徳富蘇峰が34年をかけて書いたライフワーク「「近世日本国民史」

徳富蘇峰の人生を追いかけると、ライフワークである「近世日本国民史」という大著とその完成に費やした長い年月に目がとまる。
明治維新を書くという志を持った蘇峰は織豊時代にまで遡るべきという考えから、世界最大の著作「近世日本国民史」全100巻を書いた。

驚くべきことに、この畢竟の大作は56歳から90歳までの実に34年間を費やしている。56歳では第1巻「織田氏時代」、そして100巻が「明治時代」である。総ページ数42,468ページ、総文字数は19,452,952でギネスブックにも「最も多作な作家」とある。
日本の歴史家をみると、頼山陽は20歳前から「日本外史」に着手し没年は53歳。新井白石は69歳で死亡。 当時の56歳は晩年といってもよい。
 
この間、蘇峰は毎朝5時に起きて原稿用紙17万枚を埋めた。旅行に際しても史料をつめた大きなカバンを持参して旅先でも、病中でも、そして家族の死亡時でも執筆を継続している。この34年間には、震災・開戦・敗戦・戦犯・静子夫人の死など枚挙に暇のない支障が次々と起こっている。それらを乗り越えての偉業であった。三叉神経病、眼病を患った80歳の時には「本日ハ顔面神経病尤モ劇。ソノ為めシバシハ筆を投シ、漸ク之を稿了セリ。後人ソノ苦を察セヨ」と第83巻執筆時に述べている。

蘇峰は、「日本の政治家は政権の争奪にのみ頭を使い真に国家の発展につくす者がいないのは残念である。、、支那では四千年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のため国が滅びる。」といい、近世日本国民史を書き終わったら、「支那史をかくつもりです」とも言っているから、その気力には驚かされる。

蘇峰は1924年大田区大森の山王の地に居宅を建て、山王草堂と命名して、起居する。草堂の隣には蘇峰が収集した和漢書10万冊を保存した成き堂文庫も設けられた。鉄筋コンクリート3階、地下1階の堂々たる書庫で、この資料を使ってライフワークである近世日本国民史を書いたのである。

また蘇峰は、前々から幕末から明治にかけての歴史では、歴史上の人物たちから直接話を聞いてくわしく残していた。人物名を拾ってみると、板垣退助山縣有朋勝海舟大隈重信松方正義伊藤博文西園寺公望大山巌・川上操六・桂太郎乃木希典などが取材に応じていることがわかる。まさに壮観である。

そして、膨大な一級史料と明治を時代を創った多くの生き証人の証言を用いて長い年月たゆまず書き続けるという執念によって書かれたから、その成果は誰も太刀打ちできない圧倒的な迫力を持つ歴史書となって結実した。

一口に34年の歳月というが、蘇峰の年表を辿ってみると、その執念に驚かされる。毎年1-3巻ほどを発行し続け、昭和20年の敗戦時には一時執筆を中止するが、再度気をとりなおし、1952年4月20日についに100巻を完成する。

敗戦後の混乱の中で、本人の在世中に発刊出来なかったのは、24巻にのぼるが、その出版を孫に託しており、その遺志は実行されている。

蘇峰は若年の頃より歴史に親しみ、古今東西の歴史に関する本を読んでいた。そしていつか自分の生きる明治時代を書き後の世に伝えようと心に期しており、あらゆる歴史資料を収集して備えていた。その資料収集に対するすさまじい執念は、一緒に収集のために旅行した人々が書き残している。文章報国という言葉があるが、この書は蘇峰最後のご奉公であった。
蘇峰は「百敗院泡沫頑蘇居士」という戒名を自分で選び、多磨墓地の墓の中央に「侍五百年之後」と大書して刻ませている。戦争責任などで晩年の蘇峰に対する世間の評判はすこぶる悪かった。この近世日本国民史の大業もあわせて、知己を後世に求めたということだろう。

私は全国の多くの人物記念館を回ったが、徳富蘇峰という名前に出くわすことが多かった。
諏訪の島木赤彦記念館では、この歌人の生涯一千通に及ぶ書簡の中に、蘇峰とのやりとりが残っていた。
宮城の吉野作造記念館では、大正デモクラシーの中心人物だったキリスト者・吉野が同志社総長をつとめているとある。吉野は同志社を興した新島穣とともにその協力者でもあった徳富蘇峰にも影響を受けている。
酒田の清河八郎記念館には、「維新 回天 偉業 之魁」という蘇峰の書が懸けてあった。
熊本の横井小楠記念館では、横井小楠の妻の姉の子供が徳富蘇峰徳富蘆花であることがわかった。東の佐久間象山(1811−1864)と西の横井小楠(1809−1869)と呼ばれた横井小楠は、勝海舟吉田松陰橋本左内由利公正、木戸、岩倉、森有礼坂本龍馬高杉晋作など、新時代を創った人々の先生格だった。