橘川幸夫・柳瀬博一(東工大教授・『16号線』)の対談ーーキーワード満載の1時間半。

岡山から帰って、夜は外苑前のフラットベースで、橘川幸夫・柳瀬博一の対談。

実に面白い濃厚な対談だった。以下、キーワードのみ。

変革期が面白い。鉄道が街の文化を担ってきた。地下鉄と私鉄のリンク。ターミナルが無くなった。道路が文化をつくった。16号線。不良カルチャー。ヤクザと不良の文化。1969年に戦後が完成。その先の不安。ロックの音は崩壊の音。体制、仕組み、価値観を壊す。バブルとインターネットの衝撃。新聞・テレビ。ファミリーの崩壊。個人の時代。開発の家電の崩壊。ビルの流通の時代。アップルは日本を研究。百貨店の崩壊。モータリゼーション(一家一台)。満員電車はガレー船。鉄道だけで動ける都市は東京だけ。0歳から14歳の最多は東京近郊。16歳―64歳は23区。うちだ通信が素晴らしい。吉田秋生。海街dairy。BANANA FISHSPY FAMILY。人工家族。養子縁組。時代の大義の喪失。個人の豊さ。質の追求。血族の家はなくなった。新しい共同体が必要。参加型共同体。制度ではなく関係性。学びとキャンパスの上質な渋谷の街づくりの失敗。本屋が壊滅。ゴールデン街。人だ。テナント路線の百貨店にはオリジナルがない。不動産屋の街づくりになった。実際のお客とつながっている現場が面白い。身銭を切るという本気度。小渕のイオンがいい。面白さは懐かしさとアバンギャルド。相撲ドラマ。保守性と革新性。知らないことを発見するのが面白い。AIはデータベース次第。発見、冒険。AIの先生になる。リブライズ。文学フリマ1640。シェアマガジン(1P3000円・100P・30万。フリーペーパー)。、、、、

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「名言との対話」6月12日。清水次郎長 死んでしまえば仏様よ、敵も味方もあるものか

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日1820年2月14日〉- 明治26年〈1893年6月12日)は、幕末明治侠客博徒実業家。本名は山本 長五郎

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次郎八の家の長五郎が省略されて、清水次郎長と呼ばれるようになった。

2017年に次郎長翁の菩提所・梅蔭禅寺の「次郎長遺物館」と清水港船宿記念館(次郎長の船宿・末廣)を訪問した。その訪問記を記すことにする。

遺物館には次郎長の波乱の生涯の名場面が、絵と文で描かれていて、わかりやすい。その解説と年表で次郎長の生涯を概観する。

  • 米屋を営む養父・次郎八の子の長五郎から「次郎長」と呼ばれる。
  • 15歳、百両余りを持って家出。浜松の米相場で巨利を得て家人を驚かす。
  • 26歳、侠客デビューを果たした仲裁事件:甲州の紬の文吉と駿河の和田島太右衛門の庵原川での大げんかを単身仲裁。
  • 47歳、荒船山の血闘:手勢400人を引き連れ伊勢に乗り込み、安濃徳らは頭を剃って陳謝。
  • 49歳、咸臨丸事件:明治元年。清水港に幕府軍軍艦・咸臨丸の勇士の遺骸を収容。「死ねば仏だが、咎めがあれば自分一人で責任を負う」。巴川畔に「壮士の墓」。一大法要。駿府山岡鉄舟「壮士の墓」と揮毫。以後、深い交わり。駿遠三の治安維持。積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。
  • 55歳、富士大開墾(明治7年ー17年)
  • 57歳、英語塾を開設(川口源吉はハワイで成功)
  • 58歳、西南戦争の西郷に意見をしようと鉄舟に持ちかけ、「精神満腹」の書をもらう。
  • 61歳、静隆社設立に尽力:茶のみなと清水港の基礎を気築く。(日本一のお茶の輸出港へ)
  • 65歳、養子・天田五郎「東海遊侠伝」が出版される。
  • 67歳、船宿「末廣」を開業
  • 68歳、咸臨丸殉難者記念碑除幕式。
  • 73歳、山田長政顕彰碑建立のため、駿府城で大相撲興業
  • 74歳、死去。葬儀参列者は3000人を越える。

次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわる。清水の恩人である。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。 「侠客次郎長の墓」には、大政、小政など子分等と埋葬されている。

 田口英爾「清水次郎長伝」(みずうみ書房)を購入。田口は梅蔭寺の住職の二男。序文は路地裏の経済学者として知られる竹内宏。田口の同級生だ。山岡鉄舟「剣禅話」(たちばな出版)をも購入。

 清水の印象。静岡市と合併し政令指定都市になったときに県庁の公務員研修で静岡を訪問したことがある。清水は街並も淋しいし、人口も減っているようだ。静岡市の人口は70万を切ったというニュースも最近聞いた。次郎長商店街通り。港にはASUKAが入っていた。そのためか、観光客や外国人も歩いている。この街には次郎長と港という観光資源があるが、港は閑散としていた。梅蔭寺の人に聞くと大型船が入ると賑やかになるとのことだが、うまく使えていないようだ。タクシーの運転手も、「清水には何もない。合併していいことはなかった」と言っていた。電車で10数分静岡に戻って新幹線で帰る。