「AIマンガ」にトライーー母の短歌「夫はマルクスわれは歌の書かさねつつ同じ灯明りの夜を読みつぐ」「次の世もこの二男一女の母でゐたし古きアルバム捲りつつゐて」

短歌のAIマンガ(gemini)にトライ。母が詠んだ父との生活、子どもたちとの生涯を詠んだ短歌で試してみた。

「夫はマルクスわれは歌の書かさねつつ同じ灯明りの夜を読みつぐ」(私が一番気に入っている妻としての歌)

「次の世もこの二男一女の母でゐたし古きアルバム捲りつつゐて」(私たち3兄弟を歌った母としての歌)

 

『風の余韻』(久恒啓子遺歌集・追悼集)より。

体調を整える。

  • ウオーキング:9000歩
  • スイミング:500m
  • スリーピング:9時間

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7月7日:三宅雪嶺。栗林忠道。堀田善衛。

高木東六「後悔していることがある。それは、この八十年、無精をして日記をつけなかったということだ」

三宅雪嶺「例えれば、鍛冶屋が腕を振って腕が太くなるように、元気を出し続けると、元気は増してくるものである」

栗林忠道「予は常に諸子の先頭にあり」

乙骨淑子「すすまないほうが、いいことだってある」 

堀田善衛「目的地に達しうるかどうかは頭のよしあしなどにかかわらない。信じて持続できるものを見つけたか否かのみにかかわる」

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三宅雪嶺|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

「新・代表的日本人」7月7日。三宅雪嶺は「例えれば、鍛冶屋が腕を振って腕が太くなるように、元気を出し続けると、元気は増してくるものである」と述べている。

三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日〈万延元年5月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月26日)は、日本の哲学者、国粋主義者、評論家である。享年85。

金沢市出身。開成学校を経て、東京大学文学部哲学科を卒業した。東京大学の同期には医学部の北里柴三郎、文学部の坪内逍遥がいる。自由民権運動に参加した。1888年(明治21年)に志賀重昂らと国粋主義の「政教社」を設立し、機関誌「日本人」を創刊した。主流の欧化主義を批判し「日本主義」を提唱し、薩長藩閥政府批判の論陣をはった。1923年(大正12年)には個人雑誌「我観」を創刊し発行し続けた。文部大臣としての入閣要請もあったが辞退している。1943年(昭和18年)に文化勲章を受章した。主著は『真善美日本人』『偽悪醜日本人』『宇宙』などである。

日本のフランス文学研究を主導した辰野隆は、帝大の名総長浜尾新と三宅雪嶺の人格に傾倒している。三宅雪嶺については、次のように語る。「高潔にして温雅な顔。仙味に充ちた先生。達人とは斯くの如き仁。綽綽として天命を楽しむ温容と、天下一品の吃吃たる日本語」。

人物論で定評のあった谷沢永一は、三宅雪嶺を人間通で人物評論の嚆矢としてあげ「人間観察の透徹において、まさに古今独歩、まったく無類の存在であった」としている。

死後には『三宅雪嶺人生訓』(衛藤利夫編)、『三宅雪嶺修養語録』(生田春月編)、『三宅雪嶺美辞名句集』(山川均編)、『三宅雪嶺格言全集』(藤田信亮編)などが多く出版されている。

手に取った『三宅雪嶺修養語録』(生田春月編)は、「序」に「「一世の師表」、現代の論語である。当世のバイブルである」と述べている。内容としては、「人生観」の章では人生、人間、人格、性格、実力、幸福、善悪、気力、才能、名声、愉快、飲酒などを扱い、「処世観」では処世、努力、成功、独立、言行などを論じている。以下、「社会観」、「人物観」、「政治観」、「教育観」、「文藝観」、「宗教観」、「死生観」、「雑感」と続く。

また『三大家の新修養』という本には、大隈重信と渋沢栄一とともに、三宅雪嶺が取り上げられていた。巻頭の「はしがき」では、「新時代の人々の修養に資せんかために」編んだと書かれている。

以下、私が感銘を受けた言葉を記す。

「出来ぬと思えば出来ず、出来ると思えば出来る事が随分ある」。 「人は己の最善を尽くすがよい。狭いところに入れられなくても広いところに入れられる。実力のある者は決して世間で捨てて置かぬ」。

妻は三宅花圃である。三宅花圃は樋口一葉と萩の舎の同門の小説家、歌人である。一葉は萩の舎の姉弟子である三宅花圃の処女小説が原稿料33円20銭で売れたことを知り、小説執筆に興味を持った。一葉は家族のために小説を書くことを決心し、朝日新聞の小説および雑誌担当記者だった半井桃水に師事した。その人が三宅雪嶺の妻であったことを初めて知った。

欧化主義の福沢諭吉に対しては「権力に対しては無理に我慢するが、金力に対しては我意をはって強情なのは、独立自尊も大阪流だ」と厳しい指摘をしている。

雪嶺は名言の宝庫であり、言葉を選ぶことも難しい。以前は「人は善くも言われ、悪くも言われるのがよい」がいいと思っていたが、今は「例えれば、鍛冶屋が腕を振って腕が太くなるように、元気を出し続けると、元気は増してくるものである」を採りたい。

ピアノの名手である中村紘子の腕が、いつの間にか肉体労働者のように太く、たくましくなっている姿を見たことがある。頭は使えば使うほどよくなる、という人もいる。気力も同じなのだろう。三宅雪嶺先生の言にしたがって、元気を出し続けることにしよう。

 

 

 

 

NHK「保阪正康が語る昭和人物史」:7月は「知の巨人」立花隆の4回シリーズ。

NHK「保阪正康が語る昭和人物史」は、ジャーナリスト・保阪正康とノンフィクション作家・梯久美子の対話の番組だ。このところ、森英恵などファションデザイナーを取り上げた週が続いて、聞き逃し配信で楽しんだ。

