原田治「自分への回帰」ーーイラストレーターから抽象画家へ。

 原田治は、2006年に『ぼくの美術帖』を刊行する。

美術をめぐる遍歴の旅。古今東西の美術の本物を見るために、国内外の美術館、博物館、ギャラリー、遺跡、寺院、アトリエ、窯元、骨董屋、古書店などを探検するのが趣味だった。

イラストレーターは美術家ではない、という原田は趣味として美術館の回廊をまわる。そこで感じたことを書いた。私が美術展などで鑑賞した木村荘八鏑木清方鈴木信太郎俵屋宗達岸田劉生などが、俎上にのぼっている。この中で紹介されている川端実は、原田の師匠の抽象画家である。7歳から絵を習い、美術学校を卒業すると川端先生の住むニューヨークの近くにアパートを借りて指導を受ける。1975年には、神奈川県立近代美術館で開催された川端の回顧展が催された。

コスモポリタンである川端実が、ニューヨークの地で次第に東洋の、それも日本民族古来の美意識に近づいてゆくの見るのは感動的なことでした」。

「日本を離れ、日本の画壇からもあえて遠ざかり、それでいて大きな曲線を描いて民族的な日本の美意識に回帰してゆく」。

師匠は、「日本への回帰」を果たしたのである。

さて、原田はどうなったか。この本を書くと、本人の心に急激な変化が起こったのである。「若い頃に一度はあきらめていた画家への志望、純粋絵画をこの手で再び描きたいという強い欲求が頭をもたげはじめました」。仕事と都会から離れて完全な孤独の時間を確保するために、太平洋上に浮かぶ島に真白な箱型の「アトリエ」をつくる。この島はどこか。調べたが、秘密の壁が高くてなかなかわからない。

18歳の時、画家になろうと川端に相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめ、多摩美大のデザイン科に進学する。その後、幸運にも恵まれ、イラストレータになり、多忙をきわめる。少年時代の夢は60歳になって実現する。2006年の還暦後は1年の半分をこのアトリエで抽象画を描くことに費やした。それから亡くなるまでの10年間は、2005年元旦から始めたブログ「原田ノート」を亡くなる5日前まで833回書いた。

原田治は、自分への回帰を果たしたのだ。 

ぼくの美術帖 【新装版】

ぼくの美術帖 【新装版】

 
OSAMU'S A to Z 原田治の仕事

OSAMU'S A to Z 原田治の仕事

 

今日は原稿や講演の準備、「名言との対話」の欠けていた日の執筆など。

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ヨガ:1時間

ジム:ウオーキング45分4.5キロ。筋トレ。ストレッチで2時間。

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「名言との対話」7月16日。成瀬映山「私は一筆耕として、字を書く側の人間ですから。生活のすべてが手習いで、一日中、字をどう書こうかという考えが頭から放れることがありません」

成瀬 映山(なるせ えいざん、1920年3月1日 - 2007年7月16日)は、日本書家

20代前半は中国で転戦。帰国後28歳で東横百貨店(現在の東急百貨店)の宣伝部に入る。商品のビラなどを描く。指示していた青山杉雨先生が忙しくなり代わりに担当することになって、52歳で退職し、本格的に、心を映す画、つまり心画である「書」の世界に入る。

中国では文字が発生し、まず殷の時代に甲骨文字が案出される。それから3000年かけて材質の発達と書体の発明が続く。4世紀の初めの六朝時代の東晋時代に王義之の蘭亭曲水が出現する。これ以降、書は芸術となった。

成瀬は、以上の歴史に加えて、書体、書風、詩文、墨色などの技術論を並べるが、その中でもっとも大事なのは「気韻生動」をもっとも大切だとする。書いた人の「気」が観る人に伝わることだ。そして数多く練習することが肝心だとした。筆にはいつも墨がついているべきで、道具はしまっては「いけないのである。その場合、自分が感銘を受けた文章や言葉を書くのが一番いいそうだ。

『書作のみち』では、有名な本多作左衛門の「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やすせ」や自身が書いた杜甫の詩の写真が冒頭にある。そして、文壇・画壇の歴史上の人物の書の写真と成瀬の寸評を楽しむことができる。

書も優れている鴎外、見識の高い露伴、おびただしい数を書いた子規、のpびやかで明快な紅葉、味わいが深い鏡花、気概があり堂々の秋水、力感あふれる蘇峰、巧拙を超越した境地の藤村、文人中一流の荷風、観者を威圧する八一、格調の高い放菴、達筆の雨情、緻密なレイアウトの啄木、似た字を書く鉄幹と晶子、切れ味のある龍之介、鑑賞の対象となる賢治、一級品の康成、余技を越えた広さと深さの漱石、、、。こういった評価をみると、まさに「字は人なり」「書は人なり」に共感を覚えざるを得ない感がある。

書の道で一家を成すまでには数十万枚書かねばならないそうだが、大家となったあとでも、一日中、書に向かい合った生涯だ。2001年には文化功労者となった。本人の顔写真を『書作の道』でみることができる。一筋の道を歩んだ人の静謐さを感じる顔である。 

書作のみちくさ

書作のみちくさ