書聖・王義之。曲水の宴。蘭亭序。

  • 今日は往復とも永山駅と大学の間を歩く。
  • 毎年やっている『はてなブログ「今日も生涯の一日なり」』のブック化。毎年書いている分量が増え続けていることもあり、今年は3分冊になってしまった。1月1日から5月9日まで345ページ、5月10日から9月18日まで348ページ、9月19日から12月31日まで348ページ。合計1041ページとなった。1ページは1000字相当であるから、1年で2600枚の文章を書いた計算になる。これは写真などを差し引くと単行本換算(300枚)で8冊にあたるという量である。
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先日、上野の国立博物館の「書聖 王義之展」を見てきた。
王義之は、303年に生まれ361年に59歳で没したとする説が有力である。
書聖として神格化されているが、不思議なことに「真筆」は残っていない。本人が書いたものではなく、唐時代の模本と宋時代の拓本で私たちはその書に接することができる。書を芸術の域に高めた人物と言えよう。
後に唐の太宗が王義之の書を好んだことから、この人の書が尊重されるようになった。
日本から派遣された遣唐使たちは、王羲之の精巧な模本を日本に持ち帰った。平安中期の小野東風らは王羲之の書を熱心に学び、和様の基礎を築いた。

353年に会稽郡の郡長を務めていた王羲之は、当時の名士41人を蘭亭に招いて遊宴を開いた。川の水を引いて曲がりくねった小川をつくり、その両岸に文人たちが陣取る。川上から酒を満たした盃を流し、盃が流れ着くまでに詩を作り酒を飲む。詩ができなければ罰として大きな盃に三杯の酒を飲まされる。文人ならではの宴会である。「曲水の宴」である。
当代の名士16人が詩を作れなかった。この宴が終わった後、王羲之はこれらの詩編の序文を揮毫した。これが世に名高い蘭亭序である。自ら生涯の傑作と認め、子孫に伝えた。

蘭亭序の現代語訳から
「一杯の酒を飲んで一編の詩を作ることは、心中の奥深くある感興を表すのに十分である」「昔の人は「生と死は一大事である」と言った。どうしてこれを深く思わないでいられようか。」「ここに集まった人々の名を列記し、彼らが述べた詩を書きとめておく。、、後世、これを読む人も、またこの文に心を動かすことがあるであろう。」

曲水の宴は、岩手の毛越寺で行っているという記録が残っていたし、今でも福岡大宰府で行われていると聞く。日本では和歌を詠む。

王義士の手紙は600以上残っている。また後に名士のゴシップ集「世説新語」に王羲之に関する逸話がありそれは45条に及んでいる。