『心を成長させる 名経営者の言葉』(日本実業出版社)を刊行。

電子出版で、『リーダー・管理職のための 心を成長させる 名経営者の言葉』(日本実業出版社)を刊行。

食、健康、美、文化、教育、メディア、電機、養豚、映画、酒、芸術、電力、花、出版、ファッション、スポーツ、漫画、情報、テレビ、新聞、ホテル、書店、、、などあらゆる分野の戦後日本の事業家・経営者たちが絞り出した珠玉の名言、極上の言葉と、その言葉が生まれた背景を紹介。

 

以下の人物を取り上げている。

梁瀬長太郎。鹿島守之助。石田礼助田辺茂一。櫻田武。川又克二。佐伯勇。岩田弐夫。弘世現。布川角左衛門。藤井康夫。立川孟美。盛田昭夫。鈴木常司。賀来龍三郎。小倉昌男。増田通二。佐伯勇。氏家斎一郎。山下俊彦。堤清二船井幸雄

鳥井信治郎本田宗一郎石橋信夫新井正明利光松男。大社義規中内功。平岩外史。村木良彦。大賀典雄岡田茂。樋口廣太郎。保直次。笹崎龍雄。江副浩正堀場雅夫

川喜田半泥子奥村綱雄勅使河原蒼風。樫山純三。土光敏夫。田村魚菜。松前重義。大槻文平。柳田誠二郎。長井勝一。斎藤英四郎。中野又右エ門。松尾孝。村上信夫安藤百福。小島勝平。鬼塚喜八郎。小西和人。高宮行男。高野悦子。甘糟章。

石坂泰三。木川田一隆。越後正一。塚本幸一。美川英二。武田豊江頭匡一。稲森俊介。瀬戸雄三。永島廣雄。

石田退三。立石一真。清水達夫。磯田一郎。園城寺次郎。井深大。河村勝己。佐治敬三。高橋荒太郎。鳥井信一郎。岩谷直治。永谷嘉男。能村龍太郎。山田昭男

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・川柳の整理。1冊108句で2冊分が完成。さて、これのイラストや表紙をどうするか。『深呼吸和歌集』を参考に。

・スイミング300m

・参加型社会学会ミーティング。

・力丸さんとのミーティング。

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「名言との対話」12月6日。土井晩翠「天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ 嗚呼荒城のよはの月」

土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日明治4年10月23日) - 1952年昭和27年)10月19日)は、日本詩人英文学者

土井晩翠は仙台には晩翠通りという大きな道路があるなど市民には馴染みの深い名前である。2005年の日曜日の午後、青葉通りと晩翠通りの交わったあたりにある晩翠草堂を訪ねた。平屋で立派な庭もあり、漱石草枕に「要領を得ぬ花が安閑と咲いている」と書いた木瓜(ぼけ)の実がなっていた。晩翠の自宅は太平洋戦争の空襲で3万冊の蔵書とともに焼けてしまった。この草堂はそれを見かねた晩翠の弟子たちがお金を集めてつくってくれたという曰くつきの家である。30歳から母校仙台第二高等学校の教授であり、優れた教育者であった晩翠の影響力を象徴する出来事といってよいだろう。

晩翠は第二高等学校から東京帝大文学部にすすむが、その前に質屋という商売には学問は要らぬという祖父から進学を止められた晩翠は、日本最初の和英辞典をつくった斉藤秀三郎の仙台英語塾に入っている。

30歳で故郷に帰った晩翠は3年間のヨーロッパ留学期間を除き、仙台で生活をする。第二高等学校で64歳で定年になるまで続けた優れた教師としての仕事と、影響力のある著作の執筆にその生涯を費やし、失意の中で仙台に住みその自然にすっかり癒されて生まれ変わった経験のある島崎藤村とともに、2人の自由詩の巨人の「晩藤時代」を築く。1949年には仙台名誉市民、1950年には詩人として初めての文化勲章を受章している。仙台には晩翠の教え子たちで構成された晩翠会という会が、訪問した2005年時点で健在であると聞いて驚いた。かなりの高齢者が多いが、事務局が仙台近代文学館にあるとのことだった。1952年に80歳でその生涯を閉じた晩翠の記憶は仙台の人にはまだ鮮明な像を結んでいる。

晩翠草堂に掲げてある写真の中で、もっとも惹かれたのは「晩翠と教え子たち(二高教室にて)」という写真だ。壮年の晩翠を真中に40名ほどの旧制高校生達が笑顔で取り囲んでいる。敬愛された素晴らしい先生であったことをうかがわせる写真である。「教師・土井晩翠(吉岡一男)」というエッセーには「全国から来る学生の面倒を見たり、卒業してからの相談にのるなど学校内外でも尊敬される先生でした。」「人生を教えてくれる名物先生でした」とある。

