目黒法人本部。東大。文京学院大。

「副学長日誌・志塾の風161128」

  • 目黒の法人本部。

来年度着任の先生を理事長に紹介。

前後にオリエンテーション

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建学の母。

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大正13年本郷女学院を開く。昭和22年文京女学院、文京学園認可理事長。昭和39年文京短大。昭和57年文京短大経営学科。昭和58年島田理事長没。平成8年島田依史子記念館。平成14年文京学院大学

「我いかにしても必ず必ず合格せずんば生き甲斐なし」

「ふいてもとばない女が一人 かけた命をわらわばわらえ 生まれ故郷の文京の追分で だれもしってる 依史子の意気地」

「時間こそ命であると自覚せよ」(「ぶんきょう」新聞の最後の原稿。昭和5年6月12日)

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農学部資料館を覗く。

農学とは長きにわたり持続可能な循環型社会を構築する学問。宇宙船地球号

領域は環境、生物資源、食と健康。

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上野英三郎博士。1871-1925年。

忠犬ハチ公の飼い主。1871年生まれ。1888年東京農林学校入学。1895年帝国大学農林科卒。1900年大学院満期退学、東京帝大講師。1902年助教授。1907年米国留学。1910年帰国。1911年教授。1913年農学博士。1920年朝鮮総督府嘱託。1924年秋田犬が上野邸へ、博士がハチと命名。1925年大学にて脳溢血で死去。54歳。1934年渋谷ハチ公像。1935年ハチ公死去13歳。

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ハチ公は10年間、渋谷駅に朝晩通って先生の姿を探していた。2009年にはリチャード・ギア主演の映画「Hachi 約束の犬」が公開された。ハチ公没後80年の2015年3月8日に東大農学部に「ハチ公と上野博士像」が建立された。

 

鈴木梅太郎。ビタミン学研究の先駆者。1874-1943年。

1899年東京農林学校入学。1893年農科大学予科卒、入学生総代。1896年東京帝大農科大学農芸化学科首席卒業、全卒業生代表。1900年助教授。1901年農学博士、ドイツベルリン大学。1906年帰国、盛岡農林学校教授、東京帝大助教授。1907年(33歳)東京帝大教授。1927年(53歳)農学部長。1934年(60歳)辞する。1943年(69歳)文化勲章、死去。

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安田講堂

安田善次郎の寄付で建立した行動。

東大紛争で攻防のあった安田講堂はその後再建されたが、痕跡を残していた。

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南北線東大前の文京学院大学にて全国経営学部長会議の引き継ぎ会。

本年度幹事校の多摩大からは私と杉田先生、川手課長、金井さん。

来年度幹事校の文京学院大の桜井学部長らと引き継ぎ。

終わって中華で懇親会。

帰りは杉田先生の車で話ながら。

 

「名言との対話」11月28日。白洲次郎

「人間は地位が上がれば上がるほど、役得を捨て役損を考えろ」

明治35年(1902年)兵庫県生まれ。神戸一中卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。戦前、近衛文麿吉田茂の知遇を得る。戦後は吉田の側近として終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官を歴任、日本国憲法制定の現場に立ち会った。いち早く貿易立国を標榜し、通商産業省を創設。GHQと激しく対峙しながら、日本の早期独立と経済復興に、「歴史の黒子」として多大な功績を挙げた。昭和60年没(享年83)。紳士の哲学「プリンシプル」を尊ぶイギリス仕込みのダンディズムは終生変わらなかった。妻はエッセイストの白洲正子

「プリンシプルを持って生きていれば、迷うことは無い。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。」

57歳で東北電力会長を退いた後は、武相荘で車と日曜大工とゴルフに興じた逸話の多い人物である。次郎はダンディの見本として雑誌で特集が組まれるなど今なお人気があるが、ダンディの条件について次のように語っている。筋を通す、弱者にやさしい、私(わたくし)しない、見た目にそこそこカッコいい。要するにダンディとは「やせ我慢」のことだろうか。また次郎は、プリンシプルという言葉を大事にして、それを原則、筋、武士道などの日本語をあてている。自分なりの「美学」を持てということだろう。「志」にも近いと感じる。

マッカーサーを叱った男」として有名な白洲次郎は、冒頭の「役得と役損」を語っている。役職があがると役得があると勘違いしている人が多い。実は逆なのだ。自分を捨てて人に譲ることが多くなるのだ。それを次郎は役損と表現した。そうなのだ、地位が上がると役損を考えるべきである。