『世界を知る力』対談篇ーー海野素央(アメリカ)、カリュウ(中国)

23日放送の寺島実郎「世界を知る力」の対談篇。収録は1月17日。放送は23日。

中国は東京財団のカリュウ主席研究員。アメリカは明治大学海野素央教授。

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世界的転換点。

  • アメリカ:11月18日の中間選挙。オクトーバーサプライズ。議会襲撃事件の宣誓証言。応じない場合は議会侮辱罪になる。6月の最高裁の妊娠中絶違法の判断は50年間の積み上げをひっくり返した。61%が反対。最高裁への信頼は47%と20%下落。白人・高卒に人気のトランプ現象も、トランプの評価はクールダウン中。
  • 中国:共産党大会で習近平の3期続投。その場合、フルセットか否か、「共同富裕」と「改革開放」の対立。7人のトップ選出、3月に役職が決まる。キーワードは「社会主義現代化強国」と「中華民族の偉大な復興」。習の本心は毛沢東化。個人崇拝。終身主席も。実は降りたくても降りれない事情。敵からの反撃を恐れている。泥臭さと権力欲。「統制された社会主義」路線だが、国民は40年間自由を知った。不安定化するだろう。

米中関係

  • 米国から:習近平専制体制がすぐれているという本物の権力欲者。民主主義は時間がかかる。任期も法を変えればよい。
  • 中国から:議会でハイテク技術移転の制限関税が通った。今後、中国はハイテクイノベーションは遅れる。中国はアメリカとの関係の改善を期待。日本が取り次ぐことを期待。中国は高度軍事技術大国のイスラエルに接近中。民主党共和党よりは付き合いやすい。

日本の針路

  • 分断するアメリカ。華人・華僑が距離をとりめた中国。日本は自立自尊で、アセアンとのつながりを大事にすること。アフリカ・中南米の「グローバルサウス」との連携。目線をあげて日本モデルを構築すべきだ。

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水曜日の「幸福塾」の準備:16人の資料を作成。

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「名言との対話」8月24日。松前重義「「若き日に 汝の思想を培え 若き日に 汝の体躯を養え 若き日に 汝の知識を磨け 若き日に 汝の希望を星につなげ」

松前 重義(1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士。

 松前重義は東北帝大工学部電気工学科を卒業し、逓信省に技官として入省した松前は、役人生活に失望する。この時、内村鑑三の聖書研究会でその講義に接し、「この人こそわが人生の師だ」と心に決める。ダルガス父子による復興を描いた「デンマルク国の話」とともに、グルントウィヒというデンマークの宗教思想家・教育者を知る。グルントウィヒは国民高等学校という私塾的な場を設け青年の教育を行った。これが松前重義が教育を生涯の分野と定める動機となった。一切のけち臭い自己保存の意識を克服し、人生観、世界観、歴史観を確立し、自らの人生と社会に対する使命に邁進することを決意する。

敗戦の一年前に42歳の時に、通信院工務局長という勅任官であった松前重義は、東條内閣を公然と批判していたため懲罰召集をかけられ、陸軍二等兵として南方に送られる。二等兵召集のきっかけとなったのは大政翼賛会だ。逓信省公務局調査課長だった松前は、その総務部長を引き受ける。翼賛会は、本来亡国の道を突進する軍部の独裁政治を食い止め、日本の進路を正常にするために発足した国民連合だった。ここで軍部と対立し、憲兵特高に目をつけられることになった。この時、もう一人の内閣打倒の工作を練っていた政敵・中野正剛を東條首相は自決に追い込んでいる。死地に送り込まれた松前は、何回もの危機を脱するのだが、その都度「私は実に運が強かった」「大変な幸運だったと言える」と語っている。この人のその後の活動を眺めてみると、天が殺さなかったのだという感慨が湧いてくる。

懲罰召集から帰り終戦になって、戦後通信院総裁になった技術者・松前は理科系を中心に文科系も併設する総合大学の建設にとりかかる。1946年4月に通信院総裁を辞任し、5月に旧制東海大学を発足させる。翌年1947年1月に公職追放。1951年6月公職追放解除。1950年、新制東海大学発足。1952年、1月東海大学理事長、6月学長。しかし、公職追放に遭い、教育界にも携わることができなくなり、40代後半の数年間を雌伏の期間とせざるを得なくなる。この大学の発祥の地が東海道清水市にあったためにつけた名前のように誤解されるが、東海とはユーラシア大陸の東の海を指している。それは太平洋のことだ。

