夜は品川の大学院で「立志人物論」の講義。登録者は、日本人5名、留学生10人(中国、イタリア、ベトナム)。
・本日の講義では、我々日本人にとっては周知の福沢諭吉、吉田松陰、森鴎外に加えて岡倉天心、渋沢栄一などの歴史上の人物を学ばせて頂きました。時代が幕末から明治、大正、昭和と推移して来ていますが、大きな変革が起きる時には必然的に偉人が出てくるものだと感心させられます。また、今回は一般的には知られていない人物、鬼塚喜八郎と古野清孝を取り上げて頂いた事は、戦後の物作りに大いに貢献した人物として興味を持ちました。オニツカタイガーのバスケットシューズを実際に愛用していた年代としては懐かしく、鬼塚喜八郎の偉業に改めて感心させられました。一方、古野電気の魚群探知機は業界では画期的な製品で海の魚の資源を有効に活用することで漁業に大いに貢献しています。その後、レーダ技術なども加わり優良会社となっています。それぞれの分野で多くの人のたゆまぬ努力が成功を生み、日本の発展を支えてきたと言えます。歴史に名を残す人物は、小さな積み重ねを長年にわたって続けて来てやり遂げています。自分自身にも変革を起こさなければ、何も変わらないと痛感させられました。歴史って面白いですね。
・日本人なら知らない人はいないと言っても過言ではない人物、福沢諭吉。名著である「学問のすすめ」もさることながら、数々の名言を残したことでも有名であるが、本日講義の中でその言葉ひとつひとつを聞くうちに、改めて懐の深い人物であることを
再認識しました。今回、数ある名言のうち、「理想が高尚でなければ、活動もまた高尚にならない」この言葉が一番、胸に刺さりました。高尚とはすなわち、気高くて、立派なことであり、高い志を意味します。この言葉を聞いた時、高尚な理想をもって、活動をしているかと自分自身に問いかける良いきっかけとなりました。私自身、多摩大学大学院に入学した理由は、故郷である高知県四万十市に帰郷し、地元の地域活性化、地方創生というテーマに取り組みたい一心で、そのためのノウハウ、スキルを学ぶために入学を決意しました。高尚な理想、また、活動であるためにも、自分自身の志が、己の利益のみ考える利己ではなく、常に他人の利益、幸福を考える利他の考えに即したものでなければならないと今回の講義を通じ、切に思いました。
・幕末に活躍した久坂玄瑞・高杉晋作には、吉田松陰という師匠がいた。 慶應義塾大学創設者で思想家・教育者の福沢諭吉には、緒方洪庵という師匠がいた。 著名な画家である横山大観には、岡倉天という師匠がいた。 軍医と小説家という二刀流でありながらそれぞれで一流になった森鴎外には、渋江抽斎というお手本がいた。 など、歴史に名を残す人物には、優れた師匠・お手本がいたということを学びました。 また、講義の中で出てきた福沢諭吉の言葉。「努力は『天命』さえも変える」胸に響きました。自分の人生ついてない、と嘆くことが多々ありますが、それは、「おまえなんてまだまだ努力が足りてない。もっと努力をしろ」という天の声である。嘆く前に、もっともっと努力をすべきなのだと自省しました。 では、どのように努力をすればよいのか。今は多摩大学大学院で学ぶことだと考えます。同じく福沢諭吉の言葉。「人間に貴賤の差はない、しかし、勉強したかしないかの差は大きい」。その通りだと考えます。将来に向けて力を蓄えるために、今は全力で学びます。 師匠について、ひるがえって自分には師匠と呼べる存在がいるかを考えたところ、2人思い浮かびました。 1人は、前職の上司・K次長。社内での出世競争にはやぶれ、それ以上昇進することなく関連会社に転籍となってしまった方ですが、人の心をよむことが非常にうまい方でした。