知研セミナー:松垣孝二(セラピスト)「幸福論ーー意識の進化と自然界の共鳴」

松垣孝二さんは人間の心の問題に取り組み、欝や幸せについて考え続けているセラピスト。「幸福論」を音、リズム、脳波から語る人だ。

以下キーワード:西洋は罪と罰という恐怖の一神教、日本は自然界からの戒めで自己を律する多神教。恍惚、共鳴、共感、量子論の粒と粒子の変化、量子のもつれ、宗教、般若心経の空、丹田、武術、呼吸法。腹式呼吸、気配、俯瞰。セブリンの幸せの3段階、占星学、赤ん坊が眠る音と揺れ、母の胎内、学ぶ力、見えないものをみる、トラウマの克服、偶然と必然の関係、、、。

広範囲にわたって、実践の中から得た人間の幸福に関する知見を語っていただいた。

「幸せと」はつながり。誰かと心が通じあうこと。共鳴を繰り返していくこと。一つの場に戻ること。自然界との共鳴。リズム。気配を感じること。

私は仲間とともに「幸福塾」で学んできたが、「音」という視点はなかったので参考になった。西洋の必然を重視する科学の「因果」に対し、東洋の偶然も取りこむ「因縁」という関係を改めて確認できた。画家などの芸術家は自然との共鳴と共感によって幸せを感じる恍惚状態の時間が長いから長生きの人が多いのだということがわかった。

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ジム:ストレッチのあと筋トレの器具を試す。その後、スイミング500m。

ウオーキング8000歩。

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「名言との対話」11月14日。塩見孝也「団塊全共闘世代よ、経済闘争を社会政治闘争として闘え」

塩見 孝也(しおみ たかや、1941年5月22日 - 2017年11月14日)は、日本の新左翼活動家、赤軍派議長。享年76。

広島県尾道市で医師の家に生まれる。京大時代に学生運動に没入。共産主義者同盟(ブント)の活動家となり、1969年に共産主義同盟赤軍派を結成し議長になる。1970年逮捕。よど号ハイジャック事件の首謀者である。

塩見孝也『革命バカ一代 駐車場日記 たかが駐車場、されど駐車場』(鹿砦社。2014年11月刊」)という不思議な本を読んだ。

20年の府中刑務所での獄中生活を経て17年経った67歳から73歳までに経験した清瀬市の駐車場管理人のとしての労働の記録である。時給950円、月収約5万円だ。

一隅を照らすに過ぎない労働。大きな物語ではない、本当の労働者とはどんなものなのか、マルクス主義の思想を試してやろう、そういう考えで働く。そこで、傲慢、世間知らず、非常識人、浦島太郎、観念的、異常人という自分を知ることになった。

労働における達成感。、、今まで体験していなかった。労働の喜び。幸福感。安堵感。生産につながる達成感。このような理解なくして民衆解放への道など拓けようがない。独立自尊のプライドを育む庶民、、。そして自分は実務を蔑視する思想の持ち主であることを自覚する。仲間との連帯感。相互理解。相互扶助。友愛関係が育つ協働。労働をすることでわかる自明のことをようやく知るのだ。その上で、人員削減や80歳定年などのテーマで当局と闘っていく。

内結子の名が出てくる。大成してゆけば、マリア・テレサジャンヌ・ダルクのような人柄になる素質があると演技に感心している。2020年9月27日に40歳で自死した人ではないか。

日本テレビの「ダンダリン 労働基準監督官」をほめている。原作者の「カバチタレ!」のとんたにたかし、こと田島隆に会ってみたいと述べている。その延長線上なのか、2009年6月に私が大学院の教え子たちとつくった『図解資本論』について、出版社を通じて「よくできている。会いたい」と言ってきたことがある。大学の同僚に相談したところ、「伝説の人。恐ろしい人」というイメージから 止められて会わなかった。その時に、塩見のSNSでの活動や発言をみたことがある。まだ元気で革命運動を続けているのかと敬意を交えながら苦笑したことを思い出す。

2010年2月20日朝日新聞夕刊「革命家が知った 働く喜び「よど号事件」の元赤軍派議長・塩見孝也さん」では、「これまでの歴史を清算して生き直して死ぬ」と語っている。「焦らず、長期持久で、自足・自得しつつ闘っていこう」、「団塊全共闘世代よ、経済闘争を社会政治闘争として闘え」というメッセージもある。塩見孝也の革命家としての歩みは、道を究める営為であり、最後まで修行という考えであった。何か滑稽感も漂うが、こういう人生もあるのだ。人はさまざまだ。

革命バカ一代 駐車場日記

革命バカ一代 駐車場日記

 

 

『ライフプランの実際』ーー「一生の計画」「30年計画」「今年の計画」「点検と総括」「ライフワーク」

 

私は30歳で「一生の計画」、40歳で「30年計画」を作っています。家族の年齢、所属部署、役職、知的生産、住居、外国渡航、などの項目があり、30代、40代の最初に自分の進むべき方向を勝手に記した「ライフプラン」です。

社内での希望部署や昇格の目処、不動産の購入計画、雑誌への登場や受賞予定などもあり、当時この表を人が見たら笑うことは間違いない内容が書かれています。

この「人生計画」に沿って、私は1981年の31歳から毎年、正月三が日に詳細な「今年の計画」を立て、ゴールデンウイークに体勢を立て直し、年末には○△×で点検し赤字で総括をして、次の年の計画を立てるというサイクルをずっと続けてきました。1981年の2月に結婚式を挙げていますから、後から振り返るとこの計画を立てるという習慣が始まったのは結婚したことが契機となっているようです。

TOEICの点数や趣味の項目などを含め実現できていないことが多いのですが、不思議なことに全体的にはそういう方向に沿って歩いてきたような気がしています。

このようなことを続けることになったきっかけは、1978年に出版された『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)を書いた井上富雄という人が人生計画表に基づき実行した姿に感銘を受けたからです。この人は48歳で日本IBMの常務取締役を自主的に退任し経営コンサルタントして再出発します、そのときに「次の次の社長が約束されているのになぜ辞めるんですか?」というマスコミの質問に、「人生計画に基づくとこの年齢で次のステージに移ると決めてあったからです」と答えて当時のサラリーマン社会に大きな衝撃を与えました。

