ラウンジにて。
・金アクティブラーニングセンター長(来年度は入試委員長を兼務):2時間ほど意見交換。高大接続AL、来年度入試、、、。
・志賀入試委員長:今年度入試の最終着地点
・小林学長室長(来年度は経営情報学科長を兼務):来年度からの経営情報学科の運営
研究室にて。
・今週末から来週にかけてのイベントの準備
・書棚の整理
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17時半から、名誉教授の樋口先生とイタリアンの「アベーテ」で懇親。入試。出版の相談。家庭の話題、、、。
「名言との対話」3月2日。久世美光彦「うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない」
久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。
2009年に世田谷文学館で開催された企画展「久世光彦 時を呼ぶ声」をみた。「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。、、」と最晩年の名優・森繁久彌が挨拶文をパンフに書いている。
久世はTBSで「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」などの国民的テレビ番組をつくりあげた辣腕の人である。80年代以降、つまり あぶらの乗った40代半ばからは映像制作会社の社長となる。その仕事の量と質の高さは驚くばかりだ。テレビという新しいメディアを縦横に使って、ありあまる才気で自己を十分に表現した人だった。50代に入ると優れた小説やエッセイを書き、芸術選奨文部大臣賞、山本周五郎賞、泉鏡花文学賞などを受賞している。映像と文学の世界を自由自在に往復した人だ。棚に並べてある数を数えると、56冊に及んでいる。
生涯の師と仰いでいたのは、俳優の森繁久弥だった。1964年の「七人の侍」のアシスタントディレクターのときからの付き合いとなる。二まわりほど若い久世が、晩年を迎えた森繁の回想を書き留めながらそれを自分の文章にしていく。それが傑作「大遺言書」という本に結実する。
「一番美しいものは、いちばん凶凶(まがまが)しいものと背中合わせにいるものだ。きれいなものを見たかったら、怖い思いをしなくてはならない。私は十歳の夏の夜、それをはじめて知ったのだった。」
私は久世光彦という人物をみて、「美しいもの」に対する執念を感じる。大学で美学を専攻したこともその現れだろう。映像と文章という手段を使って、上手に表現しようというのではなく、美しいものをとことん追求した人生だった。その久世は、師匠・森繁久弥よりも早くこの世を去ってしまう。