落ち込んでいる社員に良いタイミングで声をかける。仕事で結果を出した日の夜にお祝いのメールを送ってくれる。チームの雰囲気が盛り上がり始めたときに、チーム全員を飲みにつれていき団結力を高める、など人の心に寄り添った巧みなマネジメントをする方でした。当時の私は一匹狼タイプ。自分は自分、他人は他人と線引きをしていましたが、それではいい結果が出ない。1人の力などたかが知れている、しかし、心と力をあわせてみんなでチームになれば、大きなことを成し遂げることができるのだ、ということを、K次長は身をもって教えてくれました。 自分が部下をもつ立場になったら、K次長のような人の心を慮る上司になりマネジメントをすべきである、個人事業主となった今でもそう思っています。 そしてもう1人は、ごまをするわけではなく、多摩大学大学院の徳岡晃一郎教授。現役のコンサルタントでありながら大学院の教授として後進の育成にも注力している二刀流。コンサル業務に携わる私にとって、徳岡先生はあこがれです。多摩大学大学院に入学したのも徳岡先生の教えをうけたいと考えたからであり、そして実際に教えをうけると、徳岡先生のようになりたい、と望むようになりました。私はかねてより、自分自身が第一線で活躍できる時間は長くない、と考えていました。せいぜい10年、長くても20年、たったそれだけの時間です。では、何をすべきなのか、それは後進を育成することだと考えます。師匠から私が学び、私が第一線で活躍しながら、あるいは第一線を退いた後に、私が師匠となって後進を育成する。そして弟子たちがやがては師匠となり、さらに後進を育成する。このようにして、歴史に名を残すことはできないとしても、自分たちの魂が脈々と受け継がれていく。それこそが私がこの世に生まれてきた意味なのだと考えます。 師匠と呼べる存在がいる、この世に生まれてきた意味についても自覚をしている、そのうえで、今は何をすべきであろうか。繰り返しになりますが、今は多摩大学大学院で学ぶことです。そして近い将来、第一線で活躍する一方で、後進の育成にも力を注ぐ、他人から師匠と呼ばれる存在になれるよう、今は全力で学びます。
・【良き師をもつべし、学ぶべし】①良い師に学び続け、それを自分の力としてアウトプットし、仕事(事業)に活かすことで運命が拓ける。②役立てることのない学びは、学ばないことと同じ。③自信と謙虚の間に立つ。噛めば噛むほど学びの多い講義でした。貴重なお話をありがとうございます。短い言葉ほど覚えている、長い言葉は忘れてしまうというお話がありましたので、今日の学びのエッセンスを3つにまとめて本文として投稿し、詳細は添付ファイルとして別途添付することにします。今日の講義は、「師」と「教育」を軸に構成され人選も人を育てた人物として、大きくは吉田松陰、福沢諭吉、岡倉天心の3名を学びました。吉田松陰は、山口県の萩で松下村塾を開き、明治維新への大革命を主導する多くの偉人を輩出した人物です。その松下村塾がたった2年間という短い期間しか開かれていなかったこと、松陰自信は30歳で亡くなったことに驚きました。人が人に影響を与えるために、それほど長い時間はいらいのかもしれません。福沢諭吉は、日本の近代化を支え、多くの名言を残した人物です。学問の勧めは
当時160人に一人が読んだベストセラー。私も学生の時に福翁自伝とともに学んだ
記憶があります。実学の言葉の通り、事業として世のため人のためになる学問を重視しました。西洋の学問を輸入し自由と平等の人という印象ですが、実は子供の結婚相手を自ら選び子供に自由を与えなかったという話を聞き、人間の二面性と儘ならなさを感じました。岡倉天心は、日本美術を守り再興した人物です。帝大の政治学科で論文を書いたものの、当時の同棲相手と喧嘩し論文を燃やされてしまい、テーマを美術の変えた
