「幸福塾」ーー「世界のカバン博物館」「洗濯資料館」「公文公記念館」「帝国データバンク史料館」「「小さなカルタ館」「ニホンドウ漢方ミュージアム」「演劇博物館」「東京ゲーテ記念館」「婦選会館」「飛行神社」

「幸福塾」公人の3回目は「創業者は何を遺すか?」。以下を紹介。

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以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。15分ほど遅刻してしまいましたが、いやぁ~面白かったです。さまざまな創業者の生き方が紹介されましたし、興味深い企業や団体の記念館、ミュージアムの存在も知ることができました。キリスト教に入信し人が嫌がる仕事を神から与えられた生業としてクリーニングを創業しドライクリーニングを開発した五十嵐健治氏と洗濯資料館、自分の子供の数学教育から出発して公文式教育を始め、世界中に460万人の生徒をもつ最大の民間教育機関創始者公文公氏と「今の教育は足を靴に合わせようとしている」と批判する言葉。かるたただ一筋に綿々と続いてきたまるで世界遺産絶滅危惧種のようだがしっかりと神保町に生き続けている奥野かるた店の奥野伸夫氏。行く先々で常にゲーテを探し、ついに世界一のゲーテ資料館をつくった粉川忠氏。など、すばらしい金字塔のような存在があちこちにあることを知りました。何でも、一つのことに集中することは重要ですね。そして、こういった文化を育てた国をもっと誇りに思うべきだと思いました。そして、今年から高等学校では生徒が一年間、自分で課題を探して探究する(簡単にいうと「自由研究」)「総合的な探究の時間」が始まっていますが、地域のこういった人々のことや、企業のこともいいテーマだと思いました。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。幸福塾は「公人」の3回目。「創業者は会社を興し、残し…でもそれだけで満足なのか?そのあとどうするのか?」をテーマに久恒先生よりレクチュア頂きました。多くは企業・業界ミュージアム、美術館であり本日その一部を紹介頂きました。分類すると①創業者が人生の大半を賭してこだわり抜いた「より良いモノ」を探求するモノ中心の博物館、歴史/地勢織り交ぜた多角的な製品解説、著名人が所有していた逸品などの展示から創業者の世界観を伝える展示、②創業者が懸命に仕事に打ち込む姿勢や学びの姿勢といった不屈の努力が結実し業界第一人者となっていった創業者の精神を後継者へ伝える展示、③一般の人が到底成し遂げられない偉業を称え、人となりと併せてその人が社会に与えた影響や価値を後世に伝える展示…など。形はいくつかあれど、「指針を決めこだわり抜き、長く続ける」「他人も共感できる世界観を作る」といった共通項を見出すことができました。また「歴史的、地理的」な観点で一般の人々の気に留まりにくい事柄、忘れ去られて易い事柄について、後世へしっかりと伝えていくためには、個人や企業といった枠にとらわれずに経済的、人的に支援する仕組みが必要だなと感じました。「最近の気付」として当方からは北海道鹿追町神田日勝(農家を営なむ画家、故人)記念美術館をご紹介しましたが、運営面等こちらも引き続きチェックしていきたく。いよいよ盆休み、年の前半は公私ともに激動の忙しさでした。後半への折り返しに際し、カラダ・ココロともに大いに休めて次なるダッシュに備えたいと思います。 どうか皆様も良い夏休みを。有難うございました。久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今回は「公人」として事業を成し遂げたのちに博物館やミュージアムを作った人ということで、面白い内容でした。「世界のカバン博物館」「洗濯資料館」「小さなカルタ館」「二ホンドウ漢方ミュージアム」などは、名称だけでもユニーク。その道一筋の偉業が結晶となって展示されている感じで、面白く感じました。特に印象深かったのが「東京ゲーテ記念館」。作った人は粉川忠(初めて知りました)。仕事とは別に、惚れ込んだゲーテに関する資料収集に没頭し、ついには私財を投げ打って世界一の立派なゲーテ資料館を作ってしまったという人。「行く先々でゲーテを探せばいいんだ」という言葉には迷いのない一途な志を感じました。阿刀田高の『夜の旅人』という小説にもなっているとのことで、今度読んでみようと思います(文春文庫にありました)。次回は事業家由来の美術館とのこと。こちらも立派な美術館がたくさんありそうで、楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。手帳に記帳していたおかげで、無事に参加できました。東京ゲーテ記念館を設立した粉川忠さんの「ゲーテ資料の蒐集が男児一生の仕事にふさわしいかどうかが問題なのではなく、一生の仕事にふさわしいほど大きなものにすればそれでいいんだ」が一番響いたフレーズでした。一生の仕事は、自分がこれだ!と思ったものに対して真正面から取り組んでいく結果であることに気づかされました。また、公文公さんの「足に靴を合わせる教育」も、まさにその通りだと思います。人の足の数だけ靴はあっても良いと思うので、賛同できます。靴は、教材等の教育リソースが該当するのではないかと思いました。規制靴よりオーダーメートの靴の方が、脚をより丈夫にするのと同じように。講師の端くれですが、「足に靴を合わせる教育」は、常に念頭におくフレーズとして、自分に追加いたしました。塾内で共有した異常心理学者杉浦義典さんの動画幸福の測定https://www.youtube.com/watch?v=AuuRySlddzg
    にて、心理的幸福感(自己実現で得られる幸福感)が紹介されていましたが、会社を興し、成功して得られた幸せの形として企業ミュージアムを設立するのではないかと想いを馳せました。また、企業ミュージアムは、広報活動の一面があることを知り、なるほどと思いました。本日紹介いただいた各種施設、機会があれば、一度お伺いしてみたいと思った次第です
  • 本日もありがとうございました。企業の経営者のミュージアムなど実際に久恒先生が行かれた場所をご紹介いただきました。リアル感あってよかったです。
    企業で社会に貢献し、その後企業でのお仕事プラスαなものを集めた美術館や博物館を作り、さらに社会に貢献している方々のお話を聞きました。ゲーテ記念館の粉川忠さんの、「ゲーテ資料の蒐集が男児一生の仕事にふさわしいかどうかが問題なのではなく、一生の仕事にふさわしいほど大きなものにすればそれでいいんだ」という言葉は、なるほど。収集癖のある方はのちに大きなことをなせるかも。と思いました。また、奥野かるた展や、二ホンドウ漢方ミュージアムにも、、、と訪れてみたいところばかりでした。これだけのものが作れた人は、充実していた人生なのだろう、これが幸福なんだろうと思いました。次回も楽しみにしております。

