国立周遊ーー繁寿司(山口瞳の愛した店)。一橋大学(上田貞次郎に共感)。

国立のNHK学園での妻のセミナー受講に付き合って、待ち時間をフル活動。

  • 星野珈琲:原稿書き。
  • 繁寿司。山口瞳行きつけの寿司屋で偲びながら昼食。

f:id:k-hisatune:20230923203006j:image

f:id:k-hisatune:20230923203002j:image
  • ロージナ茶房:原稿書き。
  • 一橋大学の構内を散策。一橋大学出身の知り合いの8人の顔を思い浮かべながら散策。高校時代:1人。JAL時代:整備本部1人。札幌2人。客室2人。宮城大時代:1人。多摩大時代:1人。

左は佐野善作:1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長。


f:id:k-hisatune:20230923203104j:image

f:id:k-hisatune:20230923203101j:image

右は上田貞次郎:1936年東京商科大学学長就任。東京海上社長を務めた各務鎌吉の遺産をもとに東亜経済研究所を設立し、初代所長に就任。学長在任中の1940年盲腸炎急逝。在学生の寄付により、胸像が建てられた。

「宣言」の内容に共感。

「宣言」:「学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会に背く、是実に産業革命の波濤に漂へる現代日本の悩みではないか。吾人は此混沌裡にあって、企業より社会を望み、社会より企業を覗ひ、眼前の細事に捉はれず又空想の影を逐はず、大所高所より滔々たる時勢の潮流を凝視して、世界に於ける新日本建設の原理を探らんとする。」

私の発案の「知的実務家」をキーワードに取材した内容をまとめた『知的生産者の発想現場から』(TBSブリタニカ)を1986に刊行している。

この本の「まえがき」では「学者は実務にうとく、実務家は知的でないという状態はすでに過去のものであり、今後は学者と実務家の間に住む人々の役割が大きくなっていくはずです。実務に強い学者と、知的な実務家の時代が近づいています。この知的実務家は。組織の現場に属す実務のプロでありながら、一方真理の宝庫ともいうべき自らの職場を通して時代と語り、その教訓を一般化するという知的作業を行いうる人々であり、こういう人々が大きな影響力を持つ時代にさしかかっている、とわれわれは考えています。」と記した。

人選はワコールの三田村和彦西武百貨店の水野誠一、ブリジストンの大坪壇、ダイヤルサービスの今野由梨、アスキー西和彦野村総研森谷正規長銀総研の北矢行男、三菱化成生命科学研究所の中村桂子、NHKの木村太郎、東京相互銀行の山田智彦、筑波研究コンソーシアムの河本哲三、そしてテレビマンユニオンの村木良彦というメンバーだった。思い出深いプロジェクトだ。私は30代半ばであったが、上田貞次郎と同じ問題意識を持っていたのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月23日。頼山陽「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」

頼 山陽(安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人

頼山陽日本外史』全22巻800ページ。長編歴史小説であり、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、ベストセラーとなった。1826年に完成し、翌年に老中松平定信に献上した。草稿ができてから20年近くの年月が経っている。この本は幕末の志士たちに大きな影響与え、明治維新につながっていった。

没年齢で古今東西の著名人の死に際を書いた、山田風太郎『人間臨終図巻』(徳間文庫)によれば、死力を尽くして『日本政記』を書き上げ、その数分後に息を引きとった。この天衣無縫の遊蕩者は、妻の行く末の安泰の手立てを記した遺言状を残し、感激させている。ところが山陽にはこのとき愛人・江馬細香があったのである。

今回、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』を手にした。「まえがき」では、武士の時代を武士の目で視ることを視点としたとし、山陽が「面白い」と「詩になる」ところが描かれているとしている。

頼朝は沈毅、思慮深く、温雅の風があり、よく将士を畏服せしめたが、疑い深くそねむ性質があったとしている。それが義経の悲劇となった。

尼将軍・北条正子の成功は、女としてパートナーを選ぶ能力が高かった。夫に頼朝、頼朝死後は北条義時、泰時。知恵袋は大江広元。この眼力によって古今に比類のない業績をあげた。

蒙古襲来という危機を救ったのは、神風であったという説が流布されていた。それは天皇家の貴族側の見方であった。武士の側からみれは8代執権の18歳の相模太郎北条時宗の功績であるという新史観を提出したのである。

2018年に福山市神辺の菅茶山記念館を訪ねた時、頼山陽は塾「黄葉夕陽村舎」の都講(塾頭)をつとめていたことを知った。暴れ者の頼山陽は満足できずにこの塾から出奔している。

2020年に町田市文学館ことばランドで開催中の「20X20原稿用紙」展を訪問した。鉄眼道光『一切経』(1678年)には、20字・10行。江戸の出版文化で誕生。そして頼山陽は22字10行の原稿用紙をつくった、とある。

「西の頼家、東の大槻家」頼山陽の父は詩文や書に秀でた頼春水。山陽の三男が幕末の勤王の志士で詩人の頼三樹三郎だ。大槻家は、蘭学者大槻玄沢、漢学者の盤渓、『言海』の文彦を輩出している。

「日本のビール王」馬越恭平は、大坂で頼山陽の弟子の後藤松陰の門下で儒学を学んでいる。山陽には弟子も多かった。大塩平八郎は友人だった。

無類の酒好きの頼山陽にある人が人生の幸福について質した。咄嗟にでた返答は「剣菱」だったという(日経新聞文化欄2022年1月23日。樺山紘一)。山陽は「白雪」「男山」も愛していた。

川中島の信玄と謙信の激闘を描いた漢詩は詩吟などでよくうたわれる「鞭聲粛々、夜河を過る。暁に見る、千兵の大牙を擁するを。遺恨十年、一剣を磨き、流星光底、長蛇を脱す」は山陽の策である。不遇な生涯への不平を剣で払うといういみが込められているが、何事であれ十年の歳月を投入して自身の技を磨けという趣旨に使われるている。

司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻。それにならって頼山陽は「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」という大構想を立てていた。頼山陽は日本の「史記」を著そうとする志を持っていたのだ。

頼山陽は、大著『日本政記』を完成してその日に死んでいる。劇的な人生であった。享年は52。

郷里の大分県中津市の「耶馬渓」の命名頼山陽であり、馴染みのある名前だったが、今回その人となりを知ったのはよかった。

山陽は「男児学ばざれば則ち已む。学ばば当に群を超ゆべし。安くんぞ発奮して志を立て、以て国恩に答え、以て父母を顕さざるべけんや」と、志を述べている。偉人の子にはろくな人がいないのが普通だが、偉人の母はほとんどが賢母である。この人もそうだった。

「自分を才子だというのは、自分を知る者ではない。自分を刻苦勉励ののちに一人前の男になったのだという者がいるならば、その人こそ真に私を知っている者である」

頼山陽は勉強するときに、冒頭の言葉を紙に書いて書籍の間にはさんでいた。路傍の石になりたいくない。物言わぬ草木と一緒になりたくない。志の人・頼山陽を人は天才というが、本人はあくまで努力の人であると認識していたのである。