自己点検ヒヤリングの日

自己点検ヒヤリング。

8つの委員会を対象としたヒヤリングは、朝9時から18時まで。両学部、大学院の動きの全貌が見える貴重な時間だ。委員長・課長等も緊張するが、私も含めて学部長・研究科長・事務局長も質問や意見を投げかけるのが役目なので、気を張り詰めていなければならない。中期計画の進捗状況を含め、2学部・1研究科の全てを見渡せるので、現状認識だけでなく、改善点や方向感が共有できるのので大事な日である。大学院も含めベクトルがさらに合ってきたことを実感できた。

以下、ヒヤリング風景から。

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 「名言との対話」6月4日。木下順庵「胡霜漢月照刀環。百戰沙場久不還。萬馬夜嘶靑海戍。孤鴻秋度玉門關」

木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日1621年7月22日) - 元禄11年12月23日1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめた。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。

藤原惺窩の弟子・松永尺五に学ぶ。京都で私塾を開く。金沢の前田藩から招きを受けたとき、師の子を推薦して、感心した前田利常は両人とも召し抱えた。後に順庵は5代将軍徳川綱吉に招かれた。官学であった林家以外では初となる幕府の侍講をつとめている。

順庵は教育者として優れていた。「木門十哲」と呼ばれる俊才を育てている。対馬藩に仕えて朝鮮通信使の来訪時に活躍した雨森芳洲加賀藩前田家に仕え、後に将軍吉宗の侍講となる室鳩巣、紀伊藩の祇園南海、富山藩の南部南山、『大日本史』の編纂にかかわった三宅観瀾甲斐府中藩主徳川綱豊(のちの将軍家宣)侍講の服部寛斎なきらめく才能が輩出している。その中でもっとも有名なのが徳川家宣に仕え、「「正徳の治」を遂行した新井白石だ。白石失脚後も、順庵は徳川吉宗の信任を得て政治に関与している。

日本においては古来、詩は宋と元を範としてきたが、順庵は唐詩を主張した。冒頭の詩はその順庵の作である。「北国には霜が舞い降り星月が刀環を照して帰心を促すが、転戦久しく沙場からは帰れない。青海の駐屯地では軍馬のいななきが夜空に響き、玉門関の秋空には鴻(おおとり)が一羽群れを離れて飛翔し去る」。順庵の出現以後、日本の詩は唐詩を倣うようになったと荻生徂徠が言っている。弟子の白石や鳩巣には詩文集があるが、順庵にはないのは不思議だ。教育者だったということか。