夜は中津北高の同級会。神保町の栄家。
関西から2人、福岡から2人。磐城、鹿島も含めて、計13人。
一度関西にも出かけて旧友と会いたい。
前列左から:井上。田渋。寺山。甲斐。
後列左から:川口。峰。永沼。泉。岩釣。清原。久恒。猪俣。松田。
「母介護96歳、二人暮らし」「あと3年、犬」「二人暮らし」「借金完済」「初孫、ゴルフ」「現役」「テニスとウオーキングとゴルフ」「57歳で再婚」「中津で仲間と」「60歳で結婚、ネコ3匹、監査役、病院ボランティア、来年マチュペチュ」「料理」、、。
松田君の作成したリストによれば、20回生は40名が関東にいるようだ。
「名言との対話」。11月18日。河井寛次郎。
「この世は自分を探しに来たところ、この世は自分を見に来たところ」
河井寛次郎は1890年に島根県安来町で生まれ、中学2年生のときに陶器の道に進む決心をして東京高等工業窯業科を卒業。36歳のときに生涯の友人となった柳宗悦らと日本民藝美術館設立を発願し46歳の時に日本民藝館がオープン。47歳では民家を範とした自宅をつくる。この年、パリ万国博で「鉄辰砂草花丸文庫」でグランプリ受賞、67歳で「白地草花絵篇壺」でミラノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリ受賞。1966年に76歳で死去している。
「新しい自分が見たいのだ--仕事する。」
「いつまでも長生きして、いい仕事がしたい---これだけです。」
「手考足思」
梅棹忠夫は同級生の父親であった河井を「アニミズム的神像作家」の称号をたてまつったという。そういう天才的な仕事をした河井でさえも、自分とは誰なのか、という問いを発し続けている。仕事をすることで新しい自分を見たい、長く仕事をすることでその先の自分を確認したい、そういう思いで、作陶に励んだ。この世は、自分を創っていく所なのだ。
「副学長日誌・志塾の風161118」