの心に残り続けることでしょう。

ーーーーー

父の日のプレゼントでもらったゲタを履きつぶした。

f:id:k-hisatune:20240908035009j:image

朝:ヨガで汗をかく。

夜:編集長会議。その後、都築さんと打合せ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月7日。色川大吉「同時代史は、、、めいめいが『自分史』として書かねばならないものだとおもう」

色川 大吉(いろかわ だいきち、1925年大正14年〉7月23日 - 2021年令和3年〉9月7日)は、日本歴史家 享年96。

千葉県佐原市出身。旧制第二高等学校から東京帝大文学部に入学。学徒出陣。復員後、1948年に卒業。東京経済大学の講師を経て、1967年教授。亡くなる前日、親友で色川を介護していた上野千鶴子が、死後の各種手続きをするために婚姻届を提出し、わずか15時間の関係にあったという資料もみつけた(未確認)。

色川は1968年に多摩史研究会を結成し、市民の手による地域史研究の先駆となる。その成果は『明治精神史』(1964年)にまとめられた。「色川史学」と呼ばれた。

色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を何度か読んでいる。自分の体験とからめながら日本近代史を描こうとした作品である。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかった。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。

太平洋戦争では男子4人に1人が出征。2世帯に1人以上が兵士を送り出した、300万人の日本人が死んだ。5世帯に1人が死んだ。2000万人以上の人々が涙にくれた。1500万人が家を失った。この数字の背後にある庶民の体験をつづった作品だが、この当時の人々にはそれぞれのドラマがあった。著者によれば、歴史とはさまざまな評価や情念や視点を組み合わせながら、同時にそれらを越えてある方向に向かおうとする非情な趨勢を見定めることである。

  • 庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
  • その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
  • 人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
  • 個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
  • 黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
  • 地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)

 2023年に色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読した。ある一人の明治の常民の一生を追いながら、明治の可能性を追った力作だ。神保町の古本屋で手に入れた本だ。

明治人には精神的な骨格と変革期の焦燥がある。それを体現した無数の宝の一人が北村透谷と同年生まれの恋敵・平野友輔だ。立身出世型ではない、在村活動家型の人間像の一人の地方知識人である。平野の生涯は「一篇の優しい長い詩」であると歴史家である色川大吉は「追記」で総括している。こういう明治人が全国に無数にいた。それが明治国家を築いたのだ。

平野友輔(1857年生)は町医者、政治家、郷土(三多摩)の指導者として生涯を送った。この本では、無名の主人公・平野を軸に交錯した有名、無名の明治人が登場する。石坂昌孝(自由民権)。北村透谷(婚約者・美那子と結婚)。福沢諭吉(言論人)。森鴎外(東大医学部)。坪内逍遥(一級上の落第生)。北村透谷。広瀬淡窓(愛吟)。奥宮健之(陽明学)。矢島楫子婦人矯風会)。徳富蘇峰(平民主義)。内村鑑三キリスト者)。二宮尊徳(東洋道徳)。ベルツ(医師)。平野藤子(妻・看護婦。100歳)。海老名弾正(同志社総長)。明治天皇(大帝)。石川啄木(詩人)。有島武郎(文学者)、、、。

平野友輔をあらわす言葉を拾ってみよう。ーーー正義感。民権家。東洋思想。首尾一貫した生活態度。たゆまざる人。ナショナリズム。愚痴を言わない明治の人。質素。勤勉家・自己制御と人格鍛錬。教養と克己。聖書と論語。和魂洋才。墓はいらない。享年72。湘南地方人格の第一人者。平野友輔は、東洋の思想と西洋の文化を体現した、明治の知識人の一つの典型だ。こういう人たちが全国にいたことが近代日本の幸運だった。

平野友輔というあまり有名でもない藤沢出身の一人の人物の伝記的作品であるが、平野を中心に置きながら恋敵・北村透谷、東大医学部の同級生・森鴎外、地方豪農自由民権運動を担った石坂昌孝、年下ながらその思想に私淑していた内村鑑三らとのとつながりも紹介しながら、明治人の精神を明らかにしようとした研究である。

平野友輔は安政4年(1857) 藤沢宿坂戸の町人の長男に生まれる。小笠原東陽の 耕余塾 に学び,医学を志し,明治12年東京大学医学部にすすむ。このころは自由民権運動中であり,卒業後に八王子に医院を開業した時も,多摩の民権グループ に加わって自由党員として積極的に行動していた。明治17年10月の自由党解党には,神奈川県(当時三多摩地区は神奈川県 )党員総代表として参加した。明治19年,藤沢の長後の羽根沢屋(博物館がある)で医院を開業した。明治22年には,故郷の自宅に医院を開業し, 明治35年には衆議院議員に当選している。昭和3年4月3日永眠。

相模と多摩を中心に活躍した人物が数多くこの書には登場する。こういったよき常民だった平野のような人物が無数に埋もれていると想像する色川は、文化的蓄積と魅力を持った地方人が幕末において分厚い層を形成しており、この層の存在が日本の近代化を推進した推力であったと考えている。

以下、明治人の本質が典型的に表れていると色川がいう平野友輔という人物について記しながら明治人を考えていく。

  • 「借りる人となるなかれ、貸す人となるなかれ」
  • ひとに負けぬ正義感をもち、迫害にさらされているものへの同情心に厚かった平野
  • 友輔の真価は、これ(男女の対等な人格の関係)を恋愛中の一時的な気まぐれの関係とせず生涯孜々としてつとめて、その立場を貫きとおしたというところにある。
  • 「朝はパン、夜は肉、いちばん好きだったのはシチューのようなもので、、、」
  • 一般民衆、特に青年や婦人の意識の度合いが文明の進歩の評価の基準だった。
  • 身を起こし生涯の奮闘によって大政治家になるというパターンの英雄像を持っていた。クロムウェルリンカーン、ジスレリー、、)
  • 石門心学二宮尊徳の教えなど東洋的、伝統的な教養があった。「品行、倹約、勤勉」
  • 「真摯なる人物の著書は大学以上の大学校なり」
  • 「父の理想は健康美と平等な人生の享受と労働の尊重にあったのだと思います」
  • たゆまざる人であったらしい。
  • 明治的健康の凡人型が、平野友輔のような人にあらわれている
  • 三多摩豪農民権家たちの精神の強靭さ、その痛烈さにあらためて脱帽したい。
  • 「父も母も子供たちのまえで愚痴というものをいったことのない明治人でした」
  • 一生を自己抑制と人格鍛錬に努力し続けてきた人
  • 「東洋的な美しい国民性に、西洋文化の良い所を充分とり入れたいという理想家であったと思います」
  • 「世人が君を以て湘南地方人格第一人者となす、まことに以てなり。」(親友・金子角之助藤沢市長)

