鶴見俊輔『思い出袋』ーー同時代の友人、知人たちとのエピソードがいい

神保町で購入した「浴読」用のエッセイ本を含めて、リビング、寝室、トイレなど、いくつかの場所に本を点在させている。最初から読むという楷書スタイルではなく、パッと開いたところを読むという「草書スタイル」で扱うことにしている。

今日は、鶴見俊輔『想い出袋』を手にした。括弧内は、鶴見俊輔の言葉に触発されて引き出された私の感慨など。

  • 円朝『芝浜』は、酔漢、浜辺、財布の三題を寄席の客から与えらてその場でつくったもの。(落語の名作で、女房のおかげで改心する職人の物語は即席だったとは。NHK「笑点」はその伝統か)
  • 互いに二十代で友人となった梅棹忠夫はアニミズムは低い思想ではないと語って目を開かされた。ディズニー映画「自然と冒険」。(梅棹先生と友人だったのか)
  • 犀の鼻先の角は骨はなく一生成長を続ける。釈迦は「犀のように歩め」と言った。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。どちらもひとり千里を行く。(漱石は「牛のごとく」と言ったが、釈迦の「犀のように」の方が深い)
  • トーテム・ポールは自分を何かの動物部族の末として位置付ける壮大な系図である。(山川草木に命があるという日本の思想)
  • 相手の言うことの意味の幅を知り、その中から自分にとって適切な意味を引き出すのが「耳順」ではないか。(批判するのではなく、いったん受け取って自分に有用なものを受け取るという柔らかい姿勢)
  • 友人の条件は、敬意があること、雑談ができる関係にあることだ。(野田一夫先生のいう「ダベリ」のことだろう)
  • 日本をすべて良いとはしない。しかし日本と日本人を自分の所属とすることを続ける。(長澤元子「批判的愛着」。羽仁五郎の「愛するから批判するのだ」)
  • 戦地にいる兵隊が見たくないものは戦意高揚映画だ。(戦地の兵隊は娯楽が欲しい。戦意高揚は銃後用だ)
  • エスマン「そんなところにいて、はずかしくないのか」。弟子のソローは獄中で「あなたは、この外にいて、はずかしくないのか」と問い返した。(こういう話は外国の偉人にあった。誰だったかな)
  • 河合隼雄は亡くなったが、私はこれからもくりかえし会って、その話をききたい。(対談の名手・河合隼雄の魅力。「臨床心理」の藤原勝紀先生の師匠)
  • 米国は若い国なので、すぐれた歴史家はまだ出ていない。『史記』のように情熱を感じる歴史書はまだない。(アメリカは歴史家がまだ出ていない浅い国か)
  • 鶴見は京都の岩倉に住んでいた。(岩倉具視が幽閉されていた地で訪ねたことがある)

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立川で体調を整える。

夜は「革命」の編集会議。

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4月20日。塚本三郎。

塚本三郎「天敵を排除したことに気づかなくなったとき、独裁者の悲劇がはじまる」

八木治郎「絶えずネタを集める。鮮度とタイミング」

犬養道子「自分のいらないものを人さまにあげても、差し上げたことにはならないのよ」

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「新・代表的日本人」4月20日。塚本三郎「天敵を排除したことに気づかなくなったとき、独裁者の悲劇がはじまる」

塚本 三郎(つかもと さぶろう、1927年(昭和2年)4月20日 - 2020年(令和2年)5月20日)は、日本の政治家。享年93。

名古屋出身。1958年の総選挙で社会党から出馬し初当選を果たす。その後、社会党を離党し民主社会党結成に参加。衆議院議員(通算10期)、民社党委員長(第5代)、書記長(第5代)などを歴任した。

 1974年2月、民社党書記長に昇格し11年務めた。委員長の佐々木良作が社公民路線を推進したのに対し、春日一幸と自公民路線を主導した。1985年4月に民社党委員長に就任。1989年2月7日に党委員長を辞任し常任顧問に退いた。1994年12月に民社党が解党した折には新進党には参加しなかった。1996年1月に自民党に入党。

風雲急を告げる1944年、ある宗教家から「勝つにこしたことはないけれど、負けることの方が幸せになることだってある」「正しいことが不幸せになることは決してない。それが仏教の教えです」と諭され、法華経に親しむことを教えられ、信者になった。その後、労働組合の指導者に推され、東京の本部に派遣され、中央大学の夜間部で学ぶ。卒業後、政治をこころざす。政治の世界は、塚本の信仰を実践する場だったのだ。

マスコミで実直そうな顔をみていたが、仏法、とくに日蓮の崇拝者だったことを、塚本三郎『善知識の橋』(読売新聞社)を読んで知った。10代から70数年後に亡くなるまで仏法を学んでいて、その真髄を自分史と絡めて書いた本だ。

サブタイトルに「仏眼でみる権力の興亡」とあるように、戦国時代から始まる日本の歴史、そして参画した現代政治について論じている。その結論は、「仏法の眼で見た権力の歴史の流れは、正に因果応報の繰り返しであったと言い得る」であった。

権力とは権(かり)の力であり、権実(ごんじつ)のはざまに我々は生きている。権力とは、仮の力、借りた力、預かった力であるという指摘が勉強になった。

「天敵を排除したことに気づかなくなったとき、独裁者の悲劇がはじまる」と、ながく野党暮らしをした政治家らしい発言もある。天敵を遠ざけ、批判と忠告に耳を傾けず、追従者の言をとるとき、衰亡がはじまる。

この見方には賛同する。与党に対する野党、政治家に対する官僚、政党執行部に対する反主流派、政治に対するマスコミ、経営者に対する労働組合、そいう天敵がいなくなった時、権力の堕落がはじまるのだ。批判者がいることによって、辛うじて権力は成り立っているのだ。危ういバランスこそが大事なのだ。敵やライバルは導師なのだ。

 

 

 

寺島実郎の「世界を知る力」(4月)ーイラン戦争の6週間が示す世界史的意味。戦後日米関係の特異な連結性はなぜ転機を迎えているのか。

イラン戦争の6週間が示す世界史的意味――本質・教訓・展望と日本の課題
 イラン戦争と呼ばれる六週間の軍事衝突は、二十一世紀の国際秩序を根底から揺さぶる出来事であった。この戦争の本質を明らかにした上で、そこから引き出される四つの教訓を整理し、ユーラシア全体に広がる地政学的な展望を示し、最後に日本が直面する課題を論じる。
一 戦争の本質
 この戦争を主導したのはネタニヤフ政権下のイスラエルである。その目的は、ヒズボラへの打撃やシリア情勢の変動によって弱体化したシーア派の盟主イランに対し、決定的な一撃を加えることにあった。米国はヒズボラ攻撃への関与を通じて「やめられない」状況に引き込まれ、事実上の共同交戦国となった。この構図の深層には、中東における一神教間の近親憎悪とでも呼ぶべき宗教的対立があり、「イスラムの核」を排除するという目標が潜んでいた。一方、この混乱の中でパキスタンが新たな仲介者としての役割を担い始めた点も注目に値する。
二 戦争の教訓
 第一の教訓は「相互依存の過敏性」である。イランが保持するホルムズ海峡カードは有効に機能し、世界経済がエネルギー供給の一点に依存する脆弱性を改めて露呈させた。だからこそ、多国間協調の不可欠性が浮き彫りになったのである。
 第二の教訓は、米国のレジティマシー(正当性)の完全喪失である。トランプ大統領は「イランを石器時代に戻す」「文明を消滅させる」と公言した。これは近代知そのものの否定であり、米国が長年にわたり主張してきた道義的権威は完全に失墜した。
 第三の教訓は、非対称戦争の恐ろしさである。四月九日現在の報告によれば、米軍の死者は十三人であったのに対し、イラン側の死者は約二千四百人、負傷者は三万二千人以上に達した。かつてベトナム戦争では米軍だけで五万八千人が、イラク・アフガニスタン戦争でも六千八百人が犠牲になったことと比較すれば、現代の戦争がいかに質的に変化したかが分かる。圧倒的な技術格差のもとで一方的に人命が失われる構造は、戦争の倫理そのものを問い直す事態である。
 第四の教訓は、国際社会の復元力である。四月二日には米国の法律専門家百七十三名が「イラン攻撃は国際法違反である」との声明を発表し、ローマ教皇レオ十四世も中東への平和メッセージを発した。こうした動きは、国際社会が暴力に対して自律的な修復機能を持ちうることを示している。

