天罰か、試練か----内村鑑三のことば

終日原稿書きに没頭した。
散歩途中の書店でNHKテレビ「こころの時代」テキストの「道をひらく 内村鑑三のことば」(鈴木範久)を購入。

内村鑑三の言葉はいい。

  札幌農学校時代。右が内村鑑三。左が新渡戸稲造

  1928年。晩年の内村(中)と新渡戸(右)。

  • 私には昔から日記をつける習慣がありました。その日記に、私は、自分に臨んだ考えや出来事を、なんでも書きつけてきました。私は、自分自身を注意深い観察の材料にしました。、、そのことは、どんな勉強にもまして、とても興味深いものであることが、わかったのです。
  • 何であるかならば勇ましい高尚なる生涯だと思ひます。
  • 天職を発見するの法は今日目前の義務を忠実に守ることであります。、、要するに天職は之に従事するまでは発見することの出来るものではありません。予め天職を見付け置いて然る後に之に従事せんと思ふ人は終生、其天職に入ることの出来ない人であります。
  • 人よ、汝は汝の天職を知るを得るなり、汝は容易に之を発見するを得るべし。汝の全力を注ぎて汝が今日従事しつつある仕事に当たるべし、然らば遠からずして汝は汝の天職に到達するを得べし、汝の天職は天よりの声ありて汝に示されず、汝は又思考を凝らして之を発見する能はず、汝の天職は汝が今日従事しつつある職業に由って汝に示さるるなり、汝は今や汝の天職に達せんとして其途中に在るなり、何ぞ勇気を鼓舞して進まざる、何ぞだ想に耽りて天職発見の時期を遅滞せしむるや。(「天職発見の途」全集20)
  • 真の寛大とは、私が思うに、自分自身の新興にゆるぎない確信を持ちつつも、あらゆる誠実な信仰に対しては、それを許容し認めることであります。自分が、ある(some)真理を知りうることを信じ、あらゆる(all)真理を知りうることを信じないのが、真のキリスト教的寛大の基礎であります。ぞれが、全人類と、友好と平和的関係を持つことの源泉であります。(「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」)
  • 真理は円形に非ず楕円形である。一個の中心の周囲に画かるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かるべきである。(「楕円形の話」)
  • 完全なる信仰は円形ではない、楕円形である。自と他との二点を中心として画かれたるものである。自己を中心と為さなければならない、然し自己のみでは足りない、他をも亦中心と為さなければならない、キリスト教に由て救われし事故が同情的に世界的に拡大して我は始めてキリストのすくいをじ実得することができるのである。(「人類のすくい」全集19)
  • 教育は校舎に非ず、教育機関の完備に非ず、有資格教員の網羅に非ず、一人の教師が一人の生徒と信頼を以て相対する所に行はる。(「回顧30年」全集32)
  • 悪人が之に遭遇すれば天災は確かに天罰である、、、義人が之に遭遇すれば天災は天罰ではなくして試練である。(「天災と刑罰」全集14)
  • 国を救ふの道は民を救ふに存す。而して民を救ふの道は其一人づつを救ふにあり。(「国を救ふの道」)
  • 元来目的の小さい者は早く老衰するのだよ。(「文久生れの感」)
  • 恃むべからざる者は平和の時の平和論である。斯かる者は戦争の時には又戦争を唱ふる者である。({平和時の平和論」全集18)

ちょっと気になるデジタル小物

  • フィンガーティップペンS−ST−BK
  • Eye-Fi ProX2 16GB
  • カイバースマートマーカー
  • MacBooK Air
                                                          • -