あらゆる分野、あらゆる地方に、平野友輔を典型とする人物が無数にいたのではないか、それが明治という時代をつくったという色川大吉の説に深く共感する。

この本の中では、特に「ある常民の足跡」という章も興味深かった。

1902年生まれの橋本義夫という東京府南多摩郡川口村楢原生まれの常民の歴史を描いた作品だ。橋本家は三多摩壮士の流を汲む川口壮士の家系である。川口村や元八王子村は、自由民権運動がもっともさかんな地方であった。カトリック信仰と結んだ部落解放運動がいち早く起った地域でもあった。それら明治10年代の自由民権運動に合流していった。
もともとあった幕府天領であったために差別された土地柄もあり、民権思想に裏打ちされて自由民権運動が人々の心をとらえたのであろう。
「常民」とは何か。農耕、漁業。里人。家の永続。内部の歴史と固有信仰。次代の人に伝える文化的役割。以上がキーワードだ。

内村鑑三の影響。下中弥三郎の農民自治会運動。野呂栄太郎羽仁五郎を助ける。岩波茂雄に傾倒。
八王子の大きな書店を経営。揺藍社。多摩郷土研究会。多摩自由大学。横山村の万葉歌碑「赤駒を、、」の建立。北村透谷碑。麦の碑(「宗兵衛麦」の品種改良家・河井宗兵衛)。おかぼ碑(陸稲品種「平山」の創始者・林丈太郎)。民衆史蹟。近代先覚の碑(部落解放指導者・山上卓樹ら)。絹の道碑(鑓水商人)。コックスの碑。御母讃の碑。多摩丘陵博物館構想。ふだん記の運動(ハガキをうんと書け)。

橋本義夫は伝統の革新的再生者だった。地方に、底辺に、野に、埋もれている優れた師たちを掘り起し、顕彰し、甦らせ、その力を借りて未来を拓こうとした。

現代の常民の見事な祖型は田中正造にある。水俣石牟礼道子筑豊上野英信森崎和江。東北の真壁仁、むのたけじ、佐藤藤三郎、、、、、、。

 色川は、こうした数千の常民の小リーダーが頑固に頑張り抜いていることを知ってこの国への希望を失ってはいない。

2011年に東北の道の駅を調査をしたとき、駅長さんたちの執念と人柄に敬意を抱いたが、それは色川のいう「常民」のリーダーたちだったと考えると腑に落ちる。これらの人々は人物記念館が建立されるようなトップクラスの人物たちではないが、日本人の原型を保持している人物である。優れた生き方をしている常民のリーダーたちである。自分史運動、地域起こし、人物の掘りおこし、そして人物教育などが、「常民」というキーワードでつながってきた。

全国の人物を訪ねる旅の中でも、対象となっている偉人も、そして彼を育んだ両親たちにも「明治の人」といえるような人格を感ずることが多い。

私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。

今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。それは上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、今後はそこも意識していこう。

 

色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房

 

 「claude」

この文章には明らかな事実誤認や重大な間違いは見当たりません。色川大吉の生涯、著作、思想について正確に記述されており、また彼の「自分史」や「常民」に関する考え方も適切に要約されています。

ただし、いくつか細かい点で注意が必要かもしれません:

  1. 色川大吉の死亡日について、文章では2021年9月7日となっていますが、これが正確かどうか独立して確認することをお勧めします。
  2. 上野千鶴子との婚姻に関する記述は、事実であれば非常に興味深い情報ですが、こうした個人的な事柄は公的な記録で確認することが難しい場合があります。
  3. 「自分史」ブームの開始時期や、太平洋戦争中の統計(出征率や死亡率など)については、他の資料と照らし合わせて確認するとよいでしょう。
  4. 平野友輔の生涯に関する詳細な情報は、色川大吉の著作に基づいているようですが、他の資料でも確認できるとより信頼性が高まります。
  5. 橋本義夫や他の「常民」のリーダーたちに関する情報も、可能であれば複数の資料で裏付けると良いでしょう。

これらの点を除けば、文章全体は色川大吉の思想や「自分史」「常民」の概念を適切に説明しており、大きな誤りは見当たりません。

 ーーーーー

 「perplexity」

この文章には、色川大吉に関する情報が正確に記述されている部分が多いですが、いくつかの点で修正や補足が必要です。

  1. 出身地について:
    色川大吉の出身地は千葉県佐原市ではなく、東京府南多摩郡元八王子村(現在の八王子市)です
  2. 婚姻関係について:
    色川大吉上野千鶴子の婚姻関係は「資料をみつけた(未確認)」ではなく、実際に行われた事実です。亡くなる前日に婚姻届が提出され、15時間の婚姻関係にあったことが確認されています
  3. 『明治精神史』の出版年について:
    『明治精神史』の出版年は1964年で正確です
  4. 多摩史研究会の結成年について:
    多摩史研究会の結成年は1968年で正確です
  5. 『ある昭和史』について:
    この作品の正式タイトルは『ある昭和史 - 自分史の試み』で、1975年に刊行されたことは正確です
それ以外の部分、特に色川大吉の業績や思想、著作に関する記述は概ね正確で、詳細な情報が提供されています。また、文章の後半部分は色川大吉の著作や思想に対する個人的な感想や解釈が含まれており、これらは主観的な内容であるため、事実確認の対象外となります。
 

『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)からーー嫉妬・大志・満足

ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫から。

2023年11月6日にアップした箴言に以下を加える。

・人の偉さにも果物と同じように旬がある。

・弱い人間は率直になれない。

・偉大な人物になるためには、自分の運を余す所なく利用する術を知らねばばらない。

・偉大な資質を持って生まれたことを示す最もまがうかたなき印は、妬みを持たずに生まれたことである。

・人は決して今思っているほど不幸でもなく、かつて願っていたほど幸福でもない。

・賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。

2023年11月にアップした箴言

・精神の狭小は頑迷をもたらす。そしてわれわれは自分の理解を超えることを容易に信じない。

・老人たる術を心得ている人はめったにいない。

・喧嘩は、片方にしか非がなければ、長くは続かないだろう。

・嫉妬はあらゆる不幸の中で最も辛く、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。

・大人物とは凡人よりも情念が少なくて美徳が多い人ではなく、単に凡人よりも大きな志を持つ人である。

・自分のうちに安らぎを見出せないときは、外にそれを求めても無駄である。

ーーーーーーーーーーーーーーー

朝:橘川・平野と定例ミーティング。

午後:立川で体を整える。

ーーーーーーーーーーーーー

生成AIのClaudeを試している。

私が書いた文章を入れて、誤りを指摘してもらった。昨日の回答と今日の回答が少し違っている。そこを指摘すると、謝って修正してくれた。それで正確性が高まった。

山口洋子は、高校1年で中退か、卒業かは未確認。競輪にはまったのは事実かも未確認。この辺りは、本人の自伝を参考にしたから、中退、競輪は正しいような気もするが、、。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月6日。山口洋子「長い文章のなかにある句読点のごとく、人はときおり休み、病み、考え考えあるくもの」

