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悔しかったら、歳を取れ! ―わが反骨人生 (ゲーテビジネス新書)

悔しかったら、歳を取れ! ―わが反骨人生 (ゲーテビジネス新書)

野田先生と知り合ってから20年近い歳月が流れている。当時60代半ばだった先生は、現在85歳。
私の最初の著作を読んだ野田先生から呼び出しがあって、いきなり大学への転身を勧められてから、ずっと身近にいたのだが、その前に仕事で会っていることを思い出した。

JALの広報で仕えていた柴生田課長に連れられて野田先生と当時の山地社長の対談時の食事に陪席したこともある。そして広報課長となった私が創刊編集長をしていた広報誌月刊Currentsのエッセイを部下を通じて野田先生に頼み、その御礼として赤坂プリンスホテルの旧館で食事をしたことがある。「論文よりもエッセイが書きやすい、今後はエッセイストになろうか」とおっしゃった。その時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で有名なエズラ・ボーゲルさんに紹介しようと直接電話をかけてくれて驚いたこともある。だが、その後、転身の話の時にはそういう前史を先生は忘れていた。「君の名刺があったが、、」と言われて、以上述べたことを説明した記憶がある。

そして転身を勧められてから3年間の時間があり、1997年に県立宮城大学の開学から野田先生との本格的な交遊が始まる。野田学長時代の疾風怒濤の4年間、その後の7年間を仙台で過ごし、野田先生が推薦した寺島さんの学長就任に伴って多摩大学に移ったのがもう4年前になる。、

この本では、野田先生の名文家ぶりがいかんなく発揮されている。最初から最後まで、密度濃く、一貫性があり、高い気概の文章が並んでいるのは壮観である。
野田先生の熱を帯びた辻説法調の講演は会場を揺るがすが、文章のうまさも天下一品であることを改めて感じた。ビジネスマン時代には、社長の挨拶の文章の代筆もしていた私も、名文家・野田学長のあいさつ文はとうとう代筆はできなかった。そのことを想い出した。

多摩大学についての記述には、現在の多摩大を背負う立場の身には響いてくる。

  • 多摩大学の創設とその成功は、ぼくの人生の最も懐かしい思い出。
  • 「教育と実学を重視する個性的大学」。
  • 多摩大学で明け、多摩大学で暮れた」僕の60歳代だった。

宮城大学では、野田先生を助けて内外の敵との戦いに明け暮れた。
大学が始まった当時ある雑誌が「奔馬」という表現で野田先生を評し、果たして制御できるだろうか、という記事を載せていた。その見立ての通りの結果となったのだが、私も一緒に送った疾風怒涛の日々は素晴らしい日々でもあった。以下の簡単な記述には、万感の思いが現れていると思う。

  • 公募を原則とする公立大学では、僕自身が直接勧誘した約10人を除き、応募者の人選はすべて担当者に任せるほかなかった。
  • 「21世紀を拓く公立大学」という僕の理想に力強く呼応してくれたのは、建学の理想を最後まで誇りにしてくれた少数の教職員、そして何よりも一群の真摯で爽やかな学生たちだけだった。
  • 「野田一夫ファンクラブと、真に心温かな東北の友人たち。、、、それだけにファンクラブの結成という穏便かつ温かいやり方で僕の辞任帰京を慰留してくれた方々は、仙台へ来て初めて知り合った方々ばかりだっただけに、余計、僕の心を片時も忘れえない感謝と友情で満たしてくれている。

野田先生の肩書には「初代」という言葉が必ずと言ってよいほどつく。この言葉ほど野田先生の高い志と激しい戦いを示す言葉はない。
多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長、そして日本総合研究所初代所長、ニュービジネス協議会初代理事長、、、、。
次の観光大学院大学のプロジェクトも控えているというから、驚くほかはない。

多摩大についての設立の経緯と強い思い入れを改めて読んで、今の私も重い責任を担っていることを痛感する。
「人生でもっとも大きな影響を受けた二人は野田先生と寺島先生。その野田先生が創り、寺島先生が現学長の多摩大を盤石の姿にすることは天命だと認識している」と学部長就任時に挨拶をしたが、その天命を達成しようという決意を新たにした。

オビにあるように、まさに「日本経済のゴッド・ファーザーが放った檄文」である。