「PLAUD NOTE」を試すーー録音・文字起こし・要約を一台でこなすAIボイスレコーダー

ChatGPTと連携した、録音と文字起こしと要約のすべてをこなすAIボイスレコーダー「PLAUD NOTE」を試してみました。

 

カルチャーラジオアーカイブNHK「声でつづる昭和人物史」(保阪正康)の林芙美子編の30分番組2本の計1時間を対象。

聞き逃し配信を録音。要約の編集(ダブリの削除、林芙美子という言葉を何度も使っているのを修正、、、)。文字起こしの編集(質問部分を削除、漢字の同音異義語の修正、てにをは、ダブリの削除、まとまりを確認、不必要な部分を削除、、、)。

後は、必要に応じて、話し言葉などの部分、あいまいな部分などを修正。段落ごとに小見出しをつけるなどをすると、完璧になりそうだ。

林芙美子は明るい笑い声が響く楽天的な人だった。以下、話の中で特に印象に残った言葉をピックアップ。

  • 人間は落剝の味をなめて、泣くだけ泣かないといい人間になれない。
  • 根っからの小説書きであり、毎日レッスンしている。
  • 蚕が糸を吐くように書きたい。
  • 60歳か70歳くらいになったら本当のものが書けるような気がする。今はデッサンの時代。長生きしてボロボロになるまで生きていたい。70歳くらいからロマンチックな大作を書いてみたい。
  • 若い時代は、心の糧になるものを読んだり、絵を見たり、音楽を聴いたり、いろいろなものを吸収することが大事だ。
  • 現在は晩年だと思っている。いつ死ぬかわからないから、無駄な球は投げたくない。
  • 花の命は短くて、苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり、雲も光るなり。

Fumiko Hayashi (author) - Alchetron, the free social encyclopedia

このインタビューの4日後に、林芙美子は47歳で心筋麻痺で死んでしまう。生前、最後のインタビューだった。「青年期」のデッサンの時代を終えて、「壮年期」の後半に本当の作品を書き、「実年期」の前半で大作を書こうという希望は打ち砕かれた。林芙美子はレッスンとデッサンの時代の習作が、後世に残る作品となったのだ。この人にあと20年の寿命があったらと考えてしまった。