7月からはジャーナリストの立花隆が4週続く。第1回目を聞いた。1940年生まれの立花と保阪は同業の同世代であり、保阪がガンにかかったときの曖昧な対応に対する立花隆のジャーナリストらしい厳しい反応などが興味深かった。「人類は」という言葉を立花は使う。それは徹底的に最先端の科学を追求し、現時点での科学の限界を見極めている姿で、保阪は恥じ入るとともに、感銘を受けている。この立花隆編は4回続く。普通は1回、2回、多くても3回だから、異例である。やはり、「知の巨人」である。

私は立花隆の仕事や著書を多く読んできた。『田中角栄研究』、『日本共産党の研究』、『宇宙からの帰還』、『臨死体験』、『自分史の書き方』、『知の旅は終わらない』、『知の旅』、『天皇と東大ーー大日本帝国の生と死』、『読書脳ーぼくの深読み300冊の記録』などを読んできている。その仕事ぶりの背景などを知る機会になりそうで、楽しみだ。

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  • 同窓会の季節。中学、高校、大学、企業といくつかの同窓会(同学年)が企画されている。4日は高校の同窓会だった。高校が一番気が置けない感じがする。同年齢、同時代、同レベル、発展途上、俺・お前、青春の秘密、、、。
  • 20-22日の福岡の準備。フライト、ホテルを予約。
  • 「革命」編集会議。「世代論」という特集。編集体制について議論が続く。

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7月6日:ミヤコ蝶々。

都築道夫「泣く蝉よりもなかなかに泣かぬ蛍が身を焦がす」

鍛冶壮一「ジェット・パイロット」

佐藤紅緑「ナポレオンの臨終の一言は、「進軍」だよ。いいじゃないか、進軍! 実にいい!」

遠藤実「人の世に涙の川があり苦労の山もある。その川を渡るとき、その山を越えるとき、歌という友がいる」

鈴木常司「美と健康の事業を通じて、豊かで平和な社会の繁栄と文化の向上に寄与する」

ミヤコ蝶々「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」

斎藤真一「「「瞽女」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」

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「新・代表的日本人」7月6日。ミヤコ蝶々「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」

ミヤコ蝶々(ミヤコ ちょうちょう、女性、1920年7月6日 - 2000年10月12日)は、日本の女優、漫才師である。享年80。

娘を芸人にしたいという父は、朝から三味線、洋舞、日舞、唄、漫才、文字の稽古、夜は芝居という生活を強いた。そして柳枝劇団では床山、お囃子、芝居の台本も書いた。そういう経歴なので何でもできた芸人となる。

日本図書センターの「人間の記録」シリーズはずいぶんと読んだが、『ミヤコ蝶々』の場合は趣が違う。男性の自叙伝は仕事中心であるが、蝶々さんの場合は本人が「2回半」という結婚をめぐる物語になっている。立派な職業を持ち成功した女性でも、過去を見つめるときには男と女の関係が最重要なテーマとなるのだろうか。

22歳で三遊亭柳枝と同棲、27歳で離婚した。27歳で弟子で5歳ほど年下の南都雄二と結婚、42歳で離婚した。学校に行っていない蝶々が「なんという字?」とたびたび聞くエピソードは有名だが、芸名「蝶々」は、その華やかな芸風から名付けられたものである。5年間の柳枝と同棲、そして15年間の雄二との結婚生活。二人の共通点は女癖の悪い所で、苦労を重ねる。そしてAさんとの8年の恋愛で結婚しそこねたこと、それが「半」という表現になっている。

35歳、ラジオ放送で「夫婦善哉」を始める。本職の漫才をやめて夫婦善哉に専念した。南都雄二との離婚後もコンビは継続。46歳、自伝「女ひとり」を出版した。52歳、南都雄二死去。53歳、「女ひとり」を上演した。55歳、20年続いた「夫婦善哉」が終了した。57歳、蝶々新芸スクールを開校し校長を務めた。2000年、80歳で没した。2008年には生前の自宅の一部を改装した「ミヤコ蝶々記念館」がオープンしている。

「あんたは立派すぎるぐらい、いい女房やと思う。しかし、ある意味で立派すぎて僕はしんどい」「あんたは男を甘えさせ過ぎる。、、、自分が居らんでもこの女は生きていける、しっかりしている、そんなら別れるか、、、となる」と語った南都雄二も、そしてAさんも同じ考えだった。できすぎた女の悲劇だろう。夫は「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれ、戦後の上方を代表する遊び人だった。

私も「夫婦善哉」もよく見たが、「スチャラカ社員」の女社長役の蝶々の演技も覚えている。半生をかけた代表作「夫婦善哉」は20年続けた長寿番組だ。笑いの中で、「夫婦とは一つの道を歩くことが何でもないようで、一歩一歩踏みしめて味のある、でも一歩間違えば、難しいものだなァと、見る人の胸に何となく残す」のが、趣旨だった。この番組は蝶々が高く評価していた上沼恵美子が後任となった。

お金で愛は買えない。貧しかったからこそ愛が生まれた。地位と名誉と財産は、愛を引き裂くものだ。それがミヤコ蝶々の述懐である。男と女、夫婦、そして人生とは難しいものだなあ。

2022年の「昭和人物史」(保阪正康解説)の「ミヤコ蝶々」1・2を聞いた。実学。芸は奥が深い。謙虚。慢心が敵。お客様は親戚。、、、など名言が多かった。

「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」。追い風に乗った順風のときは幸せを感じる。しかし、仕事の苦労や子育ての苦労の時代は、後になって振り返ると「本当の」がつく幸せな時代なのだ。これはずしんとくる。苦労人のミヤコ蝶々らしい名言である。

 

 

「川柳マンガ」登場!ーー生成AIで私の「戒語川柳」が4コマ漫画になった。

「川柳マンガ」にトライ。生成AIとの対話で、ここ数年励んでいる「戒語川柳」を、4コママンガにすることに挑戦。

 

