母の歌の弟子たちとの追悼の会。

母の歌の弟子たちを招いた追悼の会を鱧料理の瑠璃京で開く。

昼食会には私たち3夫婦と7人が参加。

私の挨拶。『久恒啓子遺歌集 風の余韻』の中の歌をあげながら、母の生涯を論じ、晩年の弟子たちとの交遊に感謝した。

妻として。「夫はマルクスわれは歌の書重ねつつ同じ灯明りの夜を読みつぐ」

 夫婦のあり方の歌として、私の若い頃から最も好きな歌。

母として。「次の世もこのニ男一女の母でいたし古きアルバム捲りつついて」

 慈母としての思いが伝わる、絶唱

希望。「目の前の黒幕がさっと下りるやうに終わりたしと思ふひとりの夜を」

 生前の希望通り、わずか10日間の入院で、人生の幕を下ろしました。

完結。「夫の骨片沈む博多の海に入らばわれの一世は完結をせむ」

 来年の3周忌に夫の骨が沈む博多の海に骨を沈める予定。

晩年。「今日は歌会明日は万葉と請わるることのあるを喜ぶ老いの暮らしに」

 歌の指導と、万葉集の講義と、多忙で充実した日々。

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夕刻には、医師の内尾君を訪ねて、歓談。

 

母の一周忌。

母の一周忌を宝蔵寺で無事に済ませた。少し早めについて、お墓にお花を供えて、墓石に水をかけて、お参りをする。

10時半から本堂で、住職と副住職による、昨年亡くなった母と20年以上前に亡くなった父に向けた読経と、兄妹夫婦の焼香。

宇佐神宮の神様が羅漢寺に詣でる時に、途中で寄り、宝物を保管しておいたのが宝蔵寺だと副住職から聞いた。また、久恒家のルーツについて、山口の大内家に仕えた飛騨守の流れ、藤原不比等から始まる久恒家の系図、久恒庄の存在、久恒別荘(久恒鉱造)の現在、中津市歴史資料館の久恒家のルーツ探索など、新しい知見を聞く。

 

来年は母の3周忌と父の23回忌が一緒になるという節目の年になることを確認。

住職に、母の戒名のいわれなども記した「久恒啓子遺歌集 風の余韻」をお渡しする。

 

終わって、自宅に戻り、一休み。

 

「井上」という店で打ち上げの食事会。

 

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「名言との対話」626日。パール・ バック「文明の程度は、それが弱い人、頼るところのない人をどのように尊重しているかによって測られるのです」

 

パール・サイデンストリッカー・バックPearl Sydenstricker Buck、中国名:賽珍珠1892626 - 197336)は、アメリカ小説家

南長老ミッション宣教師の両親と中国に渡り、そこで育つ。処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作を成す。1938年にノーベル文学賞を受賞した。

 

私は母親からこの大作」大地」を勧められ、読んでいる。パールバック著・伊藤隆ニ訳『母よ嘆くなかれ(新訳版)(法政大学出版局)を読んだ。それは大作家の回想ではなく、一人の母親としての苦悩の物語だった。

生涯の半分に及ぶ40年を中国で送っているパールバックは若い時代から、何冊も本を書きたいと思っており、いつでも充実感に満ち溢れた生活をしたいと思い続けていた。

25歳のパールバックは宣教師で農業経済学者であった夫と結婚し3年目に女の子を出産する。その子は知能の発達が困難な障害を持っていた。ダウン症である。生まれてすぐに中国人の看護婦は「この赤ちゃんにはきっと特別な目的がありますのよ」といってくれた。

精神的な苦闘のあげく、パール・バックは意味のないものから意味を作り出そうと決意する。

パール・バックの娘は音楽を聴くことが好きだった。特に讃美歌とクラシックには感動する。しかし、成長することがないということを認める、ことから始まる。

「わたしがいなくなったら誰が面倒を見てくれるんだろうか」という疑問にいつも悩まされる。成長しないということは、自分の状態を子どもが自覚するようになる可能性がない。この場合は悲しむ必要は無い。人生の重荷は子供から取り除かれその負担は親にかかってくるのである。