晩翠には第一詩集「天地有情」、「曙光」「暁鐘」「那破翁」「東海遊子吟」などの優れた作品がある。一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞や「星落秋風五丈原」だろう。築館出身の白鳥省吾の書いた「詩聖」の額が飾ってある。また、「空は東北山高く」で始まる第二高等学校校歌を作詞した晩翠は、求めに応じて県内はもちろん日本各地の200以上の校歌の作詞もしている。

展示された本の中には「雨の降る日は天気が悪い」(装丁は岡本一平)という伊達政宗と沢庵和尚の禅問答に題材をとったものもあった。この本で「つちい」から「どい」に苗字の読み方を変えたいきさつを書いてあるそうだ。

晩翠草堂には二部屋あり、ベッドのある寝室には「酒という文字を見るさえうれしきに のめといふ人 神か仏か(読み人知らず)」という自ら書いた書があった。酒好きだったのだろうと親しみを覚えた。

「Moon Light Elegy」(R.Taki)という額も飾ってあった。荒城の月の英訳である。晩翠はこの英訳が気に入っていたという。そして野口明という人の描いた晩翠像を写真にしたものは、マント姿という二高教授の正装だった。凛々しい姿を表現しており、これもお気に入りだったそうだ。

晩翠を敬愛する晩翠草堂の案内のおじさんは的確な知識とあふれる熱意で説明してくれて感心した。この草堂は仙台市の持ち物だが、「窓口サービスアンケート」の結果を張り出してあり、5点満点で4.87という高得点だった。熱意ある案内人の人柄と風貌、これも人物記念館の好もしい風景の一つである。1960年から、晩翠賞と児童賞(東北6県)が続いている。

晩翠の作品で一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞だろうか。その4番を自分なりに訳してみよう。「空の月は永遠にかわることなく存在している。栄枯は盛衰するという人の世の姿。月はそれが真の人の世の姿であると示そうとしているのであろうか。今は荒れ果てた城には栄えた時代の光はなく、ただ夜半の月だけがみえる」。

 

 

 

 

 

「川柳」生活も2ヶ月。1日7句で400句となった。

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10月から川柳を始めて2ヶ月経った。1日7句つくろうと決めていたら、いつの間にか400句ほどになった。

自己流なのでこれが川柳と呼んでいいのか、という疑問はあるが、自分なりに楽しめているから、まあいいか。「一人一党」という言葉もある。当面はそれでやってみよう。

  • ユニクロと スシロー ニトリ 衣食住
  • 幸せは 小さな方が 安心だ
  • 禿頭と 白髪の夏 同窓会
  • 四世代 三々五々の 七五三
  • チト早い 二度寝起きたら モウ遅い
  • 哀しいね こんなヤツらに立法権
  • 多様性 生物以上の 人間性
  • 会社人 卒業やっと 社会人
  • 人を責め 自分に甘い 正義漢
  • 文化の日 たまには本を 読もうかな
  • 地図アプリ 方向オンチ まだ迷う
  • どこみても 必要なのは 荒療治
  • 秋深し 今日は喪中の 葉書来ず
  • 震度ゼロ 一番怖い 凪の今
  • お歳暮も 鬼籍が増えて 減ってゆく
  • 不器用が 器用貧乏 越えてゆく
  • のど自慢 家族自慢 クニ自慢
  • 床山呼び出し相撲取り行司審判、大相撲
  • 国難は らしさ失う 日本人
  • 政治屋の 不祥事に麻痺 you,tooか
  • サザエさん 庶民の笑い 今もなお
  • うたた寝も スマホ・リモコン 腹の上
  • どの会も 緊急課題は 若返り

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「名言との対話」12月4日。古賀忠道「弱いものを かわいがる心を育てたい」

古賀 忠道(こが ただみち、もしくは、こが ちゅうどう、1903年12月4日 - 1986年4月25日)は上野動物園初代園長。

佐賀県出身。1928年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。東京市公園課に就職し、1882年に開園した上野恩賜公園動物園に勤務した。1937年、クロヒョウ事件をきっかけに動物園長職ができ初代園長に就任。

動物園は一種の教育だとの信念があった古賀園長は、1946年に映画館「かもしか座」の開設、1948年には子供動物園を開園、おサル電車の開通などを実行した。
1949年、インドのネルー首相よりアジアゾウの「インディラ」が贈られて、大ブームとなる。翌年の1950年には列車でインディラを運び、日本各地の動物園で披露する移動物園を実施している。アイデアの豊富な名物園長であった。1962年、上野動物園創立80周年記念祭を最後に退職した。

