山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。『青べか日記』は箴言で成り立っている。人生作家。説教酒で煙たがられた。
山本周五郎の人生の指針「苦しみつつ、なおはたらけ安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)「人の偉大さはなにを為したかではなく、なにかを為そうとするところにある」。
山本周五郎は、小学校卒業後に東京木挽町の山本周五郎商店に徒弟として住み込み、店主にお世話になった。ペンネームはそこから取った。直木賞などもすべて辞退している。この人の人生観には興味が湧く。9月末から神奈川近代文学館で始まる「山本周五郎展」は見逃せない。
以下、小説に登場する箴言から。
・人間にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある。
・人間が大きく飛躍する機会はいつも生活の身近なことのなかにある。
・大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。
・持って生まれた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。
・酒も遊びも、そのものは決して悪くはない。それが習慣になる事が悪いのだ。
・人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。その人間が完成する瞬間だからであろう。、、、それぞれの善悪、美醜をひっくるめた一個の人間として完成するのだ。
・大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生きぬいたかどうか、という点にかかっているのだ。
・仕合わせとは仕合わせだということに気づかない状態だ。
・世間は絶間なく動いています。人間だって生活から離れると錆びます。怠惰は酸をを含んでますからね。
・およそ小説家ならだれでもそうであろうが、書いてしまったものには興味を失うものだ。
「副学長日誌・志塾の風」170923
インターゼミの秋学期の初回。
・新人紹介
・秋学期のスケジュール確認
・「2017年、夏」。
私から「男子三日会わざれば刮目して待つべし」「外的世界の拡大は内的世界を深化させる」
海外:上海、カンボジア、モンゴル、台湾、、
国内:沖縄、京都、二子多摩川、、、。
学長講話。
・フィールドワークで「何を見てくるか」。
・モンゴル訪問:北朝鮮と70周年。元寇の1回目は南宋攻略の一環で高麗軍が主力。2回目は10万人。高麗王朝はフビライの娘を押しつけられた。次の王も同じ。蒙古の血が混じっている。日本の鎌倉幕府はこの国難に結束した。北畠親房「神皇正統記」。アイデンティティティを探し本居宣長の国学が誕生する。歴史は繋がっている。元は漢王朝の文化を大事にし王族を台湾に追いやった。モンゴル外務省女性局長。北東アジア。7月7日核実験禁止条約122ヶ国賛成。オーストリア主導。50ヶ国が批准すれば発効。核の傘に守られているという理由で日本は不参加。モンゴルは賛成側。東南アジア(アセアン)はシンガポールを除く9ヶ国が賛成。被爆国日本への視線。核廃絶の先頭に立とうとしている。トランプの「あらゆる選択」には核攻撃も入っている。レジティマシーlegitimacy(正統性)が問われる。
・サンフランシスコ報告:西海岸のシリコンバレー。新しい産業。助成金をあてにしない。インド人、中国人、韓国人。トランプ政権を軽蔑。カリフォルニア州がパリ協定に参加?しかし、不動産が暴騰、一戸建て2億円以上。サラリーマンが買えなくなった。AIの影響で中間層の仕事が無くなっていく、給与はダウン。SF「1984」。映画「ウオールストリート」。11月10日封切りの映画「サークル」を見よ。エマワトソンとトムハンクス。これは新しい1984。
市川学園・市川中高の守脇副校長がオブザーバー参加。守脇さんと懇談。日本アスペンの久野、、。
帰りは、杉田学部長の車で、情報交換と相談をしながら帰る。
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「名言との対話」9月23日。吉田秀和「自分のいるところから見えるものを、自分のもつ方法で書くという態度は、変らずにきたつもりである」
吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年(大正2年)9月23日 - 2012年(平成24年)5月22日)は、日本の音楽評論家、随筆家。
98歳で亡くなるまで精力的に活動した吉田秀和は、音楽評論の第一人者で熱烈なファンが多い。その学びの履歴を眺めるとその幸運を思わずにはいられない。小樽中学校で伊藤整に英文法と英作文を教わる。ヴィオラを弾く小林多喜二が自宅を訪れる。旧制高校時代は、中原中也にフランス語個人教授を受ける。小林英雄や大岡昇平と交遊。、、という具合である。結果として独、仏、英語に通じた。特にドイツ語とフランス語の訳書が多い。
「平易な言葉で奥深いことを伝える事が大切なのだ」
「私の批評は、私の文章を読むのが好きな人が読めばよい。色々な声があるんだ。色々な声があれば、自分の声が全てを代表するなんて考える必要はない」
ひとつだけ演奏の批評を記そう。「石のような金属のような響きから絹のような音までピアノから奏し出せる人。彼女がピアノを弾くときピアノは管弦楽に少しも劣らないほどさまざまの音の花咲く庭になる。」
来日したホロヴィッツの演奏について、「なるほどこの芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は ─ 最も控えめにいっても ─ ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」と真実を語り話題になった。
1948年には斉藤秀雄らと「子どものための音楽教室」を開設した。この一期生には小澤征爾、中村ひろ子、堤剛などがいる。この教室は後の桐朋学園音楽部門の母体となった。吉田は音楽分野の優れた才能を見いだした人でもあった。小澤征爾は、吉田の死去に際して「私の恩人の中の恩人、大恩人です」と哀悼の意を表している。
吉田の音楽、文芸、美術の評論、翻訳などの仕事の仕事は豊かでレベルが高い。それは60代初めの1975年の大佛次郎賞以来、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、NHK放送文化賞、朝日賞、読売文学賞、文化功労者、文化勲章などを受章し続けたことに現れている。
「芸術は手仕事で成り立っている」と喝破した吉田秀和は、自分のいる場所から見える世界の奥深い真実を、誰にでもわかる平易な言葉で書くという自分自身の方法論を貫いた。11歳年上の文芸評論の大家・小林秀雄は、吉田をライバル視していた、という。それほど吉田の蓄積と慧眼と筆力が優れていたという証拠だろう。