芹沢けい介美術工芸館

日曜日の午後に一度訪問したことのある芹沢けい介美術工芸館を妻と一緒に訪ねた。この館は東北福祉大学の中にあるのだが、今日は国見祭という大学祭の日だったこともあり入場料は無料で、館内には人が多かった。


1895年生れの芹沢は、静岡市の呉服反物卸、小売商の家に生まれる。東京高等工業学校(東京工大)図案科を出て、32歳の時に生涯の転機となる柳宗悦とその書「工芸の道」に出会う。


この美術工芸館の5階の入り口のホールのビデオで、「私(池田満寿夫)と芹沢けい介」というNHKの日曜美術館(美術家たちの記念館ではこの番組の映像を流しているところが多い。まず初めにこの映像を見てそれから実物を観るのはとてもいい)の番組を流していた。この番組は1983年12月31日の放映で芹沢けい介は亡くなる前の年だから87歳頃の映像で、出演してた池田満寿夫はまだ40代の後半で顔が若い。版画の池田満寿夫による芹沢の仕事と人物に関する評価の言葉で、この人物の凄みを了解した。


染色作家という肩書きの芹沢の仕事にどちらかといえば反伝統主義的な匂いのある池田が出会うのは、外国の日本食レストランにかかっている暖簾やカレンダーに表現されている絵や字であったという。池田によれば「シンプルで歯切れよい、華やかさと軽さ」を持って伝統を引き継いでいる。布や暖簾に描く文字は純粋な美の形をしている。有名な「縄のれん文のれん」などは、暖簾の布に大きな縄を描いていて、それを人がくぐって店に入っていく姿が目に浮かぶ傑作である。デザインは本来無名性の高いものであるが、芹沢の意匠はそれをまもりながらも独自性を保っているという不思議な存在感がある。


芸術家は動物的だが、芹沢は植物的である。着物、帯地、暖簾、壁掛、カーテン、風呂敷、屏風、軸などに表した膨大な仕事に対して、師の柳宗悦は「力はないけれども、力のない色だけれども、しかし美しく極楽のような色だ」と評している。


この柳宗悦という人物は、棟方志功白州正子、小林秀雄、そしてこの芹沢などに触れると出てくる名前である。日本民藝館を創設したこの柳の足跡も訪ねなければならないと改めて思った。


裸婦像が、次第にデザイン化、単純化されて、最後は縄に変化する図案などには驚かされるが、池田は「単純化への意思がある」「見たものを即刻デザインする」「自然からデザインする」というように芹沢の特徴を分析している。60代になったところで急逝する池田満寿夫だが、愛嬌のある顔と語り口で、的確な言葉の連鎖を発していく。池田には、ビジネスマン時代に一度だけ会ったことがあることを思い出した。世界のグルメを味わう会で、そういえば晩年の岡本太郎池田満寿夫、妻の陽子が一緒のテーブルだった。


本の装丁、挿絵、布地に色を染めていくこの芹沢の作品は、相田みつをの文字や絵を思い出させる。本来、書物というものは、書かれてある中身と挿絵や装丁は切り離せない芸術品だった。私たちは美しい装丁を手で持つという喜びを味わっていた。


芹沢は、つくる喜び、つかう喜びの両方を知っていて、創作と生活が一貫していたようで、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。

ひょうひょうとした魅力的な人物であった高齢の芹沢は、画面の中で日本全国をずだぶくろを持って車で行脚した」と楽しそうに語っていたのも印象深い。


「屏風、着物、帯地、暖簾、扇子」というテーマの小ホールには、さきほど見た「縄のれん文のれん」(1955年)が飾ってあった。「出雲の旅 四曲屏風」には、松江城、八雲村道、平田町、出雲大社が一枚づつ描かれている。布文着物、草花帯地、すすき文帯地、水魚文帯地、漁船文着物、貝文裂(きれ)、棚の上の静物四曲屏風など、ため息がでるほど素敵な作品ばかりだ。そして年賀状やグリーティングカードも素晴らしい。


「釈迦十大弟子尊像」という小ホールには、10人の高弟を表現した染物を見ることができる。それぞれ、密行第一、論議第一、説法第一、持律第一、頭陀第一、智恵第一、天眼第一、神通第一、多聞第一、解空第一の弟子である。この中には釈迦の嫡子など息子も2人含まれている。天眼のところでは、それぞれ肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼とあって、この法眼は遠近、内外、昼夜、上下とすべてを見ることができる目との解説があった。


入り口のホールに戻ると「般若心経軸」という大きな軸が壁に掛かっていた。1995年に「生誕百年記念 芹沢けい介展」がこここで催されたときに記念講演した池田満寿夫(還暦)が書いたものである。大きく雄渾な軸である。池田は、この2年後にあっけなく亡くなってしまう。


6階では芹沢が70代の初めから88歳で亡くなる直前まで蒐集した「中南米の工芸展」を開催していたので、観る。マヤ文明、インカ文明を生んだ「アンデスの民芸品、「メキシコ、ギャテマラ、コロンビア、エクアドル、ペルの土器。土偶」、「ギャテマラ、ボリビアの染織」などのコーナーがあった。芹沢は、いつの間にか向こうからこういう品たちが訪ねてきたとユーモラに語っている。


芹沢は、1956年には人間国宝重要無形文化財保持者 型絵染)、1976年には文化功労者。そして1976年にはフランスの国立グラン・バレ美術館で展覧会を行い、後にフランス政府文学芸術功労賞を得るなど、その仕事の普遍性を証明している。


昭和32年に宮城県石越から東京鎌田に移設した2階建ての板倉の一階の様子が展示されいるのを興味深く眺めた。芹沢の応接間兼仕事場である。12畳の広さであるが、生活空間を豊かにすることを目指し「見事な調和」を信条とした芹沢は、客人にあわせて前夜模様替えをして楽しんでいたそうだ。ふと白州次郎・正子の武相荘を思い出した。