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要約。

  •  林芙美子の生涯と作品    生涯と代表作について紹介。彼女の生い立ち、放浪記の出版とその成功、そして彼女の文学的な才能について議論。
  • 放浪記    放浪記が自伝的小説であり、出版後すぐにベストセラーとなったことについて説明。彼女の若い頃の生活や作家としての道のりについても触れる。
  • 教育と文学への目覚め    広島県尾道での教育を受け、文学に目覚めた経緯について説明。彼女の短歌や詩が地元の新聞に掲載されるようになったことも紹介。
  • 林文子の上京と関東大震災    が作家を目指して上京し、関東大震災を経験したことについて議論。彼女が様々な仕事をしながら作家としての道を模索したことも説明。
  • 放浪記の冒頭の一説    放浪記の冒頭の一説「私は宿命的に放浪者である。私はふるさとを持たない。」について、その意味と林文子の人生観について議論。
  • 昭和5年の時代背景と放浪記の成功    昭和5年の不況の時代背景と、放浪記がベストセラーとなった理由について説明。ヒロインの姿が多くの読者を引きつけたことを議論。
  • パリ滞在    昭和6年にパリに滞在し、芸術や文化に触れた経験について説明。彼女のたくましさとエネルギーについても触れる。
  • 庶民的な視点    庶民的な視点を持ち、庶民の生活や目線を大事にしていたことについて議論。彼女の作品における庶民精神についても触れる。
  • ニヒリズム    自分のニヒリズムについて語り、庶民的な楽しさを吸収することが重要だと述べたことについて議論。彼女の楽観的なニヒリズムについても触れる。
  • 創作意欲    創作意欲を持ち続け、毎日書きたいという気持ちを持っていることについて説明。彼女の作品に対する愛情と情熱についても触れる
  • 若い人たちへのアドバイス 作家としてのキャリア    出世作『放浪記』やパリでの一人旅について話し合われました。彼女は自分の執筆活動をデッサンに例え、まだ勉強中であると謙虚に語っていました。
  • 夫の関係    夫、手塚隆一(リョクビン)が彼女の執筆活動を支えたことについて話されました。リョクビンは看板を描いて家計を助け、文子の原稿を編集者と調整するなど、多くのサポートを行いました。
  • パリでの生活    が昭和6年にパリへ旅立ち、そこでの生活費を稼ぐために随筆を書いたことについて話されました。夫のリョクビンが日本で彼女の原稿を編集者と調整し、雑誌に掲載する手配を行いました。
  • 若い頃の希望と現実    10代の頃にどんな希望を持っていたかについて話されました。彼女は絵描きになりたかったが、食べることに追われて希望を持つ余裕がなかったと語りました。
  • 作家になった動機    作家になった動機について話されました。女学校時代に図書室で多くの本を読み、自然と詩や文学に興味を持つようになったことがきっかけでした。
  • 女性作家としてのハンデキャップ    女性作家としてのハンデキャップについて話されました。家庭を持ちながらも仕事を続け、辛い時期を乗り越えてきたと語りました。
  • 若い人たちへのアドバイス    若い人たちにどんな生き方をすべきかについてアドバイスしました。彼女は本を読み、音楽を聴き、広く深く物事を見て自分の道を見つけることが大切だと語りました。
  • アプレゲールの精神    アプレゲールの精神について話しました。戦後の新しいモラルを作り出すために、冒険心を持ち、大きく自分を広げることが重要だと語りました。
  • 本を読むことの重要性    保坂正康が本を読むことの重要性について話しました。読書の有無は短時間の会話で見抜けると語り、若い時に多くの本を読むことが大切だと強調しました。
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  • 以下、林芙美子の発言。
  • 貧乏したんじゃなくて貧乏から生まれてるんですからね。貧乏話にもならない。それからまあ、終戦後みんなが貧乏になって、たけのこを剥くような生活だったってね。当たり前でね、私一応ね、日本人がね、大濯ぎに、濯られることは私はいいんじゃないかと思うんですよ。当たり前だしね、人間は一応落剝の味をなめてね、泣くだけ泣かなきゃね、いい人間になれませんよ。私はそう思ってますね。だから泣いたことのない人間ってのはね、いやらしいし怖いしね、つまらない人間だなと思いますね。
