東京芸術劇場(池袋)で永福学園の「機械仕掛けのヘッドドレス」を息子と夫婦の3人でみる。

池袋の東京芸術劇場で「舞台芸術・演劇祭」が二日間にわたり上演された。主催は東京都教育委員会と東京都特別支援学校文化連盟」だ。

音楽関係の仕事をしている息子が、「都立永福学園・演劇部」の活動を15年程手伝っているので、何回か見る機会があった。

クリスマス・イブで池袋はすごい人出だった。

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今日の出し物は「機械仕掛けのヘッドドレス」。毎回感じることだが、特別支援学校の生徒たちが、優れた脚本に沿って、歌と踊りのパフォーマンスをつくり上げていることに、感動する。

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劇場でやっていた写真展「この時代ーこの一枚」をのぞく。

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終了後は、妻と息子と3人でコーヒーを飲みながら語り合う。息子は『自省録』(マルクス・アウレーリウス。神谷恵美子訳)の話をしていたので、私もオーディブルで聞くことにした。

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昼食は東部デパートの「KUSHI ハゲ天」。この「ハゲ天」は、昭和3年に九段で「たから」という屋号で開業したのだが、初代の親父は禿げ頭で、客は「ハゲ天」と呼んだ。2年後に銀座に進出した時に、屋号を「ハゲ天」とした。

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メモ。

  • 独学。養子。職人。伝統。私塾。短詩。師弟。母。父。心身。ピンチ。好奇心。ナンバー2.海外。独身。大病。監獄。障害。無学。正直。誠実。礼儀。謙虚。夭折。号。現場。二刀流。、、、
  • 新「現在」。深「古代・中世・近世」。真「近代。現代」

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「名言との対話」12月24日。高山樗牛「己の立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉あらむ」

高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代日本文芸評論家思想家東京大学講師文学博士明治30年代の言論を先導した。31歳で夭折。

鶴岡出身。本名は林次郎。一高不合格、二高仮入学と、二度にわたって志望校に不合格。優等生を続けてきた樗牛に及ぼした影響は小さくなかったろう。号とした樗牛は「荘子」に因んだもの。東京帝大文科大学哲学科在学中に、読売新聞の懸賞小説に応募し『滝口入道』が入選する。また『帝国文学』や『太陽』などに文芸評論を発表した。

大学卒業後には仙台の第二高等学校の教授に就任したが、翌年には校長排斥運動で辞任し、博文館の『太陽』編集主幹となり、日本主義の評論を書く。

谷崎潤一郎は「何一つとして独創性の認められるものはないではないか」「案外俗才があり、世渡りが巧かった」と厳しい。また鴎外とは「美学」をめぐる論争を行い、逍遥らとも論争するなど、短い生涯のほとんどが論争の連続だった。

1900年には文部省から美学研究のため海外留学を命じられ、帰国後は京都帝大の教授が内定していた。しかし洋行の送別会後に喀血、療養生活に入り、洋行を辞退する。1902年には文学博士。日本主義、ロマン主義ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷甚だしいのだが、明治思想史を駆け抜けたともいえる。

4歳年上の夏目漱石が「高山の林公」呼ばわりして、ライバル視した。「樗牛なにものぞ。、、只覇気を弄して一時の名を貪るのみ。後世もし樗牛の名を記憶するものあらば仙台人の一部ならん」と門下の小宮豊隆宛の手紙に書いている。樗牛に押されていた門下生を鼓舞したのだろう。後に漱石門下の阿部次郎は、地方文化への貢献が大である人に贈られる高山樗牛賞をもらっている。

山形県鶴岡市大宝館に高山樗牛記念室を訪ねたことがある。鶴岡出身者では清河八郎大川周明横綱柏戸石原莞爾藤沢周平丸谷才一渡部昇一佐藤賢一などの名前が思い浮かぶ。鶴岡藩の伝統だろう。

狷介でなかなかの難物だった高山樗牛だが、冒頭の言葉には惹かれる。己の立っている場所しか掘ることはできない。そこを深く、深く掘り進める。地下水に到達すると、その水はあらゆる分野につながっていることを発見する。自分の本拠地では全体重をかけることができる。他の場所ではそれができない。そのことがわかるか、わからないかが人生の勝負をわけるのである。