三 ユーラシアの連結性――今後の注目点
 この戦争を契機として、ユーラシア全体の秩序再編が加速している。第一に、四月十二日に行われたハンガリー総選挙は「欧州の欧州化」、すなわち米国依存からの脱却を問う試金石となった。第二に、イスラエルとアラブ諸国を結んだアブラハム合意は事実上終焉し、湾岸産油国の失望は深まっている。第三に、ロシアと中国が仲介の動きを見せ、影響力を拡大している。米中接近の予兆すら観測される。第四に、トルコやインドが独自の外交行動を展開し、既存の国際秩序の枠組みを超えた多極的な再編が進んでいる。
四 悲しい日本の沈黙
 しかし、こうした激動の中で日本は沈黙を続けている。この沈黙は深刻である。世界が大きく動いているまさにこの時、日本が何を主張するかが問われている。岩波書店の雑誌『世界』五月号は「不条理な戦争を拒否する勇気と構想」を執筆した。日本が果たすべき役割は、国連を機能させるための多国間協調の推進にほかならない。米国への加担によって失うものはあまりにも大きい。
 「相互依存の過敏性」が支配する世界において、米国の正当性は失墜し、ユーラシアの秩序が再編される中、日本の沈黙は歴史的代償を払うことになる。国連を機能させる多国間協調こそ、今この時代に日本が果たすべき唯一の道義的役割である。

戦後日米関係の特異な連結性はなぜ転機を迎えているのか
一 戦後日本の成功モデル

 戦後日本の繁栄は、1951年に締結された日米同盟を起点とする特異な国家戦略のうえに築かれた。日本は安全保障をアメリカに大きく依存することで防衛費を抑制し、限られた資源を経済成長に集中させる「軽武装経済国家」という路線を選択した。この戦略は見事に奏功し、日本は通商国家として目覚ましい経済的成功を収めた。いわゆる「ネーション・ビルディングの成功モデル」として国際的にも高い評価を得た。
 同時に日本は、国連、世界銀行、IMFといった多国間協調の枠組みに積極的に参画し、国際社会の責任ある一員としての地位を確立した。こうした成功モデルの土台には、日米間の活発な人的交流もあった。訪米日本人数は2000年にピークとなる約506万人に達し、両国間の相互理解を支えた。

二 人的交流の変容が映す断層

 しかし、この人的交流はその後大きく変容する。訪米者数は2025年には約195万人にまで減少し、ピーク時から約6割の落ち込みを記録した。内訳をみると本土が約97万人、ハワイが約73万人、グアムが約25万人であり、本土訪問者の8割はニューヨークやロサンゼルスなど沿岸部の大都市に集中している。つまり、トランプ支持層が多く暮らす「内陸のアメリカ」に直接触れる日本人はごくわずかであり、日本人のアメリカ理解には深刻な偏りが生じている。人的交流は量だけでなく質においても変容しており、それが現在の認識のズレの一因となっている。

三 アメリカの変質

 21世紀に入り、日本の成功モデルの前提であったアメリカそのものが大きく変質し始めた。第一に、ホワイトナショナリズムの台頭に象徴される自国利害中心主義への傾斜である。第二に、WTO、国連、NATOなど多国間協調の枠組みから距離を置く姿勢が顕著になった。第三に、ベネズエラへの圧力やイラン侵攻の危険性にみられるように、国際法を軽視する傾向が強まっている。
 在日米軍を巡る認識のズレも深刻である。トランプ大統領は「日本を守るのに協力がない」と繰り返し主張するが、実態としては駐留経費の約7割を日本が負担しており、そもそも在日米軍は日本防衛のためだけではなくアメリカの世界戦略遂行のために配置されている。こうした事実と政治的言説との乖離は同盟関係の信頼基盤を蝕んでいる。
 さらに、2026年5月のトランプ大統領訪中は、米中二大国による世界秩序の再編、いわゆる「G2論」の現実味を一気に高めた。これは日本が長年前提としてきた「日米同盟で中国に対抗する」という戦略の根幹を揺るがす動きである。

四 日米関係の再設計という課題

 こうして戦後80年にわたり日本の繁栄を支えてきた日米の特異な連結性は、アメリカ自身の変質によって根底から問い直されている。日本が直面する課題は、多国間協調主義と非核平和主義という堅持すべき方針を軸としつつ、「日米同盟で中国に対抗する」という従来の認識と、米中接近というアメリカの現実との深刻なズレを直視し、新たな対米関係を再設計することにある。過去の成功体験に安住するのではなく、変わりゆくアメリカの実像を正確に捉え、日本自身の外交的自律性を高めていくことが、いま何よりも求められている。

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4月19日:久世光彦。岡潔。

久世光彦「うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない」

矢野博丈「仕入れは格闘技だ」

松本竣介「画家は作者の腹の底まで沁みこんだものしか描くことはできない」

岡潔「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのが不思議です」

千宗室(第15代)「伝統と伝承」 

宮崎輝「夢のない企業には、進歩も成長もない。盆栽経営ではやがて枯れる」

木村次郎右衛門「責任の重さみたいなのを痛感している。1日でも長く元気でありたい」

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「新・代表的日本人」4月19日。岡潔「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのが不思議です」

岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、論文博士)。享年76。

大阪市生まれ。三高、京都帝大理学部卒後、そのまま大学に残った。湯川秀樹、朝永振一郎らに授業で感銘を与えている。1929年、フランスに留学し3年間を過ごす。1932年に帰国し広島文理大学助教授。病気で辞任し故郷で研究生活に入る。

戦後の1949年、奈良女子大教授。定年退官後には京都産業大学で「日本民族」という教養科目を講義した。文化勲章受章者である。

岡潔は高名な数学者である。多変数複素関数論において数学界に多大な貢献をし、幾何、代数、解析を一体とした分野を開拓した。業績があまりに広範囲であり、一人のなした業績とは信じられないといわれた。

20世紀が始まった1901年に生を受けた数学者である。同い年には昭和天皇やウォルト・ディズニーなどがいる。数学者としての業績は素晴らしいが、岡の書くエッセイが多くの人に喜ばれた。私たちの受験時代には、入試の試験問題にも多く採用されていた。晩年には「日本民族」という講義を持つなど、日本論を語る憂国の士という印象を与えている。

岡潔『日本のこころ』(講談社文庫)を読んだ。以下、抜粋。

数学教育の目的は決して計算や論理にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。

民族の色どりと、その人の心の色どり。一致する人を、私は純粋な日本人といっている。

芭蕉や道元。私は芭蕉は純粋な日本人だと思っている。道元の『正法眼蔵』(岩波文庫)、なかんずく「上」から、自分は純粋な日本人であるという自覚を、いわばスミ書きすることができた。

仏教では知、情、意を総称して智と言う。智が働いていると思うその智を分別智と言う。分別智が働かなくなる境に真の智力が実はよく働いているのであって、これが無差別智である。真智とも言われている。

仏教では心を九層にわけています。心の奥底が第九識です。これは生命それ自体であってこれは姿に現われません。 その上の第八識は、個人、民族、人類、獣類、爬虫類、魚類、単細胞生物、その前は教わっていませんから知りませんがこういった個人の過去の一切を蔵する所だといいます。 その上の第七識が小我の本体です。 その上の第六識を意識といいます。 その上を前五識といいまして、眼耳鼻舌身と言いますが、見る聞く等の五官です。 第六識はこの前五識を統べ、自身第六の感覚器です。これが心眼です。 人の肉体はこの心の模型です。 それで相当個所をいいますと、 第八識は大脳皮質部に極まっていると思います。 第七識は全身ですが、その中心は大脳前頭葉です。 第六識も大脳前頭葉です。 かように大脳前頭葉には六、七の二つが同居し、心は下ほど力が強いですから、小我の中心自我を抑止しなければ、心眼は開きません。

一、二、三歳では母が愛と信とを教え、四、五、六歳では父が信と欲とを教えて道義の根本を教えるべきだ。心が幼いころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない。

宗教と宗教でないものとの違いは、孔子と釈迦やキリストをくらべればはっきりする。孔子は「天、道を我に生ず」といっていたが、この「天」は「四時運行し万物生ず」といった大自然の行政機構のことである。また「仁」については説けず、ただ理想として語り得たにすぎない。孔子の述べたものは道義であって、宗教ではなかったといえるだろう。

宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない。向上なく理想もない世界には住めない。

私たちの国というのは、この、人という水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。これが国の本体である。

個人について見るに、楠正成の妻は、夫の敗死を知るやただちに正行たちを育てることに専念した。国についても同じことであろう。敗戦の痛手を治すには、よい母たちを育ててよい子たちを産み、よく育ててもらうのが何より大切だ。

進駐軍が日本人を職工にしてしまおうと思って始めさせた教育だろう。

教育は、生まれた子を、天分が損なわれないように育て上げるのが限度であってそれ以上によくすることはできない、これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしい。

日本は危険な方から危険な方へとだんだん歩き続け、その歩みを止めない。それは今日もなお続いている。

この先日本が立ち直るのに、十分百年はかかる。それから国内を整備するのにもう百年、残る百年で生物の絶滅を救わなければならない。

教育はそれに備えて、歳寒にして顕れるといわれている松柏のような人を育てるのを主眼にしなくてはならないだろう。

六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであろう。

以上だが、この警世の書『日本のこころ』は、1961年から1965年までの5年間にわたって書かれている。それから60年後には精神の危機が訪れるという予言である。それは2021年から2025年がそれにあたる。まさに今である。翻って今の日本をみると、日本人が持っていた良さが急速に失われており、岡潔の予言のとおりになっていると感じる。