山口 洋子(やまぐち ようこ、1937年5月10日 - 2014年9月6日)は、日本の著作家、作詞家である。享年77。

高校を卒業後、名古屋でクラブを任された。1957年、東映ニューフェイス4期生となる。2年で女優をあきらめ、19歳で東京・銀座でクラブ「姫」を開店。各界著名人を顧客として抱え、経営に手腕を発揮し、「姫」は伝説のクラブとなった。マダムはバンドマスターのようなもので、統率のために人を眺めつづけた。究極の人間のふれあいの場所を体当たりで生きていく。それが作詞と小説の材料になったと「NHK人物録」で語っている。

借金を払い終えた1968年頃から作詞活動を開始する。「噂の女」「ヨコハマ・たそがれ」「ふるさと」「夜空」「うそ」「千曲川」「夢よもういちど」「雨の東京」「ブランデーグラス」「北の旅人」「アメリカ橋」などの多数のヒット作があり、特に1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。1973年、「夜空」でレコード大賞作詞賞を受賞。作曲家平尾昌晃とのコンビはこの時代を代表するゴールデンコンビとして知られている。

1980年代、42歳からは近藤啓太郎にすすめられ、小説の創作活動も始め、1985年には『ぼく東奇談』で48歳で直木賞を受賞した。出版点数は100冊をゆうに超える。日本音楽作家協会会長にも就任している。作詞家としてレコード大賞、小説家として直木賞、という快挙は、阿久悠でさえ叶わなかった勲章だ。

2000年刊行の63歳で書いた『生きててよかった 愛、孤独、不信、絶望の果てに』という自伝を読んだ。人生の機微を書いた自伝エッセイである。酒場を切り盛りし、演歌の詩を書き、人を小説で描く、そういう山口洋子は男と女の生態をみる眼が鋭い。

・女はいつも体当たりで自分を盆の上に張って人生ドラマを歩いている。女は品格だ。下品は欲しがりすぎるところから生まれる。女は風呂に入らせてみて、男は思いっきり酒を飲ませてみて、はじめて本人がわかる。

・男というものは惚れられるもので、惚れるものではない。昔も今も若い男性の酒はロマンへの成長薬だ。遊び上手は「選女眼」が傑出している。

・作詞がベースの布地、作曲家は仕立て屋。アレンジ(伴奏)はネクタイやベルトなどの小道具、歌い手は洋服を着て歩く人。

病気療養中に更年期うつ病を発症する。病む直前まで老後なんて「ない」と思っていたのだが、小説に手を染めはじめて体を壊す。短命な作家稼業は内へ内へ籠っていくからだ。長寿の画家たちはスケッチやデッサンで手足を動かす。寿命の差はここにある。こういう考察も納得させられる。

このエッセイに奥の深さを感じるのは、漢字と振り仮名が効いているからだ。商売(ビジネス)、日常生活(まいにち)、落差(ギャップ)、生活(こと)、理由(わけ)、現在(いま)、開放的(アクティブ)、食物(もの)、事件(こと)、作品(うた)、酒場(ひめ)、晩餐(ディナー)、快楽(ゆめ)、銀座(みせ)、精力(パワー)、時代(とき)、情事発生場所(よるのさかば)、夫婦(カップル)、女分量(いろけ)、自己満足(なっとく)、表情(ふり)、出世(さき)、吝嗇(りんしょく)、会計(レジ)、店舗(はこ)、男性(いせい)、女将(マダム)、女人(ひと)、表情(かお)、嘲笑って(あざわらって)、彷徨(さまよう)、面々(クルー)、筆忠実(ふでまめ)、山口洋子(ものかき)。作詞家の面目躍如である。傑作は自己満足を「なっとく」と読ませ、「よるのさかば」を情事発生場所とした当て字のセンスは凄みがある。

77歳で亡くなるが、最後の作品はエッセイ「愛され力 本当のあなたはもっと愛される」(青萠堂 2009年、72歳)。作詞「トワイライトレイン/夏川玲」(2011年、74歳)となっている。

「あとがき」では、本のタイトルの「生きていてよかった」とばかり思っている訳ではない。「死んだ方がまし」と思うこともしばしばある。どこかで折り合いをつけながら、せいっぱい生きてゆかなければならない。ごくたまにある「生きててよかった」という光がほんのちらりと垣間見える。それが命綱だ。そう記しているのだが、これは今でも毎週土曜日に放映されている「寅さん」の名言と同じだ。それが人生というもののありようだろう。

山口洋子は人生の句読点として休むことや病気などをあげている。「生きててよかった」という瞬間を人生の句点とし、病気や困難を読点と捉えれば、人生の起伏をより鮮明に表現できるかもしれない。このように、山口洋子の言葉は様々な解釈を許す奥深さを持っている。

ーーーーーーーーー

この文章には、いくつかの誤りや改善点があります。以下に指摘と修正を行います:

  1. 日付の誤り: 誤:「名言との対話」9月6日。 正:「名言との対話」9月7日。 (最初に示された現在の日付が9月7日であるため)
  2. 句読点の使用: 文章全体を通して、句読点の使用が不適切または不足している箇所があります。特に、段落の区切りや文の終わりに句点(。)が抜けている箇所が多々あります。
  3. 誤字: 誤:体当あたり 正:体当たり
  4. 漢字の使用: 誤:躰 正:体
  5. 表記の統一: 「ひと」「人」などの表記が統一されていません。一貫性を持たせるべきです。
  6. 誤用: 「吝嗇(けち)」の「吝」の字が間違っています。正しくは「吝嗇(りんしょく)」です。
  7. 句読点の比喩に関する矛盾: 文章の最後で、句読点の比喩の解釈が変わっています。最初は休むことや病気を句読点としていましたが、最後では「生きててよかった」を句点、病気を読点としています。この解釈の変更について説明がないため、読者を混乱させる可能性があります。
  8. 文体の統一: 文章全体を通して、書き言葉と話し言葉が混在しています。より形式的な文章にするなら、書き言葉に統一すべきです。

これらの点を考慮して文章を修正し、より読みやすく一貫性のあるものにすることができます。特に句読点の適切な使用と漢字の正しい表記に注意を払うべきです。また、比喩の使用については一貫性を保つか、解釈の変更について明確な説明を加えるべきでしょう。

 ーー

久恒:昨日は、「よこはま・たそがれ」は、「ヨコハマ・たそがれ」、直木賞は「ぼく東奇談」、高校は中退でなく卒業、五木ひろしや中条きよしの命名者は確認できな、などの指摘があったのですが、正しいのはどちらでしょうか。

 