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「名言との対話」8月10日。藤原あき「清い政治、明るい社会、美しい国土」

藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本タレント政治家。享年69。

三井財閥の総帥・中上川彦次郎の三女(庶子)で、叔父は福沢諭吉である。女子学院に学ぶ。17歳、一度の見合いもなく、19歳年上の開業医と結婚させられる。10年後、あきは藤原義江と出会う。「世紀の恋」の結果、1928年に離婚し藤原の住むミラノに移住し、2年後に正式に結婚。

戦後、夫婦関係が破綻。1954年に資生堂美容部長。1955年からNHKの人気クイズ番組「私の秘密」のレギュラーとなり、日本中に知られる。1957年、離婚。資生堂美容学校校長。

従兄の政治家・藤山愛一郎から参院選の出馬を依頼される。「愛さんを総理にするために私の残りの人生を賭けるわ」といい、決心する。藤原あきの書いている「清く正しく美しく」を、「清い政治、明るい社会、美しい国土」というスローガンにして、選挙戦を戦い、トップ当選する。タレント議員のはしりとなった。

評伝『藤原あき』(佐野美和)によれば、夫であった藤原義江はなんでも自分より秀でていると認めていた。才色兼備の女性だったのだ。

藤原あきは、NHK私の秘密」でいつも見ていた。この番組は1967年まで10年以上続いていたから、私の中学高校時代である。司会の高橋圭三アナウンサーの冒頭の「事実は小説より奇なりと申しました手、、、」は流行語になっており、私もよく使ったものだ。

一般の登場者の特技、趣味、体験などを、レギュラーが質問しながら、当てていくという趣向で、視聴率が3年間にわたって40%を超えるという人気番組だった。朝日新聞記者だった物知り博士の渡辺紳一郎、詩人の藤浦洸、それに藤原あきという同世代がレギュラー解答者で、藤原あきは華やかな存在でよく覚えている。

本日8月10日は岸田内閣の新閣僚が決まった日である。宗教と政治の関係が問題になっている現状をみると、「清い政治」という言葉は、「清き一票」と同様に死語になってしまった感がある。今一度、思い起こしたい言葉である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明日の「幸福塾」の準備ーー「創業者は何を遺すか」

10日の「幸福塾」(ZOOM)の準備。「公人」3は、テーマは「創業者は何を遺すか」。博物館。資料館。記念館。ミュージアム。〇〇館。神社。〇〇ランド。

初めての方もどうぞ。20時から。

https://us02web.zoom.us/j/9064553560?pwd=eFM4VEtFL2RBS3VpU2JsaS94R2xkZz09

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酷暑の中7000歩。近所の温泉。パソコン満杯、購入した外付けHDDへの移行作業。

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「名言との対話」8月9日。麻生豊「二度と再びこの痛苦を子供や孫に味あわせたくない」

麻生 豊(あそう ゆたか、1898年明治31年)8月9日 - 1961年昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は麻生 豊(あそう みのる)。 

大分県宇佐市出身。18歳で上京しエンジニアを目指すが、北沢楽天の漫画家養成塾「漫画好楽会」に入会。

1923年、報知新聞社に入社し、漫画記者となる。関東大震災が起こり、世の中を明るくする漫画「ノンキナトウサン」の新聞連載を始める。1924年、「ノントウ」は600回以上続き、6冊の単行本となった。1929年、読売新聞社に入社し、創刊された「読売漫画サンデー」に「続ノンキナトウサン」をなどを掲載。1932年、朝日新聞社に入社、翌年「只野凡児・人生勉強」が新聞に掲載される。

戦時中は中国戦線に従事したのち、軍の報道班員として、満州・蒙古・中国北部や、ジャワ島に赴いている。

終戦後の1943年、日本漫画公報会の理事長(会長は北沢楽天)。銀座にアトリエを持ち、1946年に「銀座復興絵巻」を描き始め1961年までに22巻を描く。1950年、中部日本新聞の客員となる。「がっちゃん」「息子の時代」を描く。1954年、大分合同新聞に「平和くん」を掲載。1961年、63歳で死去。