また、岡潔は物事に極端に入って行けという。極端に何かをやるとはどういうことだろうか。興味のある対象にのめり込んでいくのがこれにあたるだろう。寝食を忘れて徹底的に対象にハマっていくと、好きになっていく。この言葉はよくわかる。

興味がなかった対象に挑むことになった。仕事で異動し苦手だろうと思っていた新しい分野を担当することになる。それをピンチと考えるか、チャンスと考えるかが成長の成否を決めるのだ。

組織に属しているなら仕事は選べないことが多い。それにもかかわらず活躍している人はまるで天職のように振る舞い、輝いているのを目にする。こういう人は普通に仕事をこなしているのではなく、極端にそのテーマに取り組んでいるのだ。処理ではなく問題を解決しようとしているのである。問題の解決を面白がっているのだ。高いレベルで問題を解決するクセをつける、そういう経験が積み重なっていくことがキャリアを磨くということなのだ。

中庸、バランス人間の集まりでは、未来はない。きっかけは何でもいい。ものごとに極端と思えるほどに、打ち込もう。必ず好きになり、自然に上手になっていく。その延長線上に創造の世界がある。そこに到達する人を増やすことが、低迷をようやく自覚しつつある日本を再建する鍵なのだ。

 

 

春の「神保町ブックフェスティバル」ーーすずらん通り。三省堂書店。ブックカフェ20世紀。シャエ書店「ほんまる」。7冊購入。

春の「神保町ブックフェスティバル」(すずらん通り)を夫婦でみてきた。

新装なった「三省堂書店」

なじみのシュア書店「ブックカフェ20世紀」はイベントを開催していて入れなかった。

シェア書店「ホンマル」の私の棚「アクティブ・シニア革命」を確認。昼食は「社員の家」で中華。

ごった返す古本屋街で、連休中の浴読用にエッセイを中心に7冊購入。鶴見俊輔。木田元。奥本大三郎。福田和也。五木寛之。山口瞳。カーネギー。

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4月18日:五島慶太。橋本忍。

五島慶太「「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」

橋本忍「原作の姿形なんてまったく要らない。欲しいのは生き血だけ。やるんだったら、そういうふうにやる」

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「新・代表的日本人」4月18日。五島慶太「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」

五島 慶太(ごとう けいた 旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の官僚・実業家である。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者である。享年76。

長野県出身である。東京高等師範学校、東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省と鉄道院で約9年間官僚として活動した。その後退官し、武蔵電気鉄道専務、目黒蒲田電鉄専務、東京高速鉄道常務などを経たのち、東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の社長となって実質的な経営権を獲得し、2社を合併し東京急行電鉄を発足させた。

『飛竜の如くー小説・五島慶太』(光文社文庫)を読んだ。五島は東京高等師範学校入学試験に合格した。当時の中学、商業、工業学校の教師となれば、その社会的な立場は現代と比較しようもなかったが、元来、慶太の志は、実業界にあり、一介の田舎教師で生涯を終えようなどと、毛頭考えてもいなかった。「志を失ったら、男子とはいえない」という慶太は、政治家の原敬と実業家の雨宮敬次郎を尊敬していた。二人には志があった。 第一高等学校卒業検定試験に合格した。東京帝国大学本科に転入学し、法科政治科に在籍する。高等文官試験に合格し、農商務省に入省した。結婚した妻の久米家の祖母方の実家で、絶家になっていた五島家の姓を再興し、慶太は五島と改姓している。加藤高明から「俺が話をつけてやるから、鉄道院に転じてみたまえ」といわれ転じた。

強引な事業手法から「強盗慶太」と呼ばれた。しかし慶太にすれば買収、合併は、経営者の慣いだと考えていたが、世間はそうは見ずに、五島の姓をもじって、「強盗慶太」と呼んだ。「合併されて生き残れたほうが、社員もよかろう」。少なくとも路頭に迷うことはないからだ。「従業員を路頭にまよわせる事態に、直結いたしかねない。倒産、破綻するまで、自分たちが経営の責めに任じるなどは、そのほうが悪である」との考えであった。いくつかの敗退のエピソードもあるが、負けっぷり、引き際もよかった。

五島慶太と堤康次郎は、東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルだった。「そもそも五島という奴は、人が苦心してつくりあげたものを、強引に乗っ取るのを愉快だと思っている」と批判した堤康次郎は「ピストル堤」の異名を持つやり手経済人だった。「強盗慶太」と「ピストル堤」の戦いであった。

五島は鉄道事業で優れた経営を行い、同社を急成長させた。10歳年長の小林一三との出会いも大きかった。小林は五島の資質を見抜いた。「実業界なら奮励努力することで、その成果を楽しむことができる」。どうしようもないボロ会社、武蔵電気鉄道の常務に転じることになった。経営内容は「火ノ車」であり、悪戦苦闘しながら経営を立て直していった。 その後、小林一三からの「田園都市株式会社にきてもらいたい」との申し出に応じた。関東大震災の直撃は慶太に幸いした。慶太は政財界人、高級官僚の間を走りまわり、現在の大田区田園調布の一帯を、一区画三百坪以上の条件で売り歩いた。後に「人間の合縁奇縁ほど奇妙なものはない」と述懐している。

東横電鉄は小田急電鉄、京浜電鉄を合併し、資本増強し、東京急行電鉄と商号を変更した。結果、「強盗」の悪名は、決定的なものになった。東急が発展し首都圏の鉄道を合併したあと、分割することになった。「旧京王単独では非常に規模が小さいから、独立させても大変だろう。旧帝都と一緒にして、井の頭線をつけよう」。今日の京王線の姿は五島の采配であったのだ。

官吏、実業家、政治家という仕事についてはこう語っている。

「官吏というやつは、人生の盛期を役所で懸命に働いても、ようやく完成の域には仕事をはなれなければならない」 「金儲けは易しいが、経営とは違う。世のためになって利益を上げるのが経営である。だから経営は難しい」 「若いころから自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ」 「政治家なんぞ、碌なものではないぞ。いざとなったら、薄情な奴ばかりだ」

五島慶太が集めた美術品を展示する五島美術館がある。2015年に開館55周年特別展を見にいった。その後もなんどか訪れている。1960年に開館ということは五島がなくなった翌年だから、亡くなる前から十分な準備をしていたのだろう。官吏の生活を経験し否定し、実業の分野に進んだ五島の果実の一つが美術館だったのである。

「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」は賛同したい名言である。「できるかできないか、やってみなければわからんではないか。いや、できなくても、やらねばならん」という「百万人といえども我ゆかん」の精神にも感銘を受ける。

小さく、細かく、慎重に企画を練ってはいけない、ということを五島は語っているのだと思う。賛成だ。最初は無知でいいのだ。大きく発想し、大胆に歩もう。

 

 

 

 

鏑木清方記念館を再訪ーーテーマは「肖像画」ー特殊人間の伝記、拘束のある仕事、変化していく、内面を描く小説家に似ている。

4月7日に鎌倉の鏑木清方記念館を再訪。今回は2008年に続き2度目の訪問。テーマは「肖像画」だった。肖るは、にせると読む。肖像画とは、対象に似せた絵であるということだ。このことを初めて知った。 

  • 「私は挿絵で生活を立てて来たのだが、勢い人物画に中心を置くやうになったが、肖像画を描こうといふ考へは持たなかった。、、、、人の伝記を面白く読むやうになってきた。、、、、。絵の方でも、かういう特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で描いてゆけば、肖像画もまたやりがひのある仕事となる」
  • 「さしえは、いはば題を出されて歌や句をつくるやうなものだ。本画とはそこが違う。その点、拘束性があるわけだが、その拘束の中で仕事をすることに興味がある。この課題に対する興味が自由製作と異なるところで、それを毎日続けて行き変化させて行くところに、小説作家と似た興味も覚えていく」

「慶喜恭順」

「大蘇芳年」        「先師の面影」      「女役者粂八」

 

「曲亭馬琴」              「一葉女史の墓」

 

 

鏑木清方は挿絵から始まった画家のキャリアでは、人物の内面を深く掘り下げていく人物画に興味を持つようになる。毎回、伝記に挑むようになっていく。題材を自分で選んで絵を描くのは本筋であるが、鏑木清方は、与えられた制約の中で人物画を仕上げることに没頭していく。大きなテーマを持ちながら、小さな作品をコツコツと描き続けるのである。

鏑木清方のように私も「新・代表的日本人」という大きなテーマを持ちながら、毎日一人コツコツと人物を書き続けよう。

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朝:寺島実郎さんから電話。近々文庫。

本日は1万歩。

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4月17日:松岡和子。藤城清治。

山口喜一郎「日本語だけで日本語を教えるという教授法」

松岡和子「振り返れば、『終わりよければ』を先頭に「前へならえ」のかたちでシェイクスピアの戯曲三十七本がずらっと一列に並んでいる。一番遠くに立つのは一九九三年に訳した『間違いの喜劇』だ。各作品それぞれに拙訳を使って上演された様々な舞台が寄り添っている。 振り返れば二十八年経っている」

