「漫画の日」になったーー横浜の「さくらももこ展」(コロナ前)。町田の「今日マチ子展」(コロナ下)。

 

横浜そごう美術館の「さくらももこ」展。

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「さくらももこ」展は混んでいた。コロナ前の2018年に53歳で亡くなっているのだが、まだまだ圧倒的な人気がある。

19歳のデビュー以来、30数年間に、漫画『ちびまる子ちゃん』、エッセイ『もものかんずめ』、作詞「おどるぽんぽこりん」、オールナイトニッポンでの人気番組でのトークなど、「描くこと」と「書くこと」を中心に疾走した生涯だった。

秘訣は「自分に起こる事をよく観察し、面白がったり考え込んだりする事こそ、人生の醍醐味だと思う」だ。モットーは「健康で 明るく愉快に ゆるやかに」(ももこ 心の俳句)

静岡県清水市生まれ。1986年「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載を開始。自身の少女時代をモデルとした『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前もさくらももこである。 1989年この作品で講談社漫画賞を受賞。1990年作詞した「おどるポンポコリン」が日本レコード大賞ポップス・ロック部門受賞。1991年初のエッセイ「もものかんづめ」がベストセラーとなる。1992年の「さるのこしかけ」、そして『たいのおかしら』もミリオンセラーという人気であった。

代表作『ちびまる子ちゃん』の単行本の売上は累計3000万部を超えている。今回この本を読んでみた。「奇跡の水虫治療」「極楽通い」「健康食品三昧」「乙女のバカ心」「宴会用の女」「週刊誌のオナラ」「結婚することになった」などのタイトルで、ばかばかしい事件に遭遇するおかしさがつづられている。睡眠学習枕。弔辞。女性器隠語名の週刊誌。、、、、。

最後に、お茶の水女子大の土屋賢二教授との対談があり、ここで作家の本音がみえる。「ほんとにああいうことが起こっているものですから、、。」「授業中は、将来、漫画家になったらどうしようかという空想」「絵と作文は他に比べて得意」「高校3年生のときは毎月1本描いて投稿していた」「ネタになるための愚かしいことを浮かび上がらせているという部分もあります」、、。

2018年の多摩大の社会人大学院の授業で「立志人物論」で漫画家を取り上げた時、中国の留学生から「ちびまる子ちゃんを見た私は初めて日本の文化に興味を持ちました。日常的な生活、女の子の繊細な心、家族の暖かさ。これを知れたのはさくらももこの描いたちびまる子ちゃんのおかげです。2ヶ月前に亡くなったさくらももこ、今日はありがとうの会が挙行されました。彼女はもういなくなりましたが、彼女の作品はきっと永遠に感動を与えます」との感想の書き込みがあった。海外でも人気なのだ。

日常の出来事や事件をじっくりと観察し、そこからネタを拾い出していくというスタイルだ。自分のことを描くわけだから、ネタは尽きないのだ。人気マンガ「のらくろ」の作者・田河水泡が、義兄の小林秀雄に「のらくろは、実は俺のことだ」と言って感動させたというエピソードを思い出した。

さくらももこは「赤ちゃんに帰ったままで、ニコニコして、苦しまないで百五十歳ぐらいで死ぬこと」という老衰での死という希望を持っていたが、53歳の若さで亡くなっている。もっと時間があったらと惜しまれる。 

図録の『MomokoSakura exbition』を買ったので、漫画を楽しもう。

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町田市民文学館(ことばらんど)の「今日マチ子」展。

コロナの2020年4月から、ほぼ毎日一枚の絵を描き、それに簡単な日本語と英語で説明したもの#stayhomeのハッシュタグをつけてアップする。コロナ禍の「いつもの」日常の様子は「大きな漫画だ」と本人は考えている。このつぶやきは、外国からの反応の方が多くなっていった。

2020年―2021年は、「緊張」、そして2021年ー2022年は、「怒り」「諦め」「慣れ」となった日常が表現されており、共感した。

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『Essential-わたしの#stayhome日記2021-2022』(rn press)を購入。

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「名言との対話」4月23日。賀川豊彦一生を50年として、その半分を寝ることと食うことに費やしてしまうとすれば、一生の間に、創作的態度に出られる期間は僅か5年か6年しかない」。

賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体豐彥1888年明治21年)7月10日 - 1960年昭和35年)4月23日)は、大正昭和期のキリスト教社会運動家社会改良家