私はこの井上富雄さんの影響を受けて真似をして今まで続けてきました。その過程で、「ライフワーク」を手にするようになっています。いつかこの「計画と総括」をそのまま修正無しで発表し、若い人の参考に供してみようと考えてきました。そろそろこの役目を果たすべきときではないかと考えて、ビジネスマンとして悪戦苦闘した「青年期」の資料を「ライフプランの実際ーー二刀流でいこう」というタイトルで公開する時期と考え、作業を始めることにしました。

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今から4週間を展望した自前の「スケジュール」を数十年愛用している。今日気が付いたが、11月下旬の予定が詰まり過ぎていることがわかった。奥多摩、横浜、江東区、立川、中津、京都と10日近く連続している。調整の必要がある。

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「名言との対話」11月11日。江上波夫「学問は人なり」

江上波夫(えがみ なみお、1906年11月6日−2002年11月11日)は、日本の考古学者。享年96。

中学生だった江上は、関東大震災で避難した千葉・房総で、地震のために隆起した洞窟の堆積物の断面に土器や動物の骨を見つけ、東京帝大の人類学教室に持ち込んだ。このことが学者への道につながり、太古の歴史を探究する学問が天職となっていく。

歴史的事実の再現を試みるのが歴史学であり、細分化ではなく総体化、平面的ではなく立体化、抽象的ではなく実態的な歴史学を提唱した。構造図を脳裏に叩き込み、その上で個々の実像の構築・復原に向かうことが重要とする方法論を駆使した。

また、日本の歴史は日本国内に限って研究しようとする立場だけでは完結しないと主張し、東アジアの中の日本、世界の中の日本という広い視点を大事にした。

江上は、朝鮮海峡を渡ってきた東北アジア系の騎馬民族の中心勢力であった天皇氏が、時間をかけて日本の土着勢力を征服し、統一国家を形成したとする「騎馬民族征服王朝説」を発表した。これは1948年、江上が40歳で東大教授に就任した頃のことである。

このロマンあふれる壮大な仮説は、支持と反発の大論争を巻き起こした。司馬遼太郎が最大の評価を与え、手塚治虫は『火の鳥』でこの説を採用した。一方、批判の急先鋒の柳田國男折口信夫、佐原真らと華々しい論争を繰り広げた。

モンゴルを代表とする騎馬民族には、固定的な階級意識がない、開放的である、女性がよく働く、個人主義であり、民主主義的である、という特色がある。騎馬民族国家統一の能力が高く、農耕民族を征服して新王朝を建設する。しかし、しだいに土着民と同化していくという宿命がある。日本という国は、採集型・農耕型・狩猟型の三層構造が入り混じって構成されている。日本は大化の改新までは騎馬民族型の社会であり、騎馬民が武士になったのだという。

ユーラシア大陸やオリエントの調査を徹底して行った、この根っからのフィールドワーカーは、強いエネルギーの持ち主だった。海外調査の道を開いたことも大きな功績だった。

1991年には文化勲章を受章した。江上波夫は「学問の放浪者」「学問の探検家」「学問の大食漢」「遊牧民のような学者」など、さまざまに呼ばれた。江上は、文字どおりよく食べる大食漢であったのと同様に、専門の東洋史学に加えて考古学・民族学などを統合する学際的な研究を貪欲に吸収・展開した研究者でもあった。

NHK「あの人に会いたい」では若き五木寛之のインタビューを受けている映像をみた。「歴史学は体験の科学である」という言葉が印象的だった。歴史学は文献の学ではないという主張である。

やはり、学問は人である。その人の核は、独自の問題意識である。現地に足を運び素手で触れ、裸身で向き合い、広く、あるがままに見聞を重ねる。そして歴史の鑑を磨き、今を考える。座右の銘は、ニュートンの「常にそのことを考えているので」であった。「学問は人である」は、「芸人とは芸と人のことではないか」という森繁久彌の言葉にも通じる。作品と作者が不二一体となるほど徹底して人間性が投入された結果、優れた作品が生まれ出るということだろう。どのような分野においても、優れた仕事は、それを成し遂げた人物の生き方と切り離すことはできない。

 

 

 

読むべき本が増えてきたーー古本市、講演、ラジオなど。書斎、トイレ、リビングに積ん読。

読みべき本が増えてきた。

古本市で見かけた本、講演で紹介された本。ラジオのインタビューで番組で教えられた本など。書斎、トイレ、リビングなどの置いて、読んでいこう。

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トーマスマン『ゲーテを語る』(岩波文庫)。南大沢古本市で見つけた本。トーマス・マンが語るゲーテに興味。

永六輔『二度目の大往生』(岩波新書)。南大沢古本市で見かけた本。大ベストセラー『大往生』の第2弾。

デビッド・A・シンクレア『LIFE SPAN 老いなき世界』(東洋経済)。「誰もが人生120年時代を若く生きられる!」と説明する本。「若く」が特徴。

東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)。臨床心理の世界の全体像とその原理を書いたとする総決算の書。30年詠み継がれる本。

河合隼雄は第2世代。東畑は第4世代。藤原勝紀さんは2世代か?