藤城清治「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」

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「新・代表的日本人」4月17日。藤城清治「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」

 藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年大正13年〉4月17日 - )は日本の影絵作家。現在102歳のエンテナリアン。

師の一人である「暮しの手帖」の花森安治から「影絵は、光と影、自然と人間、絵画とカメラなどのコラボによる新しい時代の美術」だといわれ、舞台を与えられ、大活躍する。

その結果、1996年には長野県白樺湖に影絵美術館、1998年には北海道生田厚町に影絵美術館が誕生している。

そして2012年には名前を冠した美術館が那須高原に誕生している。2014年に訪問したのだが、素晴らしい美術館で、おそらく那須リゾートの名物となっていくだろう。1924年生まれの影絵画家は当時は美術館が開館した当時は89歳だった」

「ぼくも今年で90歳になる。今の僕なら、賢治童話と四つに組んでも真正面から勝負できるような気がした。「風の又三郎」に全身全霊を打ち込んで作れば、いままでにない、新しい影絵作品が出来るかもしれない」と。宮沢賢治の世界に取り組んだ「ぼくの影絵は賢治童話の中で触発され、進化していった。

「僕の影絵はモノクロの時代に培った構成や細密さ、形にあくまでもこだわりますから、カチッとした電気の光源で照らしたほうが活きる。そこへ光の色を重ねるわけです」

「影絵は、光と影の祈りの芸術」であるとし、影絵という武器で、童話、神話、自然、寺院、聖書、震災、、、などあらゆるものをどん欲に表現していく。影絵というキーワードで進化と深化を重ねていく姿に感銘を受けた。表現者は、自分独自の武器で世界と歴史、そして生命と宇宙を表現しようとする、と改めて思った。この美術館を訪ねた折に、「はだか木も 影絵のごとき 美術館」(吐鳳)という句ができた。 

「ぼくの影絵は賢治童話の中で触発され、進化していった」「僕の影絵はモノクロの時代に培った構成や細密さ、形にあくまでもこだわりますから、カチッとした電気の光源で照らしたほうが活きる。そこへ光の色を重ねるわけです」「影絵は、光と影の祈りの芸術」

キリスト教旧約聖書『創世紀』は世界の創造を描いている。その壮大な世界には、ハイドンが音楽で、白川義員が写真で挑戦している。「光と影による聖書画こそ、今日にふさわしい聖書画であり、歴史的に見ても影絵は聖書画に最も適した技法であると信じたからです」と語っている。藤城は自らが開発した「影絵」という武器で11年の歳月をかけて完成している。アダムとイブ、カイントアベルノアの方舟バベルの塔など33の作品が那須の美術館におさめられている。

表現者は、「日本」に向かった場合は、最後は「古事記」などに、そして「世界」に向かった場合は「天地創造」に向かうような気がする。

2016年には、山梨県の昇仙峡を訪ねた折に、昇仙峡にある影絵の森美術館を発見した。藤城清治は1948年に花森安治から「暮らしの手帖」に影絵の連載を依頼されのがデビューとなった。この美術館は1992年に開館しているが、まだ藤城が有名ではない時期なので藤城清治の名前はついていない。そこでは山下清の企画展をやっていた。旅先ではスケッチはしない。帰って記憶をもとに描いた。43歳から東海道五十三次の取材を始めた。49歳で没。

那須高原にぼくの美術館ができる。それは若い頃から、ずっと持ち続けていた夢だった。その夢が夢でなく、ほんとに実現して、こんなうれしいことはない」と喜びを語っている。しかし、同時に「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」との言葉もあった。

89歳の藤城はすでに大御所となって、また老境でもあり、誰も意見をしてくれなくなったことを嘆いていた。「ぼくも今年で90歳になる。今の僕なら、賢治童話と四つに組んでも真正面から勝負できるような気がした。「風の又三郎」に全身全霊を打ち込んで作れば、いままでにない、新しい影絵作品が出来るかもしれない」と取り組んでいた。

仕事を続けるために、毎日2時間の散歩を課していて、自宅から駒沢オリンピック公園まで往復1時間半のウオーキングを課していたように、本人は意欲満々であったことが印象に残っている。その藤城も2026年4月17日の本日で102歳を迎えた。異次元の高齢化の時代に、生涯にわたって進化を続けようと志す人にとって、藤城清治の心構えと積みあげた業績は大きな励ましになる。

藤城清治美術館 | 彩り鮮やかな影絵の世界に魅了される美術館! | 旅アトリーチ

 

 

 

 

 

 

知研セミナー:長澤元子先生の「探究」と「国語」を中心とした教育の熱い報告。

20時からの知研セミナーは、函館西高の長澤元子先生がゲスト。「探究」と「国語」を中心とした教育の報告。以下、キーワード。

地域ブランドと幸福度ランキングの函館パラドックス。探求は研究系・創作系・行動系。国語はプラットフォーム。場のデザイン。批判的愛着。感情と論理。光と影。道徳。余白。取材・ルーツ・日常・提言。他人の理解・自分の表現・思考の型。起点と終点。街の人は教育資源。市民の応援。凄いね・面白いね。ZINE活動は、評価しない・プロセス重視・多様性という思想。ガコール。教師はプロデューサー。共創。

長澤先生に会ったのは3回目。この人の行動力と実践力は抜群。今回の発見は優れたネーミングの能力だ。実践の総括として必ず本質をあらわす言葉を選び創造している。今回の至言は「批判的愛着」で多くの参加者が触れていた。私もマルク主義者の羽仁五郎の言葉でその意味を説明した。批判はよくなって欲しいという愛の表現なのだ。

最後に振られた私の発言は以下。

いい先生だなあ。現場の先生を応援するしかない。函館西高は北島三郎・辻仁成がOB。函館は偉人が多い。今日出海・亀井勝一郎・井上光春・新島襄・川田龍吉・土方・石川啄木・金子鴎亭・、、。「愛するからこそ批判するのだ」(羽仁五郎)。考える型の先に図解がある。

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午後:早川洋平さんと会う。

ウォーキング1万歩。スイミング600m。

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4月16日。紀田順一郎。古河市兵衛。

紀田順一郎「蔵書一代」

団鬼六「運命は性格の中にある」

古河市兵衛「他人様のお掘りになったところを、サラにもう一間ずつ余計に掘りました」

坂上二郎「夢は諦めたら消えちゃう。だから諦めたらいけない」

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『蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』紀田順一郎さん|本を読んで、会いたくなって。 | カルチャー | クロワッサン オンライン

「新・代表的日本人」4月16日。紀田順一郎「蔵書一代」

紀田 順一郎(きだ じゅんいちろう、1935年4月16日 - 2025年7月15日評論家の紀田順一郎さん死去、90歳…書物論・情報論)は、日本の文芸・メディア評論家・翻訳家・小説家。享年90。

 東京百合ヶ丘のご自宅に取材したのは、1980年代過ぎだった。当時は老成していると思ったが、先生はまだ40代の半ばであったということになる。商社在職中であった時代の、本を読んだり、書いたりする様子を興味深く聞いた記憶がある。

「知的生産の技術」研究会による『私の書斎活用術』という本の取材だったが、1階が全部奥様の部屋、2階が全部先生の書斎と書庫だった。好きな映画のフィルムを回す部屋もある。書庫も書斎も充実していて、こんな書斎を持ってみたいと憧れた。フィルムコレクションのある部屋で映画も上映してもらった。当時30歳を越えたあたりだった私には「理想の書斎」とうつった。そのときの様子をよく思いだしていた。

2020年、自身が収集してきたフィルムコレクションを荒俣宏の紹介を通じて角川武蔵野ミュージアムに寄贈している。それを元に2023年に最初の「本棚劇場シネマ」が、2025年には第2回「本棚劇場シネマ」が開催され、紀田順一郎のコメントが寄せられている。

私は紀田先生の本はよく読んできた。

 2014年。神保町の古本屋街で紀田順一郎『書物との出会い』を買い読了。選択眼を養うことだ。そのためには回り道のようだが、読んだら必ず読書録をつけることである。一冊の本について、あくまで自分の関心を大切に、その線に沿って評価をくだすようにする。(私はブログに書くという習慣を大事にしている) タテに並べたその前方に、数冊ずつ横に積みあげる方法をとることだ。(すでにやっている方法だが有効) つねに探求書が十冊も二十冊もあって、手帳などにリストアップされているというところに、読書に最も必要とされる「関心の持続」と「ユニークな問題意識の展開」が保証される。つまり、主体的な読書の姿勢がつくられる。(手元には常に読みたい本が用意されている) 過去の人物の体温にふれ、肉声に耳を傾ける。これが歴史の読み方である。、、、すぐれた通史、時代史、史伝、回想録に接するのが、歴史そのものを学ぶ近道であろう。(できるだけ自伝、回想録、伝記、日記などを読むことにしている) 自分の関心領域やテーマを持っている人は、およそ退屈ということを知らない。(読むべき本がだんだん多くなって時間が足りない)