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7月5日:円谷英二。高城喜三郎。大屋晋三。

藤圭子  「赤く咲くのは罌粟の花/白く咲くのは百合の花/どう咲きゃいいのさ この私/夢は夜ひらく」

清瀬一郎「東京裁判は、本来復讐が目的であった」

高城喜三郎「カラオケを世界語にしてくれ」

田原淳「坊、人間はなにか楽しみを持たんといけんな」

大屋晋三「死ぬまでやめない」

山階芳麿「保護の仕事をやる以上、滅ぼさないようにしなければならない」

円谷英二「特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ」 

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「新・代表的日本人」7月5日。高城喜三郎「カラオケを世界語にしてくれ」

高城喜三郎(1936年7月5日〜2020年4月22日)は、日本の経営者。享年83。

彼の名は、単なる娯楽機器に留まらず、世界共通の文化となった「カラオケ」の立役者として記憶されている。

大阪・船場で生まれ育ち、関西大学商学部を卒業した高城は、自身の好きな音楽に携わる仕事を選んだ。レコード店の店員を経て、23歳で「日光堂」を設立し独立。27歳には自宅を改造した店舗から独自の商法を次々と打ち出し、ジュークボックス業者といった大口取引先を次々と獲得していった。エコーを利かせると良いと気づけば即座に実行に移す、生粋のアイデアマンであった。

高城が発明したカラオケ1号機「カラオケジューク」は、8トラックのテープに録音された伴奏と既存のエコー装置を組み合わせた画期的なものであった。これは「歌を聴く」体験から「歌う」体験へと、音楽の楽しみ方を根本的に変える発明であった。インベーダーゲームの台頭による一時の危機を乗り越え、技術革新の競争が激化する中ではレーザーディスクをいち早く採用し、事業を成功へと導いた。

彼の vision は国内に留まらなかった。ドイツ、ブラジル、スペイン、フランスで「KARAOKE」を商標登録し、アメリカでは「KARAOKE JUKE」として登録。台湾語、北京語、広東語を皮切りに多様な言語のカラオケソフトを開発し、日本発の「KARAOKE」を文字通り「世界共通語」へと昇華させていった。

さらに、香港や上海への進出も果たした。華僑コミュニティがカナダなどでカラオケを活用したことで、中国人社会に一大ブームを巻き起こした。「カラオケを世界語にしてくれ」という彼の言葉に深く感銘を受けた元旅行代理店経営者の黒部をアメリカ法人の社長に据え、アメリカ市場向けのハード開発にも成功。結婚式の二次会で式の模様を流しながらカラオケを歌うなど、カラオケは瞬く間に手軽に楽しめるアミューズメントとして広く認知されていった。高城氏自身も、バーコードを使ったリクエスト方式で操作を簡略化するなど、カラオケシステムを次々と革新し、その地位を確固たるものにしていったのである。

1997年には株式の店頭(現ジャスダック)上場を達成。「各自が株を持ち寄ったものが株式会社である」という信念のもと、上場以前から社員持ち株会を実施。その結果、上場後には社員の中から億万長者も輩出するという、まさに理想的な企業経営を実現した。

また、高城は文化支援にも尽力した。1991年にはロンドン・シティで開催されたLSO(ロンドン・シンフォニー・オーケストラ)のサマーポップスを後援し、英国ABSA(Association for Business Sponsorship of the Arts)よりBSIS(Business Sponsorship Incentive Scheme)賞を受賞するなど、国際的な文化貢献も行った。

カラオケは、音楽に対する深い理解と高度なエレクトロニクス技術が融合した、日本独自の傑作と言える。それは単なる歌唱機器ではなく、人々が絆を築き、深めるための装置として機能している。筆者は、カラオケは自己満足に終わらない、むしろ自己実現を応援する画期的な装置であると確信している。若者から高齢者まで幅広い層に受け入れられ、それぞれの青春を懐かしみ、人生を深く考える時間さえも提供しているのではないか。

私自身、ビジネスマン時代には頻繁にカラオケバーで歌い、JALの広報担当時にはレーザーディスクの映像に飛行機の「鶴丸」ロゴを打ち込むことを試みたこともある。それは、酔って心が解放された時に、人々の心にJALのイメージを深く刻み込もうという作戦だった。

また、日本企業の海外進出の際、異文化の中での孤独を癒す存在としてカラオケが機能していたことは見逃せない。1970年代にロンドンで働いていた私が中東のアブダビに出張した際、JALの単身赴任者が砂漠の地でカラオケに興じ自身を慰めていた光景を鮮明に覚えている。2000年代初めには中国・吉林省の吉林大学で客員教授を務めた際、歓迎の宴で「北の宿から」を一緒に歌ったこともある。日本文化が世界に与えた影響の中で、このカラオケが最も大きいといえるかもしれない。

好きな音楽という分野において、「カラオケを世界語に」という壮大な志を実現し、それを世界共通の文化にまで高めた高城喜三郎氏の業績は、高く評価されるべき偉業である。

 

 

 

 

中津北高校第20回生喜寿同窓会。「ヒコール」創刊パーティ。

 

中津北高20回生喜寿同窓会。70名余が参集した盛大なパーティとなりました。私は乾杯の挨拶。

男性は8〜9割、女性は半分近くがわかりました。実に楽しい会でした。中島先生は92歳。誰が生徒か先生か、、、。

 

会場での2次会、カラオケでの3次会、ワインレストランでの4次会で、いつものように御前様。

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午前は博多のKKR博多での「ヒコール」Zineの創刊宣言パーティ。

引きこもりマガジン。編集長は、経験者の八木さん。当事者と保護者のためのマガジン。なぜ不登校になったのかハッキリしない。なんとなく怖かった感じがする。声を集め、貯めていきたい。年内に1-2冊。

橘川顧問:個人と社会の間のコミュニティが大事。昔は家が嫌で家出をした。今は社会が怖くて引きこもる。感受性に強い子どもが引きこもる。

久恒:学園紛争時代も不登校に一種だったか。我が家は、子どもと孫の世代の3人が不登校。確率は25%に近い。学校や教育に問題。ホームページ作成や音楽活動という自己表現の場が救ってくれた。ヒコールも自己表現の場として期待。神の前で誓った。病めるときもは、止める時はないと理解しよう。