  • あのね、私「太閤さん」って小説書いたんですけどね、なぜかっていうとね、それは浮浪児を書いたんです。浮浪児ってのはね、私から言えばね、太閤秀吉が柳の橋で菰をかぶっていた。ね、浮浪児ってのはあれと同じですよ。蜂須賀小六に助けられた。あれと同じですよ。ああいうふうにして、そして一つの人生を乗り越えて、自分の記憶の中にそういう辛酸を舐めた時代を通ってくる人は、ああいうふうな花も開いたという感じね。だから私は浮浪児の小説を書いた時に、非常に太閤的なそういうものを感じて、決して悲観しないし、全部の人が立ち上がれるとは思いませんよ。けどね、そう絶望したものじゃないという気持ちを私は持っている。立ち上がれるということね。いつまでも子もかぶって50、60になって落ちぶれる。これはもう仕方がないでしょうけどね。全部が全部そうじゃないという、私は非常に希望を持っているんです。特に生まれて、そしていいとこで育って、女中なんかにかしずかれて、そして学校に行って成長する。私はこれはバカでもできることだと思う。それからまたね、いかに大学を出て俊才でもね、人生うまみを知らない人はね、これも私から言えばね、クズみたいに思うんですよ。やっぱり自分の好きなものを研究するなりね、それから生活のエンジョイというものを考えたりね。いろいろ自分が成長するにつれて、自分というものを個性強くね、立ち上がる人私は。やっぱり自分の好きなものを考えたりね、それから生活のエンジョイが好きなんですね。
  • ものを考えたりね、それから生活のエンジョイという私はね、偉い人よりもね、そういう犠牲になる人ね。一人の英雄が出るについてね、その英雄の周りにね、かしずくね、あの、犠牲者ね。その人たちに同情を持つんですよ。だから一人の英雄は欲しくないんですよ。犠牲になるね、そういう人たちに私はね、愛を持つんですよ。
  • 私は、やっぱり根っからの小説を書きですからね、レッスンしているようなものです。毎日毎日毎日ね、書きたいんですよ。私はどんな小説を書いても、これがどういう風に読まれるだろうかということよりもね、自分の勉強のつもりもありますけども、いいものだって言われることがあるとすれば、それは長く、私この仕事に入って25年経ちますけどね、それの収穫だと思っていますけど、またひょっとしてね、書けない時が来るかもしれないと思うんですね。けれど、私は今は非常に糸を、蚕が糸を吐くようにね、書きたいんですよ。だから、世間の毀誉褒貶は案外気には止めない。やっつけられれば、憤慨もしますけどね。25年この仕事をしていますとね、1日ぐらいで忘れちゃいますよ。毎日次を書こうと思って。私もそれは、年間の非常な楽天主義でもありますね。これまた世間の評判でですね、意気揚々の類で申し訳ないんですがね、
  • 私はね、相も変わらずと言いますけどね、私は60か70ぐらいになったほうが本当のものを書けるような気がしますよ。今はやっぱりさっき申し上げたデッサン時代ですからね、それは色んな色合いのものができるでしょうけどね、私はもう長生きしてね、ボロボロになるまで生きていたいんですがね、70ぐらいからロマンチックな小説、大作書いてみたいなという気持ちを持ってますね。
  • 10代の頃、私は働いておりましたし、小説家になろうなんて思いもいらないし、本当は絵描きになりたいと。何とかして絵描きになって、女学校の先生でもして、そして親を面倒を見たいという気持ちを持っていましたけど、食べることに追われたものですから、皆さんがお尋ねになるような希望なんてものは正直に言って持っていなかったんです。
  • 作家になった動機というのは、女学校時代に、やっぱり私は働いておりましてね、今で言えばアルバイトみたいなんですけれども、私が育ったところは尾道の景色のいいところなんですよね。この女学校に入っておりましてね、そして親が入れてくれないと言うんですけれども、勝手に試験を受けに行ったら、6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、私は地方での土着のものじゃないものですから、非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃新説弓張月の馬琴のものだとか、それから鈴木三重吉さんのものだとかね、北原白州は大変な流行でした。それから倉田百三さんとかね、外国のものではモーパッサンだとか、それから詩ではハイネとか。その子頃は大変詩が流行していて、流行って若い人に読まれて、私も自然好きになった。先生がまた非常に詩の好きな方でして、よんでくださって。自然発生的に、そういうものは好きになっていったと思っています。
  • 女だからハンディキャップがあるかというと、もうこれからはないと思うんですよ。私たちの時代はあったかもしれませんけどね、私は今、家庭を持っておりましてね、子供もおりますしね、25年結婚してるんですよ。やっぱり私は家庭を持ってて、非常に自分が仕事をしていく上には辛くもありましたけどね、体が非常に貧乏に鍛えられているものですからね、その点はびくともしないんです。これで台所もしますしね、配給も取りに行きましたしね、リュックも背負ってね、疎開もしたり、非常にそれでファイトを感じるんです。それで、小さな時に貧乏している時にね、非常に辛いことがあるとね、もっと殴ってくれっていう気持ちだったんですよ、神様にね。家庭を持ってね、自分が仕事をしているとね、いや、もっともっとね、自分が努力しなくちゃいけない。非常に辛くてね、何回とか泣くときはあるんですけどね。非常に辛くてね、それを耐えていく。家庭の面では私は克服しているつもりですし、それから社会的にも、私この作家生活して25年近くなりますけれども、みんな何とも言わなくなりましたし、非常に今は幸せだと思っております。いい作品さえ描けたらという希望ばかりです。