パール・バックは娘の住むところを探す決心をする。「決心すると言うことには測りしれない安心感があるものです」。

娘にとっての幸福は彼女ができる範囲内で生活することができるということであった。

9歳になるまでそばに置く。第一に子供たちのことを考えてくれる人をさがす。園長ににふさわしい人が学園長しているとを探すのがよいという結論に達する。

知能の発育が困難で、大人の水準に達しない子供の母親になったパールバックは、長い悲しい旅を続ける。そしてある養護学園を娘の永遠の家と決めて託すことになった。その園長は「幸福な子供たちだけが、学ぶことができるのです」と語る。大勢の中の1人であること、自由は多少少なくなっても、得られるものと比べてなくてはならない。そういって諭してくれた。

パール・バックは「人には全体として必ず個性があるのであり、知能の発育が困難な子どもも、他のよい性質によって十分に補っているものだ」と考えるようになっていく。

その上で同じ悩みをもつ若い母親へのアドバイスは、法人資格があり、資金が豊富な組織がよいということだった。

 

娘の終の住処となるウェルカム・ハウスは、パールバックがノーベル賞で得たお金を始め、原稿料や印税のほとんどを押さえ込んで運営されていた。

「わたしは一つ一つの言葉の生命(いのち)を誰よりも大切にしました」。パール・バックは、「いのち」を大切にしたのである。

 

文明の進歩とは何か。野蛮の状態から抜け出ることだ。不条理が少なくなることである。不条理とは本人の責任でないことで、差別を受けることをいう。社会的弱者を尊重する。それが文明の進歩だとパール・バックはいう。

社会には、世界には、不条理が満ちあふれている。それらを一つひとつ解決していくことが文明の進歩なのだ。日本、そして世界を見渡すと、長い道のりであることがわかる。

人間の不平等の存在と、それに対する怒りが、『大地』などパール・バックの文学に表れている。パール・バック平和運動に力を注いで81歳の生涯を終える。その土台には、障害児を持った母親としての苦悩が存在したのである。

 

 

鹿児島大学の稲盛記念館。

鹿児島大学の稲盛記念館。稲盛和夫鹿児島大学工学部の出身。

階段の両側が資料展示になっているという独特の記念館。一番上は京都賞のコーナー


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  • 稲盛和夫語録から。 
    • 人間の能力は未来進行形で発展します。たとえ今は実現できなくても、1年後、2年後に実現するつもりで努力を重ね、勉強をすれば必ず成長する。そのためにはまず、自分の能力が無限に発展すると信じることです。
    • 不運なら、運不運を忘れるほど仕事に熱中してみなさい。
    • 多くの日本人が自分に与えられた仕事に打ち込み、また、世のため、人のために役立とうとするなら、21世紀の日本は素晴らしいものになると信じています。
    • 創造的な仕事とは、高度な技術を開発するということばかりではない。今日よりは明日、明日よりは明後日と創意工夫をこらし、改良、改善を積み上げていくことである。一人ひとりが自分の持ち場で、もっと能率の上がる方法はないか、昨日の欠点をどうしたら直せるか、考える習慣をつけることだ。
    • 仕事の本当の喜びと醍醐味を味わうためには、渦の中心になって、周囲の人たちを巻き込むくらい、自発的に、積極的に仕事に取り組まなくてはならない。
    • ひとつの仕事や分野を深く追求することにより、すべてを知ることができる。広くて浅い知識は、何も知らないことと同じだ。
  • _____
  • 「名言との対話」6月25日。ジョージ・オーウェルよくある修辞や隠喩は使うな。短い語で十分なら長い語は使うな。一語でも削れるなら削れ。外来語や専門語はできるだけ使うな」

ジョージ・オーウェル: George Orwell1903年6月25日 - 1950年1月21日)こと本名エリック・アーサー・ブレア: Eric Arthur Blair)は、イギリス植民地時代のインド生まれのイギリス作家ジャーナリスト民主社会主義者

名門イートン校を卒業後、大学に進まずビルマで警察官となる。のちにイギリスで教師などをして小説やルポルタージュを書いた。『ウィガン波止場への道』は不況下の炭鉱生活の記録。『カタロニア賛歌』はみずから参加したスペイン内乱国際義勇軍内情を伝えるもの。『動物農場』はスターリン独裁政治を風刺した寓話小説。文学論、社会評論も多い。