退職後は、財団法人東京動物園協会理事長に就任。国際自然保護連合(IUCN)日本委員会の委員長、世界野生生物基金WWF)日本委員会の設立に尽力した。

古賀忠道生誕100年の2003年には、記念展示が行われ、写真、解説パネル、記録フィルムが上映された。古賀忠道は、「ZOO IS THE PEACE」とも語っていた。世界で内乱や紛争があると、動物も悲惨な状況に陥る。上野動物園クロヒョウ脱走事件(阿部定事件、ニ・ニ六事件と並ぶ11年の三大事件)もあり、日本でも第二次大戦中は、飼育動物を殺害している。平和を願う動物園人の願いをこの言葉に込めたのである。動物園は平和施設という考えでもあった。

NHK「あの人に会いたい」の映像をみた。狭く日当たりの悪い環境の改良を行っている。ノイローゼになる猿が多かったこともあり、野生の環境をサル山という形で実現し、野生展示という新しい方法を開発している。

古賀によれば、動物園は一種の教育施設だ。アメリカ・ワシントンの膨大な博物館群や上野の博物館、美術館などは、国民教育の文化施設だと感じていたが、動物園もとくに子どもの教育に大きな影響のある施設なのだ。古賀は「やさしい心」を育てようと、子どものための施設の改良やイベントを開発したのである。

移動動物園では、静岡、甲府、新潟、青森、札幌など、インディラらを連れて3500キロの旅をし、日本各地の動物園で子どもたちに親しませている。

「園長さん」として親しまれ、上野動物園を世界有数の動物園に押し上げた古賀忠道は、子どもの「弱いものをかわいがる心を育てたい」と映像の中で語っている。

私の動物園経験をふり返ると、子どもの頃に行った以外は、子どもが生まれてからはよこはま動物園ズーラシア、孫が生まれてからは多摩動物公園に通っている。そういえば、上野動物園には入ったことがないことに気がついた。古賀忠道が精魂を傾けた動物園をみることにしよう。

 

神保町で本を物色。丸の内のKITTEでJAL時代の仲間との会食。

来年の「名言との対話」をどういうテーマにするか、検討中。

夕刻の会食の前に、神保町の古本屋をぶらぶらする。

『幕末維新大人名事典』(新人物往来社

アマゾンで購入した本が届いた。

『全国版幕末維新人物事典』(歴史群像編集部編。学研)

同じく、『アジア人物史 アジアのかたちの完成』(集英社

 

kindleUnlimittedで入手。

『超ビジュアル! 幕末維新人物大事典』(矢部健太郎監修。西東社

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夕食は、KITTEの「久し路」で、JAL時代の仲間との食事会。

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朝はヨガを1時間。

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「名言との対話」12月3日。種田山頭火「私にできることはたった二つしかない。酒を飲むこと、句をつくること」

種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)1882年明治15年)12月3日 - 1940年昭和15年)10月11日)は、日本自由律俳句俳人

山口県防府市出身。大地主の長男。10歳の時、母・フサが自殺し祖母の手で育てられる。15歳前後で俳句を詠むようになる。東京専門学校高等予科を経て、早稲田大学文学部文学科に入学。神経衰弱で退学し、実家へ帰郷。27歳、結婚。31歳、井泉水主宰の『層雲』に投稿句が掲載される。山頭火の俳号を使い始める。41歳、単身上京し関東大震災に遭遇。

42歳で得度し寺男になるが、43歳から西日本を旅し『層雲』に投稿する。50歳、山口市で、「其中庵」。54歳、雲水として山梨県、長野県、東北各地を旅する。56歳、山口県湯田温泉に「風来居」。翌年松山市に「一草庵」。享年57。

山頭火は、自由律句の萩原井泉水門下で、尾崎放哉と双璧をなす俳人である。

種田山頭火 名作全集(電子版)』(種田山頭火文学研究会)を手にした。

一茶の鋭さと飄逸さを好んでいて、「ひとり住めばあをあをとして草」という句もある。旅の間の日記は実に興味深い。旅の間に書いている心情と句を交えながら読み進めた。

  • 私はまた旅出でた。愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
  • 「何と旅はおもしろい事がある!」
  • 袈裟のかげに隠れる。嘘の経文を読む。貰いの技巧を弄する。市街を根気よく行乞う。入浴、雑談、横臥、漫読。物知り坊主。ホントウの苦労人はいい。あたたかい宿。入浴という享楽。酒のうまさを知る幸福と不幸。安宿の朝の面白さ。
  • 「旅で出来る句は無理に作ったのでないから、平凡でも、その中に嫌味は少ない」。
  • 「お天気はよすぎる一人ぼっち」「水の味も身にしむ秋となり」「年とれば故郷こひしいつくつくぼうし」「何とたくさんの墓がある墓がある」「秋寒く酔へない酒を飲んでゐる」「捨ててある扇子をひらけば不二の山」「
  • 52歳の新年には、「ふりかえりみる過去は「あさましい」の一言で尽きる」とあるが、感情をいつわらないようにしていきてきたことがせめてものよろこびとし、「独慎」の文字を心の中の紙に書いている。自らを幸福な不幸人として「このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく」と詠んでいる。
  • 生きている間は感情を偽らずに生きること、死ぬときには「コロリ往生」を遂げることを念じている。