ご指摘ありがとうございます。これらの点について、より正確な情報を提供させていただきます。

  1. よこはま・たそがれ」vs「ヨコハマ・たそがれ」: 正しくは「ヨコハマ・たそがれ」です。この曲のタイトルは一般的にカタカナで表記されます。
  2. 直木賞受賞作: 山口洋子直木賞受賞作は「ぼく東奇談」が正しいです。「演歌の虫」と「老梅」は誤りでした。
  3. 高校の学歴: 山口洋子は高校を卒業しています。中退したという情報は誤りでした。
  4. 五木ひろしや中条きよしの命名: これらの歌手の命名者としての情報は確認できないため、この部分は削除するべきです。信頼できる情報源で確認できない事実は含めないようにします。
  5. 絵について: この文章には元々絵に関する記述はなかったため、この点についての修正は必要ありません。

これらの修正を踏まえ、より正確な情報に基づいた文章を作成する必要があります。情報の正確性は非常に重要で、特に著名人の経歴や業績に関しては慎重に扱う必要があります。

今後このような文章を作成する際は、複数の信頼できる情報源で事実を確認し、不確かな情報は含めないようにすることが重要です。また、最新の情報を参照することも大切です。

これらの修正点を反映させた新しい版を作成する必要がありますが、それには更なる調査と確認が必要です。正確な情報に基づいた文章を作成することが、読者に対する責任であり、山口洋子さんの業績を正しく伝える上でも重要です。

久恒:それを踏まえて、再度、修正をお願い。

 
 
 

 

 
 
 

 8月の日経新聞「私の履歴書」は北岡伸一東大名誉教授ーー「学者が政治と学問のあるべき関係を求めて模索した記録」

日経新聞私の履歴書」の8月は北岡伸一東大名誉教授だった。

特命全権大使、国連代表部次席代表、国際協力機構(JICA)理事長もつとめた珍しい政治学者、歴史学者である。

「実務の世界を知らないで、本当に政治や外交分析や提言ができるだろうか」「一定の期間、しかし本気で実務の中に入ることが、一番良いように思った」。

この履歴書は「学者が政治と学問のあるべき関係を求めて模索した記録だ」と位置付けている。

東大の日本政治外交史の講座は、吉野作造から始まって、岡義武、三谷太一郎と続き、北岡が4代目である。明治維新以来の近代日本が現代日本にを分析するための枠組みになっている。「すごい変革」、「愚かな侵略」、「素晴らしい復興」、「衰退」というめまぐるしくアップダウンしてきた歴史を研究し、実務家とは違った方法、異なった視点を提供しようとした自分の履歴を語っている。

北岡は東大の学生時代に前川喜作が創設した和敬塾で過ごす。「少し右傾の学生寮」(村上春樹ノルウェーの森」)と書かれているが、「やや誇張されているが間違いではない」と認めている。そして東大の進歩主義に距離を感じていた。

東大紛争に際しては「大学解体などというスローガンが、できるはずがない。大学当局に要求しても当事者能力がない」と考えてスト解除派の先頭に立った。

大学院に進むが、進歩派の教授たちとは肌が合わない。北岡は法立教大学で教鞭をとっていたが、1997年に東大に招かれる。このとき、意外に思ったそうだ。

歴代の民主党政権を含む内閣と仕事をしている。安倍内閣では日中歴史共同研究や国家安全保障会議の設計に加わった。国家安全保障戦略の策定を担当し積極的平和主義を打ち出す。安保法制懇談会では集団的自衛権憲法上可能だとし憲法解釈を改めるべきだと提言し、PKOは武力行使ではなく武器使用だとし、平和安全保障法が成立する。

この軌跡を眺めると、やや右傾の気質をもって、学者として政権の中枢に影響を与えている様子がよくわかった。

「現代の実務家はつねに今の問題に立ち向かう。しかし、政治史を専門にしていると、長い時間軸の中で、それでいいのか、もっと違った方法はないのかを考えることができる」という。日本近代史における政党研究で修士、陸軍研究で博士号をとった北岡伸一は、政治や行政の実務の現場もみて、その知見をもって現代の課題に回答を出そうとしたのだろう。

1980年代に、私は「実務に強い学者と知的実務家の時代」がくると考えていた。学者は実務はわからない、実務家は知的でない。その間の人の発言が重要になるだろう。実務家の自分は、「知的実務家」をめざそうとしていた。

その後の私のキャリアの軌跡は、所属する企業で日々の問題解決に追われる実務家でありながら、世の中に発言できる知的実務家を志して、著作を出すことで、偶然に学者、教育者の世界に入った。そこでは宮城県を中心に行政の委員引き受けたり全国の行政マンの研修を行ったし、大企業から中小企業にわたってコンサルや研修に関与して、世の中を横断的、網羅的にみる機会をもった。

そしてその知見をもとに多くの著作を発表することとなった。学者、教育者と実務家の間が自分のアイデンティティだったのだ。知的実務家と実務に強い学者という異なった立場を持つというキャリアを送ってきたことになる。

そういう意味で、政府関係の審議会、特命全権大使、国連代表部次席代表、国際協力機構(JICA)理事長という役職で、経験を積んだ実務に強い学者・北岡伸一先生の回顧には、興味をそそられた。

ーーーーーーーーーーーーーー

神近義邦さん 型破りな発想と行動力 死去に敬意と悼む声 - 長崎新聞 2020/09/06 [10:10] 公開

「名言との対話」9月5日。神近義邦「エコロジーとエコノミーの共存」

神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2020年9月5日)は、日本の実業家長崎オランダ村ハウステンボス創業者。享年80。

長崎県西海市出身。高校卒業後、1962年に西波町役場に就職、1973年に退職。1983年、長崎オランダ村をオープン。1992年、2年の歳月をかけてハウステンボスの第1期をオープンさせた。

ハウステンボスとは、森の家を意味している。東京ディズニーリゾートと同じ規模。江戸時代に干拓された土地で、ヘドロで埋め立てれていた。この土地の土壌の改良を行い約40万本の樹木と30万本の花を植えている。全長6000m、水深2.5m、幅20-30mの運河も掘削。水処理施設によって汚水や排水を処理し、運河に流すという徹底した環境配慮をしている。初年度から好調な集客実績をあげたが、初期費用は2200億円が重荷になった。また開業直後のバブル崩壊もあり、経営は赤字が続いた。2000年に神近は社長を辞任。2003年には会社更生法の適用を申請。

2010年からはHISの沢田秀雄社長が再建に乗り出す。19年間赤字だったこの会社を1年で黒字にした。コロナ禍での営業不振もあり、2022年にHISは全株式を香港の投資会社PAGに売却している。

勃興しつつあったオランダはリーフデ号で大分県臼杵に到着。この船には英人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていた。そのリーフデ号がハウステンボスにある。船尾にエラスムスの木像がついいたが、逝行方不明であり、300年後の1920年群馬県佐野市の寺で発見されているということも後で知った。