代表作は、『1984年』 で、未来を描いた小説で世界中にセンセーションを巻き起こした作品である。

核戦争が起こり世界が3つに分かれて紛争を続けている。自由な思想を持つと思考警察によって逮捕される。そして人々の生活は監視されている。

核戦争が起こり世界は3つに分かれて紛争続けている。イギリスでは人々は3つの階級に分けられていた。上層階級のエリート、中間層と官僚たち、人口の大半を占める下層階級である。下層階級は教育を受けられずに労働と娯楽のみで生涯を終える運命にある人々である。

報道や記憶を管理し歴史の改ざんを行う真理省という中央省庁がある。人間のボキャブラリーを減らし思考の幅を狭めると言うこともやっている。食物の配給が減っているのに、逆に増量と報道される。

逆らった人はすぐに消されていく。全体が大事で個人の感情などを無視される。主人公は禁断の書を手に入れる。無知は力なり。戦争は平和なり。近代化によって生産物が増えると中間層が増えていくので上層は困る。だから戦争で破壊と生産を繰り返す。戦時下では人々は統制されることを受け入れやすくなるからだ。人々は上層部に登るにつれて戦争ヒステリーになっていく。自由と平等の永続を目的とする3つの大国は、いずれも現状維持を目的として、互いに了解がある。この体制に反旗を翻した主人公は拷問によって、自由とは隷従なりということが次第にわかっていく。それは恐ろしい未来であった。

 

以下、オーウェルの言葉から。

  • 暴力を憎み、政治を信用しないとなれば、のこる唯一の救済策は教育だけである。社会全体は救いようがないかも知れないにせよ、個々の人間については、まだ若いうちに手を打てばかならず見込みがあるのだ。ディケンズ幼年時代に執着するのは、一つにはそのためである。
  • ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけでなく、耳にも入らないという、素晴らしい才能を持っている。
  • 「人間の行いがよくなれば世界もよくなるだろう」という思想は、案外陳腐ではないのだ。
  • たいていの革命家は潜在的保守主義者である。なぜならば、社会の形態さえ変えれば万事が改革されると空想しているからだ。そして往々にしてこの変革が達成されると、それで事たれりとしてしまう。ディケンズはこういう粗雑な精神の持主ではない。
  • もし自由になんらかの意味があるとするならば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる権利をさすのである。
  • 重要なのは、どの人が正直であり、またそうでないかを見極めることであって、通常の包括的な非難は、これをより難しくするだけなのだ。
  • 誰もが、証拠を調べようと顧みることもなく敵の残虐行為を信じ、自らの側のそれを信じようとはしない。
  • 愚かさでさえ、全体主義よりはましである。
  • 自分の鼻先にあるものを見るためには、絶えざる奮闘が必要なのだ。
  • 国粋主義者は、自らの側が犯した残虐行為を非難しないだけでなく、それについて聞くことすらしないという驚くべき性質を持っている。
  • もっと大きなナショナリズムという病気をなおさないままで、ユダヤ人差別という病気を根治できるとは、わたしには信じられない。

「よくある修辞や隠喩は使うな。短い語で十分なら長い語は使うな。一語でも削れるなら削れ。外来語や専門語はできるだけ使うな」。本質だけを語れ。

 

 

 

 

母の一周忌で中津。まず同窓会。

母の一周忌で中津に帰っています。

夜は高校の同窓会。13人が集合。一次会は韓国料理。

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二次会はワインバー。



三次会もワインバー。
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昼は中津城近くの、図書館、蓬莱園。
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中津駅の、福沢諭吉の出迎え。
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かきかけ

「名言との対話」6月24日。本因坊秀哉「碁が自分の生命と思っているからやれるので、とても頼まれてやれることではない」

本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年明治7年)6月24日- 1940年昭和15年1月18日)は、明治から昭和にかけての囲碁棋士。家元本因坊家の二十一世で、終身名人制の最後の名人

東京都出身。10歳で囲碁を始める。11歳、方円社。除名される。19世本因坊秀栄門下。

1908年、34歳、21世本因坊。1911年、8段。1914年、41歳、名人。1924年日本棋院。1933年、59歳で20歳の清源呉に勝利。1936年、本因坊日本棋院に譲渡。選手権制。

1月18日は秀哉忌。秀哉賞がある。

TBSラジオで語った原稿があった。囲碁が日本へ渡来したときのこと、渡来後に後にどのように日本の囲碁がが発達したか、第一世本因坊のこと、支那(中国)の囲碁の現状、そして全盛期を迎えた囲碁界の様子、最後に囲碁の国際化について論じている。彼によれば以後は国技である。

