3月の人選と本の注文を行いました。
芥川龍之介。米内光正。正宗白鳥。有島武郎。周恩来。大岡昇平。小宮豊隆。宮城音弥。梅原龍三郎。吉田吉蔵。加藤文太郎。大平正芳。高村光太郎。アインシュタイン。山本嘉次郎。村山長挙。横光利一。吉川幸次郎。森田草平。西郷四郎。柳宗悦。中山晋平。内村鑑三。本多光太郎。島崎藤村。李承晩。波多野鶴吉。黒沢酉蔵。羽仁五郎。阿部真之助。青井忠治。朝永振一郎。
明治生まれの人物で大物が多い。『偉人の誕生日366名言集』で取り上げた人物もいるが、その後の勉強も加味して深掘りすることにした。
kindle-oasisを購入し使い始めたことで変化がある。人選した後、まずkindleでアマゾンunlimited(月額980円で200万冊以上が読み放題)の本、0円の本、青空文庫で無料で読める本で適当な本を探す。無ければ「有料」の本をアマゾンで「古本」、次に「新刊」という順番でさしていく。これで試してみると、ほぼ全員の本が手に入る、そして費用は半額以下と激減することがわかった。「古本」以外は送料がかからないのも大きい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
- ウオーキング中にiPhoneでラジオの聞き逃し配信。1万歩。ラジオ「文芸選評」:佐川光春『最後の一手』。将棋B2級に陥落している元タイトル保持者の九段の病気からの復帰後のNHK杯での最後の対局を描いた作品。藤井聡太の名前も出てくるから近著だ。勝負師の「引退」について考えさせる。「昭和人物史」(保阪正康解説)は「ミヤコ蝶々」1・2。実学。芸は奥が深い。謙虚。慢心が敵。お客様は親戚。、、、など名言が多い。
- 幸福塾の準備:「天職」2。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日のヒント
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」。2月15日。井伏鱒二「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年(明治31年)2月15日 - 1993年(平成5年)7月10日)は、日本の小説家。本名は井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。享年95。
広島県福山市生まれ。福山中学(福山誠之館高校)で学ぶ。画家志望から文学へと転向し早稲田大学文学部仏文科に入学。担当教授とのいざこざで中退。1929年『山椒魚』を発表。1938年、『ジョン満次郎漂流記』で直木賞。山梨通いの中で、太宰治と美知子の仲人をつとめる。1965年、『新潮』に『黒い雨』を連載。1966年、野間文芸賞、文化勲章。95歳で没。戒名は照観院文寿日彗大居士。筆名の鱒二は釣り好きだったことによる。
各地の人物記念館を訪ねると、井伏鱒二が旅した痕跡が残っていることを感じることがある。小栗上野介の墓と資料館がある安中榛名の東善寺には、昭和53年6月10日の井伏の記念植樹があった。河口湖の御坂峠の峠の茶屋の太宰治文学記念室には、滞在している井伏に会いに傷心の太宰治が訪ねてきてしばらく暮らす。そのときのことは「富嶽百景」に太宰が記している。井伏鱒二は旅の作家であった。
その太宰治が井伏鱒二と二人が将棋を指しているところに、若き石井桃子が「ドリトル先生」のゲラを持ってやってきた。後で太宰は井伏に橋渡しを頼むが断られる。太宰が自殺したときに記者が「もしも太宰治と結婚していたら、、」と訊くと、石井桃子は「私がもしあの人の妻だったら、あんなことはさせません」と語ったという。
井伏は一日のうち何時間かは必ず机の前に座ることを自分自身に義務づけていた。「ぼくは物が書けない時、ハガキや手紙を書くことにしているんだ。筆ならしが終わると、ポンプの呼び水のように筆のすべりがよくなる」。
『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(川島勝)を読んだ。著者は44年の間、編集者として関わった人であるから、井伏鱒二という人物がよく見えている。エピソードも愉しい。
・良農は深く耕す(好きな言葉)・「小説はウソも書くが、随筆はおおむね本当のことを書く」・甲州が第二の故郷。定宿は甲府の甲運亭。信州富士見町高森に山荘。・定住と漂白の人。・改行と接続詞の工夫・自宅は荻窪清水町。8畳の応接間兼書斎。・作品においても、交友においても、マンネリを自戒していた。親みて狎れず。・佐々木久子編集の「酒」の「文壇酒徒番付」では、西の正横綱を張っていた。心技体は、酒品、酒量、時間(持続力)。みち草、よしだ、秋田、樽平。新宿くろがね。荻窪の東信閣。はちまき岡田。辻留。宮うち。
「男性で最後まで現役作家でいられたのは井伏さんだけではなかろうか」。多くの作家が筆を断つ80代から、『荻窪風土記』など密度の濃い回想記を完成させている。95歳の天寿を全うした。「井伏は、『この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ注がしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ』という言葉を残しました。漢詩の翻訳ですが、オリジナルよりもいいと言われています」。
2017年。山梨県立文学館「山本周五郎」展をみたとき、「文壇酒徒番付1963」が貼ってあった。それによると、大関は吉田健一と壇一雄、張り出し横綱が山本周五郎と河上徹太郎、そして横綱は石川淳と井伏鱒二だった。
NHK「あの人に会いたい」では、日本酒を飲むと怒って笑う、夾雑物があるから興奮させる、味がある、と言い、「うっとりするからな、日本酒は。あれがくせものだ」と語っている。NHK特集「井伏鱒二の世界‐荻窪風土記」では、被爆を描いた「黒い雨」の取材時の相手が「息を飲むなあ」と述懐している。井伏は「おしまいだ」という。また、52歳の開高健がどうしたらいいかと問うと、「書けばいいんじゃないですか」と答えている。
明治生まれで95才まで書き続けたこの作家は、多くの人の死をみている。于武陵に「酒を勧む」という漢詩がある。「君に黄金の杯を勧める このなみなみと注がれた酒を断ってはいけない 花が咲くと雨が降り、風も吹いたりするものだ 人生に別離は当然のことだ」。この漢詩を井伏鱒二は「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と名訳した。友に発した「今を、この時間を大切にしよう」というメッセージである。若き日に林芙美子と旅をしたときに、「人生は左様ならだけね」という芙美子の言葉が意識にあったという。