「ノンキナトウサン」は、ノロマで要領の悪く失業を繰り返す人物が織りなす騒動を描いた4コマ漫画。「只野凡児」は、純真で気が弱いノンキナトウサンの息子の大学卒業後のサラリーマン生活を描いた作品。

高校時代だったか、学生帽をあみだに被っていたら、父から「ノンキナトウサン」みたいだと笑われた記憶がある。そのとき、はじめて「ノントウ」を知った。

2006年には出身地の宇佐市民図書館で「没後45年記念 麻生豊の世界」展が開かれている。「時代の先駆者となって戦前戦後のうち沈んだ人々の心に、明るく生きる希望と勇気を与えてくれました」との主催者の「あいさつ」がある。同郷の宇佐市出身の双葉山と一緒の写真と、双葉山麻生豊を撮った写真も展示された。

「銀座復興絵巻」の作品の一つだと思われる、戦後の苦労がわかるようなリュック姿と母子の漫画の説明書きがある。「二度と再びこの痛苦を子供や孫に味あわせたくない」の前には、「十年たち二十年すぎたら、終戦の泥沼の生活も、のどもとすぎればのたとえで、忘れてしまうかもしれない。忘れるにはあまりに勿体ない体験だ」があり、後には「肩にくいこんだリュックの重みを、汽車でつぶされた痛さをいつも思ひだそう。明日を創り出すために」という文章だ。

麻生豊という漫画家は、関東大震災大東亜戦争、戦後の窮乏の時代、復興への向かう時代を描いており、時代と並走した漫画家だ。だから漫画の主人公の生き方が身につまされてた新聞の読者に受け入れられたのだろう。麻生豊は「時代と庶民」を描く、高い志の表現者だったのだ。

 

「耳読」:大倉喜八郎。安田善次郎。本多静六。いずれも幕末生まれの地方出身者。

「耳読」で3人の自伝的書籍を連続して聴いた。明治時代の大倉喜八郎安田善次郎は経済、本多六は学問の分野で名声を博した人物。いずれも「明治の男」であるのだが、実際に生まれたのは、幕末であった。明治の男たちは実は江戸生まれの人たちであった。

大倉喜八郎『致富の鍵』

1837年生、越後(新潟県新発田市)生まれ。ホテルオークラという超一流ホテル名前を遺す。

  • 自分で働らいて儲けて、一寸儲ければ一寸だけ、一尺儲ければ一尺だけ、次第次第に大きくなるのがよいのです。
  • 予定より十パーセント安く仕上げて、その半分をお得意様に返し、残りを当社の利益にせよ。そうすればますますうまくいく。
  • 志は将来にあって今日にあらず、小成に安んぜずして大成を期す。
  • 私は王陽明に私淑しておる。

 

安田善次郎『富の活動』

1838年越中富山生まれ。安田財閥の創業者。

  • 今日一日、腹を立つまじきこと、今日一日、人の悪しきを言わず、我が良きをいうまじこと。
  • 三つの誓い「1.独力独行で世を渡り他人の力をあてにしない。一生懸命働き、女遊びをしない。遊び、怠け、他人に縋るときは天罰を与えてもらいたい。」「2.嘘を言わない。誘惑に負けない。」「3.生活費や小づかいなどの支出は収入の十分の八以内に止め、残りは貯蓄する。住宅用には身代の十分の一以上をあてない、いかなることがあっても分限をこえず、不相当の金を使うときは天罰を与えてもらいたい。」
  • 収益の幾分かを慈善行為に寄付し、必ず名聞望むべからず
富の活動

富の活動

Amazon

1921年に殺害される。享年82。「陰徳」という信条のため、東大安田講堂の寄付などの貢献を積極的に知らさなかったこともあり、1921年に暗殺された。享年82。

 

本多静六『私の生活流儀』

1866年、武蔵国(埼玉県久喜市)生まれ。日本初の林学博士。日本の公園の父。東大教授。

  • 人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある。
  • 給料の四分の一は最初から天引きして貯金せよ。
  • 人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ。

 

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娘と孫2人が来訪して遊ぶ。

8月21日・22日の深呼吸学部の修学旅行のオプション企画の調整。

デメケン。力丸。深呼吸学部。

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「名言との対話」8月8日。長谷川周重「人生は一生挑戦の連続である」

長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1998年1月3日)は、日本実業家

熊本出身。金沢に移る。一中、四修で一高、東京帝大法学部で学ぶ。住友合資に入社、のち住友化学に移る。営手腕をふるり、1965年社長、のち会長。財界活動も積極的で、1974年に、経団連副会長。日経連理事。1981年日米経済協議会代表世話人になる。

長谷川周重「大いなる摂理」(IPEC)を読んだ。

一高で法学者の田中耕太郎からキリスト教カトリックの「信「望」「愛」の教えを学び深く影響を受けて、後に洗礼を受ける。東大では実利の学問である経済ではなく、正義の学問である法律を学ぶ。役人を忌避し、民間の「信用を重んじ、確実を旨とし、浮利に走り軽進しない」「常に国家を念頭に置く」とする住友に入る。