終身本因坊を自分の手で配して日本棋院に譲渡して、選手権制にするという歴史的な大決断をしている。将棋の世界においても名人は終身制から選手権声に移る、そういう時期であった。そして手にした名人位も同じ判断をした。そういう意味では囲碁の歴史と未来への展望を持った人であったように思う。

囲碁は国技であり、その頂点に位置した人が、自分の命と考えていたから、できた決断だっだのであろう。

 

 

 

 

 

鹿児島県立図書館の「海音寺潮五郎コーナー」を訪問。

鹿児島県立図書館の「海音寺潮五郎コーナー」を訪問した。弟子筋ともいえる司馬遼太郎と写っている写真は貴重だ。書斎で執筆す写真も興味深くみた。

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年明治34年)11月5日 - 1977年昭和52年)12月1日)は、日本小説家作家

1929年、中学校の教師時代に、「サンデー毎日」の懸賞小説に当選。この時から海音寺潮五郎の筆名を使用する。1934年、専業作家となる。歴史上の記録である膨大な史料を用いて史実と虚構を峻別しながら、歴史の真実を描く伝記である史伝文学の復権をめざした。史伝文学は、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語形式で記述する方式で、フィクションの要素を完全に排除するやり方だ。森鴎外の書いた「渋江抽斎」は、史伝文学の傑作である。

海音寺は「歴史はまず文学から入るべき」という考えを持っていた。史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすという主張である。歴史の学び方はまず文学からという主張には賛成だ。文学、そして漫画、講談、アニメ、ゲームから学ぶのがいい。

1959年から「武将列伝」と「悪人列伝」を『オール読物』に連載する。100人から200人を想定していたが、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人で終わっている。これを時代順に並べれば日本の歴史になるという構想だった。

絶頂期ともいえる 1969年に引退宣言し、大好きな西郷を描く長編史伝『西郷隆盛』の完成、『武将列伝』、『悪人列伝』に代表される人物列伝の一層の充実、5部作『日本』の完成を目指した。「大長編史伝」の『西郷隆盛』全9巻という長編が絶筆となるのだが、1977年に死去し、全生涯書くことはかなわなかった。他の作品もいずれも未完成に終わった。代表作のほとんどは未完成に終わっているのが残念な気がする。

NHK大河ドラマでは、1969年の「天と地と」、1976年の風と雲と虹と」に採用された。また、史伝文学の復興に貢献し菊池寛賞を受賞。文化功労者にもなっている。

第3回直木賞した海音寺は、直木賞選考委員として司馬遼太郎を高く評価し、第42回受賞に貢献した。しかし司馬と同年の時代小説家・池波正太郎には厳しく、何度も低評価を与えている。「この人にやりたいという人が多かったので、ぼくは棄権することにした。今のところ、ぼくはこの人の小説家としての才能を買っていない。ぼくを見返すようなしごとをして下さい」として、委員を辞任している。海音寺の史実を踏まえた史伝志向と、江戸という時代に題材をとった想像を膨らませた池波の歴史小説との違いだろう。その後の池波正太郎の活躍は海音寺の指摘に応えたと言えるのではないだろうか。

『新名将言行録』(河出文庫)を読んだ。海音寺は、この本の中で自身を「ぼくは」と表現していて面白く感じた。986年生まれの源頼義から始まり、1533年の島津義久、1569年生まれの立花宗茂まで16人の武将を取り上げている。私の郷里の中津の殿様であった黒田如水については、不運な人であると慨嘆している。一流中の一流の人物で、運があれば天下を獲ったかもしれない。遅れてきた天才だったとし、如水の訓戒、遺訓、遺品などについて解説している。如水より二つ年上で秀吉に仕えた竹中半兵衛は、一代の策士であるとの評価だ。策士は俗欲がなく、従容とした風姿を持ち、策を立て見事に運ぶことが楽しいという人物が多く、その代表が如水と半兵衛という指摘だ。名将の言行録は、いかに生きるべきかに悩む人々の指針になるから、当時は争って読まれただろう。

冒頭に掲げた「士は為さざる所あり」とは、立派な人はいかなる目的のためにも、いかなる場合にも、きたないことをしてはならず、必ず手段を選ぶべきであるという意味でだ。嘘をつく、責任を回避する、人を裏切る、そういう卑劣なことをせずに、堂々と王道を歩めという戒めだ。