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電話:吉池(「100冊出版」の件)。樋口裕一(近況交換)。

ジム:ウオーキング8000歩。ジム見学:ヨガと筋トレ。スイミング500m。バス。

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「名言との対話」11月12日。福田みどり「司馬(遼太郎)さんはヘンな人」

福田みどり(ふくだ みどり、1929年〈昭和4年〉—2014年〈平成26年〉11月12日)は、作家・司馬遼太郎の夫人。享年85。

福田みどり、すなわち司馬遼太郎の夫人は、1996年の夫の没後、司馬遼太郎記念財団の理事長に就任した。

これまで「名言との対話」で多くの人の生涯と名言を書いてきた。作家の場合、資料は自伝や作品が中心になる。その過程で、配偶者や子どもによる回想記に出会うことがある。作家の日常と本音が見えるので、私はできるだけ読むようにしている。

愛読してきた司馬遼太郎の明るい日本史を堪能してきたし、洒脱なエッセイもよく読んできた。また、東大阪司馬遼太郎記念館で時間を過ごしたこともある。

今回は、『司馬さんは夢の中Ⅰ』を読み、夫人・福田みどりさんから見た司馬遼太郎像を堪能した。

みどりさんは、司馬さんを「ヘンな人」と見ている。妻から見れば、どんな偉人もヘンな人なのだろうが、みどりさんの「ヘンな人」という言葉には愛情がある。

司馬さんの独特の透明感。道に迷っても絶対に人に尋ねない。服装に無頓着。時間の無駄を嫌う。過去を振り返ることを極端に嫌った。極端な寂しがり屋。尋常ならざる風邪恐怖症。就寝ファッションは「バンダナ、腕カバー、脚絆、靴下」。照れるとあらぬことを口走る癖。机の引き出しがきたない人。冷ややかな態度。――などなど。

1970年の仕事量についても書いている。産経新聞坂の上の雲」、朝日新聞花神」、週刊朝日「世に棲む日々」、週刊新潮「城塞」、小説新潮「覇王の家」、オール読物「話のくずかご」……と、恐るべき仕事量だ。しかも途方もなく質が高い。にもかかわらず、当時40代後半であった司馬本人は、いらだつこともなく普通に暮らしていた。このあたりに、やはり超人的なエネルギーを感じる。

以下は、みどりさんが「安藤忠雄さんの設計で建物の隅々まで透明感と清涼感が漂っている」と述べる司馬遼太郎記念館を、私が2005年に訪ねたときのブログからの抜粋である。

近鉄奈良線の河内小阪という準急の止まる駅で降りて、果物を売る店や食べ物屋のある昔風のアーケード商店街を歩く。途中で時計屋を見つけ、最近遅れがちでやや困っていた腕時計を見てもらうことにした。「2年半、電池を換えていなかったのが原因」と、職人気質の趣のあるご主人に交換してもらう。

「日本史を独力で書き換え、戦後の日本人に誇りと自信を植えつけた司馬遼太郎の記念館を東大阪市に訪ねたとき、自宅の玄関には『司馬遼太郎(福田)』との表札があり、みどり夫人が住んでいる裏の玄関の表札には『福田(司馬)』とあった」。

雑木の繁る庭を歩くと、すぐに司馬遼太郎の書斎の前に出た。写真などでよく見かける書斎で、窓越しに執筆や読書する姿が浮かんでくるようだ。少し斜めになって原稿を書くくせがあったとかで、机は手元側で緩やかにカーブを描く変形仕様。万年筆や色鉛筆、ルーペが、亡くなった当時を偲ばせるように置かれている。

記念館は、建築家の安藤忠雄の設計で、この家の隣に建っている。地下から1階に向けて有名な大書架があり、2万冊が収納されているという。蔵書は4万冊。

大書架の下のほうには物を置く台があって、故人ゆかりの品が並ぶ。推敲用の色鉛筆がとてもカラフル。独特の黒ぶちのメガネ、懐中時計。年譜を見ると、72歳で逝去するまで驚くべき量の仕事をこなしたことがわかり、改めてそのエネルギーに敬服した。1996年2月12日の逝去ののちも、1996年に8冊、1997年に4冊、1998年に5冊、1999年に6冊、2000年に7冊、2001年に4冊と、対談集や書簡集が続々と世に出ている。「蔵書は司馬遼太郎の頭脳の延長」と誰かが言ったというが、下から11メートルに及ぶ蔵書や著作を見ていると、圧倒的な迫力で存在が迫ってくるようだ。

コンクリートの天井部分に雨の「しみ」が浮き出ていた。そのしみは写真で見る竜馬の上半身にそっくりで、「竜馬が現れた」と話題になっていて、愉快だった。

司馬遼太郎を一度だけ見かけたことがある。大阪のホテルで開かれた、民族学者・梅棹忠夫先生の文化功労者のお祝いの会だった。きらめくような各界著名人の中に、黒と茶をコーディネートした装いの、あの白髪に黒ぶちの眼鏡の司馬遼太郎がいた。会場の中で、一瞬そこだけ光が当たっているような錯覚に陥ったことを、今も鮮明に記憶している。

「コーヒーを飲みながら受付で買った『以下、無用のことながら』というエッセイ集を読んでいると、あの優しい眼差しの司馬遼太郎が傍らにいるような、不思議な柔らかい感覚があった。そして、たしか『遼』という雑誌にあった『もっとちゃんと考えな、あかんで』(誰かに言ったことば)という声が聞こえたような気がした」。

2時間ほどの贅沢な時間を過ごして、八戸ノ里という駅に向かう。こちらは、河内小阪に比べて駅前の風情が乏しい。『以下、無用のことながら』という文庫を読みながら近鉄電車で難波に向かったのだが、その中に「駅前の書店」というエッセイがあった。私が電池を換えたのは、この中に出てくる日本堂だった。河内小阪から司馬遼太郎記念館、そして八戸ノ里というルートは正解だったらしい。

二人は産経新聞の同僚だった。友だちから恋人になって、結婚した。結婚式も披露宴もしていない。一枚の写真もない。「僕たちは弱点で結ばれたんだから、毀れることないよ」は、夫の司馬遼太郎の言葉だ。期待もないから期待外れもないということだろうか。こういう結婚もあるのかと少しおかしくなり、大作家に親しみを感じる。妻から見ると、偉大な小説家も「ヘンな人」だったのだ。

 

 

 

メルマガ「久恒啓一の学びの軌跡」が本日1500号に達したーー何ごとにも「歴史」がある。

メルマガ「久恒啓一の学びの軌跡」が1500号に達した。ここまで25年かかっている。

 1週間の活動のまとめとして毎週月曜日に配信している。久しぶりに会う友人たちも、このメルマガで近況を知ってもらっているので便利だ。毎朝書いているブログ「今日も生涯の一日なり」と、毎週出してる「学びの軌跡」がいいリズムになっている。

