関東大震災に遭遇した先人の風景

原三渓 「横浜の本体とは市民の精神であります」

関東大震災で横浜も大打撃を受けた。横浜復興会の会長に推された原三渓は、横浜の外形が焼き尽くされたに過ぎない、横浜は厳然となお存在している、横浜を支えてきた人々が存在するではないか、そして横浜の本体は市民の精神である、と述べた。この発言によって横浜の復興という志のベクトルの方向が決まった。優れたリーダーの発する言葉は、時代を変える。
この原三渓という人物は、私より公を大切にし、横浜の利益になるなら私を無にした。横浜の復興に尽力するなどまさに横浜の恩人だった。
また、三渓は多くの芸術家を育てる役割をはたしている。日本美術界の恩人でもある。そこに経営者のあるべき姿、人間としてのあるべき姿を見ることができる。今日の横浜も、今日の日本もこの人物から多くの恩恵をもらっている。機会あるごとに、見事な三渓園を訪れて、その遺徳を偲びたい。

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後藤新平 「妄想するよりは活動せよ。 疑惑するよりは活動せよ。 説話するよりは活動せよ。」

動き続ける人に知恵が宿る。

後藤新平は明治の生んだ大事業構想家で、偉大なプロジェクトデザイナーである。後藤は国家のビジネスモデルをいくつもつくった。日本最初の植民地・台湾経営の成功、大規模国策会社・満鉄総裁としての新国家建設、東京市長・帝都復興院総裁としての大規模な都市計画、と見事な仕事を成し遂げている。
国や都市を生物と見る考え方(医者出身)、徹底的な調査研究(調査の後藤)、目的へ向けた組織設立・簡素化・行政改革、大胆なスカウト人事による人材活用、長期戦略としての人材育成のための学校建設・教育の重視、といったプロジェクトの成功モデルが後藤新平の取り組みの特徴である。結果として、後藤は都市政策の父とも呼ばれることとなった。

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与謝野晶子 「十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰」

「十二歳の時からの恩師」と呼ぶ紫式部源氏物語の新訳にライフワークとして取り組み、ついに全六巻を完成する。途中1923年の関東大震災によtって原稿が焼失するなどの悲劇に見舞われたが、それを乗り越えての六十歳での完成だった。

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原敬 「天下の患いは勢いを知らざるより大なるはなく、而して治国の要は勢を察するより急なるはなし。」

自分勝手に、やみくもも問題を言い立てて、解決しようとしてはいけない。あらゆるものには、時勢というものがあるのだ。

何といっても19才から65歳までの日記83冊の「原敬日記」の存在が凄い。遺書には「余の日記は、数十年後はとにかくなれども、当分世間に出すべからず、余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」とあった。このため本箱ごと盛岡に送られ、保存されていたため、関東大震災にも東京大空襲にもあわずに後世に遺すことができた。この日記は没後30年たった1950年に公開されて、出版された。
原はどうやってこの日記を書き続けてきたのだろうか。毎日、簡単なメモを取っていてそれを材料に一週間に一回詳細にきちんとまとめた。パソコンやブログのような便利なツールがない時代に、激務の中で継続して書き続けた意志力には感銘を受ける。

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九段デー。12時から出版社と打ち合わせ。16時半:研究開発機構評議員会。17時半:大学運営会議。