刀匠吉原義人「一生、鍛錬」ーー刀は人である

ひと仕事終えて、リビングで日本酒を飲みながらテレビをつけると、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、「当代一の刀鍛冶が創る「千年の宝」日本刀1本数百万円の美」をやっていました。面白くて最後までみてしまいました。

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吉原義人という刀鍛冶の名人を追った番組。何度も紹介されるのは「一生、鍛錬」という吉原の言葉だ。スポーツでも人生でも同じことだという。刀の研ぎ師、若い弟子、弟子となった孫などが番組に登場する。

「折れず、曲がらず、よく切れる」という機能に含まれる、硬くて柔らかいという矛盾を、様々な工夫で解決した機能美が日本刀の特徴だ。

1.水へし・小割り。2.積沸し。3.鍛錬(たんれん)・皮鉄(かわがね)造り。4.心鉄(しんがね)造り・組み合わせ。5.素延(すの)べ・火造(ひづく)り。6.土置き(土取り)・焼き入れ。7.仕上げ・銘(めい)切り。過程が映像でみることができた。

吉原は「福岡一文字の刃文」の丁字の美しさに魅せられる。変化と華やかさ。「こんな刃をつくりたい」と研究が始まる。名人だった祖父から教えてもらう。29歳、文化庁長官賞。39歳、無鑑査。57歳で脳梗塞、リハビリでなんとか手も使えるようなる。そして天才的才能の持ち主で後継者だった、51歳で亡くなった息子も紹介されていた。当代一の刀鍛冶は海外との交流もしていた。そして20人以上の弟子を育て、今も高い頂を目指している。「吉原丁字」ともいわれる刀文のつくりかたについての工夫が興味深かった。

日本刀は一本、4ヶ月かかる。大変な手間がかかる。宝物だ。鍛錬が甘いとできあがった刀に傷がでる。刀は鍛錬、人間も鍛鍛。叩かれると強くなる。一緒に仕事をするとつながっていく。吉原の言っているのは、「刀は人間である」ということだと了解した。

後継者を失った吉原義人は、孫を刀鍛冶に育てるのが最後の仕事と考えている。

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吉原義人刀匠は、昭和18年2月21日に生まれ、祖父に吉原国家(初代)氏、弟に吉原荘二国家(二代)氏、子に吉原義一氏がおり、まさに刀鍛冶の一族に生まれ吉原一門の名は刀剣界に名高いものとなっている。昭和47年より、新作名刀展において高松宮賞など上位の特賞を受賞し、昭和57年、無鑑査に認定される。平成16年、東京都指定無形文化財保持者に認定。その作風は備前伝を得意とし、備前伝の最も困難なテーマとされる映りを鮮やかに再現し、日本刀備前伝ブームの先駆けとなった。メトロポリタン美術館ボストン美術館に作品が買い上げられる名誉に預かり、現在、世界各国の美術館から作刀のデモンストレーションの要請を受け、日本のみにとどまらず国際的な活躍をみせている。また、アメリカに鍛錬所を設けるなど刀剣文化の普及にも尽力している。持ち前の器用さと相俟って、彫技も巧みであり独特の龍、雨龍、白虎などを自身で彫られている。指導者としても、弟子に大野義光氏、久保善博氏ら多くの優秀な刀匠を育成する。長きに亘り常に刀剣界の第一線で活躍され、今後の活躍がますます期待される実力・人気ともに最高峰の刀匠である。

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明日の図解塾の準備。今回は「図解文章法2」がテーマ。次回の材料の収集。

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文芸春秋」6月号を購入し拾い読みをしました。

 文藝春秋2021年6月号[雑誌]

「コロナ「緊急事態列島」特集。

・「尾身茂 第4波「変異ウィルス」の試練:3つの問題 1変異ウィルス。2感染の場が見えなくなった。3対策が十分でない人々がいた。

・「ワクチン大混乱」河野太郎は何をしている

日米豪印「クアッド」で台湾を守れ:インド太平洋と一帯一路。ターニングポイント。台湾と日本はフロントライン。台湾有事に日本は巻き込まれる。コロナは世界のパワーバランスをかえる。ワクチン開発は安全保障。

「晩節における「死」との対峙」(石原慎太郎):法華経。米寿。西行吉村昭江藤淳裕次郎はかま満緒、岩田禎夫。賀屋興宣。信長。池江りか子。

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「名言との対話」5月11日。椎名武夫「日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」