懇親会は出席せずに博多駅に直行。

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7月4日:佐藤忠良。吉野俊彦。曲亭馬琴

吉野俊彦「覚悟、実行、そして継続」

佐藤忠良「死ぬまで低空飛行ができたら素晴らしいなと考えている]

曲亭馬琴世の中のやくをのがれてもとのまま かへるはあめとつちの人形」

巌谷小波「重く散って 軽く掃かるる 一葉かな」

中谷宇吉郎「雪は天から送られた手紙である」

八木一夫「工芸とも美術ともつかぬ『鵺』と知った」

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「新・代表的日本人」7月4日。佐藤忠良「死ぬまで低空飛行ができたら素晴らしいなと考えている]

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は日本彫刻家。享年98。

宮城県大和町出身。東京美術学校卒業。1944年、32歳で出征する。33歳、ソ連の収容所3年間抑留される。36歳、復員。ここから本格的な彫刻家人生がようやく始まる。40歳、「群馬の人」が国立近代美術館に収蔵される。48歳、高村光太郎賞。54歳、東京造形大主任教授。62歳、芸術選奨文部大臣賞。74歳、生誕地宮城県に全作品を寄贈を表明。78歳、宮城県美術館佐藤忠良記念館が開館。83歳、宮城県大和町佐藤忠良ギャラリー。96歳、札幌に佐藤忠良記念子どもアトリエ。98歳、2001年3月30日、老衰のためアトリエ敷地内の自室で没した。

生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者文化勲章の候補にも選ばれたが、本人は「職人に勲章はいらない」と語り、これら国家の賞を全て辞退した。

佐藤忠良ロダン高村光太郎の後継を意識していた。それは人間を中心に据えた造形であった。毎年「今年の抱負は」と聞かれて、毎年「去年の続き」と答えてきたという。つまりはたゆまぬ継続が信条なのだろう。自身の自称は「彫刻の職人」である。

シベリアの抑留生活は大変だったでしょう」と聞かれたとき、笑って「彫刻家になるための労苦をおもえばあんなものはなんでもありません」といってのけた。

  • 2011年に世田谷美術館で開かれた「ある造形家--佐藤忠良」展を見た。そこで得た言葉。
  • 「絶えず「目と心と技術」の訓練をすることです。彫刻家は一個の像の中に主題のための「空間」と「時間」をできうる限りつめこまねばならない宿命を持たされていて、それには高度な精神と技術が必要になってくるからです」
  • 「デッサンは作者の目と心の硬化を防ぐ息の長い体操のようなものです」
  • 「段取り半分」
  • 「底光りするような個性というものは、競技者が一番でゴールに入るときの鍛錬にも似て、作家人生の終盤に出るのが本当ではないだろうか」

「、、死ぬまで低空飛行ができたら素晴らしいなと考えている」の後には、「もう上昇はできないし、いつか減速して下降するのだろうが、この低空飛行の持続は、よほどの浮揚力の蓄積がないと失速墜落ということにもなるだろう」とある。

「彫刻家と人が認めてくれたとき、五十歳を越えていた」遅咲きの人・佐藤忠良は強い浮揚力で滑走路に足がつかないように低空飛行を長い期間続け、作家人生の終盤にようやく底光りする個性と品格を表現できたのだろう。

日経と東京の村上春樹の新作インタビューとJAL機内誌での浅田次郎の大作の発表エッセイ。博多の裏六本松での食事会。

日経新聞と東京新聞に村上春樹のインタビューのインタビュー記事を興味深く読んだ。1949年生まれ。3年ぶりの16冊目の長編小説が発売された。この間の一昨年に大病を患ったそうだ。

  • 「非リアルな世界と、リアルな世界が並行して進み、お互いに干渉し合って、発熱し、物語が立ち上がる」「僕のいつもパターンです」
  • 「(SNS上の)「悪しき物語」は卒業で済むけど、「良き物語」と言うものは長い文章でないと表現できない。だからいつも負けてしまう。薄っぺらい言説に対抗できるナラティブ(物語)を、わかりやすい形で提供したかった」
  • 「僕がやりたいのは、非リアルな世界をリアリズムの文章、文体で書くこと」
  • 「インスタントナラティブ(即席の物語)の方が興味引きやすい」。そのわかりやすさに対抗できるのは、小説のような複合的なナラティブだと見る。「人間の意識と言うのは総体だから、言葉では解析できない。だから、総体そのものを物語に移し替える。それが僕のやりたいことです」
  • 「一番大事なのは、きっちり書かれた物語を、特に若い人々に読んでほしいということ。

羽田空港から福岡空港へのJAL機で機内誌「SkyWard」の浅田次郎の「百年の物語」を読んだ。

1951年生まれ。久しぶりの新刊を書くというエッセイが載っている。全7部19巻の大作が完結間近という内容だった。中国の清朝末からアヘン戦争を経て最後は中華人民共和国が成立するまでの100年の物語である。それに30年費やした。第7部は「群青の夢」。その第1巻で通巻第16巻は今年の夏に刊行される。後、続々と刊行され、資料編と合わせて全20巻となる。浅田次郎はこの畢竟の大作をライフワークとは呼びたくないと語っている。最後の仕事ではない。まだまだ前進するという宣言である。

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村上春樹は私より1つ上、浅田次郎は1つ下。JAL時代に村上春樹とは2人で食事をしたことがある。浅田次郎にはペンクラブに入る時、会長だった浅田に挨拶をしたことがある。同世代の2人が、数年の沈黙を破って大作を発表する姿が目に入った。2人とも、この数年間、仕事をしていなかったわけではなかったのだ。刺激を受ける。

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19時から旧九大教養部付近の裏六本松。オーナーの松島凡さん、橘川幸夫さん、初対面の今村さんとの食事会。マンガ談義を中心に団欒。

