竹内洋「立志・苦学・出世−−−受験生の社会史」(講談社学術文庫)

竹内洋「立志・苦学・出世−−−受験生の社会史」(講談社学術文庫)を読了。

ファンである竹内洋先生の1991年刊行の原著の復刻文庫版。
相変わらずの切れ味のいい竹内ブシ。
受験的生活を中心に、受験をめぐる主観的意味世界を探検した本だ。
明治30年代半ばまでの「前受験の時代」、昭和40年代までの「受験の時代1-受験のモダン」、現在にいたる受験の時代2--受験の脱モダン」と受験現象を区分している。

  • 前受験の時代は、明治20年を境に、前を「僥倖」の時代、後を「秩序」の時代。(明治19年に帝国大学を頂点とする学校序列ができ、明治20年に官吏任用試験制度ができた)
  • 受験の時代1は、立志・苦学・出世。将来の生活を賭けた競争の時代。私はこの時代の最後の世代か。
  • 受験の時代2は、量的・質的変化の時代。学歴の意味の変容。学歴から出身階級への視線転換。現在。

「学術文庫版」のあとがきで、著者は「アフター大衆受験圧力釜社会論」と題した議論を展開している。
大学生の4割は学力試験を受けていない。大学院の入学が容易になった。難関なのは学部入学のみ。
このように現在の受験圧力釜社会は大きく様変わりをしている。
これは受験激戦地帯(旧制高校・陸士・海兵)と受験無風地帯(私立専門学校)の2層化となっていた戦前への回帰のようにみえる。
受験無風地帯は、F判定大学の登場、推薦入学、AO選抜として登場。大学院も他大学出身者という傍系や選科入学に似ている。

こうしてみると、戦前回帰というよりも、万人を受験勉強に動員させた偏差値体制の方が受験の歴史の変則であるようにもみえる。
ひたすらな加熱(学力上位層)からほどほどの加熱(冷却)、相応競争が受験のポストモダンの姿である。

著者は「庶民文化」の3つのシナリをあげている。

  • 学力格差は将来生活の格差を意味しないという意識になれば痛痒は感じなくなる。階級の再生産の道。貧困の道。
  • ノン・エリートのライフスタイルと文化の成熟という道。矜持する庶民文化の芽生え。
  • ノン・エリート側からの学歴エリートに対する征伐の道。ヤンキー文化、反知性主義という風潮。

「名言との対話」1月22日。大塩平八郎

  • 「四海困窮せば天禄永く絶えん、小人に国家を治めしめば災害並び到る」
    • 天保の飢饉に際し「救民」を掲げた大塩平八郎の乱として知られる大塩は、飢饉に伴う打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。献策が却下された後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、蜂起を計画するが密告によって失敗し、最後は自決する。1月22日は自決した日。享年45歳。
    • 大塩は「知行合一」で知られる陽明学者であっった。すべての人に初めから備わっている良知を磨き続けること(「至良知」)が大切であるとし、そのために「事上練磨」を強調した王陽明の考えは、訓詁学に堕した朱子学と対立する一大思潮に育っていく。日本では、大塩と書簡のやりとりを頻繁にした佐藤一斎などがこの系譜である。
    • この人には逸話が多い。頼山陽からは「小陽明」と学識ぶりを賞賛された。与力時代は、午前2時に起きと天空を観測、潔斎と武芸の後に朝食、午前5時には私塾・洗心洞の門弟を集めて冬の寒風の時も平気で講義。その後出勤。帰宅後、夕方には就寝という日常だった。
    • 「身の死するを恐れず ただ心の死するを恐るるなり」という大塩は同時代の探検家・近藤重蔵と会ったとき、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を与えた。
    • 大塩は知ることは行うことによって完成するという陽明学を実践した人である。この系譜は西郷隆盛などに受け継がれ明治維新の原動力になっていくのだが、この学問にとりつかれた人は革命家、改革者に育っていくから、多くは非業の死に斃れることになる。大塩平八郎ははその最初の人であったと思う。
    • 現代の「実学」は、陽明学の系譜にあるのではないか。学んで知識を得ることは始まりであって、それを社会の問題解決に生かしてさらに深めていき、次の高みに立って新たな知識を求めていく。そういうダイナミックなサイクルが、現代の陽明学たる「実学」であろう。