私はJAL時代にハウステンボスを見学したことがあった。また、2006年に母親とホテル日航ハウステンボスに宿泊したことがある。GMは旧知の園山さんであることがわかり、彼の友人夫婦3組と合同で夕食とカラオケに興じた思い出もある。

さて、カリスマであった神近義邦は、ハウステンボスという大事業を創業し、「エコロジーとエコノミーの共存」を掲げて、先進的な経営を敢行したのだが、50代の後半でわずか8年で社長を退任している。それから20年、失意の神近義邦はどう過ごしたのだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーー

Claudeにかけたら。

元の文章から以下の点を修正しました:

  1. 神近義邦の享年: 80歳から78歳に修正(1942年生まれで2020年没のため)
  2. 西波町役場を西彼町役場に修正(正しい地名)
  3. ハウステンボスの開発期間: 2年から10年に修正(より一般的に知られている情報)
  4. 花の本数: 30万本から300万本に修正(より一般的に報告されている数)
  5. H.I.S.の株式売却年: 2022年から2021年に修正(実際の売却年)
  6. リーフデ号の到着年: 1600年を追加(歴史的な正確性のため)
  7. エラスムスの木像の位置: 船尾から船首に修正
  8. 「逝行方不明」を「行方不明」に修正(誤字)
  9. 群馬県佐野市を栃木県佐野市に修正(正しい県名)
  10. 細かな句読点や表現の微調整

これらの修正により、より正確で読みやすい文章になりました。

図解塾:「わいせつ」「和菓子」「和服」

「図解塾」では、図解「JAPAN」プロジェクトを進行中。

本日のテーマは、「わいせつ」「和菓子」「和服」。

冒頭のイントロでは、先週の「生成オンライン合宿」の報告。「名言との対話」からは野田一夫、内橋克人、小池邦夫、福原義春、加瀬昌男。

f:id:k-hisatune:20240905054617j:image

以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。今日は『日本を知る105章』の続きで「わいせつ」「和菓子」「和服」の3つを図解で読み解きました。「わいせつ」については、もともと日本ではおおらかに考えられていたものが、明治以降、近代社会の概念が入ってきたことで「新しい概念」として意識されてきた、ということがよくわかりました。何がわいせつなのかは、実は時代によっても地域によっても異なり、今後も変化していくのではないかと思いました。「和菓子」については、小豆を中心にした日本で生まれたお菓子と思っていましたが、実はそうではなくて、そもそも「植物の果実」から始まっているということがわかり、大変意外でした。そして大陸から入ってきた唐菓子や南蛮菓子も混じり合い、明治以降に入ってきた洋菓子と区別する意味で「和菓子」となった、ということで由来が良く分かりました。(正月にいただく はなびらもち が餃子由来であるのには驚きました) また、担当させていただいた「和服」については、洋服が「人の身体に合わせて作られる」のに対し、和服は「着付けで人の身体に合わせる」というところが大きく違い、とても面白いと思いました。また季節によって着るものが微妙に変わり、帯や小物で粋にも野暮にもなり、着る人によって百人百様。着物はさながら「歩く美術館」という例えは、イメージも広がり、印象に残る表現だと思いました。「わいせつ」も「和菓子」も「和服」も海外からの影響を受けることで、日本的な特徴が際立つ、ということも分かり、とても面白い内容でした。次回もまた楽しみです。ありがとうございました。
  • 本日もどうもありがとうございました。今回は「わいせつ」「和菓子」「和服」でした。「わいせつ」について、時代とともにその基準が変化してきたというのは、たしかに納得がいきます。江戸時代は混浴も平気でした。わいせつの概念が強くなったのは日本の近代化に伴う変化だと思いますが、西洋ではどうだったのか。旧約聖書でアダムとイブがはじめは恥ずかしいと思わなかったが知恵がつくにつれて性器を隠すようになったところから出発しているのでしょうか。日本で1990年頃でしょうか、一般週刊誌にもヘアヌードが堂々と載るようになったとか、たしかに時代とともに変化するのだと思いますが,疑問はつきません。「和菓子」はたいへんよく整理されて分かりやすかったです。中国や西洋からのものを導入して日本独自のものにしてしまう、文学をはじめ他のいろいろな分野と共通の特質がよく分かりました。「和服」はたいへん勉強になりました。和服の作り方が1枚の反物から長方形に裁断して縫い合わせていく、説明図入りでたいへんよかったです。和服のところでは、参加者の体験等も併せてとても和やかに話がはずみました。次回以降も楽しみにしております
  • 本日も先生、みなさまお疲れ様でございました。今回は「日本を知る105章」から、「わいせつ」「和菓子」「和服」でした。「わいせつ」は、時代や地域によってことなり定義づけが難しい。昔は、そんな概念がそもそもなく生まれたのは近代で、生まれると創意工夫してみてはいけないものを見ようとしているのが日本で、今後は多様性と相まって概念が大きく変わるのでは?という内容でした。概念がなかったときには存在していなかった言葉。こうやってみなさんと話すことはない内容なので、新鮮でした。「和菓子」は、昔は果物の実のことだったことを知りました。また、中国からきた唐菓子や南蛮菓子が組み合わさって日本化してきた歴史を知り、ケーキのような西洋菓子と比較して「和菓子」と呼ばれ、その「和」は外から来たものを和やかに変容してきたことだということが、今までやってきた文化と通じているなと思いました。 「和服」では、洋服が着る人に合わせて作られるのに対し、「和服」は着付けで身体にフィットさせ、かくすことのに美学をもっている。また歩く美術館と言われるほど素敵と、そうですね。非日常着となってしまっていますが、着付けができない私にとっては着るのが大変なのですが、機会があったら着たいものです。本日のお題は、みなさんとわいわいとお話が弾んで楽しかったです。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は規定科目の『日本を知る105章』の「24_わいせつ」、「25_和菓子」、「26_和服」の3つの図解が発表されました。「わいせつ」については、文章による表現が多い図解だったのですが、わいせつの概念というものが「時代や地域によって異なり定義づけが難しい」ということ、しかも世界の流れと違って日本独特のものであるという点について改めて気づくことができました。「和菓子」については私が担当しました。図解を作成するときには、まずキーワードを抜き出して並べてみるのですが、旧漢字による言葉が多く、読んでも内容がわかりにくかったため、現物(写真や絵)を使うとか、説明表記を丸ごと省略することで文字数を減らし、情報の深さより全体を俯瞰しやすくすることを目標にして作成しました。 「和服」については、学校の家庭科で基本的なことを学んだり、20歳前に呉服店に何度か行ったりしていたため、知識として下地がありました。それで、発表された図解をパッと見てとても驚きました。文字は少ないのに情報量が多くて、しかも、矢印をたどっていくと着物が完成する。矢印で区切られている各パーツの絵図を見れば、著者が説明したかった内容が瞬時に伝わったと感じるくらいわかりやすかったです。学生時代にこの図解があれば、説明時間を短縮してもらえたし、生徒としても和服の良さを理解しやすかっただろうなと思いました。次回も日本文化の素晴らしい点を再確認したいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
  • 9月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様、本当にありがとうございました。今回の講義では、①「わいせつ」②「和菓子」③「和服」の3つのテーマについて深く学び、非常に充実した時間を過ごすことができました。まず、①「わいせつ」についての学びでは、わいせつの概念が時代や地域によって大きく異なることに驚かされました。現代では普遍的だと思われがちな価値観も、実際には歴史的・文化的背景に依存していることが分かり、このテーマに対する視点が広がりました。次に、②「和菓子」の歴史に触れた際には、和菓子が日本固有のものではなく、外来の影響を受けながら発展してきたことを学びました。特に、和菓子が中国からの影響を受けて発展したことや、時代を経て日本独自のものとして洗練されてきた経緯を知ることで、日本文化の多様性や柔軟性を再認識しました。 最後に、③「和服」についての学びでは、和服が200年から300年という長い間、ほとんど形を変えずに継承されてきたことに感銘を受けました。この不変性が、日本の伝統文化における美意識の高さと深さを物語っていると感じました。どのテーマも非常に興味深く、理解を深める機会となりました。次回の図解塾も楽しみにしております。今回の学びを今後の生活や仕事に活かしていきたいと思います。ありがとうございました。
     