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7月3日:深作欣二。渡辺一雄 

渡辺一雄「サラリーマンとは、地雷が埋めてある戦野を腹這いになって進むようなもの」

疋田豊治「シシャモ」 

真鍋博「イラストは集団思考のメディア。イラストレーションは描く行為をとおして思考するという方法」

深作欣二「いや、オレは過去を振り返るんではなく、若いヤツとやりたいんだ」

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「新・代表的日本人」7月3日。深作欣二「いや、オレは過去を振り返るんではなく、若いヤツとやりたいんだ」

深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年〈昭和5年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉1月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。享年72。

千葉真一を使ったアクション映画や、菅原文太を使ったヤクザ映画などが中心ではあったが、時代劇、文芸、SF、ホラーなども取り組むなど、作品の幅は実に広い。

深作監督はヒットを連発したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』シリーズは日本映画史上に残るヒット作品となった。『トラ・トラ・トラ!』、『復活の日』、『蒲田行進曲』、『火宅の人』、『バトル・ロワイアル』などが記憶に残る作品が多い。

「深夜作業組」と言われるほどの徹底したリアリズムの追求。出演者を大事にした一体感の醸成。そして暴力を描くことで暴力を否定しようとする考えが根底にあった。

最後の作品『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌(レクイエム)』の企画発表会では「最後の映画として満身創痍で臨む。今回は戦争がテーマ。戦争を撮ったことがないので、最後に撮りたい」と覚悟を淡々と語った。また、「たとえこの闘いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いもない」というメッセージが、会場で配られた「深作欣二、死後の闘い」というタイトルにつづられている。

その深作が、今まで一緒に映画をつくってきた大物俳優たちとやるべきだという息子の監督・健太に言った言葉が冒頭の言葉である。過去の集大成の作品を作るのではなく、未来に向けて新しいテーマで作品を撮ろうという気迫あふれる言葉であり、感銘を受ける。

妻の中原早苗は主役から脇役までどんな役でもこなした女優である。2001年までの48年間、女優として膨大な数の作品に登場している。この本の「出演映画作品目録」で数えてみると164本だった。1本から14本まで毎年間断なく仕事をしているのに驚く。代表作は「村八分」、「紅の翼」、「学生野郎と娘たち」、「狼と豚と人間」、「男の顔は履歴書」などがある。

中原早苗という女優は、生活のためもあったが、くる仕事は何でも引き受けている。インタビュアーが細かく調べて聞くと何度も「覚えていないの」「覚えてない」という回答が返ってくる。有名男優とのラブシーンも忘れている。その都度、面白がって出演したおおらかな姿がみえる。仕事がくるから、ただこなし続けただけという姿勢が、この女優を大きくしたのだ。深作欣二監督に関する資料は、水戸市中央図書館に納められている。映画監督の夫も救われていたのだ。舞台俳優だった父と母の血を引いて女優となった中原早苗、この女優と監督の長男である深作健太は映画監督となっている。環境と血筋の重さを感じる機会となった。

深作が最後の仕事をやるにあたって、「いや、オレは過去を振り返るんではなく、若いヤツとやりたいんだ」と発言した気概には感銘を受ける。
こういう機会を持った場合、総決算としての総集編に取り組む人が多いのではないかと思うが、深作はさらに前進することを選んでいる。ライフワークという言葉には、最後の仕事という意味もあるということだ。
哲学者の中村元のことを思い出した。この大御所は、自分の役目は、若い研究者が手を染めにくい、ものになるかならないかわからない、新しい分野の開拓をやるべきだと語っていた。
前進を続ける。先頭に立つ。過去ではなく、未来と組む。こういう姿勢は見習いたいものだ。
 
 
 
 

 

 

 

 

講演「人物記念館の旅から学ぶ人生100年時代の生き方のヒント」のまとめ

講演「人物記念館の旅から学ぶ人生100年時代の生き方のヒント」(佐倉市の市民カレッジ:2025年12月5日)

佐倉での生活と自己研鑽

私は40代前半に佐倉に住んでいました。日本航空に勤めており、羽田と成田の空港、そして東京に本社があるため、住居を定めるのが難しい状況でした。そこで、中間地点であり、始発駅がある佐倉を選んだのです。当時は始発があったため、東京駅の本社まで約1時間の通勤時間があり、この時間を自己研鑽に充てることができました。早めに乗車すれば、窓際のボックス席を確保でき、それが私にとってサラリーマン時代のもっとも神聖な時間でした。佐倉は私にとって非常に思い出深い場所です。

多摩大鳥瞰図絵に込めた哲学

私が多摩大学に10数年勤めていた頃、多くの人が「多摩ってどこにあるんですか?」と尋ねました。東京の西部地区、あるいは23区外といった説明になりますが、私は「多摩を中心に見たら世界はどう見えるのか」という視点こそ重要だと考えました。

そこで、「多摩大鳥瞰図絵」を作成したのです。これは多摩が日本の、ひいては世界の中心であり、その中心に多摩大学があるという発想で作られました。図絵の真ん中に多摩があり、左には富士山、右には小さく東京が描かれ、その先に佐倉があります。下側は太平洋、上は日本海で、さらにアジア・ユーラシア大陸へと続いています。横の線は道路と鉄道、縦には多摩川と相模川が流れ、その流域に多摩地区が位置します。この中心に私たちの大学があるというメッセージを込め、「この地域から人を集め、日本海を越えてアジア・ユーラシア大陸で活躍できる人材を育てる」という教育方針を打ち出しました。

この鳥瞰図絵は、かつて日本の各地で作られていました。不要なものを省き、本質を誇張して示すことで、全体像を把握しやすくするものです。写真が登場してからは廃れてしまいましたが、大正時代には吉田初三郎のような名人がおり、鉄道の普及とともに全国の鳥瞰図絵が描かれました。私の大学では、この鳥瞰図絵が大学の「顔」となり、市長室にも飾られるほど評判になりました。