「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジーシュヴァイツァー」と称されている。

2009年、京王線上北沢駅から徒歩数分のところにある賀川豊彦記念松沢資料館を訪問する。キリスト教の幼稚園の二階にある資料館は、中央の空間をめぐる四角の回廊になっていて、賀川の一生が追える形になっている。名前だけは知っているが、詳しく知らなかったこの人の事績を眺めながら歩き、最後のコーナーで本を買おうとしていたとき、この資料館で重要な仕事をしていると思しき人物が、私に一枚のパンフレットをくれた。
「この人は、巨人ですね」と問いかけると、「そうです。忘れられた巨人です」というこたえが返ってきた。

あらゆるものに興味と関心を持って、目についたところの改革に乗り出す直線的な行動力。ひとことでこの人の広大で膨大な仕事を何と表現したらいいのか。まさに怒涛の行動力である。

残っているビデオ映像を見ていると、常に笑顔で会う人と懐かしそうに握手をする。その握手は強く上下に振り続けるというやり方だ。相手も賀川と会えて本当にうれしそうな笑顔をみせる。握手攻めで多くの人に慕われていたことがよくわかる。人柄のよさそうな、笑顔をが素敵な人である。この階下の松沢幼稚園の初代園長という肩書も残っていたように、子供と遊ぶ賀川の姿も気持が暖かくなる。

賀川豊彦は日本生活協同組合の初代理事長だった。神戸のスラム街で貧しい人々を救う活動から出発した賀川は、友愛会労働組合運動、農民運動、を経て、大阪で協働組合運動に入る。有限責任購買組合、神戸消費組合、灘購買組合。
1923年の関東大震災の救援活動では、セツルメントから江東消費組合を結成。

1927年9月2日発行の「家庭と消費組合」に消費組合中心の家庭経済を論じた記事があった。大きな流れは、「安価、安心、安定」。営利、競争、投機、掛売、利子、広告、などが一切ないから安価で生産できる。そして質・量・期日、配給などが一定であり安心できる。それが、自主、自立、自治、自由という社会的安定と日用品価格安定と収入の安定をもたrす。この流れは浪費と社会的無秩序を省くという論理構造になっている。

1935年にはニューディールの一環としての協働組合活動の拡大のためにヨーロッパ、アメリカ、アジアを歴訪している。
戦後の1945年には、日本協働組合同盟を結成して会長になっている。1948年には協働組合と消費生活法の議会通過に尽力。1951年には生協連合の初代会長として生協運動の流れをつくった。

このように書いていくと、この人は日本における生協の創始者だということになるが、こういう流れは一つではない。これは賀川豊彦の活動に一つの側面に過ぎない。療養事業、教育事業、政治、平和、労働事業、労働者教育事業、農民事業、農民福音学校事業、農漁村セツルメント、農村振興事業、新聞事業など実に多方面に活動している。
そしてそれぞれの事業における立場を書き抜くと、理事長、会長、中央執行委員、顧問、副会長、校長、組合長、社長というように、全て責任者という具合である。

一生を50年として、その半分を寝ることと食うことに費やしてしまうとすれば、一生の間に、創作的態度に出られる期間は僅か5年か6年しかない」と言いながら、多忙な社会改革運動の間を縫って、作家としても活躍する。代表作の『死線を越えて』は、100万部以上という空前のベストセラーになった。展示してある本のテーマをみると、フィクションでは、農村問題8冊、漁村問題4冊、廃娼問題2冊、社会風刺、協働組合、求ライ、山村、地方都市・政治、開拓、宗教迫害、など実に範囲が広い。代表作は、「死線を越えて」、「一粒の麦」、「空中散歩」、「宇宙の目的」などがしられているが、生涯著作は200冊を超えている。宗教関係58冊、社会思想39冊、文学53冊、翻訳23冊。
死線を越えて」の印税は今の金額にして10億円を越えたが、自らが関わって敗北した神戸労働争議の後始末や日本農民組合、友愛救済所基本金、消費組合設立費用、社会事業などに半分を出している。1923年の関東大震災の救援活動では、セツルメントから江東消費組合を結成。関東大震災の救援活動で目の悪化が進み、それ以降はほとんど口述に頼った。

出した雑誌では、農村、農村改造、世界国家、自然と性格、雲の柱、土地と自由など。

1958年8月に世界日曜学校大会で賀川が東京体育館で行った演説「幼な子のごとく」のテープが教会を模した部屋で流れていた。席に座って在りし日の賀川の声に聞き入る。賀川70才の最晩年の時だ。