いい機会なので、私のメルマガの歴史を概観してみよう。何ごとにも「歴史」がある。

  • 2000年。野田一夫先生のハガキ通信「ラポール」に刺激をうけて2000年5月8日に「久恒啓一の「ビジネスマン教授日記」というタイトルで始めた。大学教員へ転身してまる3年たった頃で、ホームページ「図解Web」を立ち上げて1年2か月たった頃だ。講演のたびに感想をもらう紙を配って、そこにメルアドを書いてもらう。自宅でその日に登録することを繰りかえす。 読者数が増えるにしたがって、著書の売れ行きもあがってくる感じがある。
  • 2006年。年賀状廃止宣言。ブログやメルマガなどのSNSが登場して変わったことの一つは年賀状をやめた。 新しいメディアの中で生きることを宣言したわけだ。
  • 2007年5月。まぐまぐの「日刊メルマガ発行部数ランキング」によれば、毎週2回出している私のメルマガが日記部門447誌の中で、ベスト10 に入っている。発行部数は7981となっているが、自前でも数百の配信を行っているから部数は8千部強といったところだろう。ランキングの上の方はカネ系とエッチ系が多くを占めている。私のメルマガのような「真面目系」(?)は少ない。
  • 2007年の5月にブログとメルマガで仮想空間サービス「セカンドライフ」についてのエッセイを書いたら、「Voice」編集部の編集者から連絡があって、体験記を書いて欲しいという注文を受けた。こういうケースも時々ある。講演の時に受講者から読んでますと声をかけられることもある。 2007年に「楽天」から「はてな」に乗り換えた。
  • 2008年3月。新しいメルマガを二つ発刊。旅と本のメルマガで、いずれも不定期配信。久恒啓一の「人物記念館の旅」。 久恒啓一の「本との邂逅」。まぐまが、毎年やっている「まぐまぐ大賞2008」の「日記・ノンジャンル部門」にノミネートされたとの連絡があった。メルマガの読者からの推薦があって、まぐまぐのスタッフが審査して第一次審査に受かったということらしい。この部門では12のメルマガが一緒に候補になっている。私のメルマガは「日記」部門のランキングをみると、495誌のうち発行部数は7161部(他に600ほど別途配信)で71位である。仙台の宮城大から東京の多摩大に職場を移した激動の日々だったので、メルマガにも気合いがはいっていたのかも知れない。
  • 2010年。メルマガの図解編を始めた。冒頭に短い「図解Web探訪」、そして毎回、「図解コミュニケーション」に関する理論や事例を紹介。
  • 2011年11月、有料メルマガ「図解達人への道」を発刊。「まぐまぐ」の日記部門では3位にランクされている。創刊2年以上・読者数3000人以上の無料メルマガが資格を持っている「殿堂入り」メルマガとして登録されている。
  • 2018年1000号。まぐまぐ」のメルマガランキングの「日記」部門総合ランキング第3位。配信数は「まぐまぐ」と自前のネットワークを含めて5000。
 

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午後:スイミング:500m

夜:デメケンミーティング。「革命」編集会議。開発ミーティング。

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関連する画像の詳細をご覧ください。なぜ暴力団は免許の更新ができるのですか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・... - Yahoo!知恵袋

