昭和天皇記念館

k-hisatune2008-05-05

立川駅から徒歩10分のところにに国営昭和記念公園という広大な公園がある。昭和天皇の在位五十周年記念事業の一環として設置された公園で、1983年に開園したから今年で25周年になるが、数次にわたる拡張を経て現在では東京ドームの40倍の広さになっている大公園である。
この一角に「花みどり文化センター」という大きな建物があり、緑の文化に関連する行事の会場となっていて、その中に「昭和天皇記念館」があり、緑を愛された昭和天皇のや香淳皇后の遺品が展示されている。
記念館の入り口にはやや小ぶりながら達筆の昭和天皇記念館という題字がかかっている。あまりに見事な字なのでそばにいた係員に誰の字かと聞くと衆院議長をつとめたことのある綿貫民輔氏の書いたものだった。
昭和天皇は1901年生まれだから20世紀の最初の年に生を受け1989年に87歳で崩御しているから、20世紀の世界の主役の一人として生きた激動の人生だった。年譜をたどると、19歳のヨーロッパ諸国訪問を経て父の大正天皇の病気により20歳で摂政に就任し25歳で天皇となった。その後日本史上最長の在位を記録している。34歳のとき2・26事件、40歳のとき宣戦の詔書、44歳のときポツダム宣言を受諾し終戦の詔書、46歳のとき日本国憲法に発布に伴い国及び国民統合の象徴となる、57歳のとき皇太子明仁親王の結婚、63歳のとき東京オリンピック名誉総裁として開会宣言、70歳のときヨーロッパ諸国訪問と冬季オリンピック札幌大会名誉総裁、74歳のときアメリカ訪問、87歳のとき崩御。テレビの登場以降折々の姿は私の中に映像として残っているし、崩御にいたる過程で国全体の沈んだ雰囲気と皇居でのお見舞いの記帳が続いたことを鮮明に思い出す。大喪の礼には164ヵ国と28の国際機関の代表が参列し空前の規模で行われた。天皇は主役の一人として戦争と革命の世紀といわれる20世紀をたしかに生きたのである。
私の世代は壮年から晩年にかけての顔や姿しか知らないが、幼少の頃の写真をみると、聡明でりりしい顔立ちで特に大きな涼しい目がいい。天皇家は伝統として和歌をたしなむし歴代の天皇は折に触れて歌を詠んできたが、昭和天皇の歌は時代背景やその時の心境を歌っており、心を打つ。
昭和3年には「山々の色はあらたにみゆれどもわがまつりごといかにかあるらむ」と責任の重さを歌っている。昭和20年の終戦時には「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」と終戦に至った心境を詠んでいる。戦後の復興の兆しが見えた昭和27年には「国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」と喜びを詠った。昭和45年の70歳では「よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそじ」、昭和62年の77歳のときには「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを」と念願の沖縄行幸を実現できないくやしさを詠っている。これ以外にも多くの御製があるが、おおらかでまっすぐな独特の調べがあり、心を打たれる。
終戦後の昭和21年から29年にかけての全国行幸は今の私たちの親の世代の語り草になっているが、165日で総行程3万3千キロに及ぶものだった。
録画された映像で思い出を聞かれてヨーロッパ歴訪を挙げていたが、テレビ番組で何を見ているかと聞かれて「最近は放送会社の競争が激しくて影響があるので何を見ているかは申し上げられません」と答え記者団の笑いを誘っており、このシーンは人柄の滲みでたいい表情をされていた。
昭和46年9月27日から10月14日までのヨーロッパ諸国歴訪のコーナーには、日本航空機内食のメニューカードが展示されていた。またその年の12月号の日本航空の社内報「おおぞら」の「天皇・皇后ご訪欧フライトを終わって」という座談会も展示されていて興味深く見た。秘書室次長・川野光斉、国際旅客運送課長・一柳宏司、客室部客室課長・吉井友哉、広報室課長補佐・藤松忠夫、主席客室乗務員・成瀬慧瞭、航本管理部次長・玉手文武、司会は広報室次長・中村昭雄だった。後にこの「おおぞら」の担当課長をつとめた私には感慨もあったが、この座談会のメンバー全員は何らかの形で関わった大先輩たちだ。また昭和48年12月号の「おおぞら」の「ご訪米特別便運航を終えて」と題した座談会も見ることができた。私は昭和48年の入社だからこの当時のことはよくは知らないが、日本航空の輝ける時代の一こまだったのだと懐かしかった。
記念館の一角に皇居にあった「生物学御研究所」が復元されていた。昭和天皇の使っていた椅子、机、書架、対面式顕微鏡など実際に使っていたものである。12歳の時那須塩原でとった昆虫と植物を組み合わせた標本をつくたtのがきっかで自然史学研究がライフワークとなったのだ。天皇は公務と私事を分けていたが、研究者としての生活は私事とみなし公務の間に遠慮しながら続け、生涯に著書を31冊ほど出している。「天草諸島のヒドロ虫類」などの単著が9冊、「那須の植物」「皇居の植物」など学者との共著が6冊、その他学者が生物学研究所編としてまとめたものなどだ。昭和天皇は二足のわらじを履いていたのだ。
花みどりセンターの売店には、牧野富太郎南方熊楠の書籍やグッズが売っている。二人は生物学者としての昭和天皇の同学の士である。97歳という長寿であった牧野富太郎(1862-1957年)は植物分類学の大家で、ヤマトグサなどの発見・命名者でその業績はリンネに次ぐ。那須御用邸などで牧野と交流のあった天皇は牧野が94歳の時にお見舞いに贈られたアイスクリームをありがたがって2杯食べた。
また、南方熊楠(1867-1941年)と親交のあった天皇は1929年の和歌山への行幸時に、粘菌や海中生物についての御前講義を行った。熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上した。後に天皇はあのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年に再び和歌山を訪れた天皇は、神島を見て「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。
昭和62年の歌会始には「わが国のたちなほり来し年年にあけぼのすぎの木はのびにけり」と詠んでいる。このあけぼのすぎは化石として発見されたメタセコイアであるが、中国で生きておりそれがアメリカから吹上御苑に献上されたもので、アメリカ、中国、日本の関係を示すものとして愛しておられたそうだ。
記念館で昭和史に題材を求めて作品を書き続けている保阪正康という菊池寛賞を受賞している作家の「昭和天皇」という評伝を買った。数日かけて読みきった。昭和天皇の御製(和歌)を丹念に読み、側近たちの日記や回顧録を熟読し、宮内記者会との会見内容の全文にふれるという3つのアプローチで昭和天皇の真意を理解しようと試みた力作である。保阪のあとがきから総括の一部を抜き出してみたい。
昭和天皇は禁欲的で、真摯で、そしてきわめて原則的な性格を持っていると思う」
「昭和という歴史の内部にあって、一般の国民よりもきわめて難しい立ち場にあり、そこで誠心誠意つとめたことは認めなければならない」
さらに、保阪は「「軍事の報告に信頼がおけず、アメリカの短波放送を聞いていた」ことをさりげなく伝えているこおでもわかる。天皇はこの点できわめて不本意な立ち場にいたことは、今後のもっとも検証されなければならない大きなテーマである」として、この部分を深く書かなかったとし、さらに深い吟味が必要だと述べている。

一人の人間として昭和天皇をながめると、戦争と敗戦と占領という国難、そして廃墟から立ち上がった数十年間という未曾有の時代を生きた一人の人物像が浮かんでくる。