「虫の目」と「鳥の目」の限界、そして「図解」の重要性

私たちは普段、「虫の目」で物事の細部に囚われがちです。しかし、鳥瞰図のように「鳥の目」で俯瞰することの重要性も、仕事においては欠かせません。ただ、鳥の目でも、単に上から眺めるだけでは、そこにいる人々の属性や関係性までは見えてきません。

私は、企業での文章コミュニケーションに大きな問題意識を持っていました。文章は時に曖昧さを許し、書く側も読む側も「分かったふり」をしてしまうことがあります。特に「箇条書き」は、項目を羅列するだけで、それらの関係性や因果が示されないため、物事を正確に伝えるには不十分です。私はかつて、「箇条書きと文章が日本をダメにしている」という本を40歳の時に書き、それがきっかけで大学で教えることになりました。

図解は、この文章コミュニケーションの欠点を補い、ごまかしが効かない形で本質を視覚化します。あらゆる事象を「図」で表現することで、複雑な情報を一目で理解し、思考を深めることができます。

新しい「人生訓」の提唱:孔子の教えを1.6倍に

現在の日本は、閉塞感が漂っています。その原因の一つは、中国の孔子の教えが、現代の「人生100年時代」と乖離していることにあると私は考えます。

孔子の「十有五にして学に志す」「三十にして立つ」「四十にして惑わず」「五十にして天命を知る」「六十にして耳順う」といった人生訓は、せいぜい「人生50年時代」のものです。これをそのまま現代に当てはめるから、多くの人が惑い、年賀状で「40歳になって人生が終わった」などと嘆くような事態が起こるのです。

私は、この孔子の教えに「1.6倍」をすることで、現代の人生100年時代に合わせた新しい年齢の考え方を提唱します。

孔子の教え (旧)

人生100年時代 (新: 1.6倍)

フェーズ

15歳 (学に志す)

25歳

少年期を終える

30歳 (立つ)

50歳

青年期を終える

40歳 (惑わず)

65歳

壮年期を終える

50歳 (天命を知る)

80歳

実年期を終える

60歳 (耳順う)

95歳

熟年期を終える

70歳

110歳

大人期を終える

 

110歳以降

仙人期

この新しい人生訓によれば、50歳で青年期を終え、65歳で壮年期を終えます。そして65歳から80歳を「実年期」(実りある時期)、80歳から95歳を「熟年期」、95歳から110歳を「大人期」と捉えるのです。これにより、現在の「高齢者」という不愉快な呼び方も解消され、それぞれの年代が持つ価値を再認識できます。

日本は「異次元の高齢化」が進んでおり、世界に先駆けて新しいモデルを構築する必要があります。この「新・孔子の人生訓」は、人々がより長く、充実した人生を送るための指針となると考えています。

人物記念館1000館の旅:偉人に学ぶ生き方

私は55歳から75歳までの20年間で、全国の人物記念館1000館以上を巡る旅をしました。これは、日本の近現代の偉人たちがどのような人物であったかを、自ら研究するためです。

旅の途中で感じたことは数多くあります。例えば、1館目の福沢諭吉記念館(大分県中津市)では、地元を出て初めて福沢諭吉の偉大さに気づき、彼の著作を深く読むようになりました。100館目の寺山修司記念館(青森県三沢市)では、俳句や短歌が時代を超えて残ることに寺山が死の間際に悔やんだというエピソードを知り、何事も「百」を経験すると、ようやく入り口に立てるという「百説」という言葉を実感しました。

200館目の野上弥生子記念館(大分県臼杵市)を訪れた際、私はこの旅が「聖人巡礼」であると気づきました。白洲正子の『西国巡礼』の解説にあったように、巡礼とは「自分に会う旅」であり、「自分を発見し、奮い立たせる旅」なのです。偉人たちの人生に触れることで、自分自身と向き合い、学びを得る。これがこの旅の意義だと確信しました。

300館目の西田幾多郎記念館(石川県かほく市)では、難解な哲学者の記念館の入り口が分かりにくいことに、哲学の本質と難解さを重ね合わせ、この旅が私の「ライフワーク」であると確信しました。

400館目の相田みつを記念館(東京都)では、彼の書の「下手に見えて実は名人芸」という奥深さに触れました。500館目の臼井吉見記念館(長野県安曇野市)、600館目の大宅壮一文庫(東京都)なども巡り、偉人たちの言葉や人生哲学に深く触れました。大宅壮一が「大正史」の執筆を志しながら志半ばで亡くなったという悔恨の言葉は、強い印象を残しています。

700館目の大岡信ことば館(静岡県三島市)、800館目の土屋文明記念文学館(群馬県高崎市)、900館目の勝海舟記念館(東京都)を経て、1000館目には藤子・F・不二雄ミュージアムを選びました。ドラえもんの誕生日が「2112年」であることから、「未来に向けた偉人」として選び、この旅を締めくくったのです。

この旅を通じて得られるのは、知識だけでなく、偉人たちの「霊気」に触れることで、自分自身が研ぎ澄まされていく感覚です。

最高の偉人と、教育・思考への提言

1000館を巡った結果、私が最も偉大だと感じる人物は、福沢諭吉と渋沢栄一です。

福沢諭吉は慶應義塾を創設し、地方にまでその教育が根付くことで、現代に至るまで多くの人材を輩出しています。渋沢栄一は500社もの企業を設立し、さらに600以上の社会福祉事業に関与しました。彼は多くの人々の相談に乗り、その事業の成功を支援した人物です。最近、一万円札の肖像が福沢から渋沢に変わりましたが、私はこれを「ナンバーワンからナンバーワンへのバトンタッチ」と捉え、喜ばしいことだと考えています。

記念館巡りでは、亡くなった偉人の追悼文集を読むことを重視しています。そこには、公式な伝記には載らないような、周囲の人々が語る人間味あふれるエピソードが詰まっており、その人物の本質を深く理解するのに役立ちます。

また、私は福沢諭吉の言葉「今日も生涯の一日なり」をブログのテーマにしています。一日一日を大切に、真剣に生きることの重要性を、福沢もまた実践していたのではないかと感じています。

