高山彦九郎「人傑の出づるは地霊による」。笹沢左保「木枯し紋次郎」

高山彦九郎記念館(群馬県太田市立)。
前野良沢を描いた吉村昭「冬の鷹」でこの高山彦九郎(1747-1793年)のことがでてくる。

吉村昭は「冬の鷹」の20年後に、「彦九郎山河」という小説を書いている。
13歳の頃、「太平記」を読み、南朝の遺臣が建武の中興の志を遂げられなかったのをみて憤り、尊王の志をおこす。
18歳で置き手紙を残し上京。21歳、山陽道で管茶山に会い、閑谷学校を訪問。24歳、細井平洲(上杉鷹山の師)に入門。
40歳、祖母りんが没し、3年間喪に服す。43歳、江戸で前野良沢に出会う。44歳、林子平。46歳、筑紫の旅で、中津に3ヶ月ほど滞在。47歳、久留米で自刃。

27歳から47歳で亡くなるまでの21年間の日記では、蝦夷地と四国以外の日本中を旅したことが記されている。
有名、無名の交遊は5千人に及ぶ。旅の思想家だった。
蒲生君平林子平と並び、三奇人と称された。

高山は山崎闇斎崎門学派に属す尊王の系統にある。その志を抱いて情報伝達者、媒介者として、日本中に情報ネットワークを作り出した、それが水戸藩を介して、吉田松陰高杉晋作西郷隆盛らに大きな影響を与え、後の明治維新をおこす原動力になった。

旅の途中で、忠義、孝行を行った人、誠の人をさがし求め、行状を記録しほめたたえた。


中津には、寛政4年12月28日から5年3月18日まで滞在している。
企画展「高山彦九郎 五千人の交遊録」の地図の中に、中津の国学者渡辺重名という名前があった。
また、盟友の簗又七(1752−1829年)という中津藩の小野一刀流の剣術家が中津藩の前野良沢を紹介したとある。

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同じく大田市薮塚町の三日月村を訪問。
ここには木枯し紋次郎記念館「かかわりーな」がある。
江戸時代後期の時代考証に基づいて、当時の景観、雰囲気、日常生活と風俗を再現した村である。

中村敦夫がテレビで演じ、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」という言葉で有名になった木枯し紋次郎は、小説家・笹沢左保の作り出した人物だ。

1930年生まれの笹沢左保は、62歳で亡くなるまでに書いた本は、時代小説・現代小説あわせて366冊。日本随一の著作数と書いてあるのも頷けるほど多作の作家である。原稿を書いた書斎が再現され、また原稿を書く様子が映像で残っているが、悪い姿勢で一字一字丁寧に書いていくのには驚いた。

木枯し紋次郎生家。

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関越道の寄居パーキングエリアは、星の王子様をコンセプトとしたPAだった。コンセプトが統一されていて、パーキングエリアにいることを忘れてしまう。
「きれいね」という若い女性たちと「シャレ系だね」という若い男性の声が聞こえた。
こういったアイデアを関越道全体に及ぼしていけると面白い展開になるだろう。