「多彩型」と「一筋型」の11人−−「遅咲き偉人伝」から

「遅咲き偉人伝−−人生後半に輝いた日本人」(PHP)で取り上げた最後のまとめの部分を書く。「多彩型」と「一筋型」の11人分。
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多彩型


松本清張
歳をとって、よく人間が枯れるなどといい、それが尊いようにいわれるが、私はそういう道はとらない。それは間違っているとさえ思う。あくまでも貪欲にして自由に、そして奔放に、この世をむさぼって生きていきたい。仕事をすつ以外に私の枯れようなんてないんだな。」
最後名で駆け続けた松本清張らしい言葉である。


森繁久弥
アナウンサーから出発し、コメディアン、軽演劇を目指した森繁は、二枚目でもなく、歴史に残るヒーローも演じてもいない。しかし長い時間の中でじっくりと熟成し、晩年になれなばなるほど、俳優としての存在感を増していくという遅咲きの人生だった。
若い頃の森繁久弥は、やや軽い顔をしているが、だんだん顔が良くなって、晩年になるほど「いい顔」になっている。俳優という職業に命をかけて少しづつ内容が磨かれて、それが何とも言えぬ風格のある晩年の顔に凝縮したのだ。


与謝野晶子
与謝野晶子は年若くして歌を通じて世に出たが、それにとどまらず恋愛、家族愛、教育、著作、作歌、あらゆる分野に抜きん出た巨人だった。個人としての成熟につれて、歌作のようにタテ方向に深まりをみえるだけでなく、関心のある分野はヨコにもひろがっていった。晶子は同時代のあらゆるテーマに貪欲に挑み続けたのだが、一つの分野の業績で人物全体を推しょはかることのできない大きな存在として花開いたといえる。
この早咲きの天才は、その器の大きさを晩年になるほど証明する遅咲きの人生をオ送ったのである。
歌人晶子は、時間をかけて成熟し、近代最高の大いなる女性として花開いたといってもよいだろう。


遠藤周作
五十歳になってやっと自分なりの作風をつかみ、いろいろなチャンネルがすべて一つの流れの中でつながって、六十歳になってようやく何一つ無駄なものはなかたっと正直に述懐する遠藤周作は、やはり遅咲きだったといえるだろう。


武者小路実篤
「世界に一人という人間」「世界に一人というおもしろい人間」であるその人間が、様々の形をとってこの世で仕事をしたというとだろうか。子どもの頃から唯我独尊という意識が強烈に存在した武者小路実篤は、年齢で区切った断片からではその本質は見えない。長い年月をかけて変身を続け成熟し、最後に振り返ると、たった一人しかいない独特の人物であったことがわかる、そういう遅咲きの人物であった。
青年時代の「白樺」から始まった武者小路実篤は、九十歳までという長い時間をかけて、多方面の才能を開花させ、他に類例のないタイプの人生を送ったのである。
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一筋型


牧野富太郎
14歳の時から満94歳で死去するまでだから、これほど長い間一つのことに没頭する人生というものはそうそうあるものではない。一人の人間が持つことのできる時間を一つのテーマに全力で費やすと、どのくらいのことができるのかを牧野の人生は示していて、励まされる。
牧野の業績は長い年月をかけて、積み重なり、晩年になるほど輝きを増し、誰もが尊敬の念を抱く対象となっていた。牧野富太郎という花は早咲きでなかったために大きく華麗に咲いたのである。


大山康晴
29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にももちろん尊敬の年を覚えるが、私はむしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心掛け、そしてその後の棋士としての生き方に興味を覚える。
若い時代の黄金の輝きとは違った、燻し銀の重厚な輝きこそ偉大である。
大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。


野上弥生子
野上弥生子は、文学に関する様々の賞を受賞しているが、本人がもっとも喜んでいたのは、86歳での文化勲章ではなく、96歳でもらった「朝日賞」だった。その受賞理由が、「70余年という世界にも類例のない長期の現役作家活動」だったからである。それは本人が願った目標に対するごほうびだったのだ。
百年になんなんんとする人生、そして「70余年という世界にも類例のない長期の現役活動」を実践した野上弥生子の生き方は、見事としかいいうがない。


本居宣長
本居宣長は医者という生業を持ちながら、34歳でライフワークへの取り組みを開始し、34年という気の遠くなるような長い時間を費やして、とうとう68歳で「古事記伝」を完成する。しっかりした目的を持って、たゆまず日々の努力を積み重ねる。それが後々の日本の進路を変えるような大著となって結実する。
宣長の膨大なエネルギーを支えたのは、人生の後半になって次第にはっきりとした輪郭が見えてきた「日本」と「日本人」の原型だった。それをつかみ出し、後世に伝えんとする大きな志が大著完成の原動力になったのだ。
本居宣長の生き方は、努力の継続がことを成し遂げさせるという、平凡だが重要な真理に深く気づかせてくれる。


石井桃子
石井桃子は、揺れ動く時代と社会の中で、3、4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった。百年に及ぶ石井桃子の年譜を眺めると、後半の生産力の高さに目を見晴らされる。
「ノンちゃん雲に乗る」が光文社から刊行され、芸術選奨文部大臣賞を受賞したのは1951年であり、石井桃子はすでに44歳になっていた。このあと半世紀以上にわたって自身の志を実現させていく。その姿は崇高でさえある。

平櫛田中
平櫛田中は、若い時代は不遇であった。、、60歳あたりから名が売れ出して、ようやく生活が安定してくる。これも生涯の師と仰ぐ岡倉天心との出会いがきっかけとなった。天心の批評、叱咤、激励、そうした本質をえぐる一言一言を田中は受けとめ反芻し、作品の中に投影していった。師との出会いが運命を変えたのである。この人の言葉でもっとも人口に膾炙しているのは「60、70は洟垂れ小僧、男盛りは百から百から」という言葉であるが、それが真実の感慨だったのだろう。
生活の安定を得た田中は、その後、傑作「鏡獅子」を完成させるなど大輪の花を咲かせながら、天職を究めていった。荻原守衛31歳、菱田春草37歳、青木繁29歳というように同時代を生きた芸術家たちの華やかで短い人生や仕事と比べると、遅咲きながら平櫛田中の仕事人生の長さとそれ故の大きな業績に打たれ、粛然とする。