2011年。紀田順一郎『私の神保町』(晶文社)。近代史・社会風俗史を追う紀田順一郎が綴る神保町という街の記憶と古本探索の愉しみ。最近、神保町の古本屋めぐりの愉しみに少しだけ触れているので手に取ってみた。

古雑誌の魅力の第二は、そこに過去の一定のある時間が封じ込められていることだ。(ある時代の空気を知るには、その時代の雑誌をめくればいいということになる) 「、、『しかも世の中に出るのが遅いのに寿命が短い、日本人の平均寿命は四十二、三と言うが、欧米では五十近い、こういうことは日本人の非常なハンディキャップである』(東京朝日新聞副社長・下村宏)(そうか、ということは世界一の長寿国であることは非常に有利であるということになる) 出版は本質的に同時代性に束縛されるものであるが、古書はむしろ永遠性という物差しで評価される。戦前の「古本年鑑」に、『新刊は横断的、古本は縦断的。新刊は平面的、古本は立体的』という、、」(新刊はヨコ、古本はタテということになる) 「新撰東京名所図会」 古本屋にちなんだ作品:梶山季之『せどり男爵数奇譚』、松本清張『落差』、小寺謙吉『宝石本忘れな草』、志多三郎『街の古本屋入門』。(この中のいくつかを読んでみようか) 目的読者と退屈読者との中間に位置する層がある。、、、この層が急速に薄くなっていることが、古本屋の存在基盤をおびやかしているのである。(ここでも中間層が薄くなってきている) インターネットによる通信販売。「日本の古本屋」「スーパー源氏」「古本屋さんの横断検索」(JCROSS)(ぜひ活用したい) 「ブックタウン神田」 百尺竿頭一歩を進む。「伝灯録」から》百尺の竿(さお)の先に達しているが、なおその上に一歩を進もうとする。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること)

紀田順一郎の名前は、神奈川近代文学館で館長としても目にした。「清貧の思想」の中野孝次さんの次の館長だった。この企画力の高い文学館は、ふさわしい人物をいつもトップに選んでいるなあ。

『生涯を賭けた一冊』(新潮社)。紀田順一郎が1年1冊のペースで積み上げている「書物のノンフィクション」の一冊。本は単なるメディアに過ぎず、人間とつながる契機を積極的に求めていかなければ、先へ先へと開く読書は不可能である、が動機となっている。3人の部分を読了した。紀田節に痺れる。

田中菊雄『現代読書法』。田中菊雄は1907年生まれ。本が好きな少年は高等小学校卒業前に列車給仕となり、代用教員を経て、中等学校英語科教員検定に合格、つづいて高等学校教員検定に合格し高校教授となり、『岩波英和辞典』(共著)を完成し、ついには山形大学と神奈川大学の教授になった苦学の人である。盲目になるまで読み続けよう。和漢洋の第一流の書物をまっしぐらに取り組もうとした生涯の読書法を披露した名著だ。自分と同じ若き独学者のために書いたのが『現代読書法』だ。「読書の方法」では、精読、多読、摘読、抄読、書き入れ、目録、カードなどのテーマとなっており、カードの稿は実戦的価値を高めた。実戦性と実用性が特色だった。著者の狙いは「読書百科事典」であった。

松崎明治『釣技百科』。1898年鹿児島県生まれ。早稲田大学美術科卒、朝日新聞美術部で「朝日グラフ」を担当、その後に学芸部で釣魚欄を担当。900ページで1ページも無駄のない本。2270枚。絶版。釣りの学者。釣りを「釣技」にイメチェン。釣愛。、、、。 山下重民『新撰東京名所図会』。

山下重民は1857年生まれ。「風俗画報」を舞台とした15年間の事業だ。足で書く江戸東京地誌。現状のルポであり、歴史ジャーナリストとしての仕事だ。96歳で没。

2017年。紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)を読了。副題は「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」。12畳の書斎と3万冊の書物を収納した10畳半の書庫という52年間親しんだ理想的な環境から、新居に移るに当たって一気に本当に手元に置きたい最後の蔵書600冊に減らすという切ない体験から始まる愛書家の蔵書家一代の記録。

書斎と書庫と惜別する物語である。蔵書は所蔵者の生涯と営為の結晶であり、ある意味で創作であるから、その解体は自らの死に相当するかもしれない。紀田順一郎先生は1935年生まれ。慶應義塾大学を出て、総合商社(日商岩井)に勤務。30歳で退社し著述業に専念。以降、書誌学、メディア論を中心に精力的に執筆活動を行う。 読書家と言えるのは1万冊が目安だと思ってきたが、スチール製書棚(185cm・間口80cm)で40本が必要であり、六畳間で四部屋が必要という試算になっている。1万冊以上の蔵書の維持には、不動産価格が高いための金力と本の移動や処分のための体力が必要だ。私も1万冊という目標を持っていたが、これはやめた方がいいかもしれない。 この本に記されている著名人の蔵書数が興味を惹いた。渡部昇一15万冊。井上ひさし14万冊(山形の遅筆堂文庫)。谷沢永一13万冊(関西大学の谷沢永一文庫)。草森紳一6.5万冊(帯広大谷短大の草森紳一記念資料室)。立花隆3.5万冊。布川角左衛門2.5万点(国会図書館に布川文庫)。江戸川乱歩2.5万冊。山下武2万冊。大西巨人0.7万冊。(徳富蘇峰10万冊) 個人の蔵書として出発したものが、個人的な目的から発展し、同学の士の参照に資することを意図し、それが「文庫」となる。新しい動きとして以下の紹介がある。 -シェア・ライブラリー:東京渋谷co-ba library。赤坂。-集合書棚:成毛真(HONZ代表)提案。神田神保町。オフィスや店舗の空きスペースに共同の書棚。

新百合ヶ丘の住宅地に建つ一戸建ての2階を全部使った、知的生産者垂涎の理想の書斎と書庫を擁した「蔵書」は一代で終わったという著者の哀しみと嘆きが伝わってくる本である。

紀田順一郎の書物に関する蘊蓄、名言は数多い。それを選ぶか迷ったが、一生かけて蒐集した膨大な蔵書が最後は、600冊になっていく。これには私もショックを受けた。著作は残る。しかし著書を生んだ蔵書という体系は消えてしまう。紀田順一郎からは、「蔵書一代」という言葉を採ることにしよう。

 

 

 

「アクティブ・シニア革命」第3号:クラファン成立。アマゾンで予約開始。

『イコール』12号「アクティブ・シニア革命」3号のクラウドファンディングを達成し、本日終了。また、アマゾンで予約が始まっている。

クラファンの支援者、執筆者には先に配り終えたので、感想が入り始めた。

以下、執筆者。ありがとうございました!

富山祥瑞。ブルけい子。鈴木章子。近藤千恵子。東郷綾乃。都築功。佐原勉。近藤節夫。夏目雄平。大家俊夫。深谷康雄。本田和秀。奥村経世。松井洋一郎。大村信夫。津村雄作。高橋明希。久恒啓一。西山カオリ。中島聡。面矢慎介。力丸萌樹。品田マルクス高志。ヒロ・オカベ。松本龍二。井関美津子。大熊正喜。河野初江。小野恒。西久保祐輔。山本冬彦。長澤元子。堀田一扶。上原加奈。内田ゆき。安田翔太。伊藤あきら。渡辺俊之。生田康夫。

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4月15日。

小出義雄

水島廣雄

戸川幸夫

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「名言との対話」4月15日。小出義雄「焦らなくていい、大きな山はゆっくり登れ」

小出義雄(こいで よしお、1939年4月15日 - 2019年4月24日)は、陸上競技の選手。マラソン・中長距離選手の指導者。佐倉アスリート倶楽部代表取締役。マラソン・中長距離選手の指導者。享年79。

陸上強豪の順天堂大学で箱根駅伝を走る。卒業後、高校教員となり、1965年から陸上部監督として23年間の指導者生活を送る。1988年、リクルート・ランニングクラブ監督に就任し、有森裕子の1992年バルセロナ五輪女子マラソン銀メダル、1996年アトランタ五輪銅メダルと連続メダルの獲得を指導した。1996年、積水化学女子陸上競技部監督に就任。1997年、鈴木博美が世界選手権金メダルを獲得。1998年、高橋尚子が名古屋国際女子マラソンを日本記録で優勝、アジア大会で優勝。2000年名古屋国際女子マラソン優勝。同年、シドニーオリンピックで高橋尚子が女子マラソンで日本史上初の金メダルを獲得した。マラソンの名指導者である。

『君ならできる』(幻冬舎)を読んだ。小出は「出会い」の重要性を語る。有森裕子は「ただの人で終わりたくない。練習は好きではない。強運の持ち主」。鈴木博美は「人に負けるのが絶対に嫌い」。高橋尚子は「リクルートで6番目の選手。練習の虫。手を抜かない。「一所懸命」と評している。こういう素質を持った選手は優れた指導者との出会いによって、大きく飛躍する。出会いが大事なのだ。そのことは指導者自身にもいえる。選手という素材との出会いが指導者の器を大きくするのだ。

