宇治山哲平--東京都庭園美術館

マッカーサー率いる占領軍は軍国主義を財力で援護した財閥の解体と、天皇制を支えた皇族の特権剥奪の施策を断行した。明治天皇の第8皇女が婚嫁した朝香宮家も、免税特権の廃止によって経済的に困難に陥り広大な邸宅を手放さざるを得なくなった。そして日本国憲法の制度による初めての皇室会議秩父宮高松宮三笠宮の直宮家以外の皇族は皇籍を離脱する。

この旧・朝香家の邸宅であった土地と建物は、庭園美術館として現在では東京都が所有している。


庭園美術館では、日本の近代美術の中でもう一度よく見なおすことによって、美術史自体の意味や構造が変わってもよいという見地から、数年に一度一人の芸術家をとりあげた展覧会を催している。

この庭園美術館という優雅な名前の美術館で行われている宇治山哲平の作品展を観に行く。宇治山は○△□という形に鮮やかな色彩を載せた作品によって日本近代絵画史に独自の足跡を残した。1910年に大分県日田市で生れた宇治山は、50年にわたって絵を描き続けたが、50代になって色と形による独自の純粋抽象画へ突き進み、絵画の世界に新境地を開き、1986年に没する。晩年には「時間がない」と妻にくり返していたとビデオ「NHK日曜美術館 ◎△□ワールド 画家・宇治山哲平の仕事」の中で紹介されていた。

宇治山は技法面からは、日本画から版画、そして油絵に進む。そして絵の対象は写生から抽象、そして純粋抽象へと進んでいる。根底には東洋写実の精神が流れている。


日本の生んだ俵屋宗達尾形光琳、抱一に象徴される日本的審美眼を土台に、古代オリエントや中国美術を愛した画家。一生のほとんどを故郷の日田で絵を描きながら過ごした。原色に彩られた作品を描き続けた宇治山は、晩年には、白の世界に憧れる。それは日田の底霧の色だった。あらゆる色彩を散りばめた「華厳」よりも、自由な美意識が清澄な白の世界を希っているのだろうか。

宇治山の作品は現在では、私たちは赤坂のサントリーホールの入り口に大理石で描かれた「響」という大きな作品を観ることができる。1986年に完成したこの作品は、縦3.6m、横20.4mで、7カ国の大理石を用いている。


この展覧にあわせて出版されたと思われる「宇治山哲平展---絵に遊び、絵に憩う」に、「華厳なる宇治山哲平----世界画ポリフォニック・カーニバル」と題して松岡正剛が文章を寄せている。51歳のときに師である福島繁太郎の死に接して「石の華」を描いた直後、劇的な変貌を遂げたと分析し、○△□と色彩をもって、すべての自身の感興をあらわそうという決断に踏み切ったとしている。

「○△□による華厳世界」「密教の奥は実は華厳なのである。密教は華厳から生れた秘密の新生児なのである。禅の奥にも華厳が咲いていた」「華厳は密教を生み、曼荼羅という色彩形容とともに華麗な宗教表現を派生させている」「華厳でありたいと思うことは、こうした透体脱落を促進する曼荼羅世界を感じるということなのだ」「この画人はいつしか「世界画」というものに達したのである」


華厳 爽 白華 やまとごころ 天華 あおによし 王朝 希 情 壮 煌万華などの感興を催すタイトルの作品を、古くて立派な3階建ての洋館の部屋部屋に展示されている作品を心躍らせながら順番に観ていく。

原色と華やかな秩序が踊る「華厳」、日本の古代の世界を連想させる「あおによし」、色彩を押さえた「やまとごころ」、花火を連想させる「天華」、矢印が登場する「壮」、天空を想像させる「煌」、紫地に赤を中心とした形象の「王朝」、万華鏡の世界を髣髴とさせる「万華」、、、。


宇治山はフランス語でマチエールという絵肌にこだわった。油絵具に水晶や方解石の粉末を混ぜて練りこんで使うという独特のマチエールを発明する。マチエールは絵画の土壌である。この土壌を育てていきながらやっと自分の絵が描けるようになる。このマチエールを手に入れて、その作品は飛翔を始める。

こんな表現方法があったかと感じる形象と色彩の曼荼羅世界に見入ってしまった。「究極の写実の世界なのだ」と自ら語ったという純粋抽象の世界の面白さ。


大らかなユーモア、平明な幸福感が感じられて、誰でも絵に見入ってしまうだろう。

遺言でアトリエの公開をのぞんだということから、この展覧では遺品と未完の大作も公開されている。作品数は90点。湯布院の玉の湯からも「万華」が出品されていた。