  • 私自身だってこれからどういう生き方をしたらいいんだろうって考えるんですけどね。むしろ私たちの若い時の方が、なんて言いますか、アプリゲールだったように思うんですよ。非常にね、今の若い人はむしろあっちでこづかれこっちでこずかれして気の毒だなと思いますがね。人にあまったれちゃいけないって気持ちね。若い人はね、自分の若さにあまったれるところがあるんですよ。自分のことを気にしか考えないところもある。これは年をとってもそうですけど、今のあなたたちの若い時に、うんと本を読んだり、本を読むということは、いろんな悪大なものを探して読みなさいではなくて、自分の心の糧になるものを読んだり、絵を見たり、音楽を聴いたり、うんと呼吸の水を吸うように吸収した若さ時代を作っておくということが大事じゃないかと思います。
  • 私は東京にいて、でもどうにもしようがないから故郷へ帰ろうと、尾道へ帰ろうと思いました。大阪までの切符台しかないので、大阪まで帰って、そこで宿屋へ泊まることができないものですから、今の梅田駅ですけれどもね、パッと寝ましたけれどもね。あくる日、毛布屋さん、口入れ屋さんに頼んで仕事をしました。そこで働いて、お金をもらって、故郷へ帰りました。ある意味で楽しかったんですよ。今のようにすぐやけになったり投げやりになったりという時代じゃなかった。しつけの厳しさというものは、やっぱり私今から思うと大事だと思うんですよ。社会が全部それを持っていたということね。それからお金、金銭に対して非常に大切だということを頭にありました。だから着物をね、左前に着るのは私得意だったんですよ。右がね、傷んでくるでしょ。そうするとね、右を隠して左前に。そうするとね、右を隠して左前に。それから自分が絵の具を好きでしたから持っててね、模様の焼けたところをね、ちょっと模様を描いてね、そしてそれを着て歩いたものですよ。だから至る所に青山ありでね、自分が苦しいと思ったらそりゃ苦しい。けど私今日ね、誰にも借金をしなかったし、借金して刺身を食おうとは思わないです。もう借金しなくても2日ぐらい私は飢えて本を読んでいたらいいんですからね。自分に本屋とか絵が好きだとか、要は音楽が好きなんですよ。こういう見ることだとか聞くことだとかそういうことを非常に好きだったものですから、楽しみは十分持っていたし、やけにならなかった。そして人にあまったれなかったですね。人にあまったれても人は相手にしないです。貧乏人というものは相手にしない。だから今でも私はよく言うんです。良くなれば人は助けてくるけれどもね、人の心は宛にならないと。自分は自分で、自分を教育して、自分を処理していかなければならない。その信念さえ持っていれば、世の中怖いものはないと思いますよ。
  • 小説家というものは、一朝一夕ではなれないんですよ。これは菊池寛さんがおっしゃったように、何万人だかの一番ピリにつく気持ちがあったら 弟子にしようとおっしゃったそうですけれどもね、まず努力ですね。本当に特殊な努力がなくちゃならないし、やっぱり多く本を読みね、それから字を知り、よかったら一つくらいの語学をね、勉強する。もちろんすぐに小説を書くわけじゃない。だから若い人に小説を書きなさいとは私は勧めないけれども、書きたかったら自分の気持ちを、日記の程度にして書くということは良いことではないかと思いますしね。
  • 私は小説を書くときに、今度は何を書こうかとか、今度はこういうものを書こうかっていうものが一つもないんです。これは他の作家にはあることだろうと思うんですけれどもね。私は自分が非常に苦しい時代過ぎてきているものですから、読者の顔がふっと浮かぶときがある。それはね、やすい皿に取っている人が2階で毛布をかぶってね、ごろっと読んでいるときに、私のものでも読んでくれて、これは面白いな、楽しいなって言ってくれればそれでいいんじゃないかなっていう気持ちでね、大野心作なんてものは、私はあんまりつかない。だから詩を書いたものですからね、そういう気持ちが抜け抜けになって、私は書いていないのかもしれないけど、短編小説は非常に好きですし、どういう意図で書こうという気持ちは私はなくて、ぶっつけに、机に向かって、共感を呼ぶものを書きたいという気持ちで、じーっと机とにらめっこして書いているような次第なんです。
  • 私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。私の人生観というものは、あなたたちのような希望に燃えている年齢じゃないんですよ。自分は現在は晩年だと思っていますからね。もう一つも、ある意味で無駄のない玉を放りたいという気持ちを持ってね。それでも長距離が始まっているんですよ。既に決着点へ私は着こうとしているんですよ。いつ死ぬかもわからないし。
    だから、無駄玉は放りたくない。その点では野心を持っているわけなんです。共感を,、そして庶民の人が読んでくれるようなものを書きたいと思っています。
  • 風も吹くなり雲も光るなり。生きている幸せは波間のカモメのごとく。 逍遥と漂い生きている幸福はあなたも知っている。あなたが知っている 。これをよく知っている。花の命は短くて、苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり、雲も光るなり。