松前は生涯を通じて柔道に関係した人生を送り、国際柔道連盟会長などを歴任したが、山下泰祐を発見し育てた人でもあった。ロサンゼルスオリンピックで金メダル、全日本選手権9連覇、203連勝のまま引退という大記録を打ち立てた山下を東海大相模に入れて鍛えた。山下は学業にも励み、全校で一番の成績もあげている。

柔道は嘉納治五郎が日本古来の柔術に創意工夫を凝らしながら体系化した近代武道である。柔道は知育・徳育・体育の三位一体の教育理念に基づいた教育的武道である。世界各国で柔道が盛んになったのは、戦後の日本の発展の原動力がこの武道ではないか、武道が日本人の勤勉さを作ったのではないか、と思われたからである。

年譜では、1946年4月に通信院総裁を辞任し、5月に旧制東海大学を発足させる。翌年1947年1月に公職追放。1951年6月公職追放解除。1950年、新制東海大学発足。1952年、1月東海大学理事長、6月学長。1955年、東海大学工学部。1962年、海洋学部を開設。1963年、大学院新設。1964年、理学部新設。1965年、東海大学女子短大開校。1966年、政経学部新設。1967年、体育学部新設。1968年、教養学部。1972年、東海大学工芸短期大学開校。1973年、九州東海大学開校。1974年、情報技術センター開設。1974年、医学部新設。1975年、医学部付属病院開業。1977年、北海道東海大学開校。1980年、九州東海大学農学部新設。1986年、法学部。若き日に内村鑑三を通じグルントウィッヒに触発を受け、教育を志し、それを全うした人生に頭が下がる。松前重義の死後も、開発工学部、健康科学部、電子情報学部、そして2010年には観光学部の設置に至っており、創業者の精神は引き継がれているように見える。

今日、東海大学は20学部・10キャンパスに規模となる日本有数の規模にまで発展している。この大学の特色は、海洋学部など日本にはあまりない学部・学科が多いことだ。また松前自身が、「現代文明論」という科目で数千人の学生に講義をしていたそうである。これだけの大学を一代で築き上げたことは快挙以外のなにものでもない。
長い間の社会党代議士、柔道を通じたソ連など世界各国との交流により貢献などでの志の高社会党の代議士であり、国際人としても大きな活躍をする。戦後の原子力の平和利用の推進にもこの人物が大いに関係している。い活動に感心させられる。この本に出てくる松前重義をめぐる人物も実に多彩で華やかだ。今日の日本が、この人物の恩恵にあずかっているとの感を深くする。まさに「昭和の怪物」である。

私は2011年に松前重義記念館を訪ねている。記念館でいただいた、『松前重義 わが昭和史』を読んだ。無装荷ケーブルの発明、柔道の山下泰裕の育成、国際柔道連盟会長、国際武道大学設立、科学技術教育を標榜する東海大学の設立、FM特許問題で政府を告訴、正力松太郎との対立と和解、逓信院総裁、公職追放、政界進出、、、と目次が踊る。この記念館は一階は柔道場で二階に松前重義の資料が展示してある。記念館には松前の言葉がはってあった。以下の書や言葉が目を引いた。「勇往邁進」「敗戦興国」「青春に生きる」「若き日に 汝の思想を培え 若き日に 汝の体躯を養え 若き日に 汝の知識を磨け 若き日に 汝の希望を星につなげ」

移設された生家の二階の勉強部屋からは阿蘇山が見える。松前重義生家と石に書かれた文字は、熊本県知事でもあった細川護煕総理の題字である。熊本では阿蘇でも、馬上少年過ぐ、という細川の書を見た記憶がある。

頑固一徹で武骨な性格をあらわす「肥後もっこす」の典型であった松前重義は、細川護煕首相が政界に出るとき、その父・護定を説得する。細川は「松前さんは正真正銘のもっこすだ。スケールの大きなもっこすだと思う」と証言している。

松前重義の数奇なる人生、目標を成し遂げる人生を眺めると、その気迫に粛然とする。熊本の記念館の柔道道場に掲げてあった冒頭の言葉は、「若者よ、心身を鍛え未来に備えよ」ということだろう。