「知研岡山」創立25周年のイベントに来賓として参加。

 

N PO法人知的生産の技術研究会の岡山の創立25周年を記念した会、理事長として出席した。

上田会長挨拶。久保田初代会長挨拶。第4代伊藤会長への感謝状。


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来賓として私も挨拶。

25年間で258回のセミナー。初代会長、久保田さんの岡山へのこだわりと自己啓発の方針がぶれることなく続いた。継続は難しい。時代の変化と言う外部の環境と内部の運営の問題があるからだ。人生100年時代は生涯学習の時代。公人、私人、そして個人。特別顧問であった梅棹忠夫先生の著作集の図解プロジェクト。顧問の野田一夫先生の「大いなる晩年」という本の出版。知的生産の技術の松明を掲げ歩いていこう。

雨坪さんによる25周年の歩の紹介。

記念講演は佐野綱由氏。「日本人とは何か 幕末浜田藩の場合」。


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上州館林藩から浜田へ移った。幕末には幕府側に立ち敗走し、300キロを1ヵ月以上かけて津山へ逃げた。それ以降、慰霊祭を開催し今年で133回目。この藩は会津藩の悲劇にも負けない位の難儀をした。61,00石から8300石となった。神戸事件。滝善三郎。堺事件。熊田たか。みのうらいのきち。五傍の掲示。山本唯三郎。、、、

賊軍の側から見た幕末明治史だった。ここにも歴史を作った人物がいると改めて思った。

懇親会はlyotei。


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二次会はカラオケ。

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「名言との対話」6月11日。柳瀬長太郎「その人の幸せ、不幸を決めるのは、「でも」か、「では」だ」

1879年〈明治12年〉12月15日 - 1956年〈昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家。株式会社ヤナセの創業者。

群馬県出身。東京高等商業学校を卒業。大阪商船に入社し、その後三井物産に転じた。1915年、三井物産機械部から独立し、柳瀬商会を設立。アメリカの自動車であるビックやキャデラックを扱う輸入販売を始める。1920年、柳瀬自動車株式会社と柳瀬商事株式会社を設立し、同社の社長に就任した。

当初は、事業はうまくいかず、身も心も、会社も、瀬戸際に追い詰められてい。1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。大災害の時は、「物より人の移動が優先する」との直感で大量の在庫を抱える中で震災直後にGMに乗用車2000台を新たに注文、横浜へ出荷し、それが当たって破産寸前から立ち直った。1952年には輸入自動車協会を立ち上げ会長を務めた。

病弱で吃音だった。息子の児童に対しては厳しく、次郎はそんな父に反発と競争心を抱く。その次郎は、株式会社ヤナセの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた。柳瀬次郎は「ふりかえってみると、私の半生の大半は、父長太郎に対する反発と抵抗の歴史であったと思う」と述懐している。

100年企業ヤナセの現在の社長の吉田多孝は、「最上質な商品・サービス・技術を、感謝の心を込めて提供し、“夢”と“感動”あふれる『クルマのある人生』を創ります」を企業理念に掲げている。現在、ヤナセには「豊かなカーライフ」の実現を目指し、日本国内で300拠点を超えるネットワークがあるまでに発展している。

柳瀬長太郎は「40歳になって「今からでもできる」と思うか、「今からでは無理」と諦めるかは、その人の10年後に大きな影響を及ぼす」と言っている。

「でも」が口癖の人は、何もやらない。「では」という言葉を常に使っている人は、何かをやるだろう。その口癖が未来を決める。