「邂逅」−−八木哲郎・野田一夫・寺島実郎

朝10時に品川駅のスターバックスに到着。多摩大総研の松本先生と会い、本日の会議資料の説明を受ける。
11時、駅直結のインターシティ27階の多摩大品川サテライトで、研究開発機構評議員会に出席。大学関係の各研究所の代表者の会合で、本年度の事業計画推進状況と決算予想、そして来年度の事業計画の説明と承認。そして人事計画の承認。多摩大学総合研究所、統合リスクマネジメント研究所、情報社会学研究所、知識・リーダーシップ総合研究所がメンバー。

12時15分、品川駅のアトレで研修会社の方々と多摩大総研の松本先生、中庭先生とともに会い、新しいプロジェクトのコラボレーションの第1回のミーティング。考え方、具体的な内容、時期等について大まかな合意が成立。担当者同士で具体的に詰めていくことになった。

14時少し前に赤坂の野田一夫事務所に到着。話をしていると寺島実郎学長がみえる。さまざまな人達のことが話題にもなったが、主として大学、日本総研関係の話題で意見交換がすすむ。一時間弱の時間はあっという間だった。終わって、日本総研事務所で学長といくつかの案件を確認。

15時半、新宿のサザンタワー20階で知研の八木哲郎会長と会う。11日の寺島セミナーの打ち合わせ、今後のことなどを語り合う。
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さて、今日は、八木さん、野田先生、寺島さんという3人に連続して会った。この3人の方々との出会いは私にとって「邂逅」とでも言うべき運命的な出会いだった。

海外勤務から帰った30才のときに、八木哲郎さんが主宰するビジネスマン勉強会「知的生産の技術」研究会に入会し、以後この勉強会で学び、多くの知己を得た。知研は私の能力開発の大きな装置だった。毎月のセミナーで司会をし、先生方と会い、共著をものにするなど、八木さんにはさまざまなプロジェクトを遂行する機会を与えていただいた。そして10年後には初の単著を世に出すことができた。そして長い年月が経ち、気がついたらNPO法人となった知研を八木さんから引き継いで私は今は理事長をしている。

知研では有名人の書斎を訪ねて「私の書斎活用術」という本を企画・編集するという素晴らしいプロジェクトに関与したが、その後、30代のはじめに「知的実務家」という概念を考え出し、活躍中の人達を訪ねてインタビューするという実に楽しいプロジェクトを実行した。このとき、当時三井物産の課長代理だった寺島実郎さんの世田谷の自宅を訪ねる機会があった。初対面だったが、話をしている内に、この人は中央公論に「我等戦後世代の坂の上の雲」という論文を書いた本人だとわかった。この論文はまだ30代初頭の寺島さんが書いたもので、その内容の深さに驚いて一度会いたいと念じていた相手だった。それ以降、寺島さんが勤務していたニューヨーク、ワシントンへの訪問や、本業での仕事関係のつながりも含め、長くお付き合いいただいて今日に至っている。

野田先生とは30代の後半のビジネスマン時代に広報の仕事をしているとき、広報誌の原稿を依頼したり、その御礼で赤坂プリンス旧館のレストランで食事をしたりしたことがある。豪快で楽しい先生だった。40才の時に出した初の単著「図解の技術」を読んでいただいたところ、すぐに呼び出しがあり、会社を辞めて大学に行くことを勧められた。最初は当時野田先生が学長だった多摩大という話だったが、3年後に宮城県にできる県立大学に行くことになった。この建学は一大プロジェクトであり、初代学長となった野田先生とともに疾風怒濤の日々を送った。それ以降、親しいお付き合いが続いている。

そして、今は野田先生が創った多摩大学は寺島さんが第五代学長になり、私も多摩大の一員となっている。また、お二人とも知研の顧問をしていただいている。

今から振り返ると、八木哲郎さんとの出会いが、その後の歩む道を決めたということになる。改めて感謝したいと思う。