この資料館は、住み続けた松沢の地に1982年10月に建ったものだは、宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説、そして賀川個人の全集24巻など、5万冊の蔵書が納められている。

こういった賀川豊彦の事績の一部を追うと、もっとも著名で影響力のあり尊敬された人物であることがわかる。それは1935年にノーベル平和賞候補に擬せられたことでもわかる。韓国の李承晩大統領、中国の蒋介石夫人などからも尊敬されていた。
「あなたは、多年私がはるかに尊敬を寄せている日本の指導者の一人です」(李承晩)。
賀川が詩集を出したとき、与謝野晶子が推薦の言葉を書いていて、賀川の人物がよくわかる。「熱意と、博識と、勇気と、活動とには、全く目覚ましいものがあります。数人の専心努力する所を能く一人で兼ね備へられて居るといふ観があります」

賀川はエニアグラムという性格分析からみるとタイプは2であるが3に寄っていると感じるが、若いころ上昇志向が強いことを神父に指摘されているところをみると逆かも知れない。

こうやって事績を並べると鉄の体を持っていたように思えるが、若いころから結核をはじめありとあらゆる病魔が賀川を襲っている。闘病の中で毎日の仕事をこなしていったのだ。

同い年の妻・ハルは、賀川のために一生を捧げた同志でもあり、こういった突出した夫を持つ妻は苦労が絶えなかたっと思われるが、「三十九年の泥道」という詩が見つかっている。

 わが妻恋し 妻恋し
 三十九年の泥道を
 共にふみきし妻恋し、、、、

賀川ハルについては、「わが妻 恋し---香川豊彦の妻ハルの生涯」と(加藤重)という伝記があり、瀬戸内寂聴が「キリスト教の愛と犠牲を身を持って実践し、夫を支え続けたハルの、女の一生の美しさと輝かしさ」と推薦している。

賀川に関する記念碑は、国内13か所、海外ではワシントンカテドラルの中に一つある。賀川豊彦という人物はもっと今の世に知られるべきである。人の生き方の貴重なモデルである。賀川の一生は、壁に掲げてあった「愛は私の一切である」という言葉に集約されているように思った。

賀川豊彦は、多くの人に多大な影響を与えている。いくつか紹介したい。

  • 戦争に負けて、鈴木貫太郎の後を受けて総理に就任した東久邇宮は、賀川豊彦参与のアドバイスに従って、「軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔」を呼びかけた。いわゆる「一億総懺悔」である。また戦争責任をあいまいにする「終戦」という言葉をやめて、「敗戦」と明確に語ったのは特筆される。「一億総懺悔」は、戦争責任は濃淡はあれ国民全員に責任があるという論旨だった。この言葉の評判はあまりよくなかったが、ひとつの考え方ではあるだろう。
  • 1963年には朝比奈宗源尾崎行雄らと世界連邦日本仏教徒協議会を結成している。
  • 大杉栄は、賀川豊彦からファーブルのことを聞いて興味を持った。賀川は弱肉強食の理論書のように悪用されたダーウニズズムに対抗するためにファーブルを持ち出したのである。関東大震災当時の大杉はファーブルの「昆虫記」の訳を手がけていたが、第1巻しか訳すことはできなかった。
  • 藤原啓は少年時代から文学を志望し、俳句や小説に熱中した。同郷の正宗白鳥に対する憧れや、賀川豊彦の「一粒の麦」に刺激をうけて、19歳の時に代用教員の職を投げうって上京する。
  • 長谷川保は、迫害を受けて他の土地に移ろうと賀川豊彦に相談しイエス友の会の大会で、ベテルホーム(神殿)のために話をし、一坪献金運動が始まり三方原の県有林の払い下げを受ける。
  •  愛育会は1933年の皇太子誕生を祝って下賜された基金を中心に賀川豊彦らも加わって立ち上げられた。内藤は初代小児科長である。
  • 児童文学作家の神戸淳吉は、日大専門部を卒業し、賀川豊彦のもとで、大戦中は軍需工場で、戦後は児童福祉施設で働く。

あらゆるものに興味と関心を持って、目についたところの改革に乗り出す直線的な行動力。ひとことでこの人の広大で膨大な仕事を何と表現したらいいのか。やはり「愛」といことになるのだろう。この人の偉さはまた格別である。