ペリー記念館とヴェルニー記念館(横須賀)

横須賀市久里浜は、1853年7月8日に4隻の黒船を率いて浦賀に現れたペリー提督(1794−1858年)が、7月14日に上陸を果たした地である。今では海水浴場になっている久里浜の海岸からすぐのとことにペリー公園があり、その中にペリー記念館が建っている。フィルオア大統領の親書を携えたペリーはブキャナン艦長らを従えていた。

ペリーの本来の目的は、捕鯨のために太平洋をわたるアメリカ船のために、食料、水、燃料を積み込む自由を得ることだった。石油以前の時代の貴重なエネルギーは鯨油だった。17日に一旦東京湾から退去するが、翌年にまた現れて、3月8日には神奈川条約(日米和親条約)を結ぶ。そして1854年4月14日には伊豆下田が開港、5月17日には函館が開港する。

久里浜はそう広くない。また左右の陸地に囲まれて穏やかな内海である。記念館の絵や模型をみると、当時最大の事件であったぺりー来訪と上陸を想像することができる。洋館風のペリー記念館の入り口の左には鼻の高いペリーの首から上の銅像、そして左側には幕府の全権大使・浦賀奉行戸田伊豆守(1799−1858年)の像が建っている。この人物の苦労は内たいていのことではなかっただろうと同情する。ちなみにペリーと戸田伊豆守も同年にそれぞれこの世を去っている。ペリーは「ペリー提督日本遠征記」を残している。

マシュ・カーブレイス・ペリーは、1794年にロードアイランド州ニューポートで生まれ、15歳で海軍士官候補生になる。日本にやってきたときの正式な肩書きは、特派大使・東インド艦隊司令長官である。ペリー公園の中に大きな石碑が建っている。そこには「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」とあり、「大勲位侯爵伊藤博文書」とあった。1901年建立。

「泰平の ねむりをさます じょうきせん たった四はいで 夜も寝られず」という落首が有名だが、「久里浜村史誌」によると老中・松平下総守間部詮勝(号は松堂)の作とも言われているという。庶民の実感ではなく、幕府高官の心情をうたったものだったのだ。



JR横須賀駅は湾に面しているが、そこにヴェルニー公園があり、その一角に瀟洒なヴェルニー記念館が建っている。
ペリーにくらべ馴染みのない名前だが、フヴェルニー(1837−1908年)はフランスの造船技術者で、幕府の招きで明治維新の前年1865年に来日し、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所、横須賀海軍工しょう)を建設し、首長として活躍した人物である。1869年には観音崎に日本最初の様式灯台を設置している。

日本の幕府側の責任者は、小栗上野介忠順(1827−1868年)だった。世界に肩を並べるには、日本の海軍力・海軍力整備が急務という考えから、資金難を乗り越えて、実行した。この製鉄所には、フランス人25人、日本の判任管72人、等外吏121人、番人20人、筆算雇27人、職工1344人、請負職工等100ないし450人を抱えていた。明治政府の殖産興業・富国強兵の模範だった。

小栗は薩長への主戦論を唱え、1868年に斬首される。明治政府時代には小栗の評価は低かったが、造船と修理にあたった横須賀製鉄所建設の功績は大きく、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記している。後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。公園には、左右にヴェルニーと小栗の銅像が並んで建っており、二人の功績をたたえている。

湾内には、日本の自衛隊の軍艦や、アメリカの軍艦の姿も見える。軍艦ツアーという船から観るツアーがあったが、時間切れで乗れなかった。