ことから文科省へ就職し、偉大な仕事を成し遂げるに至ったという話に運命の不思議を感じました。福沢諭吉の二面性と言い、私の興味は本筋からややずれているようです。主要な3名以外では、大滝秀治(先生は「しゅうじ」と発音されていましたが「ひでじ」さんでしょうか。)の言葉がもっとも印象に残りました。人間の態度として、うぬぼれ、自信、謙虚、卑屈 の段階があり、うぬぼれもいけないし卑屈もいけない。自信と謙虚の間にいることが大切だろうとのこと。自分に自信を持ち、謙虚な姿勢で学び続けることを60になっても70になっても続けられる人間でいたいと思います。まずは今日から。今日も生涯の一日なり。その他にも、アシックスの鬼塚喜八郎が日本人を健康にという思いからスポーツシューズをつくった話も印象に残りました。いい仕事をするには、高い志が必要で、戦後の日本では多くの人が鬼塚氏と似た考え方で様々ないい事業を起こした、その先に日本の高度成長があったというお話。いま日本が抱える様々な課題に対して自分自身も高い志をもって仕事に向かいたいと思います。具体的に言えば、私は人事をやっていますので、「100年人生を生涯現役で豊かに幸福に生き抜ける社会・会社をつくりたい」と思う次第です。
・本日の講義では吉田松陰と久坂玄瑞、高杉晋作のお話があり、吉田松陰の猪突猛進、学問を学ぶ事の目的は暴力も辞さない主張を通す事。その為の武装であり、暴力に訴えた為に命を落としたのだと思いました。この思想は歴史上、混乱期に現れるものであり、久坂玄瑞や高杉晋作はこの思想を受けて短命だったであろうと感じました。これに対して、福沢諭吉は合理的に物事を捉え、学ぶ事で武装し、スキルセットを使って資金を作り、自立せよと説いています。恐らく、この考え方も師匠である適塾の緒方洪庵から引き継いだ点においては久坂、高杉と同様ですが、福沢は学び舎を作り、永続的に学ぶ人間を作り続ける事を適塾の規模から文部大臣として飛躍的に拡大した事が日本に対する最大の貢献だったのだと思いました。最終的には官僚主義が進み崩壊するのですが、この国風形成があったことによって日露戦争勝利後の国際的地位の形成に繋がったのではないかと考えています。余談ですが、福沢諭吉が戦時中は評価が低かった事に関しては自由度の高い学びは当時の軍部に都合が悪かったのではないかと思います。軍部に都合の良い人物は東郷平八郎や楠木正成の様な忠義を尽くし、奇襲で大勝した人物であり、世論形成に歴史が都合よく権力者に使われてしまう絵図は現代と変わらないと思います。個人的には東郷平八郎の老害と化した後半生はその後の戦争の惨禍の遠因となっていると考えています。講義の後半、映像を見せて頂いた岡倉天心は非常に興味深い人物であり、幼少期の英語習得がその後、彼の活動範囲を海外に広げて、結果としてその見識が日本の芸術を救ったという点が彼の使命であったのだろうと感じさせられました。日本の特徴として他国から入ってきた文化の方が高尚であり、学ぶべきと考える傾向があります。この考え方には長短ありますが、当時の絵画は黒田清輝が印象派を持ち込み、日本絵画を駆逐する局面があったと思います。新しいものが優れ、古いものが劣り、消えて行くべきであるというのは典型的なアングロサクソンの考え方でzero-sumです。その理論を日本に持ち込もうとした多数派に対して、岡倉天心の存在は天の配剤だと思いました。共存共栄は日本の八紘一宇的な考え方です。岡倉は両方の文化背景を理解していた為に何が起きていたのかを理解していたのだと思いました。これこそが歴史を学ぶ本来の意味だと思います。本日も学ばせて頂きました。
