大泉洋子編著『下村誠アンソロジー 永遠の無垢』(虹色社)

大泉洋子編著『下村誠アンソロジー 永遠の無垢』(虹色社)。

下村誠(1954月12月12日ー2006年12月6日)は、『新譜ジャーナル』などで活躍した音楽ライターだ。そしてシンガーソングライター、プロデューサー、レーベルのオーナー、環境活動家とたさいな活動を繰り広げた人だ。

この本は54歳で亡くなった下村誠の仕事と人生を深掘りした書物である。2020年12月6日に思い立ち、取材と資料を渉猟した労作だ。こういう本が出ること自体、多くの人がいうように「幸せな男だなあ」という感じががする。

単なる追悼集のレベルをこえた作品になっている。これはいわば、永遠に残る紙のお墓、紙碑である。この本によって、下村誠は人々の記憶の中だけでなく、音楽史の中で長く生き続けることだろう。

私は音楽には縁がなかったのだが、この本を読むことで、この世界のことを少し知ることができた。歴史はやはり、人物史なのだ。

下村誠の残した文章から。以下のような調子で、ミュージシャンを励ます言葉がかならず最後にある。全部を紹介はできないが、すべての記述がミュージシャンに対する愛情と洞察に満ちているから、ファンは多かっただろう。

  • 何よりも素敵なのは高見沢が自分の足元をしっかりと見つめ直し書きあげた個人的な「愛の歌」であるという事である。
  • 伊東銀次の新しい「旅立ち」を予感させる。本作が彼のターニング・ポイントになることはまちがいない。
  • 彼らはいまも、そして明日も過渡期である。ECHOESに「終点(ゴール)」などないのだ。

下村誠についての友人たちの印象。

  • 屈託のない笑顔と邪念のない感じで、ある意味、とても「人たらし」な人だと思うけれども、繊細で大胆で、楽しくて優しい。
  • 音楽に対する深い愛情と、それを翻訳するに余りある精神のボキャブラリーが豊富な人でした。
  • 何ものにも媚びず、まっすぐに世界に向き合うそんな音楽と生き方を愛した人だった。
  • 下村は風なんか待っていない。彼が風なんだから。
  • 頭の中のアイデを具現化するための凄まじい行動力の持ち主だった
  • 日の出の森が壊されて、深く傷つけられた私たちの心に、歌で寄り添い続けてくれた、優しい人でした。

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本日:出版関係の進展。

  • 南大沢でNJ出版の編集者と打ち合わせ。
  • 野田先生に関する本の最終調整。

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「名言との対話」8月28日。中村研一「生きている人体そのものを描くことをこころがけなくてはいけません」

中村 研一(なかむら けんいち、1895年明治28年5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家

福岡県宗像市出身。修猷館卒後、東京美術学校西洋画卒。フランスに留学。帝展、日展で活躍した。戦中は、海軍、陸軍の要請を受けて、戦争画を多く描いている。「コタバル」「マラヤの装い」「サイゴンのゆめ」「マレー沖海戦」「シンガポールへの道」「昭南」などの17の作品があり、「戦争画に画業に一頂点をなした」といわれた。戦後は、妻・富子をモデルとした裸婦像や婦人像を多く描いている。

1967年に中村研一は72歳で死去する。それから20年以上経った1989年、夫の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、自宅跡に「中村研一記念美術館」を独力で開館する。後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、2006年4月に「中村研一記念小金井市はけの森美術館」として開館した。中村の画業の中心である油彩画だけではなく、水彩画、素描、陶磁器作品など、中村の画業を伝える一大コレクションとなっている。また、画材等の描画用具や、愛用品、書簡の他、中村研一に関連のある画家の作品等も含め 1,000点余を所蔵している。

「はけ」とは、古多摩川武蔵野台地を削ってできた国分寺崖線の通称で、この美術館は湧水に恵まれた豊かな緑に囲まれている。2009年に美術館を訪問した。入館の前に西洋画家・中村研一の自宅の一部を使った「カフェ」で昼食を摂った。冬なのに木々や緑を美しく、春になったら素晴らしいだろうと想像する。お客は女性同士ばかりだった。中村は、空襲で東京・代々木のアトリエを焼失し、小金井に移り住み終生、この地で作品を描いた。

この画家については知識はなかった。東京美術学校卒業後、渡仏中にサロン・ドートインヌ会員となり、帰国後は帝展、文展日展の審査員を歴任し、1950年には日本芸術院会員になるなど、日本の近代洋画壇の中心的存在として活躍した画家である。繰り返し描いた婦人像、裸婦、人物、静物などを見た。裸婦の絵が多かったが、美しいといいうより、日常の姿をそのまま写し取ったという写実的な絵である。

「人間の顔に表情がなければつまらない、絵もそれと同じだ」という中村は生きている人体を写実しようとした。動く手、動きのある体、喜怒哀楽をみせる顔の表情、そういった生きている人体そのものを描くことに腐心した。写実、リアリズムなどを生涯追求した画家である。

郷里の宗像市には「中村研一・啄二 生家美術館」がある。2つ年下の啄二は東京帝大経済学部をでたが、兄研一の影響で画家に転向する。柔らかな色彩と簡略な筆致を持ち味の画家である。この美術館のホームページには兄の晩年だろうが、兄弟仲良く肩を組んでいる写真が掲示されている。弟は兄の死後、20年以上の期間にわたり画家として活躍し、兄と同様に日展の審査員、芸術院会員になっている。弟は兄が歩いた道を歩んだのだ。ここにもドラマがありそうだ。