『不思議な宮様 東久邇宮稔彦王の昭和史』。大学、東銀座、荻窪。

『不思議な宮様 東久邇宮稔彦王の昭和史』(浅見雅男)を読了。

 

東久邇宮 稔彦王「一億総懺悔」

東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年明治20年)12月3日 - 1990年平成2年)1月20日)は、日本旧皇族陸軍軍人

不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史 (文春文庫)

不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史 (文春文庫)

 

30代に7年間のフランス留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。皇族切っての自由主義者であった。

戦争に負けて、鈴木貫太郎の後を受けて総理に就任する。天皇からは、憲法を護る、詔書を守る、軍の秩序維持を期待され、率先して実行しようとする。近衛文麿緒方竹虎が補佐し内閣の人事を行った。局長、少将に相当する内閣参与に大佛次郎賀川豊彦児玉誉士夫らを任命した。マッカーサーとの会談では「軍人と政治家とを兼ねたる型の人にして、初対面に良き印しょうを受けたり」と日誌に記している。

内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の秩序ある解体と復員、言論の自由の保障、国民からの投書のの歓迎、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。政治の180度の転換である。

賀川豊彦参与のアドバイスに従って、「軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔」を呼びかけた。いわゆる「一億総懺悔」である。また戦争責任をあいまいにする「終戦」という言葉をやめて、「敗戦」と明確に語ったのは特筆される。「一億総懺悔」は、戦争責任は濃淡はあれ国民全員に責任があるという論旨だった。この言葉の評判はあまりよくなかったが、ひとつの考え方ではあるだろう。

NHKカルチャーラジオ「声でつづる昭和人物史」で保坂正康の解説を聴く機会があった。64歳で回顧したインタビューでは、天皇の録音データを軍が奪い取ろうとしたこと、阿南陸軍大臣の自殺、軍の混乱のない解体を、そして自分はどうなってもよろしいという天皇の言葉を紹介している。

終戦処理の目鼻がつくとわずか50日で退く。後継は幣原喜重郎である。

1947年には皇籍を離脱した。手がけた事業は失敗した。1948年には、尾崎行雄賀川豊彦下中弥三郎湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した。1950年禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教。1960年六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山片山哲とともに三人の首相経験者の連名で時の首相岸信介に退陣を勧告。歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日で死去)となった。

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午前:大学でひと仕事。

家内と娘の家族で、昼食。

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地研でJAL時代の上司・柴生田さんの本の打ち合わせ。発明協会の中本会長、落合社長と懇親。「子どもたちの地球歳時記ーーハイクが新しい世界をつくる」。

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終了後は、柴生田さんと荻窪駅の周辺で飲み会。出版パーティ、次作、あとがき、、。

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「名言との対話」8月26日。米倉斉加年「ものの価値判断、価値観を持っていることが、ものを創る人の根本です」

米倉 斉加年(よねくら まさかね、1934年7月10日 - 2014年8月26日)は、日本の俳優演出家絵本作家絵師

幼い頃旅の僧侶に「斉加年」と命名されて戸籍も変えている。繊細な芸術家や善良で内気なインテリ役を得意とした、奥の深い演技は出色だった。演劇と人生の師は宇野重吉だ。宇野からは「普通にいえ」と「思えば出る」とアドバイスを受けている。

大河ドラマでは「風と雲と虹と」の皇族役、「花神」の桂小五郎などが印象に残っている。他に、三姉妹(1967年)の中村半次郎 役、天と地と(1969年)の飛加当 役、国盗り物語(1973年) の竹中半兵衛 役、勝海舟(1974年) の佐久間象山 役、春の波涛(1985年) の板垣退助 役、秀吉(1996年)の今川義元 役。私もこの人の演技を30年以上見続けてきたわけだ。「男やつらいよ」シリーズでは2度も寅さんの恋敵として登場している。2枚目というより、性格俳優というのだろうか、一種独特の雰囲気と知性を感じさせる役者だった。

宇野重吉のアドバイスどおり、舞台、テレビ、映画、放送の四本足で歩こうとした。ただし、米倉は利き足は舞台だと考えていた。米倉によれば、俳優という職業は、作家だけでなく、様々な場所で人と出会うことだという。演ずる人間になって追体験をすると「あれ?」という疑問が起こる。それを追求するから独自の解釈が出てくる。たとえば、乃木希典はダンディズムの美学で理解するとわかるという。

米倉斉加年 演ずるとは』では、橋のない川を書いた作家の住井すゑとの対談で、日本の教育は調教だという住井の発言に首肯している。「世田谷・九条の会」の呼びかけ人でもある。価値観が明確な人である。

戦時中に弟を栄養失調で失った経験を基にした絵本『おとなになれなかった弟たちに・・・』は、中学一年の国語教科書(光村図書)に採用されている。米倉はボローニャ国際児童図書展で2年連続してラフィック大賞を受賞しているなど、絵師としての業績もある。娘の加乃が米倉斉加年ウェブ美術館をつくって、美術品を公開している。

「ものの価値判断、価値観を持っていることが、ものを創る人の根本です」という米倉は日本人で、初めて舞台で朝鮮人の主役をやった役者だということを誇りにしていた。韓国問題がライフワークだった。ものをつくる、表現する、こういう行為には、何が価値あることなのかという信念が必要だ。そうでなければ、創造はできない。 

演ずるとは (抱樸舎文庫)

演ずるとは (抱樸舎文庫)