海音寺潮五郎に向き合う中で、人物列伝に連なる「史伝」というスタイルに関心を持った。考えて見れば、私の「名言との対話」も人物列伝という色合いが強い。書いていながら、ふと歴史を紀行をしている気持ちになることがある。日々書き続けて数千人、あるいは1万人に達した段階で、それを生年順か没年順に並べると、に日本現代史、日本近代史、あるいは日本史になる可能性がある。海音寺潮五郎からはヒントをもらった。 

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寺島実郎さんから電話あり。「世界を知る力」は550万の視聴だとか。友人の動向など。7月に近況報告でうかがうことにした。

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「名言との対話」6月23日。岸田隆盛「醒めよ、吾が冷き理性、醒めよ、吾が、強き意力、常に爾(なんじ)を欺(あざむ)きて、眠らせんとする、卑屈なる吾を鞭打て、吾は弱し、されど、吾は、吾自ら進まざる可らず。醒めよ!常に醒めよ!」

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年明治24年〉6月23日 - 1929年昭和4年〉12月20日)は、大正から昭和初期の洋画家。父親は新聞記者実業家岸田吟香

劉生は15人兄弟の第9子の四男。画家として著名。この人も何をやっても一流だった。落語もうまく、打ち込んだら真打ちという腕前。1851年生まれで1929年に38歳で没。

「摘録・劉生日記」(岸田劉生著・酒井忠康編:岩波文庫)を読了。38歳で亡くなった岸田劉生の30歳の正月から5年間の毎日の日記である。この人の全集は全十巻なのだが、二期は全五巻であるから、文章もうまかった画家の代表書籍といってもよい。自分が描いた挿絵もうまい。友人たちと自宅に作った土俵でよく相撲をとっている。武者小路実篤木村荘八志賀直哉梅原龍三郎中川一政山本鼎倉田百三、など同時代の友人たちの名前が頻繁に登場する。娘の麗子ことの記述も多い。代表作品「麗子像」のモデルである。

関東大震災の様子の記述も生々しい。「ああ何たる事かと胸もはりさけるようである。家はもうその時はひどくかしいでしまった。もう鵠沼にもいられないと思ったが、これでは東京も駄目か、、、、。つなみの不安でともかくも海岸から遠いところへ逃れようと、、、」

  • 全力を尽くさなくてはならぬ、芸術の神の前にのみ自らの画を見せることを思え。
  • 他人に何と思われても自分は自分の仕事の世界をのこせばこれ以上の誇りはない。

「これからずっと続けたく思う。一冊、一年中の事がこの日記に記されたら不思議な味の本になる。」と日記を書く事にした決心を語っている。その通りの味のある本に結実している。

「一見して人の心をうつものをかきたい。深い力で、そして見れば見る程深いものを。これが自分の為す可き仕事であり道である、、」(岸田劉生

愛娘・麗子の5歳から16歳まで膨大な作品群を描き続けた天才画家・岸田劉生は、人生遍歴を重ねながらとうとう、自分の歩むべき道を発見した。立派な芸術作品をみるとシーンという感じになることがあるが、一ヶ月半を費やした労作である有名な麗子座像は、岸田の気迫がひしひしと伝わってくるそのような作品である。為すべき仕事を為す、これが歩むべき道である。

因みに、父の岸田吟香の生涯も興味深い。世田谷美術館で、岸田吟香岸田劉生、岸田麗子という三代の芸術家一家の歴史を追う企画展をみた。吟香は1833年岡山県うまれ。昌平坂学問所で学んだ尊皇攘夷の志士。1850年代は、ヘボンの和英辞書編纂を手伝う。日本発の民間新聞を刊行。1870年代。東京日日新聞主筆。日本最初の従軍記者として台湾取材。明治天皇巡行に随行。目薬を扱う楽善堂を創業。1880年代。訓盲院を開校。1890年代には 中国、朝鮮の地図を編集。日本薬学会や全国薬事業組合の要職。1905年、72歳で没。