この旅で気づいたことは、近代・現代の日本には、早咲きの人物だけでなく、「遅咲き」の人物が多いこと、そして「独学」で大成した人が非常に多いということです。正規の教育機関で教えを乞うだけでなく、自らの興味を追求し、独創的な道を切り開いた人々が、世界を揺るがすような発見や研究を生み出しています。現代の画一的な学校教育では、個々の才能が埋もれてしまう危険性があると感じています。

「ワークライフバランス」から「ライフデザイン」へ

現在の日本社会には、海外から輸入された概念が安易に受け入れられる傾向があります。その最たる例が「ワークライフバランス」です。これは「仕事と人生のバランスをとる」という馬鹿げた概念であり、そもそも「ライフ(人生)」の中に「ワーク(仕事)」が含まれるはずです。

私が仙台でワークライフバランス推進協議会の第一回講演者になった際、「日本人すぐ騙されるからね。これは必ず失敗します」と指摘しましたが、役人からは「既に始まっているので、あまり大きな声では言わないでください」と言われたものです。

本来考えるべきは「ライフデザイン」ではないでしょうか。どのように日々の生活を送り、自分の人生をどう構築し、自分の命を次の世代につないでいくか。人生100年時代においては、この「ライフデザイン」の視点こそが、個人にとっても社会にとっても重要です。

海外の流行に乗るのではなく、私たち日本人自身が深く思考し、自分たちの生き方や社会のあり方をデザインしていくべきです。「図解コミュニケーション」というツ思想と技術を用い、本質を捉え、自ら考える力を養うことこそが、これからの時代には重要であると私は考えています。

(以上、まとめておいた:ボイスメモ(音声)ーNotta(文字起こし)ーエディ(編集)

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7月2日:堀文子。石川達三。竹内均。真藤恒。

堀文子「生き生きと死にたい」「群れない、慣れない、頼らない」

内橋克人「引き際の研究」

三島海雲「孫子は「敵国のなき国は滅ぶ」と言った。今後、カルピスの類似品は続々できるであろう。私はカルピスのためにそれを望む」

岡鹿之助「 日本油絵の樹立。それは我らの時代にと急がないで良い。次に来る時代、あるいはまたその次に来る時代にでも結構だ。ただ私たちは次に来る者へ手渡しするバトンだけはしっかり渡したい」

石川達三「幸福は常に努力する生活の中にのみある」

真藤恒「習って覚えて真似して捨てる」

竹内均「前進あるのみ」

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堀文子|人物|NHKアーカイブス

「新・代表的日本人」7月2日。堀文子「生き生きと死にたい」

堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家である。享年100歳であったセンテナリアンである。

女子美術専門学校(現女子美術大学)師範科日本画部に入学した。在学中に新美術人協会第2回展に初入選を果たした。34歳のとき、日展で特選を受賞した。42歳で夫と死別した。54歳で手がけた絵本『くるみ割り人形』が、イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展でグラフィック賞を受賞した。

69歳からイタリアに在住した。77歳から、アマゾン、マヤ遺跡、インカ文明を訪ね、81歳にはヒマラヤを取材した。一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。亡くなる前年まで、毎年展覧会が開催された。「たえず興味や関心の対象を変える」生涯現役の画家であった。

堀文子は5歳で関東大震災に遭遇した。しっかり者の母も含めてみな我を失っていた。一人年取ったばあやだけが冷静だった。そのばあやが総大将になって冷静に大震災を乗り切った。なぜそのばあやは冷静で沈着だったか。この人は1855年の安政の大地震の経験があったからだ。1854年の東海地震、その32時間後にマグニチュード8.4の南海地震、そして翌年に安政江戸大地震が続く。つまりこの3つの地震は連動していた。ばあやは、安政の大地震を知っていたのである。長生きをするということはこういうことである。

幼い文子は「在るものは滅びる」という声が電流のように全身を貫いた。幼い心が悟りを受けた。この世は無常である。一切なくなってしまうという人生観で自然を描き続けたのである。

箱根の成川美術館には100点を超える堀文子コレクションがある。第1回堀文子収蔵作品セレクション展をみた。「何かをやっている人というのは、それが運命なのである。好きだから、などというものではない。私もただこの道を行く方がいいという予感があっただけである。六十を超えて、ようやくそのことがわかってきた気がする」。

また、この美術館で「山本丘人と堀文子」展をみたことがある。二人とも「同じものは描かない」という信念を持っていた。師の山本丘人は「表現の方法を新しく模索して、その作品は自らの心象風景として昇華していく」と述べた。堀文子は「たえず興味や関心の対象を変える」とし、常に新境地を生み出し、「私には一貫した画風はない」と語っている。

「花の画家」と呼ばれる日本画家・堀文子の「サライ」のエッセイを私もよく読んだ。また雑誌「致知」にインタビューが出ていたのを興味深く読んだ。

以下、堀文子の言葉から。 「皆さん、褒めてくださいます。貶す方はおりません。危険なことです。 恐怖の連続です。そして絶えず、ああ、ダメだ、無能だと思う。その無念が私の道標で、私に絵を続けさせている原動力です。満足したことはない。 大抵は若い時にちやほやされて、ダメにされるのです。 自分を堕落させるのもよくするのも自分なのです。 安全な道はなるべく通らない。不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。大通りはつまらないと思っている人間で、それがいまでも続いているのです。 いつも不安の中に身を置いて、昨日をぶち壊していくということです。ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方なのです。そして過ぎたことを忘れることです。 いつも自分を空っぽにしておくということです。 私には必ず不安なほうを選ぶ癖があります。そのほうが初めてのことでビックリするから元気が出ます。とにかく自分をビックリさせないとダメなのです。」

堀文子は「群れない、慣れない、頼らない」「闘わず屈服せず」という厳しい生き方が信条だった。そして「最後の最後まで、少しでも、一ミリか二ミリでもいいから、上り坂でいたいと思います。そして惨めに死ぬのではなく、生き生きと死にたい、と思っております」と語っていたとおりの生涯を送り、享年100歳であったセンテナリアンとなった。人生100年時代の生き方のモデルの一人である。