以下、留学生。
・今回の講義で、久恒先生は日本の教育史先駆者の吉田松陰さんから、近代日本の発展に欠かせない大人物たちの紹介を行った。吉田松陰先生の思想は日本の明治維新後、一部の対外政策や吉田松陰が計画した発展の道を参考にしたのも、日本帝国の拡張主義や植民地主義、軍国主義の根幹になった、志は自分の力を変えて、国の力を変えることができると思います。私の志はなんですか?またどのような環境の変遷のために初志を変えましたか?今日私が深く感じたのは、日本の教育家の福沢諭吉先生の 1, <あまり人生を重く見ず 捨て身になって 何事も一心になすべし。>2.<独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。>という 2つ名言である。優雅な音楽を流れて伴った<あまり人生を重く見ず 捨て身になって 何事も一心になすべし。>という字幕が出てくると、ちょっと眠くなった私は、急に悲しさが湧いてきた。何故ならば、いつか、私も志を持っていたのですが、時の流れによって淡くなってきていたからです。この名言を見たことがなくて、私は失った志をここでただ残念に思いました。2つ目は福沢先生から人生の独立と自尊を教えた名言である,自分で考え、自分で行動し、他人に頼らない精神を持つことが必要である、国でも、社会でも、個人でもう同じ独立と自尊の事を失わせよ!「一身独立、一国独立」ということで、全体(ここでは国)がしっかりと独立を維持して、外部から尊厳を保って見られるためにはそこに帰属する一人一人が独立精神がないといけない、という言葉を紹介しました。同じ事はもちろん会社という組織にも言えます。もし、私たちが何か外に対して依存していればきっと、いざ、なにかあった時には、その相手に気兼ねしてしまう。そして、その気がねすることが常態化すると卑屈になり媚び諂ってしまう。ひとりひとりに置き換えてみましょう。もし、自分の仕事のスタイルが自己解決型ではなくて、この部分は○○さん、この仕事を終えるには○○さん、と思いながら依存してやっていく癖がつきすぎると、どうなってしまうでしょう?これから私の残る人生で自分の鞭撻を刻々と刻みつける必要性がある。まだ、同じgroup の日本人方丁寧に、色な歴史的な知識を教えくれて、もう日本の文化を勉強になる。ありがとうございました。今日の授業が 将来の就職と人生計画を指導することになると思う。
・本日の講義では、吉田松陰と福沢諭吉について、人生の経歴と高い志を持つことが分かってきました。特に松陰は遊学の時に民の苦難を痛感し、幕府改革の必要性が自分の志になり、一生を貫きました。最初は黒船事件に老中暗殺の計画が失敗し投獄されました。しかし、驚いたのは松陰は道半ばで倒れず、松下村塾を創ったことです。逆に柔軟な発想で、国の改革を優秀な若者たちに頼みます。さらに、教育を徹底することで、なんと僅か2年で、卒業した学生達がそれぞれ歴史に名を残しました。ここで、私は范仲淹の「岳陽楼記」を思いつきました。彼はそういう話を言いました。「士たるものは天下の人々をの心配事に先だって、いち早く心配しなければならぬ。しかも楽しみごとのほうは、天下の人々の楽しみにおくれて楽しむべきである」と。彼は権利を持つ人が必ず国や国民の利益を一位に置き、不安点や不測の事態に備えた準備を心に刻むべきだと表れました。二人共国民生活の改善を前提として、国の改革に至って高い志を持っているところは共通点です。そう言えば、確かに夢や志を追いかける方は困難にも負けず、進むしか考えないですね。私も志を常に持っている人間になりたい、今日の講義を通じてすごく勉強になります。ありがとうございます!
