羽仁もと子記念館

「羽にもと子記念館・八戸友の会」という看板がかかった家が、八戸自動車道の終点の近くにある。静かなたたずまいのその家の門を過ぎて中に入ると、奥から女性の声が聞こえる。何かを人に説明している様子である。


まず目に入ったのは

「思想しつつ

 生活しつつ

 祈りつつ」

という羽にもと子(1873−1957年)のつくった自由学園の校訓である。

自由学園の名は何度か耳にしたことがある。日経新聞の大物記者を辞めて独特の未来小説などを描いている水木楊や、長銀やソフト経済センターなどで鳴らし多摩大学教授をつとめてユニークな文明観や歴史観で楽しませてくれる日下公人などがこの学校の卒業生であると聞いている。学園出身の友人がいるが、人柄も型にはまらない印象を持っている。また大学教育学会の大会を「総合学習」をテーマとして宮城大学で開いたとき、自由学園の教師の発言内容に感銘を受けたことがある。


自由学園は、「画一的な詰め込み教育でなく、子供自身から勉強態度を引き出す教育」「雇い人のいない自治自労の生活」を目指し、1921年に創立する。このとき21人の少女が集まっているが、その写真がある。羽にもと子と26人の少女達が楽しそうにはつらつとして心から笑っている。この学校の教育の未来を予想させて深く印象に残った。26人の少女たちが勉強した自由学園明日館は、もと子の教育の理想に感銘したライト(帝国ホテルの設計者)が設計したものである。自由学園はその後も発展を続け、現在では幼稚園から最高学部(大学)まで男子も含め1300名を超える規模になっている。自由学園は昼食は生徒自身が当番でつくるなど自治・自労の方針を貫いているが、現在は東久留米にある。「真理は汝らに自由を得さすべし」という聖書の言葉をいただき自由学園としたのだが、戦時色が濃くなって学校の名前を変えよという官憲の圧力に対し、名前を変えるくらいなら止めてしまうともと子は啖呵を切って護ってもいる。

1932年胃行われた世界新教育会議には日本代表として出席し、「それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校」と自由学園を紹介している。


日本初の女性新聞記者だった羽仁もと子は「婦人之友」「家庭之友」などの雑誌を出して、女性の教育に力を注いでいる。大正12年10月号の婦人之友の目次をみると、高村光太郎「ヴェルハアランは言ふ」、長谷川如是閑「流言飛語はどうして起こるか」などが掲載されており、もと子自身も「失はれたるものから加へられたるもの」「失へる二人の友」「手紙に代えて」など3篇を執筆している。

こういった雑誌編集の中で、もと子は明治37年には家計簿なども自身で考案し、出版もしている。家庭や仕事において女性がどのように生活しらたいいか、その智恵を啓蒙し普及させたのだが、子供の頃「きわめて聡明で、きわめて不器用な子供だった」ため、自身の家庭生活を切り盛りするための智恵を取材という形で聞きまわって、その成果を記事として書いたのである。もっとも不得意な分野が仕事になったということだろう。こういうケースは身近にもあるから微笑ましくなった。


2005年版の家計簿には「けむりのように消えてしまう おカネの足あとが つかめます。この家計簿をつけると 暮らしの予算が立てられ 明日がみえてきます」と書いてあった。娘の説子は「現在使われている家計簿は、もと子が苦しかった自分の生活からヒントを得て作り上げたものだったんだね」と語っている。雑誌では、本邦初の紙上座談会なども行っている。昭和31年1月号をみると、羽仁もと子三木清(哲学者)、羽仁吉一(夫)、小林一三(経営者)などが座談会を開いている写真がある。スタッフには挿絵の竹久夢二などの名前もみえる。



婦人之友」は1930年創刊だが、この雑誌に書いた文章をもとにもと子は「羽にもと子著作集」21巻を刊行する。この著作集は大変に人気があって、各地の読者の集まりができていった。これが「友の会」である。昭和5年には第1回大会を開いたが、当時39の友の会があり、会員は1000名に達した。館員の女性に聞くと「現在は3万人を切った」とのことでその影響力に驚いた。友の会は、88箇所にあり、海外愛読者は56カ国にも及ぶ。1929年、56歳のもと子は第1回不用品交換会を催す。今で言うフリーマーケットである。「合理的な家事・育児に役に立つ記事を満載した婦人之友や家庭之友は、全国各地で家庭・子供・仕事の各面で必死に生きようとしていた女性の生き方に多大な影響を与えた事業だったと思う。


「朝起きて聖書を読み

 昼は疲れるまで働き

 夜は祈りてねむる」

記念室に飾っている言葉である。もと子の日常の心構えを髣髴とさせる。


羽仁もと子は八戸の松岡という家の出であるが、この松岡家は人材を出している。もと子の妹の千葉クラは、敬虔なクリスチャンとして八戸の女子教育に一生を捧げており、千葉学園を創設した。弟の松岡正男は、慶應を出て新聞記者として活躍し時事新報の会長になっている。その弟の八郎はデーリー東北の社長である。ジャーナリストや教育者が多い。


また、羽仁もと子の長女説子も教育者だが、結婚した相手の森五郎はが後のマルクス主義者であり一世を風靡した羽仁五郎である。私は大学時代「都市の論理」という著作に親しんだことがあるが、卒業後知的生産の技術研究会の講師としてお呼びして謦咳に接したことがある。また、その子供は映画監督の羽仁進であり、その子供が1964年生れのジャーナリスト・羽仁未央である。時代の先駆者として啓蒙的な人々が多いのが特徴のようである。