父の友人である西田幾多郎鈴木大拙、そして妻の父でもある安宅弥一が身近にいて薫陶を受けている。西田、大拙、安宅という親友たちに接したことで、大きな影響を受けたことは想像に難くない。

長谷川は事業経営にあたって、「人間とはなにか、人間はいかに生きるべきか、人生で価値あるものはなにか」を考えていた。人の三井、組織の三菱に対して、「結束の住友」の中心で活躍した。

本人が「あとがき」で述懐しているように、明治の終りに生を受け、大正デモクラシー軍国主義大東亜戦争、敗戦。復興、高度成長、オイルショック、経済大国へと時勢の変遷の中に生きた生涯であった。長谷川の世代のアップダウンはやはり凄まじい。

この自伝には書かれていないことがあると感じた。清水一行『小説 財界』を数年前に読んだことがある。1960年に大阪商工会議所会頭のポストをめぐる大商南北戦争と呼ばれた騒動を題材とした小説である。大阪商工会議所の次期会頭最有力候補の死によって風雲急を告げる会頭選。現会頭は、四期にわたる長期政権の間に会議所を私物化していく。五選を狙う現会頭と人事一新を画策する反対派の熾烈な選挙戦が繰り広げられる。権力闘争の実状を迫真の描写で描いた傑作だ。老人の最後の欲「名誉欲」をモチーフに財界トップの座に執着する執念の闘いの表と裏が生々しく描かれている。

この小説の中で東京の財界で活躍し、長期政権に挑む人物もモデルが長谷川周重だ。現会頭を擁護する相手も「住友」の日向方斎だった。結果的には中立的な人物が会頭になるのだが、実は長谷川と日向は住友合資の同期生だった。二人は若い頃から、最後までずっとライバルだったのだ。

このドラマについては、自伝『大いなる摂理』では触れられていない。伝記作家・児島直記の「他伝信ずべからず 自伝信ずべからうず」という厳しい名言を思いだした。

いずれにしても、長谷川周重という人物は「大いなる摂理」に動かされて、「いくつになっても、現状に甘んじることなく、さらなる未来に向かって前進していかなければならないと思う」という信条そのととおりに生きたのだろう、

 

大いなる摂理

 

 

 

 

 

 

 

 

第2回「地域未来フェス」は「食」がテーマーー「チーズケーキ・芋煮・さぬきうどん・マツタケ・メジロ・桃・まんじゅう・イチジク・ソフトクリーム・そば・鱧(はも)・ジンギスカン・キシメン・鯛焼き」

第2回地域未来フェスを開催。21名ほどの方々が全国から参集。今回は「好きな町、好きな食べ物」がテーマ。司会は岡山の松本さん。

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  • 全体:垣内「道東スイーツ:ウトロのチーズケーキ。屈斜路のジェラ―ト。帯広の大平原」。渡辺「山形の芋煮」。都築「横浜市旭区:畠山重忠の鬼塚・ズーラシア」。大熊「香川県高松市のさぬきうどんのたも屋」。今西「京都府亀岡のマツタケ」。伊藤「愛知県常滑メジロの干物」。雨坪「岡山県倉敷市の桃」。鈴木「大阪の芭蕉。釣鐘まんじゅう、バナナ飴」。岩井「愛知県安城市のイチジク・トマト」。小林「東京都立川市のソフトクリームと豚肉」。窪「秋田県羽後町の西馬音内そば。かまたち美術館(土方)」。吉池「京都府宮津の魚」。田原「マレーシア:クアラルンプール・ペナン」。久恒「大分県中津市の鱧」。楯岡「東京都原宿:緑の多さと優れた公共施設」。前川「北海道十勝根室ジンギスカン」。山中「滋賀県近江八幡市のラポリーナ(藤森昭信)・草屋根)。松本「広島県三原市のキシメン」。橘川「東京都四谷:わかば鯛焼き」。
  • ブレークアウトルーム:私は九州(田原・吉池)と本州で会話(マツタケ・イチジク・青鬼赤鬼)
  • 全体:九州代表で発表「県民性」

以下、発表者の資料。


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中津の瑠璃京の鱧御前

10品目:鱧肝和え・鱧刺身・鱧湯引・鱧土瓶蒸し・米茄子と鱧の揚げ物・鱧しゅうまい・鱧サラダ風・鱧しゃぶしゃぶ・鱧お茶漬・デザート。

 

中津駅


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「名言との対話」8月7日。マタ・ハリ「わたしが求めていたのは幸福などではなく、フランス人が本当の人生と呼ぶものなの」

マタ・ハリ(Mata Hari)ことマルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ(Margaretha Geertruida Zelle、1876年8月7日 - 1917年10月15日)は、フランスパリを中心に活躍したオランダダンサー。

第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランス軍に捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。女スパイの代名詞的存在として知られる。

オランダ」・アムステルダム出身。富裕な家に生まれるが、父の破産と両親の離婚、そして学校の学長のセクハラで追われる。

19歳、結婚相手募集の新聞広告に応募し、21歳年長のオランダ軍将校と結婚し、ボルネオ、アウマトラ、ジャワで暮らす。

1902年に離婚し、オランダに戻り、パリに渡る。オリエンタル・スタイルの踊りで人気を得て、「マタ・ハリ」(太陽を意味する)の芸名でミラノ・スカラ座での公演を果たすまでになった。