「酒を飲むこと、句をつくること」の後には、「飲んでは苦しみ、苦しんでは飲む、食ふや食はずで句作する、まことに阿保らしさのかぎりだ、業、業、業。」

山頭火は、57年の生涯で1万2千句を詠んでいる。この多さは、旅から旅の放浪生活を送ったからだろう。そして放哉と同じく、放浪と酒が欠かせない日々であった。

山頭火については、高校時代の古文の先生が研究家であったこと、そしていろいろな場面で名前に接してきたが、今回その姿をおぼろげながら知ることができた。日本各地を雲水としながら旅をし、そのときどきの人間的な感慨を自由律の句に表現する姿には、共感する人が多い。私もファンになった。

 

 

都内を回る:丸の内「静嘉堂文庫美術館」には入れず。東銀座で橘川さんんと昼食。丸の内「三菱一号館美術館」で「ヴァロットン展」。KITTEビル。深呼吸学部「コギト」。早朝はW杯。

新しくできた静嘉堂文庫美術館(丸の内)を訪ねるが、人気があり、予約がないと入れない。静嘉堂文庫美術館 - 東京・丸の内にある美術館。国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500件の東洋古美術品を収蔵。 (seikado.or.jp)

 

丸の内で「後姿探検隊」。
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13時:歌舞伎座前で、橘川さんと待ち合わせ。
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農口尚彦研究所?

農口尚彦研究所 (noguchi-naohiko.co.jp)

 

昼食は、シチューの店「銀之塔」。牛シチューがうまい。
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銀座「やまう」でお茶。
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三菱一号館美術館で、「ヴァロットン 黒と白」展。

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丸の内の三菱のビル。「夕学五十講」の看板を発見。2005年ににここで講演したなあ。

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警備もAIロボットか。

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17時:KITTEビル。ビジネスマン時代の仲間との同窓会のはずが、明日だった!

1万5千歩。

22時:橘川さんの講義に顔を出す。コギト(講義トークライブ)の企画発表。

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「名言との対話」12月2日。蕗谷虹児子どもたちに、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、いやしい絵を与えてはならない」

蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年明治31年)12月2日 - 1979年昭和54年)5月6日)は、挿絵画家詩人アニメーション監督抒情画という言葉の考案者

新潟県新発田市出身。14歳で上京し画家を目指すが。トラブルがあり19歳の時に樺太に渡り、旅絵師となる。21歳再び上京し「少女画報」の口絵でデビュー。22歳で竹久夢二と知り合いその紹介で花形になる。生涯「夢二先生」と慕っていた。

2011年に「魅惑のモダニスト--蕗谷虹児展」(そごう美術館)をみた。

1923年の関東大震災の後、次々に雑誌の震災特集を手がけている。「令女界」の関東大震災記念号では自身の「転げある記」という文章も掲載している。震災画集は4集手がけた。被災した人々の様子を繊細なペン画で仕上げている。1集では「生き残れる者の嘆き」「絶望」「落ち行く人々の群」「落陽」。2州では「戒厳令」「焼跡の日」「たずね人」「家なき人々」。カラーの4集では、「建設を描く」「建設の力」「復興の女神」などを描いていて、発災直後から、復興へ向けての様子がよくわかった。

1924年、『令女界』に詩画「花嫁人形」を発表。この作品は後に童謡になり、代表作となった。詩画とは、挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描いての想いを伝える絵のことである。こういった絵を「抒情画」と命名している。「現今の文豪楽界美術界を支配する名士の一人」となる。
 1925年、本格的に画家として再出発するために渡仏。パリで個展を開き、展覧会で入選するなど活躍。1929年帰国。31歳、魯迅が上海で「蕗谷紅児画選」を発刊する。1935年、詩画集「花嫁人形」を出版する。

戦後の1954年には日本初の本格的アニメーションスタジオ「東映動画スタジオ」の設立に参加。1954年、日本初の本格アニメ映画「夢見童子」を監督した。

1966年、新潟市に「花嫁人形」の詩碑が建立される。15歳で紅児を生み、29歳で逝った発行の母の面影が、この詩を生み、杉山長谷夫の作曲で不朽の名曲となったとの説明がある。69歳、自画伝「花嫁人形」。70歳、三島由紀夫「岬にての物語」の紅児が挿絵装丁をしている。77歳、伊豆に温泉付きアトリエ。1979年、80歳で没。
1987年、新潟県新発田氏に「蕗谷虹児記念館」が建設され、1988年からは「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。歌詞は金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ、、、」である。