「名言との対話」11月10日。高倉健「仕事をするというのは新しい人と出会うことですから」
高倉健(たかくら けん、1931年〈昭和6年〉2月16日 - 2014年〈平成26年〉11月10日)は、日本の俳優・歌手。享年83。
福岡県出身。1955年に東映に入社し、翌年に映画『電光空手打ち』で主演デビューを果たす。昭和を代表する大スターの一人であり、1960年代に流行した任侠映画のシンボル的存在でもある。1978年の第1回日本アカデミー賞では『幸福の黄色いハンカチ』で最優秀主演男優賞を受賞。以降、数多くの人気作に主演した。江利チエミは元妻である。
1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2012年に第60回菊池寛賞、2013年には文化勲章を受章した。大学時代から、私も高倉健任侠映画を数多く観ているが、ここでは大スター・高倉健の私の目に映った姿を時系列で追ってみよう。
2012年。高倉健主演『あなたへ』を鑑賞。高倉健の6年ぶりの出演作だ。パンフレットに高倉健のインタビューが載っている。しばらく映画に出なかった理由について「ただ作品を撮って、お金をもらっている生活が、とても虚しく感じてね」と語る。この作品を終えての感想では「もっと自分は仕事をやらないといけないと思いました。仕事をするというのは新しい人と出会うことですから。出会う、というのはいいですよね」とある。
高倉健は1956年以来2005年までの約50年間に204作品に出演しており、1年に4本というペースでコンスタントに仕事をしている(通算では『あなたへ』(2012年)を含め205本とされる)。
2014年。高倉健主演の『幸福の黄色いハンカチ』を鑑賞。「もてない青年・欽也(武田鉄矢)は中古車を買って北海道旅行へ赴き、一人旅の朱美(桃井かおり)を車に乗せる。やがてふたりは謎の中年男・島勇作(高倉健)と知り合い、結局3人は旅を共にすることになる。勇作は網走の刑務所を出所したばかりで、妻の光枝(倍賞千恵子)の住む夕張へ帰ろうとしていたが……。名匠・山田洋次監督が手がけた日本映画史上に残る名作中の名作。軽薄だが根は純な若者たちと不器用な中年男の交流は、いつしか心の旅へと転じていき、その終着地でもある夕張を彼らがめざすクライマックスは、黄色を意識させるアイテムの点在や、佐藤勝の音楽の妙もあってスリリングに盛り上がり、その後すがすがしい感動のラストが観る者の心を潤してくれている」。山田洋次作品や『男はつらいよ』シリーズでおなじみの俳優も多い。封切りは1977年(昭和52年)。当時は観ていなかった。最後のシーンでは涙が出るなど、山田洋次監督の傑作を堪能した。
週刊金曜日』で斎藤淳子は次のように語っている。1978年の福田首相時代、日中平和友好条約の締結直後に中国で上映された高倉健主演の『君よ憤怒の河を渉れ』は、中国における外国映画史上最高の1億人の観客動員があり、この2作品が中国人の日本人観を変えた。それまでは「上にへつらい下に横柄な日本兵」が日本人のイメージだったが、品行方正で剛毅で礼儀正しく温かい日本人のイメージが中国を席巻した。高倉健の醸し出した日本人イメージの遺産がいまなお残っている。しかし、「健さん」の洗礼を受けたのは現在の40代後半以上であり、現在の若い中国人はこのブームを経験していない。文化交流の大切さがわかるエピソードだ。次は『君よ憤怒の河を渉れ』を観なければならない。
多摩大の同僚だったバートル先生によれば、中国でなぜ高倉健が人気があるか。日本では任侠ものに注目が集まるが、中国では『幸福の黄色いハンカチ』や『君よ憤怒の河を渉れ』などの映画が大ヒットして人気があるのだそうだ。
2015年、門司港レトロの一角の旧大連航路上屋を訪問した。昭和初期の国際旅客ターミナルとして使われた建物を改修した大きな施設で、そこに松永文庫がある。全国有数の映画と芸能の資料館で、3万点の資料を保存している。現在は北九州市の施設になっているが、もともとは松永武という市井の人の個人資料館だった。1997年に誕生し、2009年に北九州市に寄贈、そして2013年にこの場所で資料展示となった。松永は1935年生まれ。60年以上にわたって映画のポスター、チケット、パンフレット、シナリオ、写真、書籍の収集、そして50年続けている膨大な新聞スクラップ。このスクラップは1日3時間は費やしてきた。映画に加えて演劇、歌舞伎、文楽、歌手、落語、テレビ、三味線などが切り抜きの対象だ。収集にあたっては、芸能人や俳優の生き様、生き方に力点を置いている。松永は19歳で京都の松竹撮影所で働き、映画監督を目指したことがある。ポスター2,000枚、邦画パンフレット1,700部、劇場プログラム1,100部、スクラップ350冊。ちょうど高倉健の特別展示をやっていた。「映画は生きる悲しみを希望や勇気に変える力を秘めている」「この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」。
高倉健は大衆に人気が高かったが、一緒に映画をつくる監督や役者たちにも尊敬されていた。その理由は、「往く道は、精進にして 忍びて終り、悔いなし」という役者道を進む志と同時に、「スタッフや共演の方たちが寒い思いをしているのに、自分だけのんびりと火にあたっているわけにはいかない」という礼儀正しさと謙虚さにある。それは、亡くなった時に関係者が寄せたメッセージを読むとよくわかる。
大スター高倉健にしても、仕事が虚しくなり、もう一度仕事をするとまた元気が出るという繰り返しなのだろう。仕事というものの不思議さだ。仕事をすると、新しい人と出会う。それが次の仕事へ向かうエネルギーになる。その繰り返しが、通算205本に及ぶ映画出演へと結実したのだ。

 

 

 

 

『福翁自伝』、何回目かの再読ーー中津のことをどう書いているか?

名著『福翁自伝』は個人の生涯の進路と時代背景の動きがミックスされて物語になっている青春記ともいうべき本だ。自分史のお手本。日本の青春を背景として過ごした福沢の生涯をみると、「こりゃ、面白い」と感じたら突っ込んでいく。福沢は一生を青春として過ごした感じがする。

「面白い」。この本は語り口が面白いのは、口述筆記を福沢が後に加筆・修正しているからだ。その語り口の部分が特が面白いのである。全体に「カラリ」としていて気持ちがいい。」

「ためになる」。何ためになるのか。独立自尊への道を示してくれているからだ。国もそうだが、心身の養生、借金への対処、家族との関係などを含め一身の独立をめざすためのすぐれた自己啓発本でもある。

福沢は中津の生んだ偉人である。福沢は中津をどう書いているか。士族級中の下級の家。大坂の倉屋敷で誕生。四角四面の藩風。窮屈。分限と儀式の箱。不平不満。学者であった父の一生をみると門閥制度は親の敵である。正しき母に育てられた。大儒・白石先生。亀井風。帆足万里。中村栗園。水戸のご隠居、越前の春嶽を重んじている藩風。中津で朽ち果てるわけにはいかない。血に交わりて赤くならぬ家風。増田宗太郎。鵜の島。金谷。、、などの地名。、、、、」

福沢は中津藩の家老や重役から相談を受けている。この藩の藩士と武器では戦争はできない。長州、薩州どちらにもなびけ。弱藩罪なし武器災いをなす。一切を売ってしまって、琉球のようになってしまうがよい。丸腰がいい。その金は新政府に納める。そうこうしているうちに文明開化になるから、学校をつくり師弟を教育する。これを福沢は「因循姑息説」と自ら述べている。これは石橋湛山の「小日本主義」と同じではないか。

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12月に訪問を予定している大阪の記念館を調査:江崎記念館(グリコ)。坂田三吉記念室。西行記念館。三好達治記念館。富士正晴記念館。

本の注文:『佐高信評伝選集1』。東畑開人『カウンセリングとは何か』。シンクレア『ライフスパンーー老いなき世界』。

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「名言との対話」11月9日。森 比左志「いちばんあかるい★をさがしなさい。その真下におおきな●があります。そのかげに▲がありますから、はいっていきなさい」

森 比左志(もり ひさし、1917年10月2日−2018年11月9日)は、日本の児童文学作家、翻訳家、教育評論家。享年101のセンテナリアンだった。

鎌倉師範学校(のちの横浜国立大学教育学部)を卒業し、小学校教諭として勤務。1968年、50歳を過ぎるころまで務めた。もともと歌誌『創生』の発行人を務める歌人でもあった。教師生活のかたわら、外国の児童文学作品の翻訳を行い、エリック・カールはらぺこあおむし』などの著名な作品を多数手がけた。2018年11月9日、心筋梗塞により死去。101歳没。