高級娼婦ともなったマタ・ハリは、フランス軍将校とドイツ人将校と関係を持ち、二重スパイとなったとされ、1917年に銃殺刑に処せられる。

数奇な運命のこのマタ・ハリは映画や小説で取り上げられている。清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女で、日本人となり、諜報工作にあたった川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれている。それほど、マタ・ハリは世界的に有名だった。

パウロ・コエーリョ著・木下真穂訳『ザ・スパイ』(角川文庫)を読んだ。

女スパイの代名詞となったマタ・ハリであるが、容疑そのものは疑わしいようだ。この本では、マタ・ハリ自身が主人公として自分を語るという仕掛けになっている。激変する時代の中で、男たちと戦争に翻弄された女性である。この本の著者はマタ・ハリに以下の様に独白させている。

・わたしの最大の罪は、男たちが動かしている世界にあって自由で自立した女だったということでしょう。

・わたしは時代を間違えて生まれてきたのです。

・わたしには一瞬一瞬が新しい発見のですもの。それこそが人生の楽しみというもの。

・わたしが求めていたのは幸福などではなく、フランス人が本当の人生と呼ぶものなの。

両親からもらったマルガリータ・ゼレ、結婚後のマクラウド夫人、芸名のマタ・ハリ、そしてドイツスパイのH21号と名前が変わる。紹介した「わたし」の独白の通りなら、平穏な幸福は手に入らないことは明らかだ。マタ・ハリは「本当の楽しみ」のある、フランス人が好むドラマチックな「本当の人生」を生きたのであろう。

 

 

 

 

 

「大賀ハス」を楽しむーーこのあまりに美しい花の色を何と呼んだらいいのだろうか。


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町田市薬師池公園のハス田を散策。

大賀一郎博士が1951年に千葉県検見川の遺跡で2000余年前の弥生後期のハスの実を3個発掘し、そのうちの1個が発芽に成功した。それが大賀ハスだ。「大賀ハス」の美しいこの色を何と呼んだらいいのだろうか。ピンクというのはあまりに軽い感じがする。

大賀博士は岡山第一中学校(現在の岡山朝日高等学校)を卒業後、第一高等学校を経て、東京大学に進む。南満州鉄道株式会社の研究員、大学の教壇に立つかたわら、古代ハスの研究を本格的に行う。米国ライフ週刊版1952年11月3日号に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され「大賀ハス」と命名された。北海道北見市から、成田空港、善光寺、後楽園、そして沖縄県那覇市首里まで、約30カ所でみることができる。

大賀ハス」は府中郷土の森博物館でもみたことがあるが、遠くから眺めるだけだった。この公園では、蓮池の中を散策できるように板の道が渡されていっるなどの工夫があって、まじかに見ることができ、そして花びらに触ることもできるようになっている。たまたま朝早くでかけたので見ることができたが、昼には閉じるとのことだった。多くの人が楽しんでいた。

インドではヒンズー教で「聖なる花」とされた。仏教では極楽に咲く花で、泥水の中から生まれ水中をのびて清浄な美しい花を咲かせるこの花は、茎に水分を通す穴が開いており、汚れた人道世界から天国へ導く花とされている。輪廻転生のイメージがここから生まれた。「一蓮托生」という言葉は、生まれ変わって身を託すという意味だ。

あまりに美しいので、このようないわれを信じることができる。


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「知研」の仲間で進めている「決断」がテーマの本の原稿が終了。ビジネスマンから大学教員へ転身するという決断についてまとめる機会になった。「千仞の谷を跳んだ人生最大の決断」というタイトルにしよう。

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「名言との対話」8月6日。長与善郎「人間として一方弱いところがなかったら、人生は分からないでしょう」

長与 善郎(ながよ よしろう1888年明治21年)8月6日 - 1961年昭和36年)10月29日)は、日本小説家劇作家評論家

東京出身。長与家は肥前大村藩漢方医の家系。内務省初代衛生局長・長与専斎の五男。長兄は医師で男爵、次兄は実業家、三兄は病理学者で東京帝大総長、四兄は同盟通信社初代社長。

学習院に入り、1911年、に志賀直哉武者小路実篤らの同人誌白樺』に参加。東京帝大文学部英文科に入学するが、実篤から熱心に文学の道に進むよう説得されれ、翌年退学し、文筆活動を行う。関東大震災で「白樺」が廃刊となり、長与は「不二」を主宰する。プロレタリア文学の台頭時には、1932年から1934年まで、実篤との二人雑誌「重光」を発行した。

太平洋戦争中は、日本文学報国会理事。戦後の1948年、芸術院会員。1960年、自伝小説『わが心の遍歴』で読売文学賞を受賞。

この『わが心の遍歴』を手に入れた。父、兄、内村鑑三武者小路実篤夏目漱石、「白樺」、大学中退、トルストイショーペンハウエル倉田百三梅原龍三郎、中国大陸、太平洋戦争、西田幾多郎幸田露伴近衛文麿、甘粕大尉、ヨーロッパ、アメリカ、老後の交遊、、、、。長与が生きた時代と同じ時代を生きた人たちとの交遊を軸に生涯をふり返った自伝である。明治。大正・昭和の日本の歩みと絡み合っており、「或る上層階級に属する特殊な性格を持った一個人僕と、その接したグループの交遊の記録ということになろう」とも「まえがき」で自虐的に語っている。