小出監督は優れたランナーを継続的に世に送り出している。それはバルセロナ、アトランタ、シドニーと3つのオリンピックで連続して教え子がメダルを獲得しているという快挙からわかる。それは「小出マジック」と呼ばれた。

教員時代には「これからのスポーツも女子の時代になる」と考え、後発の女子スポーツの専門家になろうとした。「他人を超えるには自分独自のやり方、考え方を実行しなければならない」と、日夜その道を突き進んだ。その蓄積の上に偉業が成ったのだ。「修業している者に自主性は必要ない」「私は選手の食生活まで気を配る栄養士でもある」「懸命に努力し続けているから、運も回ってくる」。

以下、小出監督の指導法を探ってみよう。

  • ほかの人と比較するんじゃない。比較しては絶対に駄目だ。いつでも、自分がいまよりも強くなることだけを考えなさい。
  • 私の教え方は、夢と希望を持たせることだ。「勝てるよ、世界一になれるよ、お前なら絶対出来る!」と毎日誠心誠意言い聞かせると、心が通じて人間の脳は、「なるほどな!」となるのだ。
  • 『おまえは、世界一になれる!』と、毎日のように言い続けたのだ。高橋尚子にしてみれば、365日『おまえは世界一になれる』と同じことを言われていると、本当はなれっこないと半信半疑でも『あれ、もしかしたらなれるのかな』とその気になってくる。だが私は本当の本気だった。
  • 他人を超えるには、自分独自のやり方、考え方を実行しなければならない。
  • 私には大きな夢がある。その夢を達成するために走っている。そこには果てしない大きな夢、世界の檜舞台で私の育てた選手が力を発揮し大輪の花を開かせること。その夢がある限り、私は走り続ける…生きている限り。
  • 成功できるか? ではだめだ。何が何でも成功するのだ、という信念があってはじめて成功するのだ。
  • スローペースで走らせるのも大事なのだ。
  • 生きているうちに一生懸命にやって、死ぬ時に満足して「いい人生だった。思い残すことはない」と思う。それが最高の生き方だと私は思う。そのためにも、もう一度選手に金を取らせてあげたい。
  • 仕事が好きで好きでたまらなくて、いつも仕事のことを考えている。それでお天道様が「そこまで好きなら仕方ない。褒美をやろう」というので、私にくれたのがQちゃんの金メダルだと思うのだ。
  • 何でもかんでも褒めればいいわけではない。よく「小出は選手を褒めて育てる」と言われるけれど、とんでもない。褒めるだけで人間が育つはずがない。人間はどうしても楽なほうに逃げて、苦しいほうに行きたがらないものだ。それをどうやって動かすのか。褒める時もあるし、叱る時もある。アドバイスや注意をする時もある。そういうことをうまく組み合わせて指導するのだ。
  • いい練習を見つけるため、今世間でやっている練習とは違ったものを模索する。もしかしたら、非常識だと言われるかもしれない。非常識な練習が正しければ、結果は出る。結果が出れば、それが常識となっていくのだ。
  • 会社にはいろいろな人がいる。能力が高い人もいればそうでない人もいる。決してデキる社員ばかりとは限らない。それを嘆いたり、あきらめたりしないで、少しずつでも全員がレベルアップできるように指導したほうが、絶対に楽しいし、会社も発展するはずだ。そして指導をする時には、社員一人ひとりの個性を見て、それに合わせた方法で指導をする。それができるのが優秀な指導者ではないか。
  • お互いが幸せになるには、あなたも幸せになって、私もなる、という考えでなければ頂点に行けないのだ。
  • 同じことを言っていても、言葉の言いようによっては、相手の受け取り方が変わってくる。だからこの選手を強くするためにはどうしたらいいかを十分に考えてから、そこから言葉を発するようにしている。
  • どんな世界であってもいい、好きなものを一つ見つけろ。そして、夢を失うことなく最後まで持ち続けろ。夢を持ち続ける限り、心も体も若さも保つことができる。
  • 自分で世界一の金メダルを獲るのだという夢があるから、休めないのだ。やるんだったら命をかけるくらい、そのくらい1つのものが好きにならないと恵みが来ない。いいものが出てこない。
  • 陸上競技を真剣にやっていたら、酒を飲んでいても、家に帰って寝ていても、陸上競技で世界一になるにはどうしたらいいかを考えているようでないと一番にはなれない。
  • 一番怖いのは、「あいつは素質がないからだめだ」なんてあきらめてしまうことだ。みんな夢を持ってやっているのだから、指導者は少しでもレベルアップさせて、その夢に近づけてあげなければいけない。
  • 褒める時には、お世辞で褒めるのではなく、腹の底からそう思って相手の心に響くように褒める。叱る時には感情的に叱るのではなく、相手が納得できるような意味のある叱り方をする。言葉の役割はものすごく大きい。言葉を大事にするのも良い指導者の条件だ。
  • 私は子供の頃から、夢が100%実現できている。「こうなりたい」「ああなりたい」という強い願望を持ち続ければ、たとえ時間がかかっても必ずそこに近づいていけるのだ。何事も絶対にあきらめてはいけないのだ。
  • 教員になったばかりの頃から、将来は必ず女子の1万メートルやマラソンができると考えて、どうやったら速く走れるかを考えていた。まだ誰も女子マラソンのことなど考えていない時代から、いち早く勝てるトレーニング法を考えていたのだ。そのうち本当に女子マラソンができて、実際に高校の女子部員にマラソンを教えて走らせてみたら日本歴代3位の好記録を出したので、「これは本腰を入れて取り組めば金メダルが取れる」と確信できたのだ。
  • え?マラソンが強くなるには? それは、たくさん食べることだ。今の高校生は痩せすぎだ。食べなさすぎだ。高校までは5000mが速いけれど、あれでは、高校を卒業してから強くならない。絶対だめだ。すぐに骨折をしてしまうのだ。骨を強くするには、食べることである。
  • 強くなる、ということは難しいことだとは思わない。何でも、常識外れが大切だ。
  • 何か一つのことをやり遂げようとしたら、ある程度、信念を持って貫かなければ、成功しない。
  • 選手は体を使い、指導者は頭を使う。それが、選手育成の大原則だ。
  • 人間はやはり、悔しい思いも経験しなければだめだと思う。悔しい思い出の数だけ、人としての力が増すと言ってもいいかもしれない。
  • 本当に陸上が好きなら、神様が同情してくれるくらい好きにならなければいけない。
  • 大胆さと緻密さの両方が必要だ。怖がっていては何も始まらない。
  • 私は、夢や願望は強く持てば持つほどいいと思う。
  • 普通の選手は、練習時間が3時間だとすると、初めの30分や1時間はゆっくり走る。ところが、高橋は最初から最後まで決して手を抜くようなことはしない。常に全力投球する。
  • 牛乳を飲む人より、牛乳を配る人のほうがよっぽど丈夫だ。
  • 『おまえ、くるぶしから下、いい足をしている。いいキックを出しているね』といったのを覚えている。と同時に『おまえは世界一になれる』と毎日のように言い続けたのだ。
  • 元気な挨拶こそが、充実した一日の、効果が期待できる練習の、いいスタートを約束してくれる。
  • 褒め方もタイミングだ。いい事をした瞬間を見逃さずに褒める。だから観察が必要だ。ただ可愛がるだけではだめだ。そしてその子に夢を持たせる褒め方がいい。とにかくどんな子でも褒めるところはある。

有森裕子と高橋尚子は、1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ、2000年のシドニーの女子マラソンでメダルを獲るという大きな山を登り切った。それは小出義雄という傑出した監督の、以上のようなきめ細かな指導の賜物であることは間違いない。

小出は「出会い」の重要性を語る。有森裕子は「ただの人で終わりたくない。練習は好きではない。強運の持ち主」。鈴木博美は「人に負けるのが絶対に嫌い」。高橋尚子は「リクルートで6番目の選手。練習の虫。手を抜かない。「一所懸命」と評している。こういう素質を持った選手は優れた指導者との出会いによって、大きく飛躍する。出会いが大事なのだ。そのことは指導者自身にもいえる。選手という素材との出会いが指導者の器を大きくするのだ。

小出監督は優れたランナーを継続的に世に送り出している。それはバルセロナ、アトランタ、シドニーと3つのオリンピックで連続して教え子がメダルを獲得しているという快挙からわかる。それは「小出マジック」と呼ばれた。

自身は小出マジックについて次のように解説している。

  • 私の教え方は夢と希望を持たせることだ。「勝てるよ、世界一になれるよ、お前なら絶対出来る!」と毎日誠心誠意言い聞かせると、心が通じて人間の脳は「なるほどな!」となるのだ。
  • 焦らなくていい。大きな山はゆっくり登れ。
  • 本当に陸上が好きなら、神様が同情してくれるくらい好きにならなければいけない。

