大山康治将棋記念館

大山康治将棋記念館を訪問する。将棋界で抜群の実績を残した第15世名人の大山は、通算成績1433勝781敗(勝率6割4分7厘)、棋戦優勝124回、獲得タイトルは、名人18期、王将20期、王位12期、棋聖16期、そして名人・A級在位連続45年という空前絶後の金字塔を打ち立てている。

「賞はごほうびでなく、激励のしるしである」

「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」

「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」

こういう言葉が記念館の壁に掲げてあるのをみて、偉業を達成した大山の心構えと心掛けに感心し、納得する。

年譜をみると私の生まれた年に初のタイトル(九段戦)を獲得し、2年後の29歳で名人位を奪う。50歳で永世王将、53歳15世名人、57歳永世十段と、42年間に亘って活躍しているから、この人の強さはよく知っている。

記念館の入り口に、一代の覇者は先輩・同輩・後輩を負かすは、後に後輩に破れ、天命として位を禅譲するという考え方が記してある。大山康治は、木村名人から禅譲を受け、20年にわたり第一人者として君臨し、中原名人に位を禅譲した。木村名人が負けたとき、「良い後継者を得た」と語ったことも知られている。


大山は書が素晴らしい。この名人は、書やこけし、扇子などに自分の好きな言葉を多く書いている。

「努力」「忍」「歩の力」「和」「千変万化」「夢」「調和」「一歩千金」「龍」「静観」「根性」「心如水」「仁者寿」「勝負と人生」「助からないと思っていても助かっている」」「思無邪」「昇竜」、、、。大山の考えていたことを感じさせる言葉群である。


同時代の棋士たちとの成績も貼ってあった。

昭和18年生まれの「さわやか流」米長邦雄の対大山戦は、45勝58敗

昭和14年生まれの「自在流」内藤国雄は、18勝50敗

昭和7年生まれの二上達也は、45勝116敗

昭和57年生まれの「光速の寄せ谷川浩司は、15勝6敗

昭和22年生まれの「自然流」中原誠は107勝55敗

昭和15年生まれの「神武以来の天才」加藤一二三は、46勝78敗

明治38年生まれの「第14世名人」木村義雄は、11勝17敗

大正7年生まれの「新手一生」升田幸三は、70勝96敗

昭和10年生まれの「火の玉流」有吉道夫は、28勝40敗


青森県百石町は大山の故郷ではない。縁があって平成元年に名誉町民となった大山は、頻繁にこの町を訪れている。百石は将棋盤や駒のいいものを産むこともあり、将棋を通じた町づくりを目指しており、1986年からは全国将棋祭りを開催しているなど将棋が盛んだ。子供たちの強さは全国有数である。


「大山康治を語る」というビデオが大山んも素顔を語っている。

中原永世十段「受けの強さ。大局観がすぐれている。常識や定石にとらわれない。相手のクセを見抜く」

永井英明「大山は将棋の普及やファンサービスに取り組んだ。あんな多忙な人はいなかった」

中戸俊夫(百石町)「いばらない、気さくな方だった。ゴミ拾い、お茶だし、盤運びなどもやっていた。行事のお願いなどで断られたことがない。第二の故郷とおっしゃって毎月必ず見えた」


記念館の将棋の歴史の展示も興味深い。古代インドでチャトランカとして生まれた将棋は、西に向かって西洋のチェスとなり、東に向かって中国の像棋となった。日本将棋は、中国からのルートとタイやカンボジアからのルートの二つの説があるが、8世紀以前に伝わった。

西洋では立体の駒を使うチェス、中近東では立体の駒のシャトランジ、モンゴルではシャタル、フランスではフランス革命、タイではマックルック、トルコではシャトランジという将棋が盛んである。中国のシャンチーは、文字が書かれた丸い駒を9路X9路の交点に置いて漢界と楚河に分かれて戦う。漢界側は、兵、相、仕など、そして帥、楚河側は卒、象、馬、車、包、士、そして将という駒を使う。どちらも7種類の駒を使って戦う。兵卒という言葉や将帥という言葉の成り立ちを思わせる。

日本では、68枚の駒を使う平安大将棋、現在の将棋から飛車と角行を除いた形で駒が取り捨ての平安将棋(小将棋)、現在でも指す人のいる唯一の古将棋である中将棋(桂馬がない)、鎌倉期の130枚の大将棋などの解説がある。持ち駒使用は日本将棋の独自の特徴であり、ゲームが複雑化し、面白みが増す画期的なものなのだそうだ。


今上陛下(明治天皇)献上の将棋駒は字が見事だ。また摂政宮殿下献上の将棋駒の字は丸い字で味がある。


人物記念館は死んだ記念館が多いが、この記念館は子供たちが将棋を指す姿、子供と職員の将棋などが行われており、活気があり生きている記念館だとの好印象を持った。