児童文学関係の受賞も多い。1971年、『ちいさなきいろいかさ』(絵/にしまき かやこ)で第18回産経児童出版文化賞を受賞。1984年、『くまのアーネストおじさん』(既刊3冊、作/ガブリエル・バンサン)で第31回産経児童出版文化賞を受賞。1998年、『おてがみです あるゆうびんやさんのおはなし』(作/ガブリエル・バンサン)で第44回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞を受賞。2009年、歌集『月の谷』で日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞を受賞。

エリック・カール 作・絵、もり ひさし 訳『たんじょうびのふしぎなてがみ』を読んだ。カールはコラージュ(貼り絵)の絵本をつくる作家だ。

「たんじょうびの前の日、チムはふしぎな手紙をみつけました。★や▲や■など、おかしなしるしが書かれている手紙です。チムは暗号のようなそのしるしを、一つ一つうまくといて、とてもすばらしいものを手に入れました。誕生日を、よりいっそう楽しくしてくれる、ふしぎな手紙の絵本」と紹介されている。

「パパ、ママより」ともらったこの絵本の本文は、「……すると■がありますから、のぞいてごらん。そこにびっくりするようなものがまっていますよ」などの記述に従っていくと、最後には「ハッピー・バースデー! 誕生日おめでとう! これがプレゼントです。」とあり、次のページをめくると、今までの道のりの全体がわかる絵になっている。子どもに興味を持たせる工夫が随所にある、楽しい絵本だ。誕生日のプレゼントにふさわしい一冊だ。やさしい言葉に訳された文章は、著者と訳者のやさしい人柄をしのばせる。

この「名言との対話」でも、絵本に関係する人々を多く取り上げている。2023年以降だけでも、以下の人々がいる。谷川摂子、いわさきちひろヨシタケシンスケやなせたかし岸田衿子、堀文子、たかしよいち安野光雅、中川李枝子、日野原重明新井満舟崎克彦、柳田邦男、かがくいひろし、梶山俊夫、かこさとし石井桃子鹿島茂、松岡享子、石黒亜矢子武井武雄谷川俊太郎、など。

絵本という分野に精進する人々の姿は神々しい。

 

 

 

 

ミューザ川崎シンフォニーホールで「オーケストラ・ゾルキー2025演奏会」で「ローマの祭」などを楽しんだ。

ミューザ川崎シンフォニーホールで、「オーケストラ・ゾルキー2025演奏会」(指揮は永田雅人)をビジネスマン時代の友人の環君の招待で、堀君夫妻、望月君と楽しんだ。

 

配られたいくつものコンサートのビラを眺めていると、横浜みなとみらいホール大ホールや、すみだトリフォニーホール大ホールなどの施設で、アマチュアオーケストラの演奏会が頻繁に開催されていることがわかる。

そしてそのほとんどは、無料かせいぜい1000円内外の料金となっている。今回の音楽会も招待だったが、演奏の腕は大したものだった。ロシア音楽をテーマとする楽団、大学の同窓生のオーケストラ、企業の名前ををかしたオーケストラなど実に多彩である。贅沢な時代になったものだ。

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朝はヨガ教室で1時間。

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「名言との対話」11月8日 横山隆一「波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらを磨いて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、『捨てるのも惜しいな』と思われるような作品を作ることを、画業にしたいと思っております」

横山隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日−2001年11月8日)は、漫画家・アニメーション作家。享年92。

高知市出身。1932年に若手漫画家を中心とした「新漫画派集団」を結成。戦時中は陸軍報道班員としてジャワに向かう途中、乗船が沈没するも九死に一生を得た。1956年にはアニメ制作会社「おとぎプロダクション」を設立。

代表作は『フクちゃん』。1936年に始まった連載4コマ漫画『江戸っ子健ちゃん』の脇役として登場した、いがぐり頭で角帽のバンカラなフクちゃんが人気を博し、1956年からは毎日新聞でフクちゃんを主役にした連載が始まった。1971年の第5534回まで通算35年間続き、その後は映画、ラジオドラマ、テレビアニメとしても親しまれた。フクちゃんは早稲田大学のマスコットキャラクターにもなっている。

横山は「フクちゃん」連載終了後、児童文学の世界でも活躍した。漫画家として初の文化功労者となる。2002年には高知市に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたが、横山はその前年に亡くなっている。

赤塚不二夫が語る64人のマンガ家たち』(立東社)を読んだ。手塚治虫から梶原一騎まで。石ノ森章太郎藤子・F・不二雄藤子不二雄A園山俊二ちばてつや松本零士さいとう・たかを水木しげるつげ義春水島新司楳図かずお白土三平矢口高雄永井豪里中満智子モンキー・パンチ馬場のぼる加藤芳郎やなせたかし弘兼憲史黒鉄ヒロシ小林よしのり梶原一騎……。その中に横山隆一もいる。この本は、赤塚の目から見た漫画世界の人物誌だが、この世界の奥の深さと幅の広さを教えてくれる楽しい本である。

文化功労者の祝賀パーティーでは、仲間の漫画家たちが「米大統領閣下殿 一金百八十円」という請求書を用意した。戦争末期、米軍が降伏勧告の宣伝ビラに『フクちゃん』の漫画を無断使用したため、その原稿料を請求したのである。パーティーでは、米国を代表してマイヤーズ特別補佐官が百八十円と大きな領収書を持って現れ、横山は「これで私の戦後は終わりました。ありがとう」と言って、おもむろにサインした。こういうエピソードも紹介されている。

赤塚は、身長147cmという低身長の横山を「可愛かった」と述懐している。NHKテレビ「あの人に会いたい」では、鈴木健二アナウンサーのインタビューに答えている。いたずらっ子で勝手気ままなエプロン姿のフクちゃんの連載は、実に35年間続いた。横山本人も、何でも遊びにしてしまう天才だった。蒐集癖があり、「トキワ荘の壁土」など偉人にまつわる珍品の収集をライフワークとしていたという。他にも、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなど。75歳の笑顔の横山は実に楽しそうだ。その番組の中で、彼は「忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い」と語っている。締め切りに間に合うかどうかというスリルを楽しみ、その緊張感さえも遊びとして面白がっていた。そして亡くなる92歳まで遊び尽くした。横山隆一は「遊びの精神」を持った天性のユーモリストであり、それがエネルギー源となって作品に結実した。

