授業「立志人物伝」11回目:テーマは「日本への回帰」--司馬遼太郎と梅棹忠夫

 「副学長日誌・志塾の風」171208

午前

・杉本係長:戦略会議の打ち合わせ

・久米先生と雑談

・「立志人物伝」の授業。本日のテーマは「日本への回帰」。司馬遼太郎梅棹忠夫

・金先生:来年度

午後

・岩澤さん

・事務局との定例会議:杉田学部長。宮地事務局長、川手総務課長。

・こえラボ(BS多摩に入居)の岡田社長:新年から配信するpodcast「偉人の名言366」の打ち合わせ。声の録音。本の購入。、、、。

 

「名言との対話」12月8日。柳沢吉保「言葉は心の表れなれば大人たる者の慎むへき第一なり」

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保 万治元年(1658年)12月8日--正徳4年(1714年)11月2日)は、江戸時代前期の幕府側用人譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。

甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔。武田氏の滅亡後、武田遺臣が徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。上野国藩士として江戸市ヶ谷に生まれる。館林藩主の綱吉が将軍になるに従って幕閣に入り、老中首座(大老格)になるなど綱吉のもとに異数の出世を遂げる。小納戸役530石から始まり、830石、1030石、2030石、側用人12000石(大名)、3万2000石、6万2000石、7万2000石、8万2000石(武蔵川越藩主)、侍従(老中格)、左近衛権少将(大老)、9万2000。綱吉死後、甲府で15万1200石の大名となる。その表高と内高を合わせると実際には22万石余だった。甲斐恵林寺甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている。側室の正親町町子は後に吉保の半生を王朝風の日記文学として記した『松蔭日記』を記している。

綱吉の死後は、将軍家宣には新井白石が重用される。駒込六義園に隠居。柳沢吉保には甲陽日記『楽只堂年録』229巻がある。編纂は白石のライバル・荻生徂徠だ。

今まで館林、甲府六義園などを訪問した時に、柳沢吉保の影がちらついていたのだが、その点がようやく繋がった。その線を確かなものにするために早急に川越を訪ねることにしよう。また、異例の出世への処し方、政治の考え方、赤穂浪士の処遇に関係したこと、同時代の学者たちとの交流など、この人物に興味がでてきた。

吉保は謹直誠実な人となりであった。『楽只堂家訓』や我が子に与えた『庭訓』を著し、主君の恩に報いること、日頃の立ち居振る舞にも触れている。その『庭訓』15ヵ条の最後の条が冒頭の言葉である。平成からうかつなこと、いやしいことを言わないように、言葉遣いには細心の注意を払えという。心したいものだ。