・今回の講義を受け、印象に残っている言葉は「どんな偉人でも、先生がいる」。また人間の偉さというと、後世の人への影響力が非常に大事であることだ。本日の講義で鬼塚喜八郎、福沢諭吉、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、渋沢栄一の話がありました。福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名で、人間は全て平等で、人の差は生まれつきにあるのではなく、「学問したか、しなかったか」によるものです。人間は一生勉強で、学問に年齢は関係ないです。勉強したいことがあるなら、考慮せずに挑戦した方がいいと思います。福沢諭吉の名言「ペンは剣よりも強い」も頭の中に残っています。文字によって書かれた学問、思想は武力より強い力を持っています。自分が経験したことだけでなく、他人の思想から勉強できるものもたくさんあります。また、今の時代でマスコミの報道は国民の心を動かす力を持っているので、真実を伝えることも重要だと思います。「今日も生涯の一日になり」も胸を刺されるような言葉です。ぶらぶらして一日を過ごすより、ちゃんと自分のスケジュールを管理して毎日が充実したいです。『福翁自伝』を読んでもっと勉強させていただきたいと思います。
・今日の授業では吉田松陰、福沢諭吉、岡倉天心の日本人の人物に関して学ばせていただきました。本当に勉強になったと思います。特に気になる人物は福沢諭吉の名言です。「学問の本質は学問を自分がどう活用できるかにかかっている。」とか 先生に教えて頂いた「今日も生涯の一日なり」などの福沢諭吉の名言を理解できるようになりました。又はグループワークした時、素晴らしい人物の吉田松陰について、教えてくださって、ありがとうございました。先生のおかげで、自分の生涯の一日を無駄にしないで よく分かりました。
・今日は様々な分野の師匠の思想や貢献やなどを学びました。彼らが特定の歴史的な条件のもとで、それ以降の世代にプラスの影響を与えて、国、さらには全人類にとって有益な思想を編み出した。大変勉強になりました。特に、福沢諭吉は単なる1万円の人物ではなくて、思想家、教育者であることがわかりました。「人は他人に迷惑をかけない範囲で自由である」。この名言を聞いて、現代の日本では、他人に迷惑をかけないのが文化の一つだと感心しました。もしかしたらその時から、今までずっと日本人に影響を与えているではないでしょうか?やはり、人がいなくなっても、思想が残ると感じました。そして、動乱時代では、吉田松陰のような偉大な思想や抗議の勇気をもって、指導者として国を守る人物が時代の宝物だと思います。鬼塚喜八郎は日本の実業家で、日本人に健康にしたいという夢があって、ASICSを創業した。現在では国内の同業界内で、業界屈指の総合スポーツ用品企業です。ですから、高い志というのが非常に大切なことと思いました。
・各業界である仰ぎ見る師匠には数人のことを少し習得しました。ビデオを見て、福沢諭吉さんの沢山名言を勉強になりました。その中で、一番印象を残ったのは「時には二人の意見が異なることがあっても、自分の意見が是か非か、自ら心の中で裁判すれば、他人に判断してもらうような面倒を掛けなくとも、早速に落ち着くところに落ち着くであろう」という言葉であり、自分と相手の双方の主張を冷静に見比べてみることが大切だと理解しました。福沢さんを代表として教育家は西洋の文化と先進技術を国に引き込む一方、岡倉天心さんが「歴史の中に未来の秘密がある」という本土の文化を誉める思想家もいました。文化の融合と継承両方も達成しました。異なる側面から日本近代発展に関する学習を一歩前進しました。「今日も生涯の一日なり」。
・仰ぎ見る師匠の存在をみて目の前に思い浮かべるのは吉田松陰ですが、留学生である私は正直きいたことがありませんでした。先生の授業の中の動画を見ることと先生の話を聞くことでこの人のことを少しだけ理解できました。吉田松陰は平民のため国のために、一君万民論を唱えました。この思想が明治維新を作り上げたのだと思います。松下村塾を作り、その中で明治維新を行う多くの若者を送り出しました。明治維新という歴史的出来事は吉田松陰の教えをのちの多くの人々に影響を及ぼすものとなりました。師匠になれるのはやはり人々の力を引き出せるような思想を説く人物であると思いました。思想家は時代を動かすような人たちにとっての原動力となるでしょう。私はもっと多くの思想家の人たちの考えについて知りたいと思いました。この授業を通してもっと知ることが出きればいいなと思います。