蕗谷虹児の少女絵は母親像を抽象化し、純化し、展開していった過程であったのだ。子どもたちに「未熟な、いやしい絵を与えてはならない」という蕗谷虹児の生涯のモチーフは、哀愁に満ちた「花嫁人形」の表現された薄幸の母のイメージであったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

年初の計画「1日1万歩!せっせと歩く」は、どうなっているか。


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12月になった。そろそろ今年のパフォーマンスをふり返る時期である。

「2022年の計画」をながめてみる。

『習慣』の中の、「タイムスケジュール」は、順調にこなしている。

「カラダ」では、「1日1万歩!せっせと歩く」はどうか。

アイフォーンの「ヘルスケア」は、自動的に歩いた歩数を記録してくれている。1日、1週、1月、1年などの歩数がわかる。

昨年の歩数は一日平均6732歩だった。今年は11月末現在で7434歩となっている。昨年より10.4%増えている。「1日1万歩」という意識が頭にあったから、歩こうという意識が強かったから増えたのだろう。1万歩、歩く日はあるが、どうしても少ない日があるから、平均すると少なくなる。来年は、今年をさらに1割以上上回り、8000歩を超えるようにしたい。

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「名言との対話」12月1日。大塚武三郎「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆さまと共有できるものをつくろう」

大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年明治24年)12月1日 - 1970年昭和45年)9月30日)は、日本実業家

徳島県鳴門市出身。29歳で大塚製薬工業部を創立。長男の正士は5歳の時、「うちの工場ってこんなに小さいのか」と問うと、「おお、今は小さいけれどそのうちに親方の工場より大きくするぞ」と言われている。武三郎は「私の事業歴に後退という記録はない」と言っていたとおり、倒産の危機に見舞われた戦後の混乱期から、50年以上にわたり、不屈の精神で乗り切っている。

1947年、長男の正士に社長を譲り、大塚グループの総帥となった。1970年、死去。

武三郎は今でも「おやじさん」として親しまれている。そして大塚製薬は、社訓(おやじさんの書)として「品質は工場の生命にして包装も亦品質なり 買う身になりて造れ売れ」がある。

大塚正士は紀伊水道に面していた浜の白砂をタイルにして売る事業に着手する。それがうまくいかなかったときに、陶板に絵を描いて美術品に移行する。陶板に写真を焼きつけると永遠に変色なしに保存できることに気がつく。1300度で焼いた美術陶板は、2000年、そのままの姿で残るのである。この陶板制作に成功した時は創業50周年であった。武三郎は「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆さまと共有できるものをつくろう」と語っている。

それから25年の創業75周年の記念事業として、正士は鳴門海峡の地に西洋の名画のみの美術館をつくることにし、10年をかけて総工費400億円で1998年に大塚国際美術館を設立した。

世界25ヶ国の190余の美術館が所蔵する1000点以上の西洋名画がある。シスチーナ・ホール、フェルメールエル・グレコ、モネの睡蓮、レンブラントの夜警、ダ・ヴィンチモナリザボッティチェリヴィーナスの誕生ゴヤゴッホのひまわり、ミレーの落穂拾い、ピカソゲルニカ、、、、、、、。

すべて原寸という豪華な美術館である。信られない、恐るべき光景である。とても一日でまわることはできないから、数日かけるか、数回訪問しなければならない。

徳島に旅をしたとき、見るチャンスがあったのだが、その時は、こういったスケールの美術館とは知らなかったのは残念だった。

この美術館は、大塚製薬の創業者の大塚武三郎の育てた事業と、その遺志である後世に残る、皆で共有できるものを実現したのである。1920年の創業から1998年にこの美術館が完成し、現在は創業から100年経ったところだ。この長い物語に感銘を受けた。

 

 

 

 

 

 

「幸福塾」のテーマは「ライフワーカー」ー地域にこだわった人「浅草」「戦後東京」「会津」「下関」「沖縄」「パリ」

「幸福塾」。

10月から始めてできた川柳360のうち、まあまあのできと思われるものが150、その中から20句ほど選んで披露。みなさんの好きな句をあげてもらった。意外なほどばらけるという印象。

本日のテーマは「ライフワーカー」で、特に「地域」にこだわった人を取り上げた。

坊屋三郎は「浅草」。田沼武能は「戦後東京」。早乙女貢は「会津」。古川薫は「下関」。太田昌秀・山中貞則・鎌倉芳太郎は「沖縄」。ロベルト・ドアノーは「パリ」。

 

