「山本作兵衛」展(東京富士美術館)ーーユニセフ「世界記憶遺産」となった一炭鉱労働者の作品展。

東京富士美術館上村松園・上村松篁・上村淳之の日本画の三代展。初日の2020年2月29日に訪問した。このときは新型コロナの流行で2日間しか開催しなかった。再び、見に行ったのだが、同時開催されていた『山本作兵衛』展は拾い物でした。

九州筑豊の炭鉱労働者の山本作兵衛(1892-1984)が、日記と手帳をもとに、退職後描いた炭鉱労働の記録画が、2011年にユネスコ「世界記憶遺産」(世界の記憶)に登録されたが、その10周年の企画でした。

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山本作兵衛(1892‐1984)は筑豊筑前と豊後)の炭鉱労働者。鉄と石炭の時代の明治(明治32年)、大正、昭和戦前、戦後(昭和30年)という石炭時代の始まりから終りまでを炭鉱で働いた人である。

7歳で炭鉱に移住。14歳から後山(アトヤマ)になり、63歳まで50年間働く。

62歳、1400枚の記録を描くが同僚から笑われ焼却する。しかし再度、大学ノートに描く。63歳、閉山で失職。

60代半ばからヤマの労働と生活の絵を描く。65歳、絵を描き始める。66歳、画用紙を使う。炭鉱労働者だった頃から、几帳面な性格で「日記と手帳」に克明で正確な記録をつけていた。この膨大な記録と驚くべき記憶をもとに炭鉱の労働と生活を描いたのだ。

リアルな絵と説明文とゴットン節で構成されている。当時の手間賃、コメ代、酒代、新聞代などの記述もある。

ボタ山は 汝人生のごとし 盛んなる時は肥え太り ヤマ止んで日々瘦せ細り

或いは 姿を消すものもあり ああ哀れ哀しき限りなり」

人生の集大成として、子どもと孫に残そうとして、亡くなるまでずっと絵を描いた。続けているうちに、使命になっていったのだ。その総数は2000枚以上になっている。それがはらずも未来へ向けての世界的な遺産となったのである。日々の小さなメモという記録が、深い記憶を呼びさまし、それがついに大いなる記録になり、人類の記憶になった。記録の重要性を感じる。

山本作兵衛という人は、65歳の実年期から日々励み、熟年期の92歳まで生涯にわたり続けた。それが地方、日本、世界の未来の大いなる遺産になった。まさにライフワークを実行した人だ。

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上村松園・上村松篁・上村淳之」三代展。

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今日のヒント 林望

人が後世に残るやうな立派な仕事をする場合、神様は決して世間的な幸福と順境をその人には与えないのである。

 

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「名言との対話」2月13日。安岡正篤「自分はつきつめた所、何になるかといえば、自分は自分になる”完全な自己”になるということだ」 

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年明治31年〉2月13日 - 1983年昭和58年〉12月13日)は、哲学者思想家。 

大阪生まれ。旧制一高に首席入学。東京帝大法学部政治学科卒業時に、『王陽明研究』を出版し話題になる。1927年、金鶏学院を設立。1931年、埼玉県に日本農士学校を創立。戦前の思想家、戦後の政治家、財界人などの絶大な影響力があった。吉田茂首相以下、歴代総理に宰相学、帝王学を教えた。歴代総理の指南番と呼ばれた。

安岡正篤は自身を教育者として位置づけていたが、生涯で二度大役を果たしている。最初は、鈴木貫太郎内閣時代、太平洋戦争を終える決意をした昭和天皇の「終戦詔書」に最後の赤字の筆を入れたときである。この詔書は1945年(昭和20年)8月15日にラジオ放送によって流れた天皇の言葉となって全国民が聞いた。

二度目は昭和天皇崩御元号が「平成」となった時だ。平成とは、書経の「地平らかにして天なる 内平らかにして外なる」からとった言葉である。これは後に総理となった竹下登が講演の中で「安岡さんの案」として紹介している。書経には「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉があり、その上に「地平天成」という言葉がある。明らかに安岡正篤の案であろう。

安岡正篤の本は、いかに生きるかについての「名言」の宝庫である。

「どんな一事・一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいてゆき、竟には宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ」「宗教と道徳を区別するのが西洋近代学の通念であって、東洋ではこの二者を”道”として一なるものと考えてきた」「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」「与えらえた運命の先に、自分の人生築いていく。それが人物というものであり、人物の条件である」「よい人に交わっていると、気づかないうちに、よい運に恵まれる」「組織が人を動かす企業は活力を失い衰退していく。人が組織を動かす企業は発展成長する」

西洋では宗教が道徳を教える軸となっているが、東洋では宗教と道徳を合わせて「道」というとしていると安岡正篤は東洋の優越を語っていたいる。それが「人の道」である。

安岡正篤の著書は私もよく読んでいる。いくつか、読書記録をたどってみよう。

安岡正篤「禅と陽明学」(プレジデント社)。

人間の意識の深層は永遠につながっているから、真剣に学問求道をやれば主観を通じて大いなる客観に到達する。それが主客合一だ。良知を究める、それが致良知だ。

儒教・仏教・道教がしだいに総合されて易学が誕生し、宋の時代には新たな人生と社会の指導原理になった。太極から陰と陽が生まれる。この考えでは生まれた日が一番大事という運命学になる。それが統計学でもある四柱推命である。

禅は道を体得させる。実践を大事にする。自分の体で実践し考えさせる。そして主客一如になる。禅の奥義が華厳。何妙法蓮華経とは自分自身を蓮華のように清く尊いものにし、世界を美しい蓮華のような理想世界にすること。

安岡正篤「易と人生哲学」(致知出版社)。

宿命、立命、運命の関係を研究するのが「易学」という。

「運命の中に宿命と立命がある。自分で自分の運命を創造していく立命が本筋」。「易とは運命を宿命にすることなく、立命にもっていくこと」。

さて、中津の横松宗先生が亡くなったときの追悼文集で私は「宿命を使命にかえて」というタイトルで書いた。自分ではどうしようもない環境(宿命)にありながら、その中でよく生きることを自らの使命に転化して、立派に生きた先生を偲んだ。易学でいう立命よりも、使命という言葉を使う方が腑に落ちる気がするが、どうだろう。

人物学、東洋学を修めた安岡正篤の言葉には重みがある。自分は何になるのか、それは職業ではない。どのような職業を選ぼうとも、長い人生の時間をかけて、人はゆっくりと自分自身になっていくのだ。この言葉はまことに腑に落ちる。そして何かテーマを持って進んでいけば、いずれは真理に近づき、最後は宇宙、天、神、という偉大な存在に気がついていく。東洋の教えにはまことに深いものがある。