なんと目まぐるしい人生か。左官、泥工、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の亭主、骨董屋まがいの商売、、と「ままよの銀次」となる。銀公が変じて吟香となった。横浜で企業家となり、江戸横浜の定期航路、北海道函館での氷製造販売、越後での石油採掘、などを経て、ヘボン直伝の液体目薬の製造販売で成功。
180センチ、90キロの巨漢。絵を描き、書もうまく、実業もできる。わが国発といわれる形容がつく事業が多いのが特徴だ。「維新諸行 翁実唱始」の人。
「本格的和英辞書」「博覧会批評」「従軍記者」「記者としての天皇巡行随行」「芸術家への海外留学支援」「中国地誌図」「東亜同文書院」「盲学校」、、、。すべて初物である。画家の高橋由一、写真の下岡蓮杖、浮世絵画家の小林清親田崎草雲など友人も多い。東京日日新聞では、本名福地源一郎の桜痴の論説と吟香の雑報が二枚看板だった。才能を撒き散らしたところなど、この二人はよく似ている。時勢に応じて立ち位置を少しづつ変化させるなど、先見の明と巧みな処世術だった。

 

 

 

 

「図解塾」:「情報の文明学」の図解化プロジェクト、中間点を通過。

「図解塾」5期の6回目。「情報の文明学」の図解化プロジェクト進行中。中間地点を通過。

塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。解説で具体的な例などが示されて、すき間が埋まってよく分かりました。「疑似産業」「期待産業」など、社会の中で使われてはいませんが、いろいろな産業を解釈する上でたいへん分かりやすい表現だと思います。また、「情報の情報」のページで、「アダプター」と「アセンブリー(プラットフォーム)」も目から鱗の新鮮な見方でした。現在につながり、将来にも延長していく産業の見方だと思います。最後に言われた「つらぬく人とつらねる人が必要」という言葉も、たしかにそうだと思います。語呂合わせもいいし、これから折に触れて話の中などで使っていこうと思います。
  • 本日もお疲れ様でございました。宿題だった清書した図の説明から、もう一度詳しくお話くださり、分からなかった点が線でつながりました。ありがとうございました。文明系の発展を、装置と制度の組み合わせで考えることで理解しやすく、情報産業の趣味化のお話では、具体的なものをあげることで情報を伝えることがたやすくなることの具体例を見ることができました。また、だれが金を払うのか、など、図でみることで→いれたいけれど、という箇所も出てきたり、期待産業ということばも、それぞれの装置の内容を詳しくつくと、どこが期待なのかが理解できました。梅棹先生のおっしゃってる単語は奥が深いなと思いました。情報の情報ではアセンブリー産業の箇所が面白かったです。なるほどますます大きくなっていって、次週清書される編集のお話は、こことつながっていると思いました。免許とお免状のお話も、情報手段の独占、非独占と区別するなど、おもしろかったです。次回も、みなさんで清書された図をもとにまた解説していただくのを楽しみにしております。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。前回に続いて梅棹忠夫先生の「情報と文明」手書き図解のパワポ化。今回は「情報の考現学」の部分を発表させていただきました。情報産業社会ではあらゆるものが消費と結びついて趣味化し、新たな産業・サービスが生まれている、ということがよくわかりました。例えば「農業」が趣味化すると「一坪農園」が、また「工業」が趣味化すると日曜大工や陶器づくり、ハンドクラフトなどの市場が新たに広がっていくといった見方は大変面白く感じました。また、情報社会をお金の流れからみると、実は情報の伝達者が一番潤う構造になっていること、 「情報の情報」を扱う 批評家や解説者などが不可欠となる社会であること、出版業は「情報を組み立てる」産業であることなど、面白い視点がたくさんあり興味深い内容でした。次回は「空間と時間」という切り口から「情報」を扱う部分を担当します。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、今日もありがとうございました。大遅刻での参加申し訳ありません。。。情報産業の形として、情報を生産する人と編集する人という役割分担が生まれてくる話は、梅棹先生が事例として挙げている産業や職業以外にも今の時代で当てはまるものもいろいろとあることが想像できました。梅棹先生が選んだ言葉とは違う形で定着しているものも本質は同じと考えることができると理解しました。久恒先生からご紹介のあった言葉「異質のものを組み合わせることが創造」とはまさしく昨今、言われているイノベーションですし、「貫く人(つらぬくひと)と連ねる人(つらねるひと)」という言葉はゴロも良く、産業人をざっくり分類するのにぴったりの言い回しだと思います。次回もよろしくお願いします。
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昼食は、橘川さんと。

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「名言の暦」6月22日。堀越二郎「私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった」

堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年明治36年)6月22日 - 1982年昭和57年)1月11日)は、日本航空技術者 