・本日の講義を通して、たくさん日本歴史の中に偉人のライフストーリーを学んでいました。これらの偉人は各業界の仕事に従事しているが、当時の日本にたくさんの影響を与えていました。最も関心があるのは岡倉天心です。彼は芸術家の身分と共に、現代の日本で最も重要な人物である。福沢諭吉と反対思想を持つ、西洋より東洋のほうが文明が深い、提唱するはずです。彼は近代西洋文明は物質的に強いが、工業化により人々は機会の奴隷になります。最近、中国人の考え方も徐々に変化されています。昔には欧米の物事を憧れていた人が、最近、自国の文化を新たに重視になっています。
・今日の講義は簡単ではない。内容はいっぱいです。はずかしいですが、今日紹介された人物の中 福沢諭吉以外は初めて聞きました。福沢さんは学問を強調した、特に実学を重視するべきだと。これは多摩大学大学院の理念もマッチと思います。吉田松陰は29歳なくなった、本当に「昔から英雄が少年を出す」ですね。 早めに人生の志を確立しましょう。「今日も生涯の一日なり」。
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・9時:授業準備
・10時:久米先生と歓談
・10時40分:学部の「立志人物伝」の授業。
・昼休み:出原「名人」の囲碁教室。
13時:事務局との定例ミーティング
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「名言との対話」10月5日。三鬼陽之助「人生は晩年の方が充実する。過去の失敗から知恵が、それまでの蓄積から先見力が生まれるからだ」
三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 2002年10月5日)は、日本の経済評論家。
三鬼陽之助は法政大卒業後、ダイヤモンド社に入社。経済記者となり、「投資経済」編集長などを経て1953年、財界研究所を設立。雑誌「財界」を創刊し、戦後の経済復興に取り組む企業経営者を取り上げた。 創刊と同時に三鬼が設定した『財界賞』は、現在も続いている。 日経連会長を務めた桜田武、経済同友会代表幹事や日本商工会議所会頭を務めた永野重雄ら4人を「財界四天王」と命名。著書は「東芝の悲劇」「日産の挑戦」など101冊に上る。
「経営トップは常に現場に立て」と説いた三鬼は、自らの経営評論・経済評論でも、この現場主義を貫き通している。 経済記者は、まずトップによく会い、経営の現場をよく見ることが大事というのが持論でそれを実践した。 70歳で病に倒れた後も、リハビリに打ち込み、95歳で亡くなる最期まで執筆活動を続けた人だ。経営評論家一筋50年、大企業から中小企業まで数多くの経営者に接し、その経営観、人物、戦略、内情に精通していた三鬼は正しいと思った事は歯に衣着せずズバリいう、財界のご意見番だった。
計算力や暗記力、集中力、状況に反応し判断する知的反射神経のような知能は流動性知能と呼ばれる。受験時に活きる知能だ。この流動性知能は、18~25歳くらいがピークで、その後は年齢とともに落ちていく。一方、知識や知恵、経験知、判断力など、経験とともに蓄積される知能である結晶性知能は、年齢とともに伸び続け、60代頃にピークを迎える。70〜80代にはなだらかに低下するものの、それでも高いレベルを持続していけると脳科学は教えてくれる。「情報と情報がつながる」、「そういうことだったのか」と目からウロコの体験が増える。そして理解力が増したり、いいアイデアが生まれたり、判断力に磨きがかかる。 努力し続けた人は晩年になっても、結晶性知能は維持向上できるのだ。
私自身の経験でも、若い時代は知識は増え続け脳細胞はタテに伸び続けるが、それぞれは孤立していて、脳はスカスカな感じがしていた。ところが、時間をかけて多様な体験を重ねてくると、孤立していた脳細胞同士がヨコにつながってくる感じを持っていたが、それは結晶性知能が向上してくるということだったのだ。下がっていく流動性知能と上がっていく結晶性知能の総合力が、その人の知力ということになる。三鬼陽之助は、現場主義に徹した姿勢で、高い結晶性知能をフル回転させて、総合知を維持し続けた人なのだろう。三鬼が知恵と先見力を身につけた高齢者だったすれば、それは人生100年時代のモデルの一人だということだ。