「写真記録 これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著)

「写真記録 これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著)を読了。

これが沖縄戦だ―写真記録

これが沖縄戦だ―写真記録

編者の大田昌秀は、沖縄県知事だった人だ。
1977年発行だから、編者52歳の時の労作だ。
ワシントンの国防総省の資料から千数百点を選び、「これが沖縄戦だ」というタイトルで琉球新報に半年かけて連載する。
沖縄師範鉄血勤皇隊の一員だった大田は解禁になった沖縄戦関係の写真や機密文書を集め続けた。米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊の資料、日本の防衛庁戦史室の資料等を集め、沖縄戦の全貌を明らかにした。
その後も毎年のようにアメリカを往復し資料を集め、6年後に改訂版を出版した。

沖縄戦実相は文章では読むことはできるが、写真は散発的にしか見ることはできない。米軍の撮った写真によって、民間人を大がかりに巻き込んだ壮絶な、陰惨な、戦争の実態が見えてくる。茫然とする老人、途方に暮れる子どもたち、兵士の死骸、、、、、、。

大本営と現地軍、陸軍と海軍との間に戦略や戦術を巡って一致点がないまま、沖縄戦が戦われた。また、特攻作戦について米軍首脳は「最高の文明の武器と最低文明の手段のコンビ」だと評していた。
「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっている」と八原高級参謀が語っている。
日本軍は下から上に行くほど無能になっていくと言われるが、真実に近いにだろう。

首里攻防戦では、日本軍は6万4000人余が戦死したが、アメリカ軍も大損害を受けた。戦死、行方不明は1万人足らずだが、負傷者は4万を超えた。米軍では1万5000人以上が精神異常をきたした。この戦いは太平洋戦争最大の激戦地だった。

海軍の大田司令官は、「陸海軍は防衛戦闘に専念して県民に関してはほとんど顧みる暇なかりき」と海軍次官に打電し、末尾では「沖縄県民斯く戦えり、県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」と要請している。
はたしてその後の日本本土は、その要請に応えているだろうか。

沖縄戦では米軍は、住民の世話をやく軍政要員が、多い時には5000人を超える体制だった。この点は日本軍とは違う。

沖縄戦の全貌は、数字や文章だけではつかめない。
この労作のような写真の記録は、ごまかしのない実相を伝えてくれる。

編者の大田昌秀は、その後、沖縄県知事、国会議員として活躍し、90歳を超えた今も沖縄問題に取り組んでいる。
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中津市内を散策。
豊田小学校、寺町、南部小学校、図書館、、。

途中で高校同級生の女性市会議員の須賀さんの大地に寄る。
童心会館の後藤さん。

一級上の橋口さん。NHKのディレクターで「美の壺」を担当していた方。名刺では画家となっていた。
明後日から図書館で絵画展を開くとのこと。市長選も話題に。


命日

  • 世阿弥1443:ただ、返す返す初心忘るべからず
  • ルイ14世1715:朕は国家なり。
  • 竹久夢二1934:芸術はもう沢山だ。ほんとに人間としての悲しみを知る絵描きが出ても好いと思ふ。

生誕

  • 三浦梅園1723
  • おのおの、その長ずる所にしたがい、好む所に向かわしめる。
  • 希う所は、後世作者興ることことあらば即ち願を万分の一に得んことを。死すとも且つ朽ちざるなり。
  • 明石元二郎1864:
  • 新渡戸稲造1882
  • 井を掘りて今一尺で出る水を掘らずに出ぬといふ人ぞ憂き
  • 終生の業は、その日その日の義務を完了する外にない。
  • 事の成る成らぬは天に任し、自分はひとえにその日その日の務めを全うすれば足る。
  • 幸田文1904:
  • 笹本恒子1914:人生は不思議なもので、開くドアを一つ違えるだけで、その先がまるで変わってしまいます。