色川大吉「ある昭和史」--常民のリーダー橋本義夫の崇高な人生

1975年刊、色川大吉「ある昭和史」(中央公論社)を読み終わった。
「自分史の試み」というサブタイトルがついているように、1925年生まれの歴史学者が自分の体験とからめながら日本近代史を描こうとした作品である。

「自分史」という言葉はこの書によって初めて登場した。
太平洋戦争では男子4人に1人が出征。2世帯に1人以上が兵士を送り出した、300万人の日本人が死んだ。5世帯に1人が死んだ。2000万人以上の人々が涙にくれた。1500万人が家を失った。この数字の背後にある庶民の体験をつづった作品だが、この当時の人々にはそれぞれのドラマがあった。
著者によれば、歴史とはさまざまな評価や情念や視点を組み合わせながら、同時にそれらを越えてある方向に向かおうとする非情な趨勢を見定めることである。

この本の中では、特に「ある常民の足跡」という章が興味深かった。
1902年生まれの橋本義夫という東京府南多摩郡川口村楢原生まれの常民の歴史を描いた作品だ。
橋本家は三多摩壮士の流を汲む川口壮士の家系である。川口村や元八王子村は、自由民権運動がもっともさかんな地方であった。カトリック信仰と結んだ部落解放運動がいち早く起った地域でもあった。それら明治10年代の自由民権運動に合流していった。
もともとあった幕府天領であったために差別された土地柄もあり、民権思想に裏打ちされて自由民権運動が人々の心をとらえたのであろう。
「常民」とは何か。農耕、漁業。里人。家の永続。内部の歴史と固有信仰。次代の人に伝える文化的役割。以上がキーワードだ。

内村鑑三の影響。下中弥三郎の農民自治会運動。野呂栄太郎羽仁五郎を助ける。岩波茂雄に傾倒。
八王子の大きな書店を経営。揺藍社。多摩郷土研究会。多摩自由大学。横山村の万葉歌碑「赤駒を、、」の建立。北村透谷碑。麦の碑(「宗兵衛麦」の品種改良家・河井宗兵衛)。おかぼ碑(陸稲品種「平山」の創始者・林丈太郎)。民衆史蹟。近代先覚の碑(部落解放指導者・山上卓樹ら)。絹の道碑(鑓水商人)。コックスの碑。御母讃の碑。多摩丘陵博物館構想。ふだん記の運動(ハガキをうんと書け)。

橋本義夫は伝統の革新的再生者だった。地方に、底辺に、野に、埋もれている優れた師たちを掘り起し、顕彰し、甦らせ、その力を借りて未来を拓こうとした。

現代の常民の見事な祖型は田中正造にある。水俣石牟礼道子筑豊上野英信森崎和江。東北の真壁仁、むのたけじ、佐藤藤三郎、、、、、、。
色川は、こうした数千の常民の小リーダーが頑固に頑張り抜いていることを知ってこの国への希望を失ってはいない。

2011年に東北の道の駅調査をしたとき、駅長さんたちの執念と人柄に敬意を抱いたが、それは色川のいう「常民」のリーダーたちだったと考えると腑に落ちる。これらの人々は人物記念館が建立されるようなトップクラスの人物たちではないが、日本人の原型を保持している人物である。優れた生き方をしている常民のリーダーたちである。
自分史運動、地域起こし、人物の掘りおこし、そして人物教育などが、「常民」というキーワードでつながってきた。

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