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以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。本題に入る前のトークの中にも多くの学びがありました。川柳がすでに360首できたこと、これは毎日7首と決めて取り組まれているとのことで、何ごとも締切が大事だということを改めて思いました。また、人物を扱っていると、ほとんどの人のやったことがライフワークとなる、必要なのは「こだわり」と「したたかさ」ということも再認識しました。さて、本日は地域にこだわった人々。知らなかった人がほとんどでした。坊屋三郎の浅草、カメラマンの田沼武能の戦後東京、早乙女貢会津、古川薫の長州、太田昌秀・山中貞則守屋武昌・鎌倉芳太郎の沖縄、ロベルト・ドアノーのパリと、写真、文章、政治活動と活躍の場は異なっていても地域に根ざし地域を徹底的に知り尽くした人たちの生き様を学ぶことができました。地域のことだけでなく、田沼武能司馬遼太郎黒柳徹子随行した話や、早乙女貢の師が山本周五郎であったことやお祖母さんが偉かったこと、古川薫に関して田中絹代が老婆役に徹するために歯を4本折ったというプロ魂など興味深いエピソードも多く知ることができました。テーマによってデータベースの中から芋蔓のように次々と人物がつながって出てくるのが毎回楽しみです。
  • 久恒先生、本日も幸福塾をありがとうございました。写真家、小説家、作家、政治家といった職業は、ライフワークを仕事で実現しやすいのかな?と思いました。もしかしたら、偶然かもしれないですが。久恒先生の想定外の発見が、豊かな学びにつながり、嬉しく思います。公的であれ、私的であれ、何か続けられるものを持つことが、幸福につながることにも気がつきました。幸福に生きている・生きてきた方々の生き様を知ることで、自分が今後どのように生きていくかを考え、実践するきっかけとなっていることに感謝申し上げます
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は、ある「地域」にこだわりを持って仕事をしていく中でライフワークが生まれていった人ということで、浅草、東京、会津、下関、沖縄、パリなどに関わりを持った9人の方の紹介があり面白い内容でした。「地域」ということでいえば、 元沖縄県知事の太田昌秀氏、沖縄県名誉県民第一号の山中貞則氏、防衛官僚の守屋武昌氏、染織家であり沖縄文化研究者でもあった鎌倉芳太郎氏など  沖縄がライフワークとなった人が多く、興味深く伺いました。また山口県出身の小説家古川薫氏の「樹液の還流を聴く樵のようでありたい」という言葉が印象に残りました。樹液の大きな流れをも感じる樵に自分の理想像を例えたものと理解しましたが、やはり土地柄から生まれた感性なのかなと想像しました。またパリの写真家ロベルト・ドアノーの「パリは時間の浪費がチケット代わりになる劇場だ」という言葉もパリという「地域」への愛着や観察する眼の鋭さが良く伝わってくる言葉だと思いました。全体を通してみると「地域」へのこだわりが、いつの間にかライフワークを育む大きな要素になっているということが分かりました。久恒先生の川柳の紹介で、一番面白かった作品が「会社人 やっと卒業 社会人」。味わい深いです。次回も楽しみにしています。
  • 久恒先生、皆さまありがとうございました。今回、印象に残ったことは、33年間も「会津士魂」の連載をライフワークとして続けられた作家の早乙女 貢です。自分にルーツや地域に関わることに取り組む人は、強みがあると思いました。偉業を成し遂げた背景として祖母の影響や家庭教育の影響は大きいいということを感じました。長州藩山口県をテーマにした作家の古川薫のお話もとても興味深いと思いました。山口県生まれで山口に住みながら、作家活動をしている古川薫は、直木賞を10回もチャレンジして最高齢、当時の最多候補でやっと直木賞を受賞して忍耐強いと思いました。忍耐強くこつこつと努力できた原因の一つに、自分の生まれ育った地域で他県の人よりも詳しい自分の地域の山口県のことを取り組んだからではないかと思いました。直木賞受賞作も山口出身の藤原義江の伝記小説「漂泊のアリア」で受賞され、やはり、身近な地元の力は強いと思いました。私も、古川薫のように何か郷土に関係のあることを調べてライフワークとしてこつこつと調べてみたいと思いました。久恒先生の川柳の紹介で、「のど自慢、家族自慢 クニ自慢」は、のど自慢の歌だけでなく、歌だけでなく、地域を感じ、また3つの自慢が重なって面白いと思いました。谷さんの「GDW興国論 幸福度世界一の国へ」 下村博文氏のお話しを聞いて、主観的幸福について関心があり、読んでみたいと思いました。垣内さんの「釣り一人」の記事を書いた山村聡氏のお話を聞いて、釣りという自分の趣味を持つことで、仕事も頑張れるということがよくわかり、興味深かったです。都築さんの菅原文太が環境問題に取り組んでいた話も、興味深かったです。 次回も楽しみにしています
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。本日の幸福塾は「個人」の第2弾、「地域にこだわり抜いた人びと」について久恒先生よりレクチュア頂きました。『地域』に根を張りそこから発信した人びととして、小説家、写真家、染織作家といった「アーティスト」と、政治家、官僚といった「公僕」が取り上げられました。中でも当方がひと際印象深かったのは太田昌秀元沖縄県知事です。かつて「夏の自由研修」と題して沖縄米軍基地問題について調べた事が有りますが、①県民の安全確保と経済振興との狭間、②中央政府地方自治体との狭間で知事は悩み、裏切りに近い「すれ違い」により生じた中央政府との『わだかまり』は根深く蓄積し、今や訴訟という全面対決の形に発展、太田さんのみならず歴代の知事達が自らの生命を賭して取り組むその姿に強烈な印象を覚えたことを鮮明に思い出しました。本日は講義の振り返りというよりも、その時の『熱』を再確認する意味で、当時作成した図解から、大田氏が知事在任中の出来事を抜き出してみました。30年程前の出来事ですが、解決できぬまま今に至っているという事実を是非共有したく、図を掲載致します。宜しくお願い致します。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回は地域での仕事に力を注いだライフワーカーの勉強をさせていただきました。税制のドンであった山中貞則氏が沖縄への思い入れの深さが、出身の鹿児県民としての感謝贖罪から来ていることを勉強できました。「後継は山中家からは出してはいけない」という人間性もあり、自民党の代議士でありながら、沖縄県名誉県民第一号に認定されたのも納得できました。冒頭に松下幸之助氏の言葉を紹介いただき、名言の域を超え金言であるとのこと、「教養一日、休養一日」。週休二日制度導入時に聞いた記憶がありますが松下翁の言葉とはしりませんでした。最高のコピーライターでもあったのですね。最後に個人的なことですが、来年退職の予定なので「会社人 もうすぐ卒業 社会人」の心意気でいきたいと思ってます。パクリましてスイマセン。次回も宜しくお願い致します。