群馬県藤岡市出身。東京帝国大学工学部航空学科を卒業後、三菱内燃機製造名古屋工場に入社した。日本海軍九六式艦上戦闘機の設計者となり、零式艦上戦闘機ゼロ戦)の開発責任者となった。ゼロ戦は、長大な航続距離と優秀な操縦性能により、かくかくたる戦果をあげたことはよく知られいる。採用された1940年は、日本の紀元2600年だったところから、末尾の零をとって零式艦上戦闘機と名付けられた。「兵器ではなく工芸品」とまで呼ばれた名機である。は格闘能力・運動性能(源田実)と速度と航続距離(柴田武雄)という二つの課題を高度の技術で解決した名機であった。アメリカのパイロットたちは「ゼロに逢ったとき、ゼロには一対一の格闘戦をするな」という指令が出されていたという。堀越は零戦の後は、雷電や烈風の設計主務者をつとめている。

戦後、ゼロ戦操縦装置の基本理論で工学博士となり、東京大学宇宙航空研究所、防衛大学校日本大学などで教職につく。1957年に始められた初の国産旅客機YS-11の開発・設計にも携わっている。1962年から日本航空学会会長を務めた。

堀越二郎が生まれた1903年は、堀越自身が自伝で語っているように奇しくもライト兄弟が初めて有人動力で空を飛んだ年である。

大学同期の木村秀政が「綿密で粘りこくて緻密な男」と評していたように、口下手で内向的であった。

ジブリのアニメ作品『風立ちぬ』のモデルとなる堀辰雄の婚約者・矢野綾子は、辰雄31歳の時に富士見の療養所で死去する。この堀越二郎を掘辰夫の名作「風立ちぬ」の主人公としてゼロ戦設計者・堀越二郎を描いたのが、宮崎駿版アニメ「風立ちぬ」である。

原作・脚本・監督の宮崎駿によればこ、映画の絵コンテを描き終わったのは、東日本大震災の前日だったとのことだ。関東大震災から始まって、第二次大戦での敗北に終わる宮崎版昭和史は、3・11とも関係していたのだ。

子どものためのアニメしかつくらなかったジブリが初めてつくった大人のための作品だ。天下国家のための仕事と自分の家族との関係を両立させようとした物語となった。堀越二郎の上司であった父を持つ野田一夫先生はこのアニメをみて、実際の姿とは違うと違和感を語ってくれたことがある。

堀越二郎の「零戦 その誕生と栄光の歴史」(角川文庫)では、堀越二郎が自分のことや創造性について語っている。私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった」の言葉の後には、「裏づけのない議論のための議論はきらいで、実物と実績で見てもらいたいという主義だった。、、これこそが、技術に生きる者のよろどころであることを身にしみて感得した」が続く。

そして「技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である」とも語る。

堀越には「実物、実績、事実、現実」など「実」という言葉が多い。技術者の仕事には時間、予算など、常にきびしい制約条件がつきまとう。その枠の中で最高水準の成果をだすためには、さらに「実」を越えた自由な着想、発想も求められるとも語っている。技術者として課題に向き合う私たちの目の前の仕事も同じである。

 

(参考資料:文芸春秋2013年8月号「風たちぬ。宮崎駿半藤一利対談」。Gakken「堀越二郎零戦」。堀越二郎零戦」。映画パンフ)

 

 

 

 

西郷南洲顕彰館で購入した『西郷隆盛漢詩集』と『南洲翁遺訓に学ぶ』を読む。

西郷南洲顕彰館山田尚二・渡邊正『西郷隆盛漢詩集』(財団法人西郷南洲顕彰会)と『南洲翁遺訓に学ぶ』(公益財団法人荘内南洲会)を購入。その2冊を読んだ。

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西郷は、日本を代表する漢詩人で200篇以上の作品がある。そして偉大な書家でもあった。

「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し 丈夫は玉砕してせん全を愧ず 一家の遺事人知るや否や 児孫の為に美田を買わず」(感懐:心に感じたこと)

「酷吏去り来たって秋気清く 鶏林城畔涼を逐うて行く 須らく比すべし真卿身後の名 告げむと欲して言わず遺子への訓 離ると雖も忘れ難し旧朋の盟 胡天の紅葉凋零の日 遥かに雲房を拝して霜剣横たう」(朝鮮国に使するの命を蒙る)