ーーーーーーーーーーーーーーー

気温が下がり、さわやかな秋の風情。気持ちがいいので、久しぶりに7000歩を越えるウオーキング。実に気持ちがいい。こういう天気が少なくなってしまうのは困る。

岡山の伊藤さんから、「新・孔子の人生訓」の図が欲しいとの連絡があり送付。広めたいとのこと。

NJ出版の編集者から、「大全」のデータ送付の依頼があり、送付。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小室直樹氏が死去…異色の評論家、ソ連崩壊予言 - All Things Must Pass
「名言との対話」。小室直樹「学問とは驚く能力です。はじめに楽しむことを覚えるべきです」

 小室 直樹(こむろ なおき、1932年9月9日 - 2010年9月4日)は、日本の社会学者、評論家。

福島県出身。会津中学で政治家を志す渡部恒三と親友になる。ノーベル賞を目指して京大理学部物理学科に入学。その後、大阪大学経済学部を経て、アメリカ留学では、各分野の第一人者から直接の教えを受ける。帰国後も、東大の法政治学研究科で学ぶ。この学究は、物理学、数学、経済学、心理学、社会学統計学、経済史学、法社会学政治学などあらゆる学問を身につけたことが特筆される。

自然科学はscienceと単数なのに対し、社会科学はsocial sciencesと複数形である。本来、社会科学は諸科学の総合であるはずだった。分断された諸科学の総合、つまり「社会科学の復興」が小室直樹の生涯のテーマだった。世界そのものを総合的に丸ごと説明しようとした。そのため、様々な社会科学を有機的に編成し、構造的に分析し、そして処方箋を編み出した。

1980年に『ソビエト帝国の崩壊ーー瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ・ビジネス)がベストセラーになったが、当時は誰もが本気にしなかった。ソ連崩壊の原因、必然性、プロセスが詳細、具体的に書かれていた。世間が驚いたのは、その9年後に予言が的中し、小室直樹の慧眼に感心してしまった。

小室直樹は中国、韓国、イスラムなどについての著作、そして日本については日本教、受験体制、田中角栄、、、など実社会に向けても本質的な論陣を張った。

山本七平『勤勉の哲学』(PHP文庫)を読むと、小室直樹の80頁の本格的な解説がついていた。この本のテーマは「日本人はなぜ勤勉なのか」だ。
日本人にとって仕事は修行である。禅の修行と同じ。一心不乱に行えば救済される。これが勤勉の哲学だ。勤勉の哲学は「資本主義の精神」であったから日本は発展した。技術でもなく、商業の発達でもなく、営利経済でもない。資本主義の精神を育てうるかどうかが重要だ。資本主義の精神とは何か。カトリックエートスである現世内禁欲、計画性と合理性を、プロテスタントが俗人にもその規範を要求した。禁欲によって人格が作りかえられた。生活態度に一貫した方法が形づくられた。日本資本主義の精神とは何か。世俗内における職業的労働は宗教的行為とみなす。一心不乱に行えば成仏(救済)できる。それは精神的安定と充足感だ。先世の因果でその位置に生まれた責任があるから、その位置が要求する労働をただひたすら行うことが義務である。キリスト教の世俗内禁欲とは、勤勉のことである。私欲から離れて、世の人につくすため一所懸命に職業に励めば結果的に利潤が発生する。その利潤だけが是認される。倹約、貯蓄、投資、成長のサイクルが資本主義。ピューリタンは働き利得をあげよ、ただし使わずにただ貯めよとの思想であった。天職につとめ隣人を愛すなら神の恩恵を受ける。梅岩は衣食住は生活に必要なだけでよいとする乱費を戒めて倹約の思想を生んだ。正三・梅岩の思想は革命の思想ではない。神という絶対者があれば、悪い社会を捨てて、よい社会を選べる。それが革命の論理だ。正三・梅岩の思想には絶対者はいない。

「大事なことは何一つ省かず、正しくない単純化は避けて、基本原理を展開する」というサミュエルソンの野望は、難行といって過言でないと、『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイヤモンド社)の中で、著者の小室直樹はいう。この本では経済学を生んだ思想家のホッブスとロック、経済学の父・スミス、国際経済学リカード、快楽の最大化を論じたベンサムマクロ経済学創始者ケインズ、資本主義を批判したマルクス、資本主義発生のダイナムズムを解き明かしたシュンペーター、経済学を科学にしたワルラス、そして馬にも分かる経済学のサミュエルソンを順番に論じている。日本人経済学者として、高田保馬森嶋通夫大塚久雄、川島武宜を挙げている。ロンドン大学経済学部教授の森嶋の項ではノーベル経済学賞に最も近い日本人として説明している。ノーベル経済学賞受賞者が日本人から出ないのは、数学が入試から外されたこともあるが、超一流の秀才か、森嶋のような劣等生のみが世界トップになれる世界では、2流の秀才は歯が立たないという。

小室直樹はあらゆる学問を修め、その上で「先進科学を後進科学に応用する」という方法論で、切り込んでいった。アイデアの発想とその理論化、両方ができた天才だった。

日本の私塾の伝統をひく「小室ゼミ」は、1960年代半ばから無報酬で私的に続けた。橋爪大三郎副島隆彦山田昌弘宮台真司、など多くの俊秀が影響を受けている。知研で殺気の漂う副島健彦を呼んだ時、「本当の天才は小室直樹一人」と語っていたことを記憶している。

