- 福沢諭吉。司馬遼太郎。吉田茂。岡本太郎。長谷川町子。古賀政男。朝倉文夫。杉原千畝。森鴎外。会津八一。坪内逍遥。松本清張。遠藤周作。宮沢賢治。澤田美喜。山田かまち。寺山修司。石ノ森章太郎。渋沢栄一。横山大観。羽仁もと子。武者小路実篤。正岡子規。太宰治。河井寛次郎。小泉八雲。安岡正篤。夏目漱石。川田龍吉。林芙美子。手塚治虫。牧野富太郎。吉行淳之介。白洲次郎・正子。吉川英治。原三渓。西村京太郎。渡辺淳一。平櫛田中。中川一郎。賀川豊彦。西田幾多郎。水木しげる。川喜多長政・かしこ。小林一三。相田みつを。高田屋嘉兵衛。大岡信。土屋文明。阿久悠。大宅壮一。北原照久。塙保己一。嘉納治五郎。菊池寛。伊丹十三。安藤百福。入江泰吉。久保田一竹。安藤百福。壷井栄。藤城清治。五十嵐健司。土門拳。土屋文明。太田黒元雄。角川源義。中原中也。坂本九。小泉八雲。良寛。新川柳作。出口王仁三郎。
- 渡辺崋山。徳富蘆花。大岡信。高田屋嘉兵衛。塙保己一。土屋文明。大宅壮一。伊丹十三。大岡信。渡辺淳一。
- 土井晩翠。吉野作造。斎藤茂吉。熊谷守一。大仏次郎。大山康晴。柳宗悦。芹沢銈介。岩崎久弥。藤沢周平。大隈重信。池波正太郎。北島三郎。徳田秋聲。石坂洋次郎。白瀬のぶ。矢口高雄。河井継之助。室生犀星。山本五十六。吉田松陰。^松下幸之助。明治天皇。尾崎行雄。金田一春彦。いわさきちひろ。戸田城聖。中川一政。根津嘉一郎。野口英世。大倉喜八郎。三島由紀夫。北里柴三郎。宮崎滔天。山本為三郎。細井平洲。井植歳男。開高健。松前重義。芹沢光治良。若山牧水。豊田佐吉。竹久夢二。小池邦夫。横井庄一。横溝正史。荻原守衛。臼井吉見。山田洋次。大平正芳。岡田茂吉。下中弥三郎。重光葵。本多静六。岩田専太郎。黒田官兵衛。山田方谷。大原孫三郎。小栗上野介。犬養木堂。岡崎嘉平太。美空ひばり。円谷幸吉。薄田泣菫。新田次郎。王貞治。法然。北原白秋。宮本武蔵。千住博。大村智。萩原朔太郎。荻野吟子。成瀬仁蔵。菅茶山。中江藤樹。いがらしゆみこ。小畑勇二郎。鳥潟隆三。石橋湛山。藤原啓。勝海舟。やなせたかし。井上靖。西山由之。芦野宏。宮柊二。中山修二。岡田紅陽。松永安左衛門。
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「名言との対話」4月18日。五島慶太「「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」
五島 慶太(ごとう けいた 旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の官僚・実業家。
長野県出身の五島慶太(1882年−1959年)は、日本の経営者。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者。東京高等師範学校、東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省と鉄道院で約9年間官僚として活動。その後退官し、武蔵電気鉄道専務、目黒蒲田電鉄専務、東京高速鉄道常務などを経たのち、東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の社長となって実質的な経営権を獲得し、2社を合併し東京急行電鉄を発足させた。
『飛竜の如くー小説・五島慶太』(光文社文庫)を読んだ。五島は東京高等師範学校入学試験に合格。当時の中学、商業、工業学校の教師となれば、その社会的な 立場 は現代と比較しようもなかったが、元来、慶太の志は、実業界にあり、一介の田舎教師で生涯を終えようなどと、毛頭考えてもいなかった。「志を失ったら、男子とはいえない」という慶太は、政治家の原敬と実業家の雨宮敬次郎を尊敬していた。二人には志があった。
第一高等学校卒業検定試験に合格。東京帝国大学本科に転入学。法科政治科に在籍する。高等文官試験に合格し、農商務省に入省。結婚した妻の久米家の祖母方の実家、絶家になっていた五島家の姓を再興。 慶太は五島と改姓している。加藤高明から「俺が話をつけてやるから、鉄道院に転じてみたまえ」といわれ転じた。
強引な事業手法から「強盗慶太」と呼ばれた。しかし慶太にすれば買収、合併は、経営者の慣いだと考えているのだけれども、世間はそうは見ずに、五島の姓をもじって、 「強盗慶太」と呼んだ。「合併されて生き残れたほうが、社員もよかろう」。 少なくとも路頭に迷うことはないからだ。「従業員を路頭にまよわせる事態に、直結いたしかねない。倒産、破綻するまで、自分たちが経営の責めに任じるなどは、そのほうが悪である」との考えであった。いくつかの敗退のエピソードもあるが、負けっぷり、引き際もよかった。 五島慶太と堤康次郎は、東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルだった。「そもそも五島という奴は、人が苦心してつくりあげたものを、強引に乗っ取るのを愉快だと思っている」と批判。康次郎は「 ピストル堤」の異名を持つやり手経済人だった。「強盗慶太」と「ピストル堤」の戦いであった。
五島は鉄道事業で優れた経営を行い同社を急成長させた。10歳年長の小林一三との出会いも大きかった。小林は五島の資質を見抜いた。「実業界なら奮励努力することで、その成果を楽しむことができる」。どうしようもないぼろ会社、武蔵電気鉄道の常務に転じることになった。経営内容が「火ノ車」であり、悪戦苦闘しながら経営を立て直していく。
その後、小林一三からの「田園都市株式会社にきてもらいたい」との申し出に応じた。関東大震災の直撃は慶太に幸いした。慶太は政財界人、高級官僚の間を走りまわり、現在の大田区田園調布の一帯を、一区画三百坪以上の条件で売り歩いた。「人間の 合縁奇縁 ほど奇妙なものはない」。
東横電鉄は小田急電鉄、京浜電鉄を合併、資本増強し、東京急行電鉄と商号を変更した。 結果、「強盗」の悪名は、決定的なものになった。東急が発展し首都圏の鉄道を合併したあと、分割することになった。「旧京王単独では非常に規模が小さいから、独立させても大変だろう。旧帝都と一緒にして、井の頭を線をつけよう」。今日の京王線の姿は五島の采配であったのだ。
官吏、実業家、政治家という仕事についてはこう語っている。
「官吏というやつは、人生の盛期を役所で懸命に働いても、ようやく完成の域には仕事をはなれなければならない」
「金儲けは易しいが、経営とは違う。世のためになって利益を上げるのが経営。だから経営は難しい。」
「若いころから自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。」
「政治家なんぞ、碌なものではないぞ。いざとなったら、薄情な奴ばかりだ」
五島慶太が集めた美術品を展示する五島美術館がある。2105年に開館55周年特別展を見にいったことがある。1960年に開館ということは五島がなくなった翌年だから、亡くなる前から十分な準備をしていたのだろう。官吏の生活を経験し否定し、実業の分野に進んだ五島の果実の一つが美術館だったのである。
「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」は賛同したい名言である。 「できるかできないか、やってみなければわからんではないか。いや、できなくても、やらねばならん」という「百万人といえでも我ゆかん」の精神にも感銘を受ける。
小さく、細かく、慎重に企画を練ってはいけない、ということを五島は語っているのだと思う。賛成だ。最初は無知でいいのだ。大きく発想し、大胆に歩もう。