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「名言との対話」11月30日。長谷川如是閑「日本は職人の国としての国柄を持っている」

長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年明治8年)11月30日 - 1969年昭和44年)11月11日)は、日本ジャーナリスト文明批評家、評論家作家

東京都江東区木場出身。明治小学校、島本小学校、坪内逍遥の塾、中村正直の同人社、共立学校、明治法律学校、東京英語学校、東京法学院予科、国民英学会、東京法学院英語法学科、そして1898年に東京法学院邦語法学科を卒業。

卒業後、1903年から3年間に陸羯南日本新聞社で活動、1908年には村山龍平の大阪朝日新聞に入社する。ロンドン特派員、コラム「天声人語」、そして1915年の社会部長時代には全国中学校優勝野球大会(後の「甲子園大会)を創設した。この間に米騒動に発展した記事でこの騒動に火をつけている。

1918年、白虹事件で朝日新聞を退社。雑誌『我等』を創刊、森戸事件で擁護の論陣を張った。大正デモクラシーを代表するジャーナリストとなった。

戦後は貴族院勅撰議員、帝国芸術院会員。1948年、文化勲章。1951年、文化功労者

学校の転校の多さ、社会人となってからの活動の活発さ、そして言論を武器として日本を代表する文化人に昇りつめる。その影響は実に94歳で亡くなるまで続いていることに驚かされる。「如是閑」という名前は、多忙な人であるから、せめてペンネームくらいは閑そうな名前をということでつけてもらったものである。しかし活動歴をながめると、最後まで暇ではなかったようだ。

男女関係については、以下の言葉がある。

  • 初恋は麻疹(はしか)の如し。何人も一度は免れずして経験し難し。
  • 女子は月経に支配せられ、男子は月給に支配せられる。
  • 女性が英雄を好むのは、英雄に征服されようとしているのdえはない。英雄を征服しようとしているのだ。
  • 男子は結婚によって女子の賢を知り、女子は結婚によって男子の愚を知る。
  • 男子は羽織より売り始め、フンドシに至りて窮まり、女は肉より売り始め、羽織に至りて窮まる。

政治や、戦争についても、言論人であるだけに、言葉に聞くべきものがある。

  • 「外交官と幽霊は微笑をもって敵を威嚇す」
  • 「戦争の前は憤怒なり、戦争の中は悲惨なり、戦争の後は滑稽なり」と突いている。

英国流のリベラリストであった長谷川如是閑は、「日本」をテーマとしていた。如是閑は日本人をどう見ていたのか。生活の場面で美を希求する習性、対立や矛盾を併存させる感性、修養を大切にする指向、外来文化との親和を好む気質、自然の変化である季節感を感じる力、、などと規定している。