 

ショーペンハウアー『幸福についてー人生論』ーー人間の幸福に対する二大敵手は苦痛と退屈である。

ショーペンハウアー『幸福についてー人生論』で述べている彼自身の思想を自分なりにまとめてみた。

  • 人生の最初の4分の一は最も幸福で、かつ最も長い時間である。
  • 青年期は憂鬱と悲哀の動揺の季節であり、晩年は幸福の大きな要素である平静の季節である。
  • 俗物とは精神的な欲望を持たない人間だ。
  • 渡世に必要なのは細心と寛容である。細心によって損害を免れ、寛容によって争いを免れる。
  • 人に信用してもらうには、冷静に、感情を交えずに述べることだ。
  • 自画自賛の誘惑には決して乗るな。
  • 人間の幸福に対する二大敵手は苦痛と退屈である。
  • 最善の賜物は、苦痛の無い、静謐な生活である。
  • いつか知的な生活が目的となり、洞察と認識が豊かになり、溌溂と慰安を与えてくれ、しだいに成果がまとまりをみせ業績が完成していく。
  • 人生の晩年には、過去の知識・経験、練り上げた思想、練習を積んだ能力によって、研究が面白くそしてたやすくなってくる。
  • 重要で偉大な労作を生み出す力を自覚した人は幸福である。
  • 関連と大観を得る蓄積した認識は、常に新たに豊かな総合に進化することで、満足感が深まっていく。
  • 長寿の人でなければ、人生の全体像をみることはできない。
  • 美しい死に方とは、死ぬのではなく、高齢になってただ生きることをやめるという死に方である。

後姿探検隊

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7月1日:坂田三吉

山本圭「ぼくとは3つしか違わないけど」

坂田三吉「ワテは五重の塔の上に立っとるから大阪中の火事がみな見える」

浅井慎平「とにかく必死でやってみる。結果としてできなくてもいいじゃないですか。その努力こそ、人間としての幸福が宿っていると思うんです」

獅子文六

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「新・代表的日本人」7月1日。阪田三吉「ワテは五重の塔の上に立っとるから大阪中の火事がみな見える」

坂田 三𠮷または阪田 三𠮷(さかた さんきち、1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は、明治から昭和初期の将棋棋士。贈名人・王将。享年76。

阪田の語りを収録した著書『将棋哲学』と岡本嗣郎「孤高の棋士 阪田三吉伝」(集英社文庫)を読んだ。

素人の賭け将棋では天才といわれた阪田は、1891年頃、後の名人・関根金次郎と堺の料亭一力で初対決し、惨敗した。このことでプロの道を決意した。

1903年に、4段格であった阪田は、関根7段と対戦し、阪田が攻め方で勝利した。これに阪田は発奮した。

1913年、上京し関根8段と対戦。「グルグル逃げ廻ったために、殺されやうとした銀が 却って敵陣で存分の働きをすることができ、形勢一転した」。このとき「阪田が銀になって泣いてゐる」という言葉を語っている。

1917年、関根に4勝2敗。1921年、小野名人の死去に伴い、関根が13世名人を襲位した。1925年、前年に東京将棋連盟が結成され、8段が増えたことに反発した京阪神の財界有力者80余名の主唱で阪田は「名人」を名乗ったため、連盟から追放された。

以下、阪田の言葉から。

「今わたしの心境は澄み切ってゐる。対局するにも、常に澄み切った心でありたいと願っている。、、、ワシはそれに五十年苦しんだ。五十年苦しんでやっとその心境に達した」。邪念を払う。そのために50年かかっている。

「音のする駒はその人の将棋が本物になってない証拠」。駒に力を入れて打つのではなく、そっと置くべきだ。

「元来わたしは無学な上に師匠といふものがない。みんな自分で考へて、自分でさすので、そりゃ実に苦しかった」。阪田は字を書けなかった。頭を指さして「ここに将棋が一杯入ってまんねん。」とおどけた。

女房のコユウは「あんたは将棋が命や、阿呆な将棋を指しなはんなや」と励ました。コユウは芝居、映画、歌で「小春」となった。阪田は升田幸三に「木村(義雄)を負かすのはあんたや」と励ました。大山康晴は「いつも仕事代とは別にお金をくれた」と述懐している。阪田には孫弟子に内藤国雄、曾孫弟子に谷川浩司がいる。

生前「わしが死んだらきっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と言っていたとおり、将棋一途に生き抜いた数奇な生涯は、戦後劇作家北条秀司の手で『王将』として劇化され、芝居や映画で人気を博した。村田英雄が歌った「王将」も大ヒットした。後に阪田は日本将棋連盟から名人位と王将位を追贈されている。

升田幸三は13歳で「将棋を征服しよう」と決意し、「日本一の将棋指し」を目指して14歳で家出し、大阪の木見金治郎八段の門下生となった。阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励された。

2025年に新大阪から、地下鉄と南海電車を乗り継いで、堺市にある舳松人権歴史館の中にある阪田三吉記念室を訪問した。極貧の生活から、将棋の名人になっていく軌跡を追った。

阪田三吉の将棋人生はライバル関根金次郎との戦い一色であったように感じる。「ワシの魂の眼を開いてくれた。将棋に活を入れてくれたのだ。 関根さんはこの意味からわたしの恩人である、導師である」。導師とは人を仏道に導く僧をさす。将棋道への道に導いてくれた恩人なのである。実は、敵・ライバルとは自らを歩くべき道に導いてくれる導師なのである。

阪田は「あんた、そこから見て浪速区と北区の火事がいっぺんに見えまへんやろ」と言い、「ワテは五重の塔の上に立っとるから大阪中の火事がみな見える」と大局観を語っている。将棋においても、大局観、鳥瞰、高い見晴らし台に立つということの大事さを教えてくれる。阪田三吉という不遇の天才は、劇的人生で永遠に生きることになったのである。

将棋哲学

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『将棋哲学』