「世界を知る力」(寺島・渡部・カリュウ)。シアトルの中村良樹さんとズームで会話。

9月の寺島実郎の「世界を知る力(対談編)。アメリカ専門家の渡部恒雄、中国専門家ノカリュウさんとの恒例の対談。

寺島の質問とそれに二人が答えるというスタイルなので、問題と回答がセットになって短い時間だが、中身は豊富である。

1:デカップリングからデリスキングへ。中国は岐路。米国の分断。色褪せ、疲れ果てた。

  • 中国:岐路に立っている。経済は消費低迷、高い失業率、不動産バブルの崩壊でスタグフレーションへ。外交はリスク管理ができていない(外相に王毅が復帰、G20への周首席の欠席)。
  • 米国:中国とロシアが親密にに神経質。国内政治の混乱。トランプ現象。

2:日中:処理水問題。今は影響はない、これを説明しきれていない。一次元高い外交、未来へ向けての基準の共同開発など。台湾の総統選挙。

  • 中国:中国の反応は内政の混乱の象徴。日本は多言語で情報発信すべき。総統選挙は、野党が割れているので、民進党が結果的に有利な状態。中国は迷っている。
  • 米国:大統領選はバイデンの年齢と体調の問題。ハリスとトランプになるとどうなるか。

3:ウクライナ:550日経った。6兆円の支援。負けないように勝過ぎないように。中国優位のロシア関係。グローバルサウスとの関係。

  • 中国:ロシアとの関係も岐路。ロシアとの距離を置こうという方向。ロシアは北朝鮮異接近。
  • 米国:ウクライナ支援問題が来年の大統領選挙の一番の争点になるか。共和党も割れている。バイデンは、G20,日米韓、ブリックスなど、仲間を増やそうというしている。

4:総括:世界は2極でも多極でもない。無極化、多元化の時代だ。



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シアトルの中村良樹(JAL時代からの友人)とZOOMで近況交換。40代前半でアメリカのグリーンカード取得し、シアトルに住んだ良樹は今は写真家として活躍している。帰国時に会うことになった。実年期のモデルの一人だ。

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名言との対話」9月24日。西郷隆盛「人を相手にせず天を相手とせよ、天を相手にして己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざる尋ぬべし」

西郷 隆盛(文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。

西郷隆盛の師匠でもある島津斉彬(1809−1858年)は、1851年に42歳で島津藩の藩主になってから7年間で、世界最大の産業集積である「集成館」をつくった。軍艦・大砲建造のために製鉄技術・ガラス技術・紡績技術などの基盤技術の整備に着手し、技術者と職人の養成、移入技術と伝統技術の融合などを行い、わずか7年間で成功させている。

その弟子であった薩摩藩西郷隆盛の倒幕の戦略は、有力藩主間の協力と各藩有志の横断的結合を「勤王」の旗印の下に実現しようとしたものという見方がある。長州など「尊王攘夷派」を味方につけながら、そこから「攘夷」が落ちるのを待つという方針だったという説である。実際にその通りとなった。

1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛は幕府代表の勝海舟と会談し、江戸城は無血開城となった。このとき、勝は46歳、西郷は43歳だ。江藤淳『海舟余波』という著書を読むと「彼(勝海舟)の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。薩摩の西郷隆盛大久保利通は180センチあった。因みに勝海舟は156-7センチだったはずだ。 

西郷は五尺五寸、体重29貫(109キロ)。「南洲」という号は自分が流された南の島を意味している。元服の時につけられた諱(いみな)は隆永であったが、明治政府からの辞令には隆盛と間違って書かれていた。天皇陛下の名前で書かれた辞令を改めさせるのは不敬であるとし生涯隆盛で通した。

西郷隆盛の妻いとは、上野の西郷さんの銅像をはじめてみたとき、「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ!」と言ったそうだ。今でいうと「あらまあ、うちの人はこんな人ではなかったよ」という意味だ。風貌もそうだが、身なりはいつもきちんとしていた、それを言ったという説もある。

西郷隆盛は、クロムウェル的な人物であり、キリスト教にもっとも近い陽明学の徒であるとし、西郷の革命であった明治維新において、新しい日本を健全な道徳的基盤の上に再構築しようとしたと内村鑑三は『代表的日本人』で紹介している。

以下、西郷の言葉。

  • 「今は日本全国が雨漏りしている時ごわんあど」「恨みは私が引き受けもんそ」「事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず」
  • 「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得るられぬ也」
  • 「総じて人は己に克つを以て成り、自らを愛するを以て敗るるぞ。
  • 「ふたつなき道にこの身を捨て小舟波立たばとて風吹けばとて。
  • 敬天愛人」。この言葉は、江戸時代の大儒佐藤一斎の言葉であり、西郷隆盛座右の銘だが、弁護士の布施辰治もこういう心持で人生を生きていたことも知った。

中津隊の隊長をつとめた増田宋太郎は西南戦争西郷隆盛の軍に入り戦死した。敗色が濃厚となり、中津隊が戻ることにあった時、増田は皆戻れ、俺だけ残って死ぬと言った。なぜかというと西郷に一日接すると、行動を共にし死ぬしかないんだと、語った。それほど魅力のある人物だったのだ。