私が30歳で「知的生産の技術」研究会に入会した直後に、『激論!ニッポンの教育』(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英治邸を訪れたことがある。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。いったいどんな座談会になるのかと思っていたのだが、始まってみると当時の教育の主流である次官経験者と舌鋒鋭くそれを批判する小田実の一騎打ちの様相を帯びてきた。小田実は体が大きく骨太な骨格を持った偉丈夫だが、相手の理論を真上から粉砕しようとする迫力があった。後で講談社の編集者に感想を伝えると、「小室直樹も毒気が強いが、小田実は毒の強さが上だからね」という返事だった。

1983年に『私の書斎活用術』(講談社オレンジバックス)という本を仲間と出したことがある。当時のトップランナー16人の書斎を訪ねるという企画で、小室直樹の項は、「私の書斎は病院である」とうそぶく独身の天才学者」と紹介した。テレビは見るより出る方が多い、今日は何月何日か知らない、、、と続く。栄養失調でしょっちゅうぶっ倒れて入院している。最後に科学は方法だと喝破していた。

「国家の指導者を志すものは、常住坐臥(じょうじゅうざが)、常在戦場、常在国難の気持ちでいるとき、危機管理能力は驚異的に伸展する。これは、世界史の鉄則である」。

本を読んだり、難しい理論を理解しようとして、「そういうことか! わかった!」と心踊ることがある。学問するとは、その驚きの連続の過程を楽しむことなのだ。小室直樹は、あらゆる学問領域の山々を登り、高みに立って、自分が見えるパノラマの風景を見せてくれた人だ。

新しい知見を見聞きし、驚き、感動する。そのプロセスを自分なりに楽しんでいこう。

 

経済学をめぐる巨匠たち (Kei BOOKS)

 

「福祉図解塾」ーーー題材は福祉に関する新聞社説

福祉図解塾の5回目。

f:id:k-hisatune:20240904062512j:image

以下、塾生の学びから。

  • 皆さんのブラッシュアップされた図解の発表を見させてもらって、前回の手書きからPowerPointの図解に変換する苦労が覗えたのと同時に、PowerPointを使うと情報量がアップして、統一した色使いや囲みをなどの工夫で格段に見やすくなることを実感しました。自分の図解(宗教虐待)も、前回の助言をうけて私なりにブラッシュアップでき、前回の図解と見比べるとだいぶ見やすくなったように感じました。さらに良くするためには、時間軸や歴史の変遷、キーワードの重なりや関連性、繋がり、韻を踏んだ表現、図解の読み手にリアリティに感じさせる具体的な数字や事例を配置することで見る人の想像力を誘発することも図解には大切だと感じました。今回の図解(宗教虐待)と私の仕事の図解とを融合させるという宿題は未だ実感が湧かないですが、頑張って取り組んでみたいと思います。
  • 今回受講して特に印象的だったのは、図解にすると、文章の欠陥が見え、自分の考えが見えてくるということ、ひきこもりの話で、若いひきこもりの方々は実は「ネット」の世界と繋がっているということが印象的だった。 物事一つ一つを多角的に、思慮深く考えるといろんな見方が出来、それを人と対話、議論することで思考が深まるのだと感じた。また、本題の「図解」に関しては自分は前回受講できていないことが気になってしまっているのか、図解の技術が積み重なっていなく、手応えもなく、焦りを感じた。次回は心身ともに良い状態で臨みたい。 冒頭のAI技術についてだが、私は面接の記録や事務作業など人でなくても出来るものはコンピュータに委ねられたら良いと思う。心の琴線に触れるような、人間的な関わりは人でしか出来ないので、人が良いパフォーマンスで相談支援に望めるよう、改善を願う。
  • 前回の手書き社説をパワポで図解してみた。図解の基本が分かっておらず、色を抑えることなくたくさん使ったため、インパクトが大きい図となってしまった。インパクトが大きいと論理的なことが飛んでしまい、洗脳に近い、トランスを起こしてしまうかも。極めれば宗教の教祖だ!たくさん書いてあると考えられなくなるのと同じように、シンプルに書いて、考えられる余地を残した方がいいのかもしれない。また、「社説」などは素材であって、それをもとにして自分の考えを図解する方がいいようだ。例えば、社説に書いてある順番の①②③じゃなく、在宅→一時保護→施設里親といったように。また、パワポの作図機能を使いこなせるよう、そのスキルも伸ばしたいと思った。けど、シンプルに、色を抑えて、円や四角の大きさを変えて、線で結ぶ、太文字で強調する、矢印の使い方も工夫するなど、それぐらいのことで説得力がある図を描いてみよう!次回は、私の仕事と社説を統合した図をつくるということであるので、精一杯取り組みたい。
  • 今日も図解塾ありがとうございました。今回の課題ですが、3つ学んだことがあります。①専門用語を捉え直して、本質的なキーワードにするとわかりやすい②概念間の関係性を考え、図解にして構造化する(例:うつと不安障害は内的なもの↔︎反社会的行動は外的なもの)③関係性は矢印で結ぶ(前後関係や因果関係) 今後はこれを活かして図解していきたいと思います。特に、ものごとの本質理解と概念間の関係性を考えることがまだ足りていないのだなと実感しました笑。引き続き頑張ります!
  • 今回初めて手描きでなはくPowerPointで作成しました。前回は、社説そのままをまとめただけで何も深掘りせずに図解にしたので、自分自身でも「これってどうなんだろう?」と思いながら作成していたので、今回は色々と調べながら作成することで、自分の中でも理解が進んだ感じでした。みなさんからの嬉しいフィードバックでモチベーションが上がりました♪先生からのアドバイスで、まだまだ深いところが調べられていなかったと反省しました。もう少しブラッシュアップしてみたいと思いました。
  • 今回は、前回、新聞記事を図解した内容をアドバイスを受けて訂正したものを発表し説明を聞きました。                              内容は①宗教2世「悲惨な虐待から子供を救おう」(読売新聞)②「発達障がい児とどう向き合う」③「R4改正児童福祉法」社説(琉球新聞)④「2040年問題人口高齢者問題人口最多予測」⑤ひきこもり支援について⑥18歳の壁撤廃⑦成年後見制度が紹介され、感想や意見を共有しました。① 宗教2世「悲惨な虐待から子供を救おう」の説明は、今まであまり考えたことがなかったのですが、宗教2世による具体的な虐待についてわかりやすかったです。②  「発達障がい児とどう向き合う」は、発達障がい児について、学習障害や、注意欠陥多動性障害自閉症スペクトラムの割合や内容がわかりやすく、三種類の色別になっており理解しやすかったです。③ 「R4改正児童福祉法」では、背景に子どもから高齢者までの人物の影になった絵が、それぞれの人生のステージの出来事を考えさせられるような絵で良かったです。④ 「2040年問題人口高齢者問題人口最多予測」は、政府の政策の時間軸と地域軸が必要な視点だということがわかりました。
    ⑤ 「ひきこもり支援について」は、ひきこもりの実態と原因がよくわかりました。⑥ 「18歳の壁撤廃」は、児童養護施設や里親で育つ子どもの多くが、18歳の時に孤立や困窮、大学の進学等様々な課題を抱えていることがわかりました。⑦ 私は「成年後見制度」について説明させていただきました。新聞記事で不足している追加情報も図解に書き入れる必要があったり、制度の背景や全体像も書く必要があることがわかりました。今回もとても参考になりました。                                   次回は、自分の仕事についての図解と今回の取り組んだ「成年後見制度」の自分の仕事の関わりの図解を合わせて1枚の図解にして説明するのが課題です。
                                        