この本の中で、小出は高橋尚子について「大舞台でも、ぶっちぎりの優勝の瞬間が見られるかもしれない」と語っている。結果に自信があったことをうかがわせる発言である。

この本の「あとがき」(2000年9月18日付)の最後に、「いよいよ運命のレースのスタートまで、あと一週間。高橋は本当によく辛い練習に耐え、強くなってくれた。私たちはやるだけの事はなしたと思う。あとはまさに天命を待つ心境である」と書いている。

そして2000年9月24日のシドニーオリンピック女子マラソンという大舞台で、高橋尚子は金メダルに輝いたのである。この本の発刊は10月5日で、私が読んだのは10月20日の第6刷である。発行者・見城徹の幻冬舎の賭けも成功したのだ。

「メダルのために人生があるのではない。あくまでも人生のためにメダルがあるのだ」という小出監督のいうとおり、有森裕子も、高橋尚子も、メダルを終着駅とはしていない。それを契機として一気に飛躍し、人生のメダルに向かって力走している姿をよくみかけるようになった。小出義雄は2019年に亡くなったが、その影響は長く続いている。

有森裕子と高橋尚子は、1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ、2000年のシドニーの女子マラソンでメダルを獲るという大きな山を登り切った。それは小出義雄という傑出した監督の、以上のようなきめ細かな指導の賜物であることは間違いない。大きな山を目指し、ゆっくり登ろう。

 

 

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『蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』紀田順一郎さん|本を読んで、会いたくなって。 | カルチャー | クロワッサン オンライン「新・代表的日本人」4月16日。紀田順一郎「蔵書一代」

紀田 順一郎(きだ じゅんいちろう、1935年4月16日 - 2025年7月15日評論家の紀田順一郎さん死去、90歳…書物論・情報論)は、日本の文芸・メディア評論家・翻訳家・小説家。享年90。

 東京百合ヶ丘のご自宅に取材したのは、1980年代過ぎだった。当時は老成していると思ったが、先生はまだ40代の半ばであったということになる。商社在職中であった時代の、本を読んだり、書いたりする様子を興味深く聞いた記憶がある。

「知的生産の技術」研究会による『私の書斎活用術』という本の取材だったが、1階が全部奥様の部屋、2階が全部先生の書斎と書庫だった。好きな映画のフィルムを回す部屋もある。書庫も書斎も充実していて、こんな書斎を持ってみたいと憧れた。フィルムコレクションのある部屋で映画も上映してもらった。当時30歳を越えたあたりだった私には「理想の書斎」とうつった。そのときの様子をよく思いだしていた。

2020年、自身が収集してきたフィルムコレクションを荒俣宏の紹介を通じて角川武蔵野ミュージアムに寄贈している。それを元に2023年に最初の「本棚劇場シネマ」が、2025年には第2回「本棚劇場シネマ」が開催され、紀田順一郎のコメントが寄せられている。

私は紀田先生の本はよく読んできた。

 2014年。神保町の古本屋街で紀田順一郎『書物との出会い』を買い読了。選択眼を養うことだ。そのためには回り道のようだが、読んだら必ず読書録をつけることである。一冊の本について、あくまで自分の関心を大切に、その線に沿って評価をくだすようにする。(私はブログに書くという習慣を大事にしている) タテに並べたその前方に、数冊ずつ横に積みあげる方法をとることだ。(すでにやっている方法だが有効) つねに探求書が十冊も二十冊もあって、手帳などにリストアップされているというところに、読書に最も必要とされる「関心の持続」と「ユニークな問題意識の展開」が保証される。つまり、主体的な読書の姿勢がつくられる。(手元には常に読みたい本が用意されている) 過去の人物の体温にふれ、肉声に耳を傾ける。これが歴史の読み方である。、、、すぐれた通史、時代史、史伝、回想録に接するのが、歴史そのものを学ぶ近道であろう。(できるだけ自伝、回想録、伝記、日記などを読むことにしている) 自分の関心領域やテーマを持っている人は、およそ退屈ということを知らない。(読むべき本がだんだん多くなって時間が足りない)

2011年。紀田順一郎『私の神保町』(晶文社)。近代史・社会風俗史を追う紀田順一郎が綴る神保町という街の記憶と古本探索の愉しみ。最近、神保町の古本屋めぐりの愉しみに少しだけ触れているので手に取ってみた。

古雑誌の魅力の第二は、そこに過去の一定のある時間が封じ込められていることだ。(ある時代の空気を知るには、その時代の雑誌をめくればいいということになる) 「、、『しかも世の中に出るのが遅いのに寿命が短い、日本人の平均寿命は四十二、三と言うが、欧米では五十近い、こういうことは日本人の非常なハンディキャップである』(東京朝日新聞副社長・下村宏)(そうか、ということは世界一の長寿国であることは非常に有利であるということになる) 出版は本質的に同時代性に束縛されるものであるが、古書はむしろ永遠性という物差しで評価される。戦前の「古本年鑑」に、『新刊は横断的、古本は縦断的。新刊は平面的、古本は立体的』という、、」(新刊はヨコ、古本はタテということになる) 「新撰東京名所図会」 古本屋にちなんだ作品:梶山季之『せどり男爵数奇譚』、松本清張『落差』、小寺謙吉『宝石本忘れな草』、志多三郎『街の古本屋入門』。(この中のいくつかを読んでみようか) 目的読者と退屈読者との中間に位置する層がある。、、、この層が急速に薄くなっていることが、古本屋の存在基盤をおびやかしているのである。(ここでも中間層が薄くなってきている) インターネットによる通信販売。「日本の古本屋」「スーパー源氏」「古本屋さんの横断検索」(JCROSS)(ぜひ活用したい) 「ブックタウン神田」 百尺竿頭一歩を進む。「伝灯録」から》百尺の竿(さお)の先に達しているが、なおその上に一歩を進もうとする。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること)

紀田順一郎の名前は、神奈川近代文学館で館長としても目にした。「清貧の思想」の中野孝次さんの次の館長だった。この企画力の高い文学館は、ふさわしい人物をいつもトップに選んでいるなあ。

『生涯を賭けた一冊』(新潮社)。紀田順一郎が1年1冊のペースで積み上げている「書物のノンフィクション」の一冊。本は単なるメディアに過ぎず、人間とつながる契機を積極的に求めていかなければ、先へ先へと開く読書は不可能である、が動機となっている。3人の部分を読了した。紀田節に痺れる。

田中菊雄『現代読書法』。田中菊雄は1907年生まれ。本が好きな少年は高等小学校卒業前に列車給仕となり、代用教員を経て、中等学校英語科教員検定に合格、つづいて高等学校教員検定に合格し高校教授となり、『岩波英和辞典』(共著)を完成し、ついには山形大学と神奈川大学の教授になった苦学の人である。盲目になるまで読み続けよう。和漢洋の第一流の書物をまっしぐらに取り組もうとした生涯の読書法を披露した名著だ。自分と同じ若き独学者のために書いたのが『現代読書法』だ。「読書の方法」では、精読、多読、摘読、抄読、書き入れ、目録、カードなどのテーマとなっており、カードの稿は実戦的価値を高めた。実戦性と実用性が特色だった。著者の狙いは「読書百科事典」であった。

松崎明治『釣技百科』。1898年鹿児島県生まれ。早稲田大学美術科卒、朝日新聞美術部で「朝日グラフ」を担当、その後に学芸部で釣魚欄を担当。900ページで1ページも無駄のない本。2270枚。絶版。釣りの学者。釣りを「釣技」にイメチェン。釣愛。、、、。 山下重民『新撰東京名所図会』。

山下重民は1857年生まれ。「風俗画報」を舞台とした15年間の事業だ。足で書く江戸東京地誌。現状のルポであり、歴史ジャーナリストとしての仕事だ。96歳で没。

2017年。紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)を読了。副題は「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」。12畳の書斎と3万冊の書物を収納した10畳半の書庫という52年間親しんだ理想的な環境から、新居に移るに当たって一気に本当に手元に置きたい最後の蔵書600冊に減らすという切ない体験から始まる愛書家の蔵書家一代の記録。