代表作の『フクちゃん』は35年の連載で、横山の27歳から62歳までにわたる。キャラクターはラジオやテレビのアニメなどでさらに生き延び、一生の付き合いとなった。こういう仕事をライフワークというのだろう。

母が西郷隆盛を好きだったことで「隆一」という名前がついた。政治風刺漫画が主流だった1930年代の日本の漫画界において、横山は簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年に新聞連載の4コマ漫画『フクちゃん』が始まり、この連載は戦前戦後を通じておよそ35年間、通算5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になり、連載開始翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞している。NHKアーカイブスでは「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と、横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き、遊びの天才。収集品としては、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなど、変わったものが紹介されている。彼は忙しい時ほど遊ぶのを信条とするユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業だと考え、職業漫画家の道を選んだ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は、ナンセンス漫画で世に出ようと志した。ナンセンス漫画の風刺は、相手が気づかなければ単なるナンセンスにすぎない。しかし、隠された小さな針に気づく人だけが読者でよいという思いだった。その実例を挙げる。
・手術室の光景に添えられた「お医者を怒らせたバカ『よし、麻酔なしで手術しよう』」。
・首吊り自殺をしようとする男に「失敗したときの予備もつくるバカ」。
・海で水をかけ合う男女に「たのしく大腸菌をかけあうバカ」。

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐・高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関加藤芳郎、前頭には手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名が見える。2002年には郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたが、残念なことに本人はその前年に亡くなっていた。1997年刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、こうした言葉で締めくくられている。
「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらを磨いて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、『捨てるのも惜しいな』と思われるような作品を作ることを、画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。

 

 

 

 

「ライフシフトX自分史」ーー大野誠一と河野初江が語る100年ライフの歩き方(神保町「ブックカフェ二十世紀)

ライフシフトX自分史」ーー大野誠一と河野初江が語る100年ライフの歩き方。

神保町の「ブックカフェ二十世紀」(神保町A1出口のすぐ上)。23人が参加。司会は「アクティブ・シニア倶楽部」の都築功さん。参加者の問題意識も高い楽しい会となった。大成功!

  • 大野誠一(ライフシフトジャパン):66歳。マインド調査2025:「人生100年」に対してワクワク派4割、ドンヨリ派6割。女性のドンヨリ派7割。20代のドンヨリ派7割。金と健康という防御的心配が中心。」これからのライフデザインがワクワク感に重要。100歳以上は9,97万(女性が88%)。マルチステージ。『ライフスパンー老いなき世界(シンクレア)では120年まで若く(50代)生きられると主張。日本人は「人に迷惑をかけたくない」。100%主義の団塊世代に違和感。
  • 河野初江(自分史活用推進協議会):74歳。自分史:生きてきた証。自分を良く知る。生き甲斐が見つかる。自信と自尊心。自分のことを知ってもらう。コミュニケーションが深められる。脳の活性化。つくることが楽しい。人生100年時代は心の問題が大きい。自分史は自己肯定感を高める。点と点をつなげる。過去から自由になる。世間の物差しから自分になる。
  • 参加者:アドバイザーたち「小説自分史。地域自分史。更新型自分史。トラベル自分史。、、」。倶楽部メンバーたち「永山さん。深谷さん」。私「アクティブ・シニア革命。新・孔子の人生訓によるマルチステージ論」。

都築さんの棚3つと橘川さんの棚。

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その前に「ほんまる」の「アクティブ・シニア革命」の棚に雑誌を補充。

 

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「名言との対話」11月7日。筑紫哲也「『――という話である』を『――である』と断定することができるか」筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。享年73。

大分県日田市出身。早稲田大学政経学部卒。朝日新聞に入社。同期には本多勝一、轡田隆史、上前淳一郎らがいた。筑紫哲也朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』のメインキャスターを務めるなど、リベラル派文化人の代表的存在だった。

「日本人は安全より安心を求める」「報道記者は『炭鉱のカナリア』でありたい」と語っていた筑紫は「私はガンを患っています。ガンに侵されると、本来使うべき栄養やエネルギーがガンと闘うためにそこに取られてしまう。本来人間が生きていくためのそれに向かなくなる。この国は、一言で言えばガンに罹(かか)っているのです」。筑紫哲也は、自身が罹患していたがんになぞらえて日本を語っていた。

この人ほど、さまざまな分野、政治的立場を超えて敬愛された人もいない。立花隆が「戦後日本が生んだ最大のジャーナリスト」と言った評価を筆頭に、下記の人たちの筑紫論でわかる。