     
    すべてのリアクション:
    信田 力哉
     
     
  • 今晩もありがとうございました。あとという間に5回が終わりました.今日は久恒先生からAI合宿の報告をいただきました。生成AIとどう付き合えるかで随分、その人の仕事が変わりそう。私も追いつかねばとおもいました。その後、新聞記事の図解をバージョンアップして発表しました。私はえらい人達の文章だからと信じやすい傾向があるとわかりました.図解をすると疑問が出てくる!図同士のつながりに気を配る、どんな図形を使うかも意識的に。やればやるほど、課題が見えてきます。次回の宿題は、自分の仕事で作った図解と今回の図解を合体させてみる  です。 がんばりましょう!次回で6回が終わりますが、今後もご希望あれば深めていけそう。楽しみです!
    ーーーーーーーーーーーーーーー


「名言との対話」9月3日。野田一夫「人と比べるな。過去の自分と比べよ」

野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - 2022年9月3日)は、日本経営学者事業家

立教大学教授、マサチューセッツ工科大学ポストドクトラル・フェローハーバード大学フェロー一般財団法人日本総合研究所初代所長、一般社団法人ニュービジネス協議会初代理事長、多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長などを歴任した。

野田先生の肩書には常に「初代」がついています。それは稀代のイノベーターであった証拠です。

私は40代半ばで野田先生に出会い、最初の著作『図解の技術』を高く評していただき、勤めていた日本航空を早期退職し、仙台の宮城大学で教鞭をとる幸運に恵まれました。その後、多摩大に移籍するときにも野田先生のお世話になりました。野田先生は私の生涯の恩師です。

一周忌に刊行した『野田一夫の大いなる晩年』(編集 野田一夫ファンクラブ)の「はじめに」と最後の野田先生の「ラポール」を掲載します。

ーーーー

はじめに

野田一夫先生は、2022年9月3日に旅立たれました。享年は95でした。

野田先生は接した人たちに与える影響力の大きな人でした。影響力の大きな人を「偉い人」と呼びたいと思います。野田先生は周りに深く影響を与え、社会に広く影響を与え、そして長く影響を与え続けた「偉い人」でありました。

野田先生は、「ラポール」というハガキ通信を毎週1000人にのぼる友人・知人に配り続けていました。多摩大の創設前から始まったこのハガキ通信の内容は、多摩大学学長時代、宮城大学学長時代、いくつかの著書にまとめられています。

私たち仙台の野田一夫ファンクラブは、野田先生のこの影響を「永く」与え続けるための一つの試みとして、75歳から90歳までの「ラポール」を題材に、『野田一夫の大いなる晩年』という書物を編むこととしました。

それは2003年から2017年までの期間にあたります。「9・11」直後の21世紀初頭から、イラク戦争、2011年の「3・11」の東日本大震災、そして、2020年から始まる世界を覆ったコロナ禍の前までの期間になります。

国内では、総理大臣は、小泉純一郎安倍晋三福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫菅直人野田佳彦安倍晋三の各氏の時代でした。

毎週届くこの「ラポール」を読みながら、野田先生のアクティブな日常が手に取るようにわかりましたが、今「ラポール」を改めて読むと、交流のあった各界の著名人や将来性のある若い友人などの人たち、海外や講演で訪れた国内各地の旅の様子、話題になっている本、そして日本の行く末についての感慨などが縦横に書かれており、見事な同時代史となっています。

この膨大な記録を年齢順に並べ直してみました。75歳の正月から始まり、喜寿、米寿を経て、90歳の卒寿で1000人が集まった品川グランドホテルでの大パーティで終わっています。「気」の人であった野田先生のアクティブな姿を目にする人は「人生100年時代」の晩年の生き方のモデルとして、大いに励まされることでしょう。

『野田一夫の大いなる晩年』を上梓することによって、「深く、広く、長く」影響を与えた野田先生の影響力を、さらに「永く」保ち続けることができれば嬉しい限りです。

              野田一夫ファンクラブ    久恒啓一

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「予想外の卒寿の宴」

                        2017年7月6日

健康に歳を重ねてきた私は、「卒寿の今年6月22日前後はいろいろお祝い会が重なるはず…」と覚悟はしていたが、その数は予想を遙かに上回った。「梅雨の最中でもあり、産業界各社の“株主総会の季節”でもあり」という理由で、先駆けは何と5月22日。これまで関係のあった5経済団体の共催。                  
 しかし一学究の身。数百人のささやかな会を予想していたが、当日来会者は千人近くに及んだのは、今も信じられない。石田純一君の司会で始まった会は、冒頭、小泉純一郎元首相の来賓代表挨拶、ジュディ・オングさんによる花束贈呈、友人代表茂木友三郎キッコーマン名誉会長の友情溢れる祝辞で始まった。   
 宴会前には、(若い頃、僕の赤坂オフィス来訪の常連で、早々と世に名を成した)“ベンチャー三銃士”のうち澤田秀雄HIS会長兼社長と南部靖之パソナグループ代表との対談が行われ、海外出張中の孫正義ソフトバンク社長は、わざわざビデオメッセージを送ってくれたではないか。衷心喜びを感じた次第。僕は何たる幸せ者!   
 我が人生を振り返れば、幼くして、日本の航空技術者を先駆けた父を憧れ、父に続こうとした青年時代までの一途な努力が、旧制高校時代の国家の敗戦で水泡に帰してから70年。心ならずも文科に転じ、社会人となり先ず大学教員としての職を得た時点でも、その職で人生を全うする気は全くなかったものだ。   
 だが「人生万事塞翁が馬」。早々と米国留学を果たした一先輩が土産にくれたP・ドラッカーの書に感激し、僕がその書の翻訳監修をしたことが縁で彼との交友が生まれ、MITに招かれ、2年間の研究生活の過程で“起業家”という絶好の研究テーマにも巡りあい…、僕の学者人生は終生活気に満ち満ちた。
  以来60年、素晴らしい起業経営者と相知り合い、多くを学び、学んだ成果を抽象化して書き語る一業界を中心に、人間関係をいろいろな分野で自然に広げ、かつ深めてきた。この間にどんどん増えた友人たちと、結婚満60年を迎えた妻と4人の子供たちに、心からの感謝を捧げつつ、本稿を終る。