書斎と書庫と惜別する物語である。蔵書は所蔵者の生涯と営為の結晶であり、ある意味で創作であるから、その解体は自らの死に相当するかもしれない。紀田順一郎先生は1935年生まれ。慶應義塾大学を出て、総合商社(日商岩井)に勤務。30歳で退社し著述業に専念。以降、書誌学、メディア論を中心に精力的に執筆活動を行う。 読書家と言えるのは1万冊が目安だと思ってきたが、スチール製書棚(185cm・間口80cm)で40本が必要であり、六畳間で四部屋が必要という試算になっている。1万冊以上の蔵書の維持には、不動産価格が高いための金力と本の移動や処分のための体力が必要だ。私も1万冊という目標を持っていたが、これはやめた方がいいかもしれない。 この本に記されている著名人の蔵書数が興味を惹いた。渡部昇一15万冊。井上ひさし14万冊(山形の遅筆堂文庫)。谷沢永一13万冊(関西大学の谷沢永一文庫)。草森紳一6.5万冊(帯広大谷短大の草森紳一記念資料室)。立花隆3.5万冊。布川角左衛門2.5万点(国会図書館に布川文庫)。江戸川乱歩2.5万冊。山下武2万冊。大西巨人0.7万冊。(徳富蘇峰10万冊) 個人の蔵書として出発したものが、個人的な目的から発展し、同学の士の参照に資することを意図し、それが「文庫」となる。新しい動きとして以下の紹介がある。 -シェア・ライブラリー:東京渋谷co-ba library。赤坂。-集合書棚:成毛真(HONZ代表)提案。神田神保町。オフィスや店舗の空きスペースに共同の書棚。

新百合ヶ丘の住宅地に建つ一戸建ての2階を全部使った、知的生産者垂涎の理想の書斎と書庫を擁した「蔵書」は一代で終わったという著者の哀しみと嘆きが伝わってくる本である。

紀田順一郎の書物に関する蘊蓄、名言は数多い。それを選ぶか迷ったが、一生かけて蒐集した膨大な蔵書が最後は、600冊になっていく。これには私もショックを受けた。著作は残る。しかし著書を生んだ蔵書という体系は消えてしまう。紀田順一郎からは、「蔵書一代」という言葉を採ることにしよう。

 

 

 

 

生活のリズムを大切にーー池波正太郎・渡部昇一・五木寛之・外山滋比古たちの日常の習慣

時代小説の人気作家・池波正太郎は、膨大な作品を書いたが、締め切りには一度も遅れたことはない。その秘訣は「段取り」力にあった。出版社の指定した締め切りの一ヶ月前に自分の締め切を設定していたのである。それは相手の時間、そして自分の時間を最も大切だと考えてからだ。限りある持ち時間こそ財産である。常に二分の余裕を持っていた。そして生活も仕事も最後の目標に向けて単純に煮詰めていこうと念願していた。散歩、睡眠、食事、酒、映画、生活の全てが自分なりのリズムを保っていた。それが量産の秘訣であった。

同じく量産型の学者でもあった『知的生活の方法』の渡部昇一は、同じリズムで過ごすことを大事にしていた。朝は冷水シャワー、30分の音読。午前から昼過ぎまでは専門の本を読み、原稿を書く。午後は昼寝や気楽に小説を愉しむ。夕食は外食も多い。晩は喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読む。帰りは40分ほどかけて歩く。帰宅後は風呂で汗を流し、松葉タワシで体をこする。この人も一定のリズムで仕事をした人だ。

小説家で今年93歳を迎えた五木寛之も「同じリズムでずっと続けることがとても大事だと思います」というように、寝る前は1975年以来、12000回以上一度も欠かしたことにない「日刊ゲンダイ」の連載の執筆で締めくくっている。この人もリズムの信奉者だ。

ベストセラーを連発した外山滋比古は20代から90代まで日記は毎日書いている。その日常は、以下のようであった。4時半起床。5時46分の始発で茗荷谷駅から丸ノ内線で大手町に5時56分着。半蔵門線九段下駅に6時05分到着。定期を買っている。北の丸公園に向かい、6時半からのラジオ体操を顔見知りと一緒に行う。皇居の周りを回る。半蔵門三宅坂桜田門二重橋大手町駅へ。地下道の喫茶で一服し、カプチーノを飲む。地下鉄で座って帰宅。自宅到着は8時過ぎ。歩数は1万歩。朝食の支度をし、食べ終わると8時40分。後片付けをしてひと寝入り(また寝)。長くて1時間。あるいは新聞。全ページの見出しを見て、ひとつ本文を読む。11時にまた寝から覚めて郵便物を処理し、自宅近くの図書館に向かう。図書館は書斎代わりで原稿書きを2時間。場所を変えるのがいい。午後1時には家に戻る。昼食をつくって食べ終わると午後2時。再び図書館に戻る。午後5時に帰宅。雑事を済ます。午後7時から夕食の支度。午後8時に食べ始め、8時半に片付け。午後9時には床につく。テレビは見ない。これが90代を迎えた「知の巨人」の生活リズムだ。「面白いことに夢中になって年を忘れているうちに死ぬ。これが一番」というこの人には『知的生活習慣』という著書もある。習慣とはリズムの別名である。

以上、晩年まで高いレベルの仕事を多くした人たちはリズム感あふれる日常生活を送っていることが共通している。実年期を生きている私にも生活のリズムができているが、彼らのリズムもさらに参考にしたい。

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今日は火曜日。夫婦で初のカラオケ。その後、ジムでスイミングを600m。ウォーキングは9000歩。

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4月14日:林屋辰三郎。長井勝一。

大鳥圭介「「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」「なに降伏したつて殺されやしない」

岡田良男「仕方ない、自分たちで作ろう」 

田原総一朗「「朝生」の最中に死ぬこと」 

林屋辰三郎「複製文化に典型をいにしえに求める復興文化のスタイルがからむと全く新しい創造という形になる。文明開化と王政復古とを結びつけた明治維新がその典型だ」

長井勝一「商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね」

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なんかこんなの見つけたよ : 長井勝一漫画美術館

「新・代表的日本人」。4月14日。長井勝一は「商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね」と語っている。

長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 1996年1月5日)は、日本の編集者、実業家である。青林堂の創業者であり、漫画雑誌『月刊漫画ガロ』の初代編集長を務めた。

長井は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)に、伝説の漫画雑誌『ガロ』を創刊した。長井によれば、白土三平に既製の商業誌では不可能な大長編『カムイ伝』を発表してもらうために創刊したが、この雑誌からは漫画文化の創成期を担った漫画家やイラストレーターなどが多数輩出された。南伸坊、水木しげる、林静一、赤瀬川源平、渡辺和博、荒木経惟、中島らもなど。「ガロ」は全共闘世代に熱い支持を受けた。

2006年に宮城県塩竈市にある塩竈市杉村惇美術館を訪問した。この美術館内には長井勝一氏の資料を展示するコーナーが存在する。以下、ガロで育った漫画家たちの長井評を記す。彼らが語る人物像が、親しかった人々の回想から浮かび上がってくる。

矢口高雄は「農民が主人公の作品(『カムイ伝』)には驚いた。ガロで世の中の仕組み、差別などを知った」と語った。水木しげるは「長井さんは漫画好きというより、漫画家好きな人だった」と評した。永島慎二は「人間をみつめた人だった」と述べている。鶴見俊輔は「もしガロがなかったら、もしガロに私が出合うことがなかったら、私は今とかなり違っていただろう。それほどに影響を受けた」と影響の大きさを語った。唐十郎は「20代の頃からガロを読んでいた。小説よりも劇画の方が、はるかに現代を伝えていたからだ」と回想した。石ノ森章太郎は「ガロはワレワレCOM族にとっては宿敵だった」(COMは手塚治虫が主宰)と述べた。菅野修は「ガロから生まれた作家には、素晴らしい才能を感じます。どうしてガロだけに集結されるのでしょうか?多分、長井さんの魔力のおかげだと思います」と推測した。四方田犬彦は「ガロというのは永遠にマイナーな位置にあるわけですよ。ガロに入門し卒業した人は、次々とメジャーになってゆく。けれども本誌そのものは、どこ吹く風とばかりにいつまでもマイナーな、アンダーグラウンドな位置に留まり続ける。これは今日の東京の大衆消費社会では稀有な、というより唯一の文化現象のような気がしますね」と独特のポジションを分析した。南伸坊は「長井さんは、才能の見極めっていうか、見出し方っていうのがボクなんかより、ずっと頭柔らかいと思いましたね」と長井の才能を見抜く力を称賛した。永島慎二は「さまざまな時代を経て、時と共に、これほど内面的に大きくなっていった人は珍しい、と思う」と語った。

長井は漫画産業の内弟子制度から脱却するために「新人漫画家投稿募集!」という新人発掘のやり方を生み出した。金がなかったことがこのような知恵を生み出した要因でもあった。この伝説の漫画誌は、私は読まなかったが、学生時代からまわりの感度の高い友人たちが『カムイ伝』などを熱心に読んでいた記憶がある。全共闘世代も主人公たちの生き方や言葉に大いに影響を受けた雑誌だったのだ。長井は一つの時代を創った

長井勝一が創刊した漫画雑誌『ガロ』は、漫画人たちを生んだ優れたインフラだったと思う。後に大家になっていく漫画家たちは、そのインフラで思う存分に才能を開花させた。一番偉かったのは、そのような漫画雑誌『ガロ』を創刊し維持し続けた長井勝一だったのではないだろうか。「やめたくてもやめられなくなってしまった」と本人が述懐しているように、インフラによってコンテンツが花開き、コンテンツの隆盛によってインフラの価値がさらに高まっていくという好循環がそこにはあった。この構図はいつの時代も変わらない。