  • 良識派や真のジャーナリスト」がマスメディアの場から締め出されるなか、筑紫には幅広く垣根のない交友関係を築く「武器」があるからこそ活躍できた」(本多勝一
  • 「新聞記者のお手本、目標、憧れ」「権力の横暴、行き過ぎに対して警戒する、センサー能力がジャーナリストとしてものすごく高い」「日本だけでなく世界の歴史や文化、伝統の面に常に目を向け、日本のいろいろなジャンルの文化を継承し生まれてくる人たちを励ます。そこが筑紫さんの大きなワールドのひとつ」(岸井成格
  • 「日本人の心や社会のありかたを常に問い続けて座標軸を発信しつづけた」「自分の立っている位置を計測できる、非常に便利なツール」「座標軸男」(鳥越俊太郎
  • 「本当の意味での客観報道というものはないということを示した功績は大きい」「僕よりはるかに教養が高い、いろんなことを知っている。僕は筑紫さんに対してコンプレックスの塊」「キャスターではなく、いつも筑紫哲也としての言葉をしゃべっていた」(田原総一朗
  • 「筑紫さんのスタンスを評価しています。筑紫さんがいなくなれば日本の報道番組はもっとダメになると確信を持って言える」岡留安則
  • 「ジャーナリストではいちばんの友だち」「自分の思想を持ちながら、ある種の柔軟性を持ち、古典や世界を見渡しながら現代を論じることができる稀なジャーナリスト」(梅原猛
  • 「物事の本質を深く考えて、時代を真剣にとらえようとする姿勢が筑紫さんのメッセージに常にこもっていた」「エスタブリッシュメントからも認められていたし、保守の人たちとも議論する場を持っていました」「誰もが自分に近いと思うし、彼はそう思わせるカメレオン性の技を持っていた」(寺島実郎
  • 「知的エピキュリアン」「名伯楽」「最後まで多くの人の声に耳を傾け、自分が語るのではなく、時代に語らせることを貫き通しました」姜尚中)「バランスをとるというよりは、きちっとした座標軸がある」「常に羅針盤であった」(岡本行夫
  • 「日本のオピニオンリーダーであり、ちょっとキザ、ちょっと大衆的、このバランスが非常によかった」(堺屋太一
  • 「戦後日本のジャーナリストで国際的な見識のある人は少ないけれど、筑紫君は沖縄とアメリカとの関係を見すえた特異な存在」「英語が抜群にうまいわけではなかった(中略)けれども自在に使っていました」「彼は人間として熟していました。そんなジャーナリストはもういませんね」國弘正雄
  • 「権力が市民を傷つけないように、より深いところから鋭く監視していくことに徹する。プロ中のプロで、骨の髄までジャーナリスト」堀田力
  • 「歩くリベラル、存在そのものがリベラル」「あれだけの風圧のなかで、いろんな方向から飛んでくる批判の矢をきっちりと受けとめていた」「妙に律儀というか、偉ぶらない」「人間関係の機微を大事にし、気安い雰囲気の中で交友関係を広げていく」(佐高信
  • 「(訃報を目にして)思わず涙があふれた。凄い人だったな。いい人だったな。お世話になったな、と、いろんなことを思い出した」「勇気のある人だった」(鈴木邦男
  • 「何度も投げ出しそうになったり、圧力に屈しそうになった。そのとき、筑紫さんの書いたものが背中を支えてくれました」「ほんとうの意味での沖縄の理解者」(大田昌秀
  • 「心おきなく話ができる友人」「権力とは一線を画すというジャーナリストの矜持を持っていた」(福田康夫
  • 「新聞記者であんなに品のいい人はいないんじゃないかと思う」(三木睦子
  • 「日本がこれから歩んでいく道筋の危険さを身に感じながら、ほとばしるようにしゃべっておられた」「筑紫さんに影響されて、テロ特措法や自衛隊の出動等にも棄権をしたり退席をしたり、そういう行動をした。筑紫さんに導かれた」(野中広務
  • 「極めつきの聞き上手」「本当にこちらが安心して、胸襟を開いて話せる」田中真紀子
  • 「非常に公平・公正に私の言い分をきちんと取り入れながら、また一方で、権力側、検察側はこうだと」(鈴木宗男
  • 「名もないけれど、新しいチャレンジをする人を応援する、それが筑紫哲也さん」菅直人
  • 「いつもニコニコしていましたが、常に自分のことではなく、未来の世代に何を残せるかに心を砕いていた」辻元清美
  • 「彼の軌跡全体を眺めると、動じたところがまるでない。見事に自分を保ちきっている」「しかも、潰されない。桁外れの大物ではなかったか」(中山千夏)

「近ごろ『論』が浅くなっていると思いませんか。その良し悪しや是非、正誤を問う前に、ひとつの『論』の専制が起きると失われるのは自由の気風です。そうならないために、もっと『論』を愉しみませんか」は、「多事争論」というコーナーを設けた趣旨だ。テレビでその姿はよくみている。

『若き友人たちへ――筑紫哲也ラスト・メッセージ』(集英社文庫)を読んだ。この中に新渡戸稲造の『武士道』が出てくる。日本人は道徳教育をどうやっているのかという問いかけがあり、宗教なしに道徳教育をどうやっているのかと問われ、その答えが英語で著された『武士道』に結実した。

私の人物記念館の旅と読書遍歴は「日本とは何か、日本人とは何か」がテーマである。新渡戸稲造の記念館では、神道儒教、仏教の混合体であるという説明があった。また二宮尊徳は「神道一さじ、儒仏半さじづつ」と述べている。安岡正篤は、西洋では宗教が道徳を教える軸となっているが、東洋では宗教と道徳を合わせて「道」とする、としている。また森嶋通夫は、皇室は神道、政府は儒教、庶民は仏教という、三つの倫理体系の伸縮的な組み合わせが日本の発展に寄与したと分析している。

筑紫は「日本人とはこういうものですよ、ということを総体として説明したものはほとんどない。『武士道』が1900年にアメリカで出版されてから現在に至るまで、有効な形で日本人を説明した本、そして多くの人に読まれた本というのは皆無です」と述べている。

私は徳治主義の根幹たる倫理教育、道徳教育に当たっては、日本の偉人たちの生涯と彼らが遺した名言を用いるのがよいと考えている。「人の道」を歩いて「天」に向かう聖人たちの姿を見せるのがよい。「人物記念館の旅」も「名言との対話」も、その一環である。

2005年に訪ねた大分県竹田市滝廉太郎記念館の名誉館長は筑紫哲也氏であり、驚いたことがある。滝廉太郎の妹・安部トミの孫にあたるということだった。「大音必稀」と書した筑紫哲也の書が掲げられていた。

立花隆が『文藝春秋』に書いた「田中角栄研究」がきっかけで田中が逮捕されるに至ったとき、新聞記者たちは「あんなことは知っていた」と語り合ったそうだ。しかし、人からの伝聞と自らの調査ではものが違う。そこまで突き詰めたのかという問いかけである。この筑紫哲也のジャーナリスト魂は、学ばなくてはならない。

 

『若き友人たちへーー筑紫哲也ラスト・メッセージ』(集英社文庫