「独時情に適せず 豈歓笑の声を聴かんしむや 羞を雪がむとして戦略を論ずれば 義を忘れて和平を唱う 秦檜遺類多く 武公再生し難し 正邪今那ぞ定まらむ 後世必ず清いを知らむ」(闕を辞す:官職を辞して朝廷を去り、帰郷すること)

「八朶の芙容白露の天 遠眸千里雲えんを払う 百蛮国を呼んで君子と称するは 高標不二の戴有るが為なり」(富岳の図に題す)

 

『南洲翁遺訓』は、戊辰戦争で最後に帰順した庄内藩に対して東征側の薩摩軍が極めて寛大な条件を出して王道的な処置をした。それを伝えたのは黒田清隆であったが、命じたのは西郷であった。このことに感激した庄内藩は優秀な者を選んで鹿児島に留学させ、西郷に学ばせた。西郷から学んだことを小冊子にし、全国の心ある人に配った。

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬものなり」

「賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き衆説を容るるとも、取捨方向なく、事業雑駁にして成功有るべからず」

「政の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り」

「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正くし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し」

「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先ず我が国の本体を居え、風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ」

「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず」

「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也」

「節義廉恥を失いて、国を維持するの道決して有らず。西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆之れに倣い。人心忽ち財利にはしり、卑吝の情日日長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相い讐視するに至る也」

「正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かる可からず」

「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行われ難し」

「道は天地自然の未知なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ」

「学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず」

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

「道を行う者は、天下挙てそしるも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也」

「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦いに臨みて逃ぐるより猶お卑怯なり」

 

私は大学生時代にクラブ活動で人間関係に悩んだ時、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」という西郷の言葉を知り、切り抜けたことがある。その後も、この言葉を信条として仕事をしてきた。こうやって、改めて「遺訓」を眺めてみると、西郷の偉さがよくわかる。そして、この遺訓は、今の世への警鐘となっていることに驚く。「道」の再興が大事だ。

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7月の「名言との対話」で取り上げる明治生まれの人物候補を決定。

坂田三吉三島海雲。疋田豊治。巌谷小波清瀬一郎。佐藤紅緑サチェル・ペイジ。佐々木信綱。清水幾太郎吉行あぐり。岩崎憲。西竹一。青木繁。里見弴。永野重雄アムンゼン。安達峰一郎。山崎寿春。鯨井恒太郎。種子島時休。遠山元一。田中一村下山定則金子直吉。島津源蔵。小山内薫山本有三。大原孫三郎。重光葵中村天風柳田国男

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「名言との対話」6月21日。須藤永次「強力な競争会社をたくさん作って、切磋琢磨していなかくちゃならない」

須藤永次(1884年6月21日〜1964年2月21日)は、日本の実業家。

山形県出身。尋常小学校を卒業し蚕物問屋に奉公する。9年の奉公を終える頃には、「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやりたいと心に決める。

いくつかの挫折を経て、浅野総一郎との幸運な出会いがあり、商売に活路ができる。このとき、須永は自分より目上の人との交際をしようと決め、交際費は自分で支払うことととする。浅野は「稼ぎに追いつく貧乏なし忍耐」と揮ごうして須永を励ましている。須永はこの出会いに感謝し、浅野を生涯の師として事業に励んでいく。

1918年に吉野石膏採掘製造所をスタートさせる。1920年に倒産寸前の置賜郡是製糸を引き受け立て直しに成功する。1929年に生糸価格の暴落で倒産。

再起をはかり、1931年にリン酸石膏で焼石膏にするテストに成功し、安い価格の生産が可能になる。耐火ボード普及に弾みがつく。1937年、株式会社化する。その後も、幾多の困難を乗り越えて会社を発展させていく。

一般社団法人石膏ボード工業会では、「石膏ボードは、石膏をしん材とし両面を石膏ボード用原紙で被覆成型した建築用内装材料で、防火性、遮音性、寸法安定性、工事の容易性等の特徴をもち、経済性にも優れていることから「なくてはならない建材」として建築物の壁、天井などに広く用いられています」と説明している。

燃えない建材を大量に普及させるために、技術を直接指導し、ライバル会社を多く作って、石膏ボード業界を作った。自社の一人勝ちよりも、「業界」を作ることを使命としたのである。そして「石膏ボード工業会」を設立し、会長となって業界を指導している。

意識して「業界」をつくるという使命感は、若い時代に「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやろうと決意したことが本物だったことを証明している。