椎名 武雄(しいな たけお、1929年5月11日 - )は日本の経営者。

日本アイ・ビー・エム株式会社社長、会長。経済同友会終身幹事。社会経済生産性本部副会長。社団法人企業研究会会長。財団法人慶応工学会理事長。慶應義塾評議員・理事。慶應義塾理工学部同窓会募金委員会名誉会長。 2000年11月 勲一等瑞宝章受章。

アメリカのバックネル大留学後、日本IBMに入社。45歳で日本IBMの社長に就任したのは1975年で、1992年まで17年間の長きにわたり同社を率いた。1989〜1993年は米IBMの副社長も兼務している。1992年に会長に就任して以降は経団連経済同友会の要職に就き、IT戦略会議メンバーなども務めることで、日本における外資系企業の地位を向上させたことから「ミスター外資」との異名も取る。

椎名武夫『外資と生きる IBMとの半世紀』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

10年がかりで朝日新聞日本経済新聞のコンピュータシステムを開発したエピソードが印象に残る。米IBMの開発担当者はアポロ計画を担当した精鋭部隊だったが、「アポロ計画のシステムより難しかった」と漏らしたほどの難事業だった。日本語の新聞記事には「書き出しは1字下げる」などこまかな約束事が3000もあった。その約束事を盛り込むとソフトのサイズが膨れ上がり、コンピュータの処理能力が追いつかない。ようやく1971年からコンピュター紙面がだんだんできあがっていき今の姿になった。

新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日経の円城寺次郎は「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。日経はでデジタル化に果敢に挑戦しつづけている。

ゴルフクラブには正会員、平日会員、ビジターという3種類がある。ビジターはプレー料金は高いし、キャディーさんの態度もどことなく違う。せめて平日会員になろうじゃないか。これは1975年に社長に就任したころの発言だ。売上高2千億円、社員数1万人の日本IBMは63歳で48歳の北城恪太郎に社長を譲ったときには、1兆円企業になっていた。日本IBM中興の祖と呼ばれている。

日本とのつながりを築くために考えだしたのが、1970年から始めた「天城会議」だ。毎年財界、学界などの有力者が集まって議論する場である。天城会議を育ててく人として、ソニー盛田昭夫と現・宮城大学名誉学長の野田一夫がいると野田先生を挙げている。

1994年に政府の高度情報通信社会推進本部の有識者会議の委員になっている。情報化の推進には縦割り行政ではダメで内閣が全体を統括して欲しい。高度情報化社会の推進にはそれを阻害する制度等を廃止・変更して欲しいと主張している。2020年から始まったコロナ下であらわになった政府のデジタル化の恐るべきお粗末さを目にすると、椎名武夫のアドバイスを実行しなかったことは明らかであり残念だ。この点は「デジタル庁」をつくったことで簡単に解決するような課題ではないと思う。工業時代から情報産業時代への転換に向けて政府全体、国家全体が総力をあげて立ち向かうべきテーマなのだ。

「お客様に鍛えられて人材というのは強く育っていく」「”Glorious discontent.” 誰にでも不平や不満はある。だけど、それをそのまま終わらせてはいけない。不平や不満があるならば、それをなくすよう物事を改善しなければならない」「これからは日本人が世界でトップになる。さもなければ、日本は本当に沈んじゃうよ」「何もせずに社長室に座っていると、悪い話は入ってこない。そうなると、経営判断を間違ったり、遅くなったりする。経営者は現場を歩き、積極的に生の情報を集めなければならない」。

椎名武夫と私の縁を思い出してみる。

・1991年前後だったか、JAL時代に日本IBMの椎名社長に社内報のインタビュ−をしたことがある。

・2004年、宮城大学初代の学長の野田一夫先生(カナダ大使館地下のシティ・クラブ・オブ・トーキョー)と夕食を摂った。先生はあいかわらずステーキで、ギリシャへの船旅にいく話をしていた。このとき、野田先生の親友の日本IBMの椎名武雄最高顧問が現れて私もご挨拶した。二人は「タケオ」「カズオ」と呼び合う仲だった。
・2008年。 「草柳文恵さんを偲ぶ会」で私の隣の寺島実郎さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気で愉しい会話が続いた。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語った。
日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」は、1993年1月に北城恪太郎氏に社長を引き継ぐことを発表した直後のインタビューで発せられた言葉である。椎名は「常にアメリカ本社と戦ってきた」と語り、本社に対しては日本の商習慣を理解させる苦労をする。また「外資は悪だ」という日本の抜きがたい見方を払しょくするにも苦労する。その両面を端的にあらわす言葉が「星条旗」だ。