2022年の総括:「続けること」と「新しいこと」

晦日。2022年の総括を簡単にしておきます。

続けること。

新しいこと。橘川ワールドを中心に。

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20時から未来フェス。私は21時以降に参加。

  • 67人が参加。
  • 私は「戒語川柳」の話をしました。

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「名言との対話」12月31日。林芙美子「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 」

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年)12月31日 - 1951年昭和26年)6月28日)は、日本小説家

福岡県門司生れ。1922年の尾道高女を卒業すると愛人を追って上京。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めた。1928年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。1930年『放浪記』が出版されベストセラーとなる。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけた。享年47。

以下、林芙美子に関するブログから。

  • 2008年に林芙美子記念館を訪問。新宿区落合の高級住宅街の一角にある女流作家・林芙美子の旧居を訪ねた6月28日は、たまたま47歳の若さで逝った林芙美子の命日だった。林芙美子は行商人の子として貧乏の中で文学を志す。1930年(昭和5年)の27歳で書いた『放浪記』がベストセラーになって一躍スターダムにのしあがった以後活発に小説を刊行していく。この伝記的小説を菊田一夫脚本で舞台になった「放浪記」は当時の流行だったプロレタリア文学陣営からは、無思想の「ルンペン文学」と批判されるが、芙美子は「自分が産んで苦しんだところの思想こそだ。誰にも売り渡していない私自身の貞操だ」と反撃した。放浪記は「続放浪記」、文庫版と合わせて60万部が売れた。
    坂に沿った300坪の土地を入手した芙美子は200冊の家造りに関する書物を読み、山口文象という設計者や大工を連れて京都まで民家や茶室を見学に行くという熱の入れ方だった。「東西南北、風の吹き抜ける家」という考えで、「何よりも、愛らしい家を造りたい」と芙美子は願ったが、満足のいく出来栄えとなったようで、自分の生きている間は少しでも手を入れてはならない、と家人に申し渡していた。客間には金をかけずに、茶の間と風呂と台所には十二分に金をかけた。また、総檜の落とし込み式の浴槽、水洗便所、見苦しくないように電線は地下に埋めっている。芙美子の家造りは当時としては尋常ならざるものだとういうことがわかる。生活棟とアトリエからなり、芙美子は何度も満足しながらここに佇んだのだろう。しかし、この家に住んだのは10年という歳月しかなかった。
    芙美子が書いた原稿量は原稿用紙3万枚といわれている。短い作家生活の中で100冊分の単行本に相当する文章を書いた。「50歳ころまで生きることが出来るならば、50歳になって、ほんとうの「放浪記」を書いてみたいと思っている。「放浪記」にかぎらず、本当の小説というものを書いてみたいと思っている」と言っていたから、寿命が長ければどのような作品を残したか、興味深い。
    芙美子は交友が広い。宇野浩二からは「話すようにお書きになればいいのですよ」とアドバイスをもらっているし、葬儀委員長をつとめた川端康成とも親しかった。川端は葬儀のあいさつで「故人は自分の文学生命を保つため、他人に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、、、、死は一切の罪悪を消滅させますから、どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」と語ったと伝えられている。芙美子はどのようなことをしたのだろうか。
    アトリエでは、NHK「あの人に会いたい」を流していた。この番組では空の星になった故人たちの生前の姿を見ることができるので好きな番組だ。若い女学生に問われて「本、絵、音楽、、若い時代に何でも吸収してほしい」と述べている。また、このビデオの中だったか、展示している資料の中だったか、「日本人はおおゆすぎにゆすがれるのはいいことだ」と終戦直後のことを語っている。根っからの小説書きと自称した芙美子は「60、70になってほんとうのものが書けるようなきがする」、「泣いたことのない人間はいやらしいし、怖いし、つまらない人間だ。泣くだけ泣かなきゃ」、「ずいぶん絵が好きです。絵描きになりたいと長い間考えてまいりました。」と語っている。
    流行作家となった芙美子は、「私は、このごろ、小説を書く以外に何の興味もない。私に生きよという事は小説を書くという事とだ。」といい、「このごろ、私は自分の小説に馬乗りになっている自分を感じる。まだ私という作家は吐き出せると思っている」と心境を語っている。
    NHKラジオで語った晩年の言葉が残っている。「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています」
  • 2010年。林芙美子記念資料室。門司の門司レトロ地区の看板的建物が、三井物産門司支店の社交倶楽部だった「旧三井倶楽部」だ。大正ロマンを感じさせる木造の優雅な西洋建築である。ここにアインシュタインメモリアルホールと林芙美子記念資料室がある。林芙美子は門司で生まれ、4歳から7歳までは北九州若松に住んでいる。訪ねたことのある新宿区中井の書斎を模した部屋がある。「女学校の絵の教師になりたい」(『到る処青山あり』)
  • 2010年。林芙美子を題材とした桐野夏生『ナニカアル』。2010年2月25日に出た「ナニカアル」(桐野夏生)を驚きながら読み終えた。林芙美子の物語で、代表作の一つ「浮雲」が下敷きになっているとのことだったので、まず「放浪記」、そして「浮雲」を読んでから、この「ナニカアル」を読んでみた。林芙美子については、生地・尾道の記念館、そして新宿区落合の記念館を訪問しているので、予備知識はあった。この物語は、林芙美子記念館ができるあたりの物語だった。読み進めるうちに、主役である芙美子の考え、感情の変化、などがまるで本人自身の口から語られているような錯覚を覚えた。「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています」。林芙美子は仕事を断らない働きぶりだった。それが47歳で寿命を尽きさせた。まさに自身が書いた代表作『放浪記』にあるように「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 」であった。芙美子の短い生涯が二重写しとなって切なくなる想いがする。林芙美子は、新聞、雑誌の連載、や短編小説以外にも、随筆、紀行文の執筆、座談会、講演など仕事が多かった仕事を断ることを知らない働きぶりだった。このことが芙美子の寿命を尽きさせていったのである。