京王線仙川の実篤公園にある記念館と自宅を訪問する。5000へ―ベ(150坪)の公園には今までに数度、訪れている。ここに武者小路実篤は70歳で引っ越してきて、20年住んだ。
長与善郎の人物と活動の全般を扱う企画展はいままで開かれたことがない。今回が初めてである。父の長与専斎は、明治初年に岩倉使節団の一員として渡欧し、内務省初代衛生局長に就任した人物である。「衛生」という語は長与専斎が採用した。武者小路実篤の父も岩倉使節団に留学生として同行しているという縁がある。

1952年の「心」生成会の会合の写真をみると、武者小路実篤安部能成、里見頓、大内兵衛田中光太郎、安井曾太郎広津和郎志賀直哉谷崎潤一郎梅原龍三郎などがそろっている。豪華版だ。

実篤と3歳年下の長与の2人はいろいろな面で正反対だった。作品をあまり直さない実篤とどこまでも手を入れ続ける長与、酒を飲まない実篤と酒を好む長与、、。しかしうまがあった。考え方、価値観、志向や追求の方向性など、本質が近かった。互いに「君」と呼んでいた。
 長与「君がゐてくれるのは本当に僕には力だ」「やはり僕を心底から理解する知己は君一人だと今更に感じ有難く思った」。実篤「長与を友にもつことを誇りにする」「長与は僕にとって最も尊い友達の一人である」

この企画展では、原稿や手紙多数展示されていた。長与の原稿は修正に修正を重ねている。欄外に修正点を書き、紙を貼り足すこともしばしばだった。おかしいのは、発表後の著作も修正し続けたというから徹底している。完璧主義者だったのだろう。長与が74歳で死去したとき、実篤は葬儀委員長をつとめている。

「人間として一方弱いところがなかったら、人生は分からないでしょう」は、長与善郎『竹沢先生という人』 の中に出てくる言葉である。地位も財産もなくしかも悠然として美しい生活を送る高雅な人物への回想を通じた思想的エッセイ的な長篇小説。平凡な日々の中に真実の生活があるという長与の人生観があらわれているとされている。

 

 

 

 

 

比叡山宗教サミット35周年記念「世界宗教者平和の祈りーー気候変動と宗教者の貢献」ーー寺島実郎さんが基調講演

8月4日の比叡山宗教サミット35周年記念「世界宗教者平和の祈りーー気候変動と宗教者の貢献」のウェブ配信をみた。

天台宗曹洞宗ローマ教皇庁。仏教会。ムスリム協会。大本教(出口紅)。黒住教神社本庁。新日本連合会。妙智会。カトリック司教。全日本仏教会日吉大社立正佼成会。聞き漏らしもあるだろうが、以上のような世界と日本の宗教者が集っていた。

主宰者の挨拶「日本宗教界の総力。神仏のご加護。対話による相互理解。祈りを捧げる。弱者の側に立つ」

ローマ教皇のメッセージ「気候変動。一つの家。方法は違う。生態系の危機。環境は人に対する配慮。長期。より大きな責任。権力の構造。道徳。神仏のご加護」

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基調講演は20年かけて『人間と宗教』(岩波書店)を2021年10月に刊行した寺島実郎さん。先日訪問した折にそのことを聞いたので、40分間のWEB配信をみた。

