午前:多摩キャンパス
打ち合わせ。書類書き、、、。
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午後:湘南キャンパス
リレー講座のライブヴューイング:良峯先生「AIと人間」。
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グローバルスタディーズ学部運営委員会に出席。
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夜:大和で弟と。串揚、そしてスナック。
近況。ゴーン。カラオケ。、、、、
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「名言との対話」12月13日。山下文男「僕自身が津波を甘くみていた。津波は本当に怖い」
山下 文男(やました ふみお、1924年 - 2011年12月13日)は、いわゆる「津波てんでんこ」を広めた日本の津波災害史研究家である。
岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市三陸町綾里)出身。1896年の明治三陸津波で祖母ら親族3人を含む一族9人が溺死。1933年、9歳の時に昭和三陸津波に遭い、高台に登って難を逃れている。
日本共産党の「赤旗」の記者で、文化部長や党出版局長などを務めた。退職後は郷里に戻って津波の災害史研究に専念した。津波の痕跡を訪ね、文献・史料をひもといた。在野の研究者として、義務教育で津波、地震に関する知識、心得を教える授業を取り入れることや津波体験の教訓を伝える「津波伝承館」の建設を訴え続けた。
『津波てんでんこ-近代日本の津波史』など多数の著作を通じて津波の恐ろしさを訴え続けた。「最後の『こ』は了解し合うという意味。お互いが信頼し合って逃げる。人間には情があるが、犠牲者を1人でも少なくするには、情を断ち切り、心を鬼にして逃げなければならない」と熱っぽく説いた。
1991年『津波ものがたり』で「日本科学読物賞」「北の児童文学賞」、2000年「日本自然災害学会賞」功績賞、2003年「平成15年度防災功労者表彰」(内閣府、防災思想の普及)、2006年「岩手日報社文化賞」を受賞。
2011年3月11日の東日本大震災では、岩手県立高田病院に入院中に津波に襲われた。津波到来の放送が院内に叫び声が響く中、山下は「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。津波が轟音と共に病院3階にぶつかるとガラスを破り一気に4階に駆け上がってきた。逃げようにも腰が抜けて動けなくなり、津波に呑まれ、2m近く室内の水位が上がる中、カーテンにしがみつき、首だけをやっと出す状態だった。10分以上カーテンにしがみついた後、水が引き、一命を取り留めた。翌12日に海上自衛隊によって救助される。
山下文男は、昭和の大津波、チリ地震津波を経験した。そのことで津波の研究というライフワークににまい進することになる。3度目の東日本大震災の平成の大津波では、津波の怖さをさらに知る。「四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治二十九年の大津波でも被害が少なかった」「だから逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が」。平静、迅速な避難を訴え続けてきたが、自身はそうしなかったのだ。亡くなるまで病床では迅速な避難の重要性を熱意をこめて語ったそうである。