歴史と地理、そして立ち位置

この夏の父の七周忌のことを考えながら、たまたま衛星放送のチャンネルを回していたら、藤沢周平原作の小説をドラマ化した「清三衛門残日録」にあたった。父がこのシリーズをよく見ていたことを思い出しながら仲代達也のいぶし銀の演技に痺れた。残日とは「日残りて昏るるに未だ遠し」という意味だが、この言葉は過去と未来をつなぐ時間と現在の空間を取り込んでいて、味わい深い響きを持っている。


ふと父が私たち3人の子供に残したメッセージは何だったのだろうかと考え込んだ。いくつか思い出したのだが、その一つは「歴史と地理」という言葉だった。どのようなものも歴史軸(タテ軸)の中で深くとらえ、地理軸(ヨコ軸)の中で広くとらえる必要がある、と父が語っていた。学生の時代にはよくわからなかったが、最近になってそのメッセージの意味に気がつくようになった。


アメリカを知るためにヨーロッパを知らなければならない、とも言われる。アメリカを生む母体となったヨーロッパという視点は歴史的な意味を持っているし、ユーラシア大陸の鼓動を聞くという意味でのヨーロッパは地理的な視点を大切にせよとの意味を持っている。このことはまさに歴史と地理を踏まえよ、ということだろう。


思えば1903年に一高生の藤村操が「悠々たる哉天壌、遼遼たる哉古今」と書いて自殺した華厳の滝上の大木の遺書も、地理(天壌)と歴史(古今)のことを言っていたのだ。


そして「立ち位置」という言葉がある。立場という言葉との違いは何か。

「苦しい立場」、「私の立場では、、、」という言葉に象徴されるように「立場」は、受動的で積極的に使われることはない。いわば言い訳言葉として使われている。「立ち位置」には主体的に関与しようとする匂いがある。どこに立つかという選択をしたという潔さが感じられる。


大きさや時間の長さなどのスケールはその都度異なるが、プロジェクト、企画などを担当する場合、「歴史と地理」というキーワードを意識すると視界がぐっと開けてくることを経験する。立場を説明する発言は防御的になる。リーダーは自らの位置取りを説明しなければならない。必要なのは立場を説明することではなく、どこに位置をとるかという意志、戦略、決断、覚悟である。


志のある者は歴史と地理の狭間で自らの立ち位置を定めることに腐心したい。



                   (「月刊ビジネスデータ」の連載執筆。9月号)