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「ミスター麻雀」小島武夫さん死去 82歳 伝説の役満「九蓮宝燈」語りぐさ - zakzak

「名言との対話」5月28日。小島武夫「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」

小島 武夫(こじま たけお、1936年2月11日 - 2018年5月28日)は、競技麻雀プロ雀士日本プロ麻雀連盟初代会長。享年82。

「ミスター麻雀」と言われた小島武夫にとっての「仰ぎ見る師匠」は、雀聖、大神と呼ばれた阿佐田哲也である。

若い頃は「常に高い手を狙い、手が安いときは相手の動きを見ながら極力勝負を避けるというシンプルな戦略」で鳴らした。振り返ってみれば、私は毎回和了しようとしていた。こういう考え方でも知っていれば、大学4年生で覚えた私のマージャンスタイルも変わったかもしれない。

「博打はどれだけ我慢ができるかの勝負である。ツキがないときは繊細に、ツキ始めたら大胆に。じっと我慢して風向きが変わるのを待ち、風向きが変わればおっかぶせていく。感情的になったら負け。怒るのも、浮かれすぎるのもダメ。どちらも思考力が鈍るので一番怖い。どんな戦いでも、冷静でいなければならない」。

「ギリギリのところで勝負するからこそ、感覚が研ぎ澄まされ、勝ちをグッと引き寄せることができるのだ」「 麻雀は、ディフェンスあってこそのオフェンスである」

マージャンは「選択」と「決断」の連続である。配牌は環境。ツモと打牌は、経験と実績。テンパイ・リーチは好機と挑戦。和了と振り込みは成功と失敗。得点や順位は成功の度合い。こうやってみると、麻雀は人生そのものだと改めて思った。

カネは豪快に稼ぐが、カネは残らない。そして「カネが貯まってしまうと、人間ろくなことがない」と言い、「カネを稼ぐのは大事なことだが、それ以上にカネを遣うことのほうが重要なのであるとのたまう。小島の博打人生は「借金に惚れ、借金を抱き、借金と付き合う」日々だった。麻雀という極道の道を歩いたこの人は、一度腰をおろせば、もう立ち上がることはできない、ということを知っていたのだ。進むしかないのである。

麻雀に関わる勲章は以下。最高位(第3・4期。無双位(第1期)。マイルドセブン杯(第1期)。最強位(第2期)。麻雀グランプリMAX(第1期)。モンド麻雀プロリーグ名人戦(第5回)。天空麻雀(第9回)。麻雀Battle of generation(第2期)。

  「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」という言葉のとおり、小島は「魅せる麻雀」が信条だった。麻雀に美学を求めるスターだった。その美学とは、「プロであるなら、ファンに感動を与えなければならない」であり、つまらない手を和了らない、そして入念にいい手を作り上げ、印象に残るような和了を見せて、ライバルを軍門に降らせる。そういう考えだったから、敵は恐れた。しかし、そして、だから、ファンが多かったのである。