新井白石「西洋紀聞」

新井白石「西洋紀聞」(岩波文庫)を読了。

上・中・下巻。

最後の潜入者・イタリア生まれの宣教師ジュアン・シドッチは小石川の切支丹屋敷に幽囚される。
その40才のシドッチを当時53才の新井白石が尋問したときの記録である。

上巻では、シドッチ上陸からの経緯を記しており、彼の印象が次のように描かれている。
シドッチは、背が高く六尺をはるかに越え、髪黒く、眼は深く、鼻が高い。博覧強記で多学であり、天文地理の知識は抜群である、

中巻では地理を尋ねている。
地球は丸いというところから始まる。
エウロパ、ヺヺランデヤ人、フランシス・サイベリウス、ロソン、スイヤム、マロカ、かステイリヤ、カラナナータ、、、。
聞き取った事実を記した後、「按ずるに」という枕をつけて、新井白石は所感を述べるというスタイルだ。

下巻。
姓名郷国父母等のことを聞く。
41才、幼少より天主の法を学ぶ。学校は22年、師は16人。日本の風俗と言語を3年学ぶ。
家族のことを聞くと、しばらく黙って、憂いを浮かべながら、忘れることは無いが、使命を果たすのみと答えた。日本国の風俗言語は、ロクソンで聞いたり、辞書で学んだとのことである。
フランシスコ・ザビエルは関係者は皆知っている。
陸戦はトルコ、水戦はフランス。今はヺヺランデヤが最強。
デウスという天主、アダン、エワ。モイセス、エイズス・キリスト、マリア、、、、。
「按ずるに」とあり、耶蘇教を批判する。天地がないときにこのデウスは生まれたのか。エイズスについては嬰児の言葉のようだ。天地能造の主なのに人々を善にすることもできない、万能ではないではないか。
耶蘇教は仏教に似てはいるが、浅く愚かだ。耶蘇教の禁止は、過剰防衛ではない、と白石は結論づけている。

シドッチの処分については、白石は3つの策を上申している。
本国に送り返すのが上策(難しいように見えるがやりやすい)、囚として助けるのが中作(易しく見えるが難しい)、殺すのが下策(易しくみえて易しい)。幕府は中策をとって、切支丹屋敷に幽囚した。



「名言との対話」6月27日。高山彦九郎

  • 「朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」
    • 高山彦九郎上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)で生まれた、江戸時代中頃の勤王思想家で、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与え、明治維新を導いた人物。寛政5年(1793)6月27日筑後国(現福岡県)久留米の森嘉膳(嘉善)宅で自刃し、47歳(数え)の生涯を閉じた。
    • 細井平洲を師と仰ぐ高山彦九郎は、足利幕府以来の武断政治を仮の姿とし、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿であるとの確信を持っていた。そのことは徳川幕府に対する疑念となっており、反幕の思想であった。この考え方は日本国内に深く浸透し「尊王攘夷」という思想を産んだ。吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞中岡慎太郎西郷隆盛を始めとする幕末の志士達に強い影響を与え続けた。
    • 彦九郎は、自らの天命を背負って、日本中の同学の徒を訪ねる旅に暮らす。蝦夷地に入ろうとしたが果たせなかったが(司馬遼太郎松前に渡ったとしている)、北は津軽から、南は薩摩まで恐るべき健脚をもってくまなく歩き続けている。この旅は風呂敷の中に筆立て、硯、手ぬぐい、半日の食料などが入っているだけであった。
    • 赤城山 真白に積もる 雪なれば 我が故郷ぞ 寒からめやも」
    • 土地の歴史。そこで善行をした人の魂を認め、褒め、それを書き残す。その土地の優れた人を掘り起こす。親の敵を討った人、農業のやり方を発明した人、洪水を防ごうと工事をした人。神社の歴史。高山彦九郎は質問し、その土地のよいところを引き出す人だった。だから誰もが彼を信頼する。それが同志のネットワークとなって、影響を与えていった。
    • 以前訪ねた高山彦九郎記念館では「高山彦九郎 五千人の交遊録」という企画展をやっており、公家、儒学者、無名の人々などその交遊の広さに驚いた。高山は今で言うネットワーカーだったのだ。ネットワークをつくり、つなげながら、自らの思想を練り上げ、日本の中に伝播していった人である。知的武者修行でもある。その志は、我身を捨てて、国を守ろうとしたこの言葉に表れている。