岡山県倉敷の今泉俊光刀匠記念館。
明治31年(西暦1898年)生まれで、無形文化財(人間国宝)。没は1995年。97歳。
今泉俊光は第二回吉川英治文化賞を受賞している。この賞は「日本文化の向上に尽くし、讃えられるべき業績をあげながらも報われることの少ない人」に贈呈される。
受賞理由は「衰亡に瀕した、備前長船に伝わる日本刀の鍛刀技術を再興し錬磨研鑽を重ねて、よく伝統技術を継承、発揚している」。
わが国の国宝、重要文化財、重要美術品に指定された名刀の60%は「備前もの」である。今泉は平野護国から鍛刀技術の口伝を受け、長船に移り住む。終戦後武器禁止令で失業同然となるが、カマ、クワなどの日用雑器を打ちながら研究に専念した。悪い材料を御して良い鋼を作る経験が後に役に立ったそうだ。
今泉は備前伝にのっとり、地金を吟味し、鍛えに鍛えて真の備前ものに迫っている。すこぶる謙虚な人柄で、刀の命をかけ、作刀の後継者育成に尽力している。
同じ岡山財界の林原健は「今泉刀匠の生き様は、現代の人々に、「人間にとって最も大切なものは何か」を教えてくれる」と述べている。
「単に長寿で健康に恵まれているからではなく、仕事とはかくあるべきもの、鉄に魅せられた人生の生きざまはこういうものだと人が、作品が語りかけてくれる」と小笠原信夫が言う。
今泉俊光は「天命寿楽」と題した文章の中で「刀を造りたいという一念は岩をも通す桑の弓の如し」であり、昭和29年に許可が降りて以来、「ただ自分が思うがままの刀造りの道」を歩いてきたと95歳の時に述懐している。そして「備前伝の特徴である匂出来の鎌倉期のような出来ばえの刀を残したい」と語っている。
95歳、これからどんな仕事をしたいですかという問いに、「まだまだ頑張って鎌倉期のような刀を造ってみたい」と答えている。
「生き様」という言葉で同時代の有力者が語っているように、人生100年時代の生き方の一つのモデルでもある。
倉敷刀剣美術館における紹介文。
「今泉俊光刀匠は明治三十一年佐賀県小城郡に生まれ、大正十三年に岡山県児島郡赤碕に移住し、独自の鍛刀研究に入る。昭和十九年長船町に移り、翌三十年に鍛錬場を開設して鍛刀、昭和三十四年には岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。その後、新作名刀展において日本美術刀剣保存協会会長賞・毎日新聞社賞など多くの特賞を受賞し、昭和四十五年には無鑑査認定となる。俊光刀匠は作刀期間が極めて長く、平成五年二月年紀・九十六歳添銘の太刀を残すなど、高齢にも拘らず師の作刀に対する研究心は他の追随を許さないところです。」
「名言との対話」9月10日。木村政彦「人の二倍努力する者は必ずどこかにいる。三倍努力すれば少しは安心できるというもんだ」
木村 政彦(きむら まさひこ、1917年(大正6年)9月10日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の柔道家。プロレスラー。段位は講道館柔道七段。
全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、1936年から1950年にプロに転向するまで15年間、一度も敗れないまま引退。途中1942年から1947年までの兵役期間がる。兵役を終えた時から、また不敗を続けた。全日本選手権13年連続保持という驚異的な記録を持っている。
「負けたら腹を切る」とし、試合前夜には短刀で切腹の練習をした。決死の覚悟だった。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多い。その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」「鬼の政彦」の異名を持つ。得意技は大外刈り。
プリ柔道家の時代があり、講道館からは最後まで昇段を許されず7段に留まった。正力松太郎、三船久蔵、西郷四郎、広瀬武夫など19人が顕彰されている講道館の柔道殿堂でも木村政彦の名は見かけなかった。木村は歴史から抹殺されているのだ。
元々他の選手達の2倍の6-7時間を練習していたが、「3倍」の努力をしようと考え、拓殖大学時代の練習量は10時間を超えた。乱取り100本、バーベルウェイトとレーニング、巻き藁突きを左右千回ずつ。夜は大木に帯を巻いて一日1000回の打ち込み。また「寝ている間は練習ができない」と睡眠を3時間に減らし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。まさに鬼であった。殺人的練習量と勝敗に賭ける決死の覚悟が不世出の柔道家・木村政彦をつくった。「人の3倍の努力」とは、どのような分野でも遂行は難しいが、それを文字通り実行したのである。