  • 宗教者は心のレジリエンスに本気で取り組んでいる人たち。
  • 100ヵ国訪問。中東一神教ユダヤ教イスラム今日の聖地イスラエル。サウジ。インドの聖地。10年のアメリカ生活。ロンドンなど欧州。戦後の宗教なき日本。こういう体験を通して、「宗教が世界を動かしているという実感」をもっている。『人間と宗教』を書いた。ローマ教皇のメッセージ「one hyuman society ,one hyuman family」。
  • 21世紀を生きる人間は「動物とAI(人工知能)」の両方からの「人間とは何か」という問いかけをされている:2003年に終わったヒトゲノム解析チンパンジーと人間のDNAの差は1.2%(個体差を入れると1.06%)。この差は言語、意思疎通、コミュニケーションなど「意識」に関わる部分。人間は民族、宗教、イデオロギーという理由で同種族を殺せる動物。一方で仲間に対して「共感力」、シンパシーを持つ動物(山際京大総長)という特徴が際立っている。
  • 2045年にくるという「シンギュラリティ」は10年早まるという説も。「認識と意識」:レコグナイズとコンシャスネス。「認識」(センサーによる)とは学習を通じて記憶し、目的、合理性という知の活動。ここはAIに負ける。ディープラーニングで人間を凌駕(囲碁、将棋)。「意識」、人間の意識の深さによって宗教は成立している。あるイタリアの専AIの専門門家の説明。1969年の宇宙船アポロ号で月に立ったアームストロング船長らは地球がのぼってくる「アースライズ」(地球が昇る)をみて涙が出た。親、兄弟、恋人、、、。AIには涙はない。これが意識の力だ。意識についてはAIは人間を越えられない。人間は利害、打算を越えて溺れている子供を助ける。情念、そこが人間たるゆえんだ。美意識、、、。宗教は意識。
  • 人類史における宗教の淵源:生命科学、宗教人類学、認知科学ホモサピエンスは20万年前に誕生。6万年前にグレートジャーニーで出アフリカ。原因は気候変動、食を求めて、感染症などの説。3.8万年前に日本列島に到着。約1万年前に「定住革命」。大地に根ざす農耕革命(リサイクル)。気に入らない人とも共存せざるを得ない生活。コミュニオティ。智恵ーー環境適応、しきたり、他者配慮が必要になった。7000年前に「神」の概念が誕生し、人類は神々との対話で生きるようになる。3000年前、人間としての「意識」の芽生え。2500年前に「世界宗教」の同時期に誕生。中東一神教の基点、ユダヤ教。「モーゼの五書」など旧約聖書の整備。2000年前にイエスの死によるキリスト教。インドの仏陀(BC463-383)。中国の儒教の祖・孔子(BC551-479)。人間の意識の高まりの結晶としての宗教。アテネの民主制も2500年前。同時化。本当の宗教は、自分をみつめる力(内省力と共感力)と、より大きな価値が自分を見つめていることの意識(謙虚さ・神仏がみている)。キリストの愛と仏教の慈悲、他者への。
  • 世界宗教は歴史を重ねる中で「加上」しながら「進化」してきた。「キリスト教」:人類の原罪を背負い高潔な死のイエスパウロ。イエスには会っていないパウロは、神はユダヤ人の神だけではないとし、人類の普遍的な神、万民の神を誕生させた。パウロが加上しキリスト教をつくった。プロテスタントの誕生、ローマカトリックの対抗革命でザビエルが日本へ。大航海時代。近代化への動き。欧州30年戦争を終わらせる1648年のウエストファリア条約で中世から近代へ。政治の宗教からの分離。宗教改革主権国家、民主主義、資本主義の誕生。
  • 「仏教」:ブッダの仏教は究極の内省が基軸。龍樹、世親、鳩摩羅什(漢字化)、玄奘などの加上によって創造的進化をし、衆生救済の大乗仏教が誕生。
  • 日本仏教の創造性:最澄空海法然親鸞日蓮道元栄西。開祖たちはみな母なる比叡山で学んでいる。最澄「一隅を照らすは国の宝なり」は心の広い人で格下で年下の空海に頭を下げている。勇気、度量、大きさ、そして人を育てる力があった。空海は理科系のエンジニア。土木、薬学、医学。綜芸種智院。技術、完璧なロジック。法然親鸞は国家鎮護の仏教を「民衆の仏教」に変えた、日蓮の気迫、、、。日本仏教は世界仏教史の中で屹立している。
  • 宗教の偉大な可能性と恐ろしさ:今、直面する宗教の恐ろしさ。ロシア正教ウクライナ民族宗教X政治権力は戦争の正当化、美化を促す力。宗教の名を使う弱者からの収奪も。対話による共力感と可能性。共感力をひきだす基点、対話、協調、調和へ向かう力。宗教は「文化力」の結晶だ。美、正義、地球環境、大いなる宇宙観。ここが宗教者の役割。あるべき姿を考える。鈴木大拙「外は広く、内は深い」。インテグリティ(全体知)を求める心、これが宗教の役割だろう

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「名言との対話」8月5日。壺井栄「桃栗3年 柿8年 柚子の大馬鹿18年」

壺井 栄(つぼい さかえ、旧姓:岩井、女性、1899年明治32年)8月5日 - 1967年昭和42年)6月23日)は小説家詩人。主に一般向小説および児童文学童話)を主領域に活躍した作家で、戦後反戦文学の名作として後に映画化された『二十四の瞳』の作者として知られる。

壺井栄は醤油樽職人の6番目の子供であった。級長になるなど成績は良かったが一家が破産。15歳で坂出郵便局につとめる。26歳で上京、同郷の壺井繁治と結婚し、世田谷に住んだ。この時近所に林芙美子平林たい子夫妻がいた。夫はプロレタリア運動に参加する。31歳、宮本百合子、佐田稲子と知り合う。38歳で、処女作「大根の葉」を発表する。42歳、「暦」で新潮社文芸賞を受ける。以降活発な執筆を展開する。53歳のときに書いた「二十四の瞳」が映画化され栄は国民的な存在になる。57歳、壺井栄作品集25巻。67歳、内海町名誉町民、そして死去。壺井栄は、小説、童話、随筆等、生涯で1,400編の作品を残した。1992年に郷土の小豆島の映画村に壺井栄文学館が開館した。

2015年に、 小豆島で大学の合宿をした際に、小豆島映画村を訪問した。映画村では映画館があり無料で「二十四の瞳」を上映していた。「二十四の瞳」は2度映画化されている。最初は高峰秀子主演、2回目は1987年の田中裕子主演の作品である。この映画は子供の頃見ているが、戦争反対の作品だったことに驚いた。ひらいたひらいた、7つの子、村の鍛冶屋、荒城の月、仰げば尊し、などの歌が聞こえている。涙なしには見ることができない名作であった。「このひとみを、どうしてにごしてよいものか」、これが「二十四のひとみ」の原点だった。

