北九州市小倉区。
島根県津和野町。
桑原史成写真館。
安野光雅美術館。
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「名言との対話」6月28日。滝田樗陰「見果てねどまた見あきねどわが夢は四十三年の意味深き夢」
滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。本名は滝田 哲太郎。
秋田市出身。秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学英文科に進学、のち法科に転じる。大学を中退。浄土真宗の宗教雑誌であった『中央公論』に入り、文芸欄を成功せ、1912年には編集主幹となり、漱石を起用し、鴎外、芥川らを執筆陣に加えた。室生犀星、宮本百合子、谷崎潤一郎など多くの新人作家を登用した。また民本主義を主張する吉野作造を起用し、大正デモクラシーの言論誌として重きをなした。1925年、43歳で死去。
宗教雑誌時代は、『国民の友』を目標としていてせいぜい1000部であったが、樗陰が加わると3年目には6000部、4年目には1万部。雑誌『太陽』が目標となって、4万部にも届いている。
樗陰という名前(雅号)は、同じく第二高等学校の出身であった高山樗牛の名からとったといわれる。樗陰は短躯であったが、体重は18貫の巨漢であった。漱石は金太郎と読んだほどである。
樗陰の第一の功績は漱石の木曜会の常連となって夏目漱石と親しくなったことである。それで、『中央公論は』文芸雑誌の首位になっている。
もう一つは東大教授の吉野作造に目を付けたことである。吉野作造は、毎回のように藩閥、官僚攻撃の論陣を張った。『中央公論』は、大正デモクラシーの牙城となった。
樗陰は天真爛漫で邪気を感じさせなかった。人に惚れ込むことの強い、人に惚れるたちであった。自分の文章を暗唱してまでくれる編集者であったのだから、原稿を頼まれる方は断ることはなかなかできない。
芥川龍之介などは、『中央公論』の追悼号で、「僕なども始終滝田君に作品を褒められたり、或はまた苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短編小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何より感謝したいと思うことである」と書いている。
名力士を取り組ませて観客を熱狂させるというジャーナリズムの本質を知っていたのである。文壇の王様。『中央公論』は、文学者のひのき舞台となった。樗陰は歌舞伎座を差配する文壇の王様になった。
樗陰は美食、大食の健啖家であった。肉体だけでなく精神的にも健啖であった。読書、骨董、書画など広く関心をもって、収集していた。
晩年に「見果てねどまた見あきねどわが夢は四十三年の意味深き夢」という歌を詠んでいる。これだけのことをわずか40年余りの生涯でなし遂げたのである。明治大正を通じて編集者としては一番多くの仕事をしたという高い評価を与えらている名編集者であった。「太く短く」という信条どおりの生涯であった。