中津の 相良照博の『福沢諭吉西郷隆盛--丁丑公論』(上)。西南戦争で希代の英傑が賊名を負わされるのを憂えて、隆盛の処分に関する建白書を中津藩士族の名で京都の行在所に提出したものが『丁丑公論』となった。「隆盛は学識に乏しく、寡黙と雖も老練の術あり、武人なりと雖も風采在り、粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、如何なる大事変に際するもその挙動は悠然として余裕あるは、人のあまねく知る所ならずや。、、」「西郷は天下の人物なり。日本は狭いと雖も、国法厳なりと雖も、豈一人をいれる余地あらんや。日本は一日の日本に非ず、国法は万代の国法に非ず、他日この人物を登用の時あるべきなり。これ亦惜しむべし」。

2022年に鹿児島を訪問した。郷南洲顕彰館山田尚二・渡邊正『西郷隆盛漢詩集』(財団法人西郷南洲顕彰会)と『南洲翁遺訓に学ぶ』(公益財団法人荘内南洲会)を購入。その2冊を読んだ。

西郷は、日本を代表する漢詩人で200篇以上の作品がある。そして偉大な書家でもあった。以下、いくつかあげてみる。

  • 「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し 丈夫は玉砕してせん全を愧ず 一家の遺事人知るや否や 児孫の為に美田を買わず」(感懐:心に感じたこと)
  • 「酷吏去り来たって秋気清く 鶏林城畔涼を逐うて行く 須らく比すべし真卿身後の名 告げむと欲して言わず遺子への訓 離ると雖も忘れ難し旧朋の盟 胡天の紅葉凋零の日 遥かに雲房を拝して霜剣横たう」(朝鮮国に使するの命を蒙る)
  • 「独時情に適せず 豈歓笑の声を聴かんしむや 羞を雪がむとして戦略を論ずれば 義を忘れて和平を唱う 秦檜遺類多く 武公再生し難し 正邪今那ぞ定まらむ 後世必ず清いを知らむ」(闕を辞す:官職を辞して朝廷を去り、帰郷すること)
  • 「八朶の芙容白露の天 遠眸千里雲えんを払う 百蛮国を呼んで君子と称するは 高標不二の戴有るが為なり」(富岳の図に題す)

『南洲翁遺訓』は、戊辰戦争で最後に帰順した庄内藩に対して東征側の薩摩軍が極めて寛大な条件を出して王道的な処置をした。それを伝えたのは黒田清隆であったが、命じたのは西郷であった。このことに感激した庄内藩は優秀な者を選んで鹿児島に留学させ、西郷に学ばせた。西郷から学んだことを小冊子にし、全国の心ある人に配った。

  • 「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬものなり」
  • 「賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き衆説を容るるとも、取捨方向なく、事業雑駁にして成功有るべからず」
  • 「政の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り」
  • 「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正くし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し」
  • 「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先ず我が国の本体を居え、風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ」
  • 「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず」
  • 「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也」
  • 「節義廉恥を失いて、国を維持するの道決して有らず。西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆之れに倣い。人心忽ち財利にはしり、卑吝の情日日長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相い讐視するに至る也」
  • 「正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かる可からず」
  • 「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行われ難し」
  • 「道は天地自然の未知なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ」
  • 「学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず」
  • 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」
  • 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
  • 「道を行う者は、天下挙てそしるも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也」
  • 「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦いに臨みて逃ぐるより猶お卑怯なり」

改めて「遺訓」を眺めてみると、西郷の偉さがよくわかる。そして、この遺訓は、今の世への警鐘となっていることに驚く。「道」の再興が大事だなのだ。

私は大学生時代にクラブ活動で人間関係に悩んだ時、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」という西郷の言葉を知り、切り抜けたことがある。相手のせいではない、自分の努力が足りないのだ。そういう心を持って誠実に仕事をこなそう。そうだ、天を相手にしよう。そう思ったことがある。その後、就職と転職を繰り返したが、襲ってくる問題は常に人間関係だった。そういった時に、必ずこの西郷の言葉が浮かんでくるという経験を重ねてきた気がしている。この言葉を信条として仕事をしてきたのだ。

『いきの構造』を書いた九鬼周造の文章の中に、西郷隆盛が出てくる。「天を相手にして人を咎めず、わが誠の足らざるをたずぬべし」という言葉が好きだと語っている。この言葉は、私も大学生時代に愛した言葉であり、九鬼周造も同じだと知って共感した。

天とは何か。神とはいわないが、人間界を超えた何か大きな存在、姿勢を正さざるを得ない畏るべき存在、時代の流れの土台にあるもの、自分のやっていることを常にみている良心、、、そういった何かだ。時代と空間を超えた真なるものに向かって仕事をしていれば心が軽くなる。まっすぐに、迷いなく、眼前の問題に心を込めて立ち向かおう。

どのよう組織でどのような仕事をしようと、人間ジャングルの中で悪戦苦闘していくのが私たちの日常である。苦手な上司、理屈の多いライバル、批判的な目で見つめる部下、、、。戦うべき相手は周りの人間である。そうした人たちの反応に一喜一憂する、邪魔する人を非難する、、。だから私たちの心にはいつもさざ波が立つのだ。しかし大いなる使命を意識して、自らを反省し次の行動を起こしていくということに徹すると、澄み切った青空が見えてくる。

 

参考。

山田尚二・渡邊正『西郷隆盛漢詩集』(財団法人西郷南洲顕彰会)

『南洲翁遺訓に学ぶ』(公益財団法人荘内南洲会)

相良照博『福沢諭吉西郷隆盛--丁丑公論』(上)

江藤淳『海舟余波』