カルガモの親子の姿は心がなごむ

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筆債処理。

8月31日。ヘンリー・ムーア「幸せな人生を送る秘訣は、人生をかけられるような、そして、この世を去るその日までたゆまず、自分の情熱のすべてを注ぎ込めるような仕事を持つことである。そして、肝心なことは、その仕事が自分にとって不可能と思える仕事でなければならないことである。

ヘンリー・ムーアHenry Spencer Moore1898年7月30日 - 1986年8月31日)は、20世紀イギリスを代表する芸術家彫刻家である。

 炭鉱夫の息子として生まれたムーアは芸術学校で彫刻家のバーバラ・ヘップワースと出会い、切磋琢磨する友と敵としての関係が始まる。大規模なモニュメントなどの注文をこなし大きな財力を築いた。それが「ヘンリー・ムーア財団」の基金となり、美術教育や普及の支援のために使われている。それができたのは生活が質素だったからだ。

ムーアの作品の特徴は、穴が貫通している横たわる像である。最初の「横たわる像」は体の横でひじを付いて曲げた腕が空洞をかたち作るものだった。後の「横たわる像」では、胴体に直接穴があけられた抽象的な形態になっている。

 ムーアは二つのテーマを生涯追い続けた。一つは母が子を守っている「母と子」の像だ。その主題自体は永遠で終わりがなく、多くの彫刻的な可能性―小さなかたちと、それを保護している大きなかたちとの関係など―を持っている。<母と子>は、人間的にも構成的にも非常に豊かな主題なので、私は常に使い続けるだろう」。二つ目は「横たわる像」だ。パリで古代メソアメリカの人物像を目にして受けたインスピレーションで「横たわる像」というテーマを持った。「人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に坐っているもの、そして横たわっているものである。3つのポーズのうちで、横たわる人体像は、最も自由がきき、構成しやすく、また空間性を持っている。、、横たわる人体像はどんな床面にも横たえることが可能だ。自由がきくと同時に安定性もある」

独特のフォルムのムーアの作品は印象深い。このブログでもムーアが以下のように何回か登場する。

2010年には鹿内信隆フジサンケイグループ会議議長が設立した箱根彫刻の森美術館を訪問し、ピカソ館と・ヘンリー・ムーア展をみた。2013年には度目の訪問をした。彫刻の森美術館は産経新聞50周年、ニッポン放送30周年、フジテレビ25周年を記念してフジ・サンケイグループの総力を挙げて、1984年に開園した美術館で、広大な庭園のあちこちにロダン、ムーア、佐藤忠良朝倉響子、などの作品を楽しむことができる。西ドイツの首相を8年にわたってつとめた「ヘルムート・シュミット首相はヘンリー・ムーアの作品を愛す美術愛好家だった。また日本の彫刻家・飯田 善国は、画家志望で欧州に留学するが、ミュンヘンでムーアの大回顧展をみて衝撃を受け、彫刻の世界へ入っていく。

1958年のパリのUNESCO、1962-65年のロンドン議会広場など、重要な場所にムーアの作品が設置された。日本では、彫刻の森美術館以外にも、山梨県立美術館前の像、東京都庭園美術館の屋外彫刻などを見ることができる。

ムーアの彫刻は、箱根の彫刻の森美術館のように野外にあるものが多い。パブリックアートだ。「、、、ひとたび野外に出て陽を浴び雨に打たれ雲の移りゆきを感じるときには、彫刻も生活の一部であるということがわかる」、「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」。ここにムーアの彫刻観があらわれている。 ムーアの彫刻は、美術館で見るのはふさわしくない。青空、曇り空、流れる雲のように千変万化する環境の中で、独特の丸みを帯びた彫刻が命を持っているように違う表情になる。

さて、ムーアの仕事観をみよう。人生をかけられる仕事を持つこと、には誰もが賛成できる。だが「自分にとって不可能と思える仕事」がいいとムーアはいう。ミケランジェロの「最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ」と同じトーンである。達成が難しいと思われるくらい高い志を持って励むことが肝心だとヘンリームーアは教えてくれる。

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「名言との対話」8月21日。梨元勝「梨元です、恐縮です」

梨元 勝(なしもと まさる、1944年12月1日 - 2010年8月21日)は、日本芸能リポータータレント

東京・中野生まれ。出征中だった父は戦死している。法政大学を卒業。1968年、講談社女性誌「ヤングレディ」の取材記者となる。1975年頃から、活躍の舞台をテレビに移し、芸能ネタのスクープを連発した。取材スタイルから「突撃レポーター」の異名をとった芸能レポーターの草分け的存在となった。芸能人の赤裸々な日常をえぐりだし、嫌われたが、人間味あふれる優しい人柄は、憎めない面もあった。私も悪い印象は持っていない。

『絶筆で 梨元です、恐縮です』(展望社)を読んだ。「まえがき」は、肺がんを宣告されたことから始まる。

 「二人で歩いていたら「恋愛」で、手をつないでいたら「婚約」で、腕組んでいたら「妊娠」。これが芸能ニュースを載せる週刊誌の手口だとし、それは「脱税する者とそれを暴こうとするマルサの関係」だと言っている。関係した芸能人を並べているが、

森繁久弥黒澤明三船敏郎から、松本人志酒井法子沢尻エリカ東山紀之まで、膨大で、またその多彩さに驚かされる。

提供する手段は変わっていくが、提供するニュースの中身は、「人間そのものか、人間が織りなすドラマ」であり、そのポイントは「新・珍・奇」だと語る。

梨元は、1999年にインターネット時代の夜明けとともに、ホームページを立ち上げている。私が図解ウェブを立ち上げたのと同じ年だから、ずいぶんと早かったことになる。

そして携帯サイトで有料の「梨元・芸能!裏チャンネル』をつくり、会員は5万人以上と成功している。2009年12月には、「ニコニコ動画」で公式チャンネルを開設した。情報提供の手段を、時代にあわせて進化させていることは初めて知った。ネットをバックにもった芸能情報センターの役割を果たそうとしたのだ。テレビ、ラジオ、新聞・雑誌、それでだめなら「裏チャンネル」で伝えようという大戦略を持っていたのだ。

肺がん告知した時でも「恐縮ですが、病床でスクープ狙います!」と意気軒高であり、揶揄した芸能人に対しては「地獄からでも取材してやる!」と息巻いていた。芸能レポーターとしてライバルだった前田忠明は、「梨本勝が死んだとき、芸能リポーターは死んだんです。いや、ワイドショーが死んだと言ってもいいな」。「スタジオでパネルと新聞記事を並べる手法ばかりですから。他人のふんどしで相撲を取るなんて、個人的にはすごくみっともないことだと思う」と述べている。そして立花隆は「ストレート一本勝負、自然体だけで、海千山千の魑魅魍魎たちが跋扈するジャーナリズムの世界を軽々と泳ぎ切った」とこの本を推薦している。

人は何を残すべきかという問いは重要だが、 人は一つの言葉を残すだけでもいいという気もしている。梨元勝の場合、それは「恐縮です」だった。