その上で如是閑は日本の国柄を「職人の国」とみていた。自らの職分に向き合って「佳き仕事」を実践する人に尊敬が与えられる実践の気風のある国である、としている。

「ものづくりの国」という言い方がある。同じことを言っていると思うが、こういった性向は、ものづくりに限らず、あらゆる場面で感じることである。それぞれの分野で職人気質を携えて、いい仕事をしようという気風がある。

私は職人という言葉を職業人ととらえてみえはどうかと提案している。職業をもった人に共通しているのは、他人の評価よりも、いい仕事をして満足しようとする性向が強いことだ。この点は、長谷川如是閑の主張に大いに賛成する。昨日つくった川柳は「職人とは 職業人の ことである」であった。

 

 

 

 

 

 

 

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」23は、宇野千代。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」23をリリース。取り上げた人物は小説家の宇野千代

www.youtube.com

 『生きていく私』(角川文庫)。自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

 以下、人生観と仕事観。

  • (失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。
  • 泥棒と人殺しのほかは何でもした。
  • 小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。
  • 私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、
  • 私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。
  • 私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。
  • 私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。
  • 何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。
  • 何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。
  • 何でも面白がるのが、私の癖であった。
  • 私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。
  • 一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。
  • 幸福は伝染して、次の幸福を生む。
  • 人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。
  • 小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。
  • 若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、
  • 「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。
  • 私には年齢と言う意識がなかった。
  • 自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

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明日の「幸福塾」の準備。

岡本太郎プロジェクトのミーティング。発表は12月18日。

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「名言との対話」11月29日。田中絹代「私は役をやるうえで、監督から痩せろと言われれば痩せ、太れと言われれば太ることができます」

田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、日本女優映画監督

山口県下関市出身。琵琶の師匠になるはずが、途中で映画女優を志望するようになり、1924年に松竹に入社。その年に主役に抜擢される。1928年には人気スターになり、1929年、松竹蒲田の看板スター。1931年から始まったトーキー時代も看板スターだった。1938年の『愛染かつら』は空前のヒット作となった。

清純派女優であったが、戦後は汚れ役に挑戦するようになる。日米親善使節としての渡米後にスランプに陥るが、『西鶴一代女』街娼役もこなすなど女の一生を演じ復活する。

1953年には映画監督としてデビューし、10年間で6作品を生み出した。

1950年代には自身40代半ばとなる。主演は減っていったが、老婆役で新境地を開いていく。1958年の『楢山節考』の老婆役は高い評価を得た。その後は、脇役として母親役を好演している。

1970年以降は、活躍の場をテレビドラマに広げ母親役やナレーションで親しまれた。1974年には、『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、国内外で高い評価を得た。

生涯で260本の映画に出演している。年譜をみると、1927年に12本、1928年に16本、1940年は8本、1947年3本、1950年3本、1952年4本、1959年5本、1963年4本、そして最後は1976年である。凄まじい仕事量である。

毎日映画コンクールでは「田中絹代賞」が設けられ、第1回は吉永小百合が受賞。1986年に新藤兼人の原作で、その吉永が主演し、田中絹代を描いた『映画女優』も公開された。

田中絹代は、抜群の記憶力と勘の鋭さでスターダムにのし上がったのだが、常に新しい役柄に挑戦していく姿が印象に残る。清純派、汚れ役、老婆と主役を演じ、そして映画監督にまで進出し、テレビドラマでも脇役となって母親役を演じ、ナレーションも担当している。

役柄の根本を理解し。自分なりに咀嚼し、提案をするという女優であり、結果的に黒澤、小津、溝口、成瀬、木下など、名監督が競って起用した。「私は役をやるうえで、監督から痩せろと言われれば痩せ、太れと言われれば太ることができます」と語っている。そのことを示す有名なエピソードがある。名作『楢山節考』では老婆の役作りのために歯を4本抜いているのだ。田中絹代という女性が体当たりでキャリアを積みあげていく姿は感動的である。

映画監督としても女優の経験を生かした作品を撮っている。『恋文』は戦後の女たちの困難な歩みを表現した作品。『月は上りぬ』では、細やかな演出で三姉妹の心の機微を描いた作品。『乳房よ永遠なれ』は中条ふみ子の生涯を描いた女性賛歌の作品。『流転の王妃』は愛新覚羅浩の大陸流浪を圧倒的な演出力で描いた作品。『女ばかりの夜』は売春婦たちの更生自立を描いた作品。『お吟さま』は茶道の千利休の養女お吟の悲恋をキメの細かい演出で描いた作品。

故郷の下関には、下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)が2010年にオープンしている。下関在住の直木賞作家で、田中絹代を書いた古川薫が名館長をしていた顕彰館をぜひ訪ねたいと思う。