中国の広東省広州。広東財経大見学。歓迎会。

中国の広東省広州に到着。

提携先の広東財経大学との交流プロジェクト。多摩大からはバートル先生、樋口先生、私。そして学生14人の構成。


羽田から広州までは全日空の4時間のフライト。ボーイング787という最新鋭の機材の予定だったが、例のトラブルによって767に変更になっていて残念だった。飛行機の中では見逃した映画「64」の前編を楽しんだ。


国語学院の梁先生らの出迎えを受けた。バスで広州市内へ向かう。先生は昨年1ヵ月ほど多摩大に滞在した。

学内にあるホテルに到着。早速散歩しながら学内の施設見学。

この大学は全体で26,000人の学生がいる。このキャンパスにはその半分がいる。運動場には迷彩服を着た学生たちが軍事訓練らしきものをしていた。中国では大学の1年生は2週間ほど訓練を行うのだそうだ。


国語学院の入っている棟。

廊下には古今東西の偉人たちの写真と彼らの言葉が飾ってあった。マンデラ大統領、シェイクスピアアウンサンスーチー女史、モーツアルト、レオナルドダビンチ、ゴッホショーペンハウエルマルクスなど。

日本人も飾ってあった。小野小町、鈴木晴信、柿本人麻呂鴨長明柳宗悦星野道夫

現在生きている人では、宮崎駿大江健三郎

こういう人たちが中国においては日本人のイメージなのだろうか。宮崎駿は、「私には紙と鉛筆があればよい」。大江健三郎は、知る、分かる、悟るを分けて説明をしていた。


多摩大学に1年間留学していた4人の学生たちに会う。学生同士は知り合いであるし、私が教えた優秀な学生たちもボランティアで私たちと同行してくれた。

最近完成したという図書館を見学。

7階建ての綺麗なそして壮大な建物である。この大学は広東省の大学であるが、中国ではほとんどの大学は国立又は省立だ。こういった大学には財政的にも大きな支援があるようで槌音が高い。アジアの新興国の大学は新しく規模が大きく素晴らしい施設が多い。教育というものが国家100年の計の中心になっているからだろう。


18時半からは外国語学院の歓迎会。

国語学院の副学部長ら4人がホスト。

副学部長の挨拶に続いて、訪問団を代表して私が挨拶をする。


多摩大と広東財経大学との協定に至った経緯と実績をまず説明する。

次に先ほど見学した外国語学院の印象を語る。特に日本人の現存の偉人である宮崎駿大江健三郎について私の知っていることを話す。

そして広東省出身の孫文を引き合いに出して、彼の中国革命を援助した日本人がいたいたことを語った。孫文宋慶齢の結婚式に同席した梅屋庄吉は、孫文の国葬に日本人としてただ1人参列した人。1929年に南京に孫文銅像を立てた。あの文化革命の時に紅衛兵が引き倒そうとしたが周恩来首相が大事な日本人の友人が立ててくれたものだと諌め難を免れた。日中の有効に尽力した梅屋、宮崎滔天など忘れられた日本人がいる。日中は互いによく理解しあうことが大事だ。そういう意味でこの協定もさらに発展させていきたい。


後は教員のテーブルと学生のテーブルに分かれて有名な広東料理に舌鼓を打った。


「名言との対話」。9月11日。石橋正二郎

  • 「時の短縮は、私の信条である、もし他人の3分の1の時間で仕事をすれば、結局3倍の仕事ができるわけだ。だから一生外の活動時間を、仮に40年とすれば、120年分の仕事量となる勘定なる。」
    • 石橋正二郎は家業の仕立物屋から出発。足袋の底にゴムを貼りつけた地下足袋で成功。その後、自動車時代を見据え、ゴムの生産技術を生かした国産タイヤに進出。今日のブリジストンの創業者である。また石橋は鳩山一郎の後援者としても知られている。そしてもう一つをの顔が美術コレクターである。石橋正二郎は政治家・鳩山一郎を支援し、一方で美術品の蒐集にもあたった。現世を司る「政治」と永遠の美を見つめる「美術」、この二つが財をなした実業家の金の使い道である。
    • 坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎がいた。石橋が青木繁坂本繁二郎の絵を収集したのもこの縁である。東京のブリジストン美術館で今回の青木繁展が開かれているののを見たことがある。
    • 私が尊敬する人たちは皆時間管理、タイムマネジメントの達人たちだ。誰1人として時間管理が下手な人はいない。そういう人たちは人が3時間かかる仕事を1時間で仕上げてしまう。だから膨大な仕事量をこなすことができる。それは仕事の熟練を促していき、あっという間に優れた成果を上げてしまう。この石橋正二郎と言う大実業家もそういう人の1人だ。こういう人は自分の部下たちを鍛え、会社そのものを鍛えに鍛えていったに違いない。この考え方で一代であのブリヂストンを創ったのだ。