壺井栄記念館には夫であった、壺井繁治という詩人の紹介がある。「石は 億万年を 黙って暮らし続けた。その間に 空は 晴れたり曇ったりした」
もう一人、黒島伝治という小説家の紹介もあった。「一山こゆればまた一山、一嶺こゆればまた一嶺 限りなき道ぞ楽しき」「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」この言葉は黒島の文学碑に刻まれている。

壁にメッセージを寄せた著名人の言葉が飾ってあった。「平和主義の結晶のような作品」。「日本のサウンドオブミュージック」。「反戦映画」。「今の時代、この映画を観れば大事なことがわかる」。「ああ、どれだけの涙を日本人はあなたの映画に涙し、悲しみを癒されたことだろう」。「人をつきつめることのない優しさ、曖昧さ、非合理、いたわり、弱さ、涙、嘆き、忍耐、諦めを肯定する力、これは日本人の財産である」。

映画村では、「二十四の瞳」の監督である「巨匠木下恵介展」をやっていた。
「私はこれまで慎ましく生きる庶民の情感を映像を通して描いてきた」「理屈でいつも忘れちゃうけど、泣いて映画を見た心はいつまでも印象に残るんだと思う。これが映画監督としての社会における義務だと思う」

「桃栗3年 柿八年  柚の大馬鹿18年」、これが遅咲きの壺井栄座右の銘である。自身は柚であると認識していたのだ。亡くなる直前の最後の言葉は「みんな仲良く」だった。

 

 

 

『名言の暦 大正から昭和編(誕生日)』(上巻・下巻)が届く。

「名言との対話」の2021年版が書籍の形としてまとまった。

昨年の2021年は「大正から昭和」にかけて生まれた人々のことを書いた。私の父母の世代だ。1月1日の三浦浩一(歌手)から12月31日の倉本聰(脚本家)まで366人の人生がある。太平洋戦争の敗戦と戦後の高度成長、バブルとその崩壊、平成、令和へと続く激動の時代を生き抜いた人々の生涯の軌跡がある。中には存命の方もいる。

その日が命日や誕生日の人のことを毎日書き、書籍の形としてまとめ始めたのは2016年からだから、6冊目になる。

『名言の暦』(大正から昭和へ)は、上巻338ページ、下巻359ページ、計697ページ。1ページが約800字だから、400字原稿用紙2枚。上下巻で約1400枚という計算だ。一冊分の容量を超えたので、初めて2分冊になった。一日3.8枚、1500字だから、約4枚と覚えておこう。

2020年「戦後命日編」(1月1日の地震学者の今村明恒から12月31日の医学者の渥美和彦まで)は625ページ(約1200枚)、2019年「平成命日編」(実業家の西川俊男から歌手の渡辺はま子まで)は513ページ(約1000枚)、であるから毎年増え続けていることになる。

2022年の今年は、私の祖父母の世代である「明治生まれ」の人を対象にしている。多くの分野の草創期に奮闘した人々の生涯とその気概に触れる毎日だ。

2016年の「命日編」、2017年「誕生日編」、2018年「平成命日編」、2019年「平成命日編2」、2020年「戦後命日編」、2021年「大正から昭和(誕生日)編」、2022年「明治誕生日編」と書きつづけてきた。来年はどの時代を対象とするか、思案中だ。

 

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比叡山宗教サミット35周「世界宗教者平和の祈りー気候変動と宗教者の貢献」の寺島実郎さんの基調講演のウェブ配信をみる。キリスト教イスラム教、日本からは神道、仏教、大本教黒住教、、、、など。

・立川で体のケア。

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「名言との対話」8月4日。田島ナビ「子・孫・曾孫・玄孫(やしゃご)・来孫(らいそん)」

田島 ナビ(たじま ナビ、1900年明治33年〉8月4日- 2018年平成30年〉4月21日)は、没年117歳の日本スーパーセンテナリアン

2017年9月15日以降死去するまで長寿世界一となっていた。人類史上5番目の長寿者である。2番目は日本人の田中力子(119歳)。死亡時点では日本史上最高齢及び世界史上3番目の長寿者であった。

鹿児島県大島郡出身。喜界島在住。夫との間に9人の子をもうけた(7男2女)。没した117歳時点で、85歳の子、79歳の孫、40歳の玄孫、6歳の来孫がいた。子孫は160人以上となっていた。

田島ナビは、19世紀の最後の年である1900年生まれであり、21世紀の2018年まで生きたから、3世紀を生き抜いたことになる。

因みに、田島ナビと同年生まれの1900年生まれの人をさがしてみた。細川隆元1994年死去。石坂洋次郎1986年。永田耕衣1997年。中村汀女1988年。山本丘人1986年。野呂栄太郎1934年。中谷宇吉郎1962年。永野重雄1984年。石坂洋次郎1986年。三好達治1964年。笠信太郎1967年。勅使河原蒼風1979年。稲垣足穂1977年。こうやって並べてみると、田島ナビの2018年で117歳という記録は当時としては異次元の長寿であることがよくわかる。

現在では孫、曾孫を見ることができるのは長寿のおかげであるといえるが、117歳の長寿ともなると、曾孫の子の玄孫(やしゃご)、その次の世代の来孫(らいそん)までみることできることになる。人生100年が平均になる超高齢化時代には、玄孫(やしゃご)、そして来孫(らいそん)をみることができる時代となるのである。