次の著作「366日 名言集」(命日編)の最終校正。
・はじめに(必要なら、おわりに)
・名前や、生年月日、没年月日の間違いがないかのチェック。
・3つのコマを使っている日は、
・著者紹介
以上の指示にしたがって作業を行った。1-3月が終了。
------------------
雑誌「世界」の「脳力のレッスン特別編--トランプ政権の本質」(寺島実郎)
以下、キーワードによるまとめ。
- トランプ政権:「ポピュリズムの誘惑」「構想もビジョンも見えない」「カウボーイ・メンタリティ」「逆さまの世界」「コスモポリタン的価値の否定」「新しい価値を創造する力に欠ける」「全てはディール(取引)」「厚顔な自己顕示」「災禍に苦しむ」「オバマはイラクの失敗とリーマンショックから生まれた」「格差と貧困はサンダース現象を生んだ」「メイ首相の役割」「保護主義」「リーマンショック再び」「末人」「情報技術革命に対する戦略構想の欠如」「環境問題軽視」「ロシア制裁解除とユダヤシフト」「影響力最大化戦略の分断統治」「グローバルガバナンスを失ことも拒否」
- 日本:「日米関係の矮小化」「本領安堵の御家人」「自前の羅針盤」「アジアの民主的賢人」「北東アジア非核化構想」「浩然の気」「日米関係再点検の好機」「米軍基地の縮小と地位協定の改定」「主権の回復」「抑圧的寛容」「自立・自尊への意思」「親米を装った反米」「成熟した民主国家・日本へ」。
「名言との対話」。4月9日。野間省一「もっぱら万人の魂に生ずる初発的かつ根本的な問題をとらえ、掘り起こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中に送り出したいと念願しています」
野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。
社長在任は、1945年 - 1981年で、36年間という長期政権だった。以下、戦後の講談社を牽引した野間省一が創刊した主な雑誌、シリーズ。
「ぼくら」(1954年)「なかよし」(1954年)「若い女性」(1955年)「たのしい幼稚園」(1956年)「週刊現代」(1959年)「週刊少年マガジン」(1959年)「週刊少女フレンド」(1962年)「小説現代」(1962年)「ヤングレディ」(1963年)ブルーバックス(1963年)講談社現代新書(1964年)「月刊現代」(1966年)「週刊ぼくらマガジン」(1969年)「テレビマガジン」(1971年)講談社文庫(1971年)日刊ゲンダイ(1976年)
野間は1976年の講談社学術文庫の刊行にあたっては「文庫と言う小さい形と、学術という壮大な城」の構築という目標を宣言している。
1964年の講談社現代新書の創刊の辞では「教養とは万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません」と問題を明らかにしている。そして冒頭の言葉は最後に結んだ言葉である。
最新知識を万人が理解できるようにやさしく解説するという文庫や新書の創刊は、志の高い事業であり、かつ難事業である。一部の専門家の専有物を公開しようとする知識の民主化は庶民の知識向上を創業の理念とする講談社にふさわしい企画だった。今もその恩恵に多くの人があずかっている。出版はまさに教育事業である。
「名言との対話」4月24日。山下太郎「人間の真価は、困難のとき分かるものである」
山下 太郎(やました たろう、明治22年(1889年)4月9日 - 昭和42年(1967年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」などと呼ばれた。楠木正成の子孫楠木正具の子孫にあたり、「楠木同族会」の初代会長を務めた。
戦前、実業家として満州経営に関わり、日本国内はもとより満州、中国、朝鮮、台湾まで拡大し、「満州太郎」と呼ばれた。
戦後は復興のためにアラビア石油を設立。サウジアラビア、クエートの利権を獲得。1960年最初のボーリングで大規模海底油田を発見(カフジ油田)し、「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道され、以後「アラビア太郎」と呼ばれる。
幾多の困難を実行力で克服した山下太郎は、満州太郎、アラビア太郎との愛称をもらっている。まさに風雲児であった。郷里の秋田県横手市大森町に記念館がある。
「好況の後には不況が来、不況が好況の前ぶれであるということは誰でも知っているが、いざ不況になってみると、これに処する態度は万人万様である。私は、自分の経験から、つねに誠実であること、積極的に努力することが一番大切であると信じている」
冒頭の言葉には、「また困難のときは、来るべき運命を拓く種を蒔くときでもある。だから困難のときは神の恵みと思い、神に試練を与えられたと覚悟してよいのだと思う」と続く。大プロジェクトに挑み続け、困難に遭遇した山下太郎がいうから説得力がある。