ユーチューブ「遅咲き偉人伝」6回目「加藤廣」をリリース。伊丹十三・宮脇俊三・鈴木大拙・永田耕衣・松本清張。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の6回目をリリース。

加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日[1] - 2018年4月7日)は、日本の小説家。

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伊丹十三(映画監督)

youtu.be宮脇俊三(鉄道紀行作家)

youtu.be鈴木大拙(仏教学者)

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松本清張(作家)。永田耕衣俳人

youtu.be人生100年時代をどう生きるか」(予告編)

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「名言との対話」6月14日。今村明恒「災害予防のこと、一日も猶予すべきにあらず」

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日明治3年5月16日) - 1948年昭和23年)1月1日)は、日本地震学者地球科学者

鹿児島市出身。一高から帝大理科大学物理学科に入学。大学院で地震学を学び助教授。1899年、海底の地殻変動津波を引き起こすという学説を発表。1905年に50年以内に東京で大地震が発生すると警告。1923年の関東大震災が起きた。1923年に教授に就任。1929年、日本地震学会を再び創設し会長となった。1933年の三陸地震では住民の高所移転を「提案。「稲むらの火」のエピソードの小学校国定教科書に載せることに骨を折った。また、1944年の東南海地震、1946年の南海地震も予言している。

上山明博関東大震災を予知した二人の男』(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2011年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

 大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。

今村の警告が現実のものとなった後、関東大震災地震を予知した研究者として、今村は「地震の神様」と讃えられるようになった。

